第24話 花見(1)

もう夜半過ぎ。

やがて、東の空がほの明かりに包まれる時間が近くなったころ。

バーンはテルミヌスへ降りる階段にいた。

カラーン。

ドアベルが鳴り、ドアが開いた。

わずかの隙間からアニスが中へ入り続いて、ちょっと疲れた顔をしたバーンが店に入ってきた。

「…………」

彼は驚いて、目を丸くした。

カウンターに臣人が座っていたからだ。

「おかえりぃ」

水割りのグラスを高々とあげ、入り口の方を見ていた。

「臣人……」

なんだか、ほっとした。

もうずいぶん長いこと会っていなかったような気がした。

「なんやなんやぁ、そのツラは。人がせっかく出張繰り上げて帰ってきたんやから…」

臣人は水割りをあおった。

「サボったんではないんですかぁ?」

いつになくお喋りのリリスが、鋭いつっこみを入れてきた。

「まあ、そうとも言う」

ちらっとリリスを見ながら、

「だから、嘘はいっとらんて!」

水割りのグラスを傾けて、臣人は叫んだ。

が、なんだか言い訳がましく聞こえる。

ちょっと着崩したグレイのスーツに身を包んではいるものの、サングラスをかけたいつもの臣人だった。

ため息をつきながら、こう言った。

「『けふのみと春思わぬ時だにも 立つことやすき花のかげかは』…」

*訳:『春は今日限りと思わぬ時でさえ、花の下は去りがたいのに』

*臣人訳:『まして今日は出張が終わりの日だからいっそう彼女の元を去りがたいなあ』=昨夜は楽しかった!

なにやら突然、遠い目をしながら和歌を詠み始めた。

「それをおっしゃるんでしたらぁ、『さくら花ちりぬる風のなごりには 水なき空に浪ぞたちける』ではありませんの~?」

*訳:『桜散らす風が吹き抜け、空には花びらの波が残った』

*リリス訳:『桜(=一夜限りの女性)と別れ、そのなごりを表すように空には(=臣人には)花びらの波が残った』

まるで返歌でもするように、負けずとリリスも和歌を返してきた。

「………」

バーンは何のことかわからずにきょとんとしながら、臣人の顔をのぞき込み、隣に座った。

「リリー、わいが出張に行くと嘘、言ってたとでも?」

「うそだなんていってませんわぁ~。きっと、出張先の花街で楽しんでらしたんですわねぇ」

まるで何もかもお見通しのようににっこり笑いながら麻布でグラスを磨いていた。

「ぎくぅ」

さぁーっと臣人の顔から血の気が引いた。

「まさかとは思うが、式神かなんかで見とった?」

夕べ遅くの出来事を思い返しながら、カウンターに身を乗り出すようにして、リリスの耳元に囁いた。

「いいえぇ~。そんな人様のプライバシーを覗き見するなんて、無粋なことはいたしませんわぁ。ただ、」

「ただ?」

「今の和歌にあった『なごり』が、首筋に残っていますわよぉ」

「。。。。」

「桜の花びらが、」

「!っ」

そう言われて、反射的に右手で左首を押さえていた。

その様子を見て、彼女はまたくすくすと笑っていた。

「『あひ思はでうつろう色をみるものを 花に知られぬながめするかな』」

*訳:『花と人。お互いに心通い合うこともないまま、花は散り、私は物思いにふける。』

*臣人訳:『花(=女性)と人(=臣人)。お互いに分かり合えないまま、彼女と別れ、ああ〜と後悔している。(ちょっと言い訳っぽく)』

さらっと受け流したつもりの臣人だったが。

「…お前、声がうわずってないか?」

バーンが真面目な顔でたずねた。

「き、気のせいや!! な、リリー?」

「(しらんぷり)」

リリスがあさっての方向を見ている。

ようやく、臣人はバーンの手に握られていたものに気がついた。

「お!! なんや2日見んうちにえらく風流になったんとちゃうか?」

たおやかに枝垂れる桜の枝に臣人の目は釘付けになった。

「リリス……これ、」

「ええ、喜んで。今、花瓶を準備しますねぇ」

その枝を両手で受け取りながら、こう尋ねた。

「『墨染めの桜』がここにあるということは、うまくいきました~ぁ?」

「…………」

バーンは何も答えなかったが、リリスはその雰囲気で納得していた。

「ご苦労様でしたぁ。ちょっと心配してたんですよぉ。お帰りが遅いのでぇ~」

そう言い残すと枝を持ったまま、店の奥に消えた。

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