第15話 桜鬼(1)

空には雲に霞んだ朧月が、西の空に落ちそうなくらい傾いていた。

真っ白な光が空の彼方に吸い込まれ、見えなくなってもバーンはずっと見つめ続けていた。

流れ星が一筋、西の空の方角に落ちていくのが見えた。

(…裕美。しあわせに……)

空から視線を地上に移した。

真っ暗な中に、墨色に浮かび上がる桜。

なんだか雰囲気がさっきと変わっている。

禍々しい気を放っているような気がした。

『……助け…て』

バーンの耳元で風鳴りが何かを告げた。

言葉のようにも、風の音のようにも聞こえた。

と、龍脈を遮断するために地面にさしてあった銀の結界針が音もなく、6本とも空中に浮かび上がった。

「…………」

バーンは右眼で、周囲を見回した。

(なんだ!?)

彼を取り囲むように浮く6本の結界針。

剣の先が徐々に下から上に動き、彼の方を狙っている。

よく見ると、どの結界針の柄も地面から突き出るように出ている太い腕に握られていた。

何かが下から這い上がってくる。

それも1体ではない。

複数で。

地響きのような音が、続いていた。

バーンは結界を張ろうと呪文を詠唱しようとしたその時、その6本の結界針が同時に、彼を目がけてものすごいスピードで放たれた。

武術の心得のある臣人ならば、叩き落とすかもしれない。

が、6方向から同時攻撃では自分はどうにもできない。

術を発動させるためには、ある程度の時間が必要だった。

だからといって刺されるわけにもいかない。

バーンはとっさに叫んだ。

「アニスっ!!」

その声で彼の背後の空間が歪み、肩から何か黒い小さな物体が飛び出してきた。

黒猫だった。

猫は飛び出すやいなやバーンの周りを目にもとまらぬスピードでひゅんっ!と一周した。

そして、彼の右肩にちょこんとのった。

その口には6本すべての結界針がくわえられていた。

バーンはちょっとため息をついて、猫の口から結界針を受け取った。

また無造作にジーンズの後ろポケットに差し込んだ。

小さい声で黒猫はにゃあ…と鳴いた。

「お呼びですか? ご主人様。」

アニスと呼ばれた黒猫が喋った。

身体は艶やかに光る黒だが、目は白目がなく燃えるように真っ赤だった。

首の鈴がリンッと涼しげな音で鳴った。

そのあいだにも、地面からはえた6本の太い腕が、肘から上腕部、上腕部から肩へと次第にはっきり見えてきた。

それは頭に二本、角が生えた三体の鬼だった。

その出現する様子をバーンは静かに見ていた。

目の前に立ちはだかる鬼たち。

荒い息づかいをして、彼を取り囲むように見下ろしていた。

(鬼? 桜鬼はなおにか!?)

桜の下には鬼が棲むという。

その美しさゆえに、魔も惹き込んでしまう力があるといわれる。

しかし、さっき裕美の霊視の時には感じられなかった気配に彼は驚いた。

(裕美じゃない…!

もしかしたら、この一連の事件を起こしていた霊は別に存在しているのか。

俺の魅了眼を欺けるほどの…力を持っている霊が…?)

風もないのに、眼の前を1枚の桜の花びらが舞っていった。

彼の眼の前を過ぎるとそれは、白く発光する蝶へと姿を変えた。

上へ下へと鱗粉をふりまきながら飛び、桜の幹の向こう側へと消えた。

桜鬼がヒザをつき、かしずいた。

バーンは幹の陰に隠れている何かに眼を凝らした。

月が厚い雲に覆われて見えない。

花闇に包まれたなか、彼はアニスを肩にのせたまま動かなかった。

さっき裕美が見ていた太い根のあるその向こうに、薄衣が見えた。

まるで御簾の下から見える出衣いだしぎぬのように、薄い紫色の打衣うちぎぬと紅の張袴はりばかまの裾があった。

(女?)

「……わらわの楽しみを奪う輩の顔を見に来れば…これは、また下銭の者のわりには……なかなかの美形よのぉ」

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