12:居睡
2ヶ月前あたりから、舞莉に異変が起き始めていた。授業中に居眠りする回数が増えているのだ。
「羽後さん。」
……はっ!
「ここの空欄に入れてください。」
え、どこまで進んじゃった!?
黒板を見る。なるほど、そこか。
急いで教科書を速読する。あ、これか。
「偏西風です。」
合ってるかな……。
「はい、そうですね。ヨーロッパは一年中、大西洋からの強い偏西風が吹いています。次、ここの海流の名前を――」
どうやら合ってたらしい。よかった。
ちょっと物音がすれば起きられる。誰かがシャーペンを落としたくらいでも。
起きた後は結構すっきりしているが、その10分後にはまた眠くなってウトウトしてしまう。
舞莉は明確な原因が分かっていた。
『毎晩のセグレートでの練習だ……。』
サックスに移動したことにより、パーカスの時よりも練習時間が増えていたのだ。
睡眠時間の確保のため、練習は1日おきだった。が、舞莉の意思で毎日に変更した。
カッションやバリトンは、舞莉が授業を受けている時は寝て、部活が始まる時間までには起きて、舞莉に教えてくれている。セグレートでの練習の後も起きていて、今日の振り返りや明日の練習メニューを考えてくれているらしい。
睡眠時間を削って上達した代償に、ツケが回ってきたのだ。
「また寝てるよ。」
どこからかのささやき声にも目を覚ます。
「え、また? さっきの時間も寝てたじゃん。」
寝てはいけない、そんなの分かりきったことだ。でも、セグレート練習を減らすことはできないし、みんなに追いつくにはまだまだ遠すぎる。
あと……自分から言い出しておいて、今さら「やっぱりキツい」なんて言えない。バリトンにだいぶお世話になってるし、夜中に私の机を借りて、「今日はここまで進んだから……」などとつぶやきながらノートに書いているのを知っている。
そもそも、2人は私が授業中に寝ていることすら知らないと思うけど。
寝てすっきりした舞莉は寝ていた分の板書をとった。しかし追いかけている途中に、またミミズが這ったような字になり、目が塞がる。
「きりーつ!」
ハッと起きて、立ち上がる。
授業が終わってしまった。まだ板書は取り終わっていない。急いで書き写すも、日直に容赦なく消された。
ノートを写させてくれるような友だちもいないので、これは完全に終わった。
年が明けて、本格的に『3年生を送る会(三送会)』の準備が始まった。注文していた楽譜も届き、水明祭以来の曲数となった。
その上、マーチの練習として、「マーチ・スカイブルー・ドリーム」、「コンサートマーチ『アルセナール』」という曲をやり始めた。
「こ、これ全部吹けるようにしろってこと?」
いきなり増えた練習量に、舞莉は目が回りそうである。
「これは……大変だ。セグレートでも練習しなきゃいけないかなぁ……?」
首元から発せられるバリトンの声は、どこか暗い。
「初心者にしてはだいぶキツイぞ……。初心者の量としては俺も未知数だな……。」
いつも「舞莉なら大丈夫だろ!」と言って元気づけてくれるカッションでさえ、この反応。
「本番まではあと2ヶ月あるし、そこまで急がなくてもいいんじゃないかな。」
いつも冷静沈着なバリトン。確かに一理ある。
しかし、これだけでは終わらなかった。
1週間後、舞莉たちは合奏の前に、ある重要なことを決めようとしていた。
「これから、今年のコンクールの曲を決めます。先生が選んできた曲と、事前にやりたいと申し出があった曲の、合わせて5曲あります。」
森本先生が黒板に曲名を書いていく。
○
○マードックからの最後の手紙
○スクーティン・オン・ハードロック
○斐伊川に流るるクシナダ姫の涙
○マゼランの未知なる大陸への挑戦
「全部聞いてもらい、多数決で決めてもらいます。」
膝に座る3頭身のカッションがニタニタしている。
「これ全部、吹奏楽の王道の曲だな!」
「森本先生はオーソドックスなものを集めてきた感じだね。個人的にやりたい曲もあるけど……。」
カッションの隣に座る3頭身のバリトンは、あごをかいてから、「まぁ、実際にやるのは舞莉たちだからね。影響しないよう、言わないでおくよ。」
と、人差し指を口に当てる。
「まずは、『熊野古道』から。」
CDを入れると、左右にあるスピーカーから、ティンパニを皮切りにして流れ始める。
その後も曲が終わる度、次々と曲が流れた。
時間の都合で最後まで流さなかった曲もあったが、全部聞き終わった。
『うーん、耳に残ったのは、ハードロックとクシナダかなぁ……。最初の熊野古道もよかったかも。どの曲も低音もムズそうだからなぁ。』
「では顔を伏せてください。」
やべ、決めないと。
舞莉は体を丸めるようにして、顔を伏せた。
うん、あれにしよう。
「この多数決で、まずは2曲まで絞ります。1人1回だけ挙げられます。では、熊野古道がいいと思った人。」
舞莉はスっと手を挙げた。他の人はどれくらい挙げてるんだろう……。
5曲の多数決の結果が出た。
「顔を上げてください。」
『マードック』と『クシナダ』の2つに丸がつけられている。
あぁ、熊野古道ダメだったか……。
「それでは、この2曲のどちらかを選んでください。」
それならもう、2回目の多数決では迷わない。
「あの2つだったら、俺はあの曲だな。」
「僕は……あっちかな。」
「さて、舞莉はどっちを選ぶのか!」
舞莉の膝の上で勝手に実況が始まったが、もう決まっている。
『2曲に絞ったし、もう言っていいよね? 私、クシナダがいいかな。』
「おお、舞莉はクシナダを選びました。どう思いますか、バリ?」
「え、えぇ!? 僕に振るの!……えっと、どちらも作曲者が同じこともあり、接戦になりそうですね。」
「なるほど、どちらも
実況が聞こえていないフリをしつつ、舞莉は、カッションが作曲者の名前を呼び捨てしていることに、少し違和感を覚えた。
「はい、顔を伏せてください。」
舞莉はもちろん、『クシナダ』の方に手を挙げた。
みんなはどっちにしたんだろう。
「顔を上げてください。」
音楽室の空気は明らかに緊張している。
「多数決の結果――」
どっちだ……?
「『クシナダ』に決まりました。」
おお、よかった……!
自然と拍手が起こり、他の人の反応からして、そこまで接戦ではなかったのかもしれない。
1月の半ば、舞莉たちは既に夏のコンクールに向けても動き出していた。
「あの2つだったら『クシナダ』だよな。パーカス楽しそうだし。」
「あー、やっぱりパーカス視点で考えてたんだ。」
「いや、僕も『クシナダ』がいいと思ってたよ。」
え、バリはてっきり『マードック』の方かと……!
「僕ね、『クシナダ』みたいな日本風の曲が好きなんだ。僕の髪も、日本人の黒髪に憧れて染めたんだよ。」
「そうなの!? わざわざ黒染めしたんだ!」
「うん。ストパかけて、『日本人の真面目な男子高校生』をイメージしてるんだけど、どうかな。」
言われて気づいたが、髪の毛の根元の方の色が違うのだ。
「バリの雰囲気にすごい合ってると思う。てことは、地毛は茶髪?」
なぜか、バリトンではなくカッションが答える。
「ああ、俺と同じ感じ。この間久しぶりに会って、髪が黒いし癖毛じゃないからびっくりしたんだよ!」
茶髪のくせっ毛のバリ、想像できない……。
後日、楽譜を注文し、届いてからは三送会と平行してコンクール曲も練習することとなった。
……忙しい。
体調を考えて、セグレート練習の頻度を減らそうと考えていた舞莉だったが、これでは減らすどころか、もっと増やしたいところである。
練習曲の増える量と、舞莉が授業中に居眠りする頻度が比例していってしまった。
念入りにパート練習をし、いよいよ舞莉がサックスに移ってから初めての合奏の日になった。
「今日は、先に練習していた2曲を合奏します。『キミの夢は、ボクの夢。』は午前、午後は『全力少年』の合奏をします。」
基礎合奏と30分のロングトーンが終わり、森本先生からそう告げられた。
あまりにも単調なロングトーンなので、舞莉は起きているのに必死だった。目を擦り、押さえた手からはみ出すほどのあくびをする。
「この後、10分の休憩をとりますので、10時15分から合奏を始めます。それまでに用意しておいてください。」
「「「はいっ!」」」
初めての合奏だということで、舞莉はワクワクしていた。が、1つ不安なことがあった。
こいつら、リズム間違えてないか?
……先輩に向かっては失礼か。
『キミの夢は、ボクの夢。』は舞莉でも分かるくらいリズムは簡単なのだが、『全力少年』はところどころ難しく、タイ(隣同士の同じ高さの音を繋げて、1つの音として演奏する記号)もあるので、リズムが掴みづらいのだ。
舞莉のような新参者が指摘できるような立場ではないので、仕方なく『こいつら』に合わせるしかなかった。
正直言うと、ここの部分は古崎先輩でもあやふやで、何となくで吹いているところである。もう1人のチューバの先輩は……後輩のルイザに抜かされたくらいだから言うまでもない。ああ、むずがゆい。
まぁ、もりもってぃーが合奏の時言ってくれるだろ。
「合奏始めます!」
森本先生は指揮棒で譜面台を叩いた。
「それじゃあ、えっと、まずは頭から全員で。」
「「「はいっ!」」」
参考音源もなかったので、曲の雰囲気が分からなかった舞莉。
マッピをくわえる。
どんな感じかな。
アンプから、ハモデのメトロノームが大音量で鳴り始めた。
「ワン、ツー、さん、し」
舞莉は息に圧をかけ、楽器に吹きこんだ。最初からフォルテの曲だからである。
横からは木管の音、後ろからは金管の音が、舞莉の背中を震わせた。
今までは打楽器という、別陣営から曲に参加していた。管楽器の音色を飾り、ペースメーカーとしての役割であったが、どうしても『一体感』というものが感じられなかった。
しかし、管楽器の『輪』に入ってみると、世界は全く違っていたのだ。
低音楽器に中低音楽器が乗っかって、その上にメロディの高音楽器が乗っかってくるこの感じ。いかにも「自分たち低音が曲を支えてます!」っていうような。この感覚は一体……?
舞莉がこれに堪能していると、森本先生が指揮棒で叩いて曲を止めた。
「すごい……。」
マッピから口を離した舞莉の最初の言葉である。
低音パートだけでは掴みづらかった曲も、合奏してしまえば丸わかりだ。
「頭から低音全員で。」
「「「はい」」」
最初から低音パートに指導が入るらしい。
「ワン、ツー、さん、し、」
最初からの8小節間を吹くと、また止められた。
「そこの四分は、書いてませんけどマルカートで。あと、アクセントはもっと出してもいいです。」
「「「はい」」」
『バリ、マルカートって何?』
パーカッションでは、あまりマルカートという言葉は使わない。
「音ひとつひとつをはっきり演奏することだよ。音が短すぎたり、間延びしすぎたりしたらマルカートにならないから気をつけてね。」
『なるほど。』
舞莉はボールペンで『音をはっきり!』と書いておいた。と言っても、五線に重ならないところに。
それ以降の午前中の合奏では低音パートの直されるところはなかった。
他のパートが指摘されるばかりで眠くなってくる。
午前中でも眠いのに、午後も合奏って……。
主に「〜から全員で。」と言われた時にしか出番がない。
『午後もこんな感じなのかな……。』
舞莉は、音楽室の後ろにある時計を何度も振り返って見て、お昼休憩の時間を今か今かと待っていた。
「きりーつ!」
やっと終わった。
「ありがとうございました!」
「「「ありがとうございました!」」」
先生に向かって礼をすると、音楽室は一気ににぎやかになり始めた。
「あー、お腹空いたーっ!」
と、足を投げ出して伸びをする高松先輩。
狭い音楽室の少しのスペースを使って、みんなは弁当を食べる。サックスパートは入口付近で食べるらしい。
自分からは話さないものの、舞莉は会話を聞いているだけで、冷たい弁当がおいしく感じられた。
そうだった。パーカスの時は、こういう会話の中にすら入れさせてもらえなかったもんね。
冷たい集会室の床で、壁に背中をつけて食べていた。お腹は空いているはずなのに、ご飯が喉を通らなかった。
カッションが来てくれてからはマシになったけど。
午後の『全力少年』の合奏は、低音パートに全然指摘が入らなかった。
『ねぇ、バリとカッション。やっぱり1番カッコのリズム違うよね。まだ合奏では吹いてないけど。』
「ああ、本当はセグレートで教えたリズムが合ってる。」
そう言って、カッションは階名でそこの部分を歌ってみせた。
「このペースだと、今日はCの前までしかできなさそうだから......。1番カッコは次回以降の合奏になりそうだね。」
元はもう1箇所間違って吹いていたところがあったが、そこは和香菜が気づいて、パートみんなで修正済みだ。
「今度のパート練の時、しれっと吹いちゃいなよ。間違ったリズムが癖になっちゃう前にな。」
「うんうん。個人練でいきなり静かになっちゃった時に、苦手なところを練習してるように見せかけて、お手本吹く、とか。」
自分から言えないなら、分かってもらえってことか。
『何か、面白くなってきた。』
顧問の専攻がトランペットということもあり、元からあまり低音には指摘してこないらしい。
指摘されるのを待っているようでは、遅くなってしまうかもしれない。
『明日のパート練にでも、しれっとやってみるか。』
本来なら眠くなるはずの今日の合奏は、カッションはバリトンにつき合ってもらい、乗り切ることができた。
だが、眠気覚ましで話し相手にさせられていることを、この精霊たちは知らない。自分たちが寝ている間に、パートナーが居眠りで悩み、ルイザを筆頭に陰口を叩かれていることも。
次の日。日曜日なので半日練習だった。基礎合奏とロングトーンの後は、ずっとパート練習である。
もうすぐ2月。さすがに暖房なしの準備室では、指がかじかんでうまく動かないことはよくある。
おまけに低音域のピッチが壊滅的に合わない。
11時までは個人練習になったので、舞莉は昨日話し合っていたことの潮時を待っていた。『前前前世』を練習しながら。
みんなの集中力が途切れ、音が止まった。
よし、今だ。
舞莉はいきなり『全力少年』の1番カッコを吹いてみせた。迷っているふりをして、もう1度吹いてみる。
「あれ、舞莉ちゃん、それじゃない?」
隣の古崎先輩がハッとしたように、こちらを振り向く。
「舞莉ちゃん、もう1回やってみて!」
チューバの竹之下先輩に催促され、「あまり自信ないですけど……。」と言いつつ、カッションから教えてもらったリズムで正確に吹いてみせた。
「1番カッコの2拍目の裏の『レ』、『F』の音を長めにとる感じですかね。」
舞莉はそこを指さす。
「2拍目の裏のF……。なるほど! さすが元パーカス!」
竹之下先輩と古崎先輩は、すぐに楽器を構えて、そこの練習をし始めた。
「吹けた!」
「うんうん。」
竹之下先輩の顔がパッと明るくなり、古崎先輩はホッとしたように、うなずいている。
地獄耳の舞莉は聞き逃さなかった。
「ちょっと褒められたくらいで調子乗りやがって。」
また別の日の合奏。身内の問題が解決した舞莉は、『全力少年』の合奏がより暇になってしまった――はずだった。
舞莉はふとパーカスの方に目を移す。
今日も細川先輩がおらず、大島先輩と司の男子2人だけのパーカス。
『大島先輩がドラムやってるって、あの時は考えられなかったことだよね。』
『全力少年』のドラムを務める大島先輩は、3年生が引退して、細川先輩が来なくなってから練習を始めていた。
『今はすっごくのびのびしてる。ドラムの練習も楽しそうにやってる。本来は、大島先輩ってあんな感じなんだね。』
まだテンポが大幅にブレるが、ドラム歴3ヶ月ならば仕方がない。
「いくら大島先輩が下手だからといって、馬鹿にしたり物を壊していいわけがない!」
「私は大島先輩を尊敬しています。実力がどうであれ、先輩は先輩ですから。」
「羽後、昨日は……ありがとな。」
「いえ、大したことは言ってないので。」
やっぱり、元凶は高良先輩だった。高良先輩さえいなければ、こんなに輝いてる大島先輩をもっと早く見られたのに。
舞莉は改めてそう思い、羽を伸ばす大島先輩を見てこみ上げるものを感じた。
【音源】
梁塵秘抄〜熊野古道の幻想〜→https://youtu.be/QvLuzbtSNBk
マードックからの最後の手紙→ https://youtu.be/oU6TN5SuzxA
スクーティン・オン・ハードロック〜3つの即興的ジャズ風舞曲→ https://youtu.be/SfT49Daq6ns
斐伊川に流るるクシナダ姫の涙→ https://youtu.be/_vuHQGpLvp4
マゼランの未知なる大陸への挑戦→ https://youtu.be/cTjeE0GP3cM
全力少年→ https://youtu.be/NeJ_oAY7IMA
前前前世→ https://youtu.be/lZCObPU7IMU
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