第17話 桜鬼(3)

彼女の両眼が光り始める。

バーンの周りは、また、闇に包まれた。

彼女も見えなくなった。

と、バーンの眼の前には、Tシャツにジャケット姿のいつもの臣人が立っていた。

(臣人……)

まわりを見ると、自分の住むマンションだった。

バーンは玄関に立っていた。

(幻覚だ……)

「バーン、おかえりぃ。大変やったなぁ」

いつものあの笑顔で近づいてくる。

幻覚だとわかっていても、こうリアルだと普通の人は信じてしまうだろう。

横の壁に触れる。

自分の住んでいるマンションの壁と感触と同じ。

視覚ばかりでなく、触覚や嗅覚も働いている。

香の匂いがした。

仕事場として使っているなかの部屋から、染み出してくるようにかすかに薫ってくる。

「…………」

「なんつぅ、おっかない顔してるんや。らしくないでぇ」

げんこつでバーンのあごをちょっと押した。

いつもの調子で。

この幻覚は、『自分』というフィルターを通して感覚を再現しながら見せられているようなものだ。

幻覚というには、現実味がありすぎる。

「…………」

「ったく。」

急に思い出したように、ポンと手をたたいた。

「おう、そういえば、NYから電話があったでぇ。ええと、レニ?レオニードとかいうおっさんから」

腕を組みながら、名前を思い出している。

「……臣人」

(さっきのラティの時もそうだった。

俺の見たいと願う過去が現実になる……

ニューヨークにいるレオさん。

スティーブ親父の親友であり、俺の父親がわり。

アレックス兄さんの仕事上の上司。

俺はあの時、レオさんに何も告げずにあの場所から消えるしかなかった。

ラティが亡くなった翌日、俺の身柄を引き取りに来てくれた。

詳しい事情を何も聞かずに、ただ「無事でよかった」と言って、抱きしめてくれた。

あの節くれだった大きな手で。

葉巻の匂いのする腕の中で、俺は泣いていた。

俺は、あれ以来レオさんに会ってはいない…。

……………

これは…本当のことじゃない…)

「お前の兄貴が生きて見つかったってよ。よかったなあ」

黙り込んだまま立ち尽くすバーンの背中をどんとたたきながら、臣人は笑って言った。

その言葉にさすがのバーンも動揺した。

嘘とわかっていても、16歳の時に行方不明になったアレックスが見つかったという知らせは、彼の心を揺り動かした。

血のつながりのある唯一の肉親。

両親亡きあと、自分を守ってくれた兄。

小さいときから、彼のことを陰になり日なたになりかばってくれたアレックス。

「………臣人」

バーンは臣人の顔を見つめた。

臣人は両手をポケットにしまった。

「これで心置きなく、」

にっこり笑いながら、ポケットから右手を出した。

そこには出刃包丁が握られていた。

「死んでや、」

「っ!」

それを見て目を丸くしたが、身体が動かなかった。

包丁をバーンの胸に横から突き刺した。

刃が見えなくなるまで身体に入っていく、そして臣人はそれをグイッとひねった。

出刃包丁をつたって、血が流れ出すのがわかった。

と同時に痛みが全身を貫いた。

バーンは思わず突き立った包丁を両手で押さえようとした。

臣人は彼がそうする前に出刃を引き抜いた。

ズル…ッと臣人の手から出刃が滑り落ちた。

ストッと床に刃が突き立った。

血が静かな滝のように溢れ出した。

(だめだ…。意識をここへ向けては……他に…

痛みも嘘だ。傷も…。

幻覚だ。

臣人が、こんなことするわけが…ない。

あいつは、)

そう思いながらも、バーンは信じられない気持ちで臣人を見た。

臣人は彼を見て、にいっといやらしく笑っていた。

「バーン。わいは、。死ねや、早よぉ」

「…………」

その言葉を聞いて驚きを隠せず両眼を見開いた。

(臣人……臣人の本心は…?

俺と一緒にいるようになってから、あいつの本心を俺は聞いただろうか…?

なぜ、あいつは…俺と一緒にいるのか…?)

バーンは顔を背けて、眼を閉じた。

手で胸の傷を押さえながら、苦しそうに呟いた。

「・・・Ol Sonuf Vaorsagi Goho Iada Balata. Lexarph, Comanan, Tabitom. Zodakara, eka; zodakare oz zodamram. Odo kikleqaa,piape piaomoel・・・」

再び魔法陣を敷いた。

詠唱をはじめると、あっという間に自分のマンションから、あの川沿いの土手へと風景が戻っていった。

桜の花びらを含んだ冷たい風が、顔にあたる。

ゆっくりと眼を開ける。

あの『墨染めの桜』の下で、バーンは胸を押さえたまま立っていた。

もちろん傷はなかった。

しかし、精神的ダメージはぬぐいきれない。

彼女はその様子を見て満足そうに笑っていた。

「なかなかのおもしろかったぞえ。術が破られて楽しかったのは初めてじゃ」

「…一度かかった術には、二度とかからない……」

バーンは辛そうに奥歯を噛み締めた。

「その割にはつらそうに見えるがのぉ」

彼女はくすくすと弄ぶように楽しそうに笑っていた。

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