第23話 桜鬼(9)

「ご主人様…?」

アニスがバーンに近づいた。

「………」

バーンは何も言わずに彼女の頭をよくやったとでも言うようになでた。

アニスはとびっきりの笑顔を彼に向けた。

「まだ、終わってない…。力を貸してくれ、アニス」

「はい! もちろんです!!」

彼は振り返って、今度は『墨染めの桜』を見た。

もうひとつの約束も果たさなければならない。

土手の下を流れる川の水が澱む場所に、花びらの湊ができるほどにはらはらと、はらはらと吹いた風に花びらを大量に落としていた。

その花びらには生気がない、まるで死んでいるかのように色あせて、見ようによっては灰色のように見えた。

ものによっては、黒い斑点を花びらに残しているものもあった。

「アニス……」

バーンは彼女をうながした。

今、桜に取り憑いた怨霊の力を封じるためとはいえ精気をほとんど吸い上げてしまっている。

このままでは、この老木は間違いなく枯れてしまうだろう。

吸い上げた精気を戻すためにアニスは『墨染めの桜』の幹に触れた。

彼女の手からどんどん精気が桜に注がれた。

鈴の音が、アニスの首の動きにあわせる様に鳴った。

「きゃっ」

そういうとアニスは黒猫の姿に戻ってしまった。

みゃあと小さく鳴きながら、バーンの肩へと駆け上ってくる。

バーンは、アニスの喉元をなでた。

そして、最後の仕事に取りかかった。

ジーンズの後ろポケットから、また6本の銀の短剣を取り出し、さっきと同じように地面に差し込んでいく。

それから『墨染めの桜』に近づき、両手を幹に置き、そして額をつけた。

静かに眼を閉じた。

まるで桜が泣いているように、枝と枝をぶつけている音がした。

桜に心の中で語りかけた。

(大丈夫…。怖がらないでいい。

もう、なにもしないよ。

…龍脈の流れを…正常に戻すだけ。

龍穴は閉じてしまうけれど、地の精霊の力を借りて新しい道を造るから…

千年という時を……生きてきたんだろう?

君を苦しめてきたものはすべて取り除いた。

生まれ変わるんだ。

自分の力で……。

俺が導くから、地の精霊を受け入れてくれ。

毎年その花を心待ちにしている人のために…。

いや、自分自身の生きている証に…これからも花を咲かせてくれ。

裕美…もそれを望んでいた…。

彼女は死んですら、この場所から離れられなかったんだ。

だから…)

バーンは眼を開けると指で幹になにやら文字らしきものを書き始めた。

そして、

「大いなる音は第三の角に入りたる。

そしてオリーブ山のオリーブの如くなり。

喜びを持って地を眺め、慰める者として天の輝きのうちに住みたる」

一本目の結界針が光り始めた。

「…その者にわれは19の喜びの柱を結びたり。」

二本目の結界針が光り始めた。

「…器を与え、地のすべての生き物に水を注がせたる。」

三本目の結界針が光り始めた。

「…そして彼らは第一と第二の兄弟にして、

常に燃える灯に飾られた自らの席の始まりなり。」

四本目の結界針が光り始めた。

「…69636、その数は第一と同様、時の終わりにして内容なり。」

五本目の結界針が光り始めた。

「ゆえに来れ、そして汝の創造に従え。

平安のうちにわれらを訪れよ。

われらを汝の密儀の受容者のうちに加えよ。」

最後の六本目の結界針も光り始めた。

「なぜなれば、われらの主と師はすべて一なれば…なり。」

彼が詠唱を終わると、大砲でも撃たれたように、地面から突風がわきおこった。

すべての結界針が音をたてて、粉々に砕け散った。

そして、再びあたりは闇と静寂に包まれた。

バーンはもう一度『墨染めの桜』を見上げた。

地の精霊の召喚は無事に終わった。

新しい龍脈のエネルギーが、六本の結界針を破壊してこの木に注がれたのがその証拠。

彼は『もう大丈夫だ』とでも言うように、幹を手でポンポンとなでた。

と、そこから離れようとした時のこと

頭上から、何かが降ってきた。

ふぁさ・・・。

しっとり濡れているような、つややかな感触がした。

彼の手の中にあったもの。

それは爛漫に咲いた一枝の桜だった。

驚いて、『墨染めの桜』を見上げると、先が折れている一枝が風に揺れていた。

まるで礼を言うかのように自ら折れ、落ちてきたのだ。

「Thanks…」

それを見て微笑むかのように、バーンは夜風に吹かれながら歩き始めた。


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