第14話 変わりゆく風景(5)

「…そういえば、君の名前…聞いてなかった」

「裕美…沙綯裕美さなえゆみよ。あなたは?」

「バーン・G・オッド…」

彼は右手を彼女に差し出した。

その手にゆっくり左手を重ねた。

あたたかかった。

「バーン…」

恥ずかしそうに彼の名前を呼んだ

「桜の花は好き?」

「君に一番似合う花…だと思うよ」

「桜の花が咲く季節になったら、私のことも時々でいいから思い出してね」

「…ああ。」

彼女は頭を振って、自分の髪を風になびかせた。

「なんだか、身体が軽いわ」

「…光が…見えるかい?」

裕美は真っ暗な空を見上げた。

「ええ。どんどん近づいてくる」

「その光に意識を合わせて…いくんだ…」

ゆっくりと目を閉じて、彼に言われた通りにしてみた。

ぱあっと表情が明るくなった。

「あの人の気配がする。あの光の中に彼がいるの?」

「……………」

バーンは何も言わずにうなずいた。

裕美は両目を開けると潤んだ目で彼を見ながら、微笑んだ。

そして安堵にも似たため息を漏らし、深呼吸をした。

「バーンはしあわせ?」

「え?」

予想できない言葉だったのか、思わず聞き返してしまった。

「私は、今、すごくしあわせよ。これからつらいことが待ってるかもしれないけど。でも、ってわかったから」

「…………」

「彼に会えるっていう希望が」

裕美はうれしそうに微笑んでいた。

「それだけで十分」

「裕美…」

「バーンは自分が、今、しあわせだと思う?」

「…………」

彼は真面目な顔で黙り込んだ。

裕美は首を傾げながら、彼の答えをじっと待っていた。

「…わからない……」

「どうして?」

「考えたことがなかった。…自分がしあわせかどうかなんて」

「そう?」

彼の答えに驚きを隠せなかったが、自分のことを思い返してみた。

「そうね。私もあんまりなかったわ。生きている時に自分がしあわせだと思ったことは」

「…………」

「でも、彼と会っている時だけはしあわせだった」

「…………」

「彼のことを思っているだけでしあわせだった」

「…そうだな…」

初めて彼女の言葉に同意した。

バーンもラシスのことを思い出していた。

いつも彼女のことだけを考えていた。

彼女の笑顔をずっと見つめていたかった。

「しあわせってそんなものなのかもしれない」

「…………」

「今、しあわせだからこそ、そう気づかないものなのかもしれないわ」

「…………」

(あの時、あの頃、

俺はしあわせだったんだろうか?

そんなこと…意識したことなんてなかったな。昔も今も…?)

脳裏に臣人やリリス、綾那や美咲の顔も浮かんできた。

8年前と明らかに違うこと。

自分の周りに人がいる。

彼らと関わるようになって自分の中で何が変わったのだろうか。

その答えをバーンはまだ見つけられずにいた。

その答えがラシスのことに関係あるのかも分からずにいた。

「あなたもあなたの想い人とまためぐり会えるといいわね」

素直にそう言っていた。

「裕美………」

バーンは彼女の言葉をそのまま信じることはできなかった。

それでも彼女は言い続けた。

「お願いよ。あきらめないで」

「…………」

「絶対に」

真剣な眼差しでバーンを見つめていた。

しばらく見つめ合っていた。

お互いに瞳の中に映る自分自身を見つめていた。

そこに映り込む姿こそが本当の自分の姿のような気がしていた。

「ああ…」

ここまで彼女がこだわる理由をわかってしまったバーンはうなずくしかなかった。

しかし、その答えに嘘はなかった。

彼も信じているのだ。

再びラシスに逢える日を。

それを聞いて彼女はにっこり微笑んだ。

今までになく、すっきりした顔で。

そして、目を閉じた。

野鳥は彼女の肩から動こうとしなかった。

バーンは大きく深呼吸すると再度、法術を開始した。

「…われは怒りの蒼穹の上にあげられたる力のうちに汝を統べん、

と正義の神は語りき。

その両手にあって、太陽は剣なり、月は貫徹する炎なり。

彼は我が衣服のただ中にあって、汝の衣を計るものなり…」

次第に彼女の姿が空に霞む月のように、朧気になっていった。

「…《《かれ》》に対してわれは聖なる者たちを治めるため、法を作りたる。

聖なる者たちは汝のもとに、知識の聖櫃とともに杖を運びたる。

…始まりを持たず、終わりなき神。

汝の宮殿のただ中にて炎の如く輝き、公正と真理の天秤の如く汝らのただ中にあって…支配するものなり」

呪文の詠唱が進んでいくごとに色が抜けていき、最後には霧のように真っ白くなっていった。

バーンは彼女の手を取っていた右手を上にあげた。

「Lap Zirdo Noco Mad Hoath Iaida!」

野鳥が夜空へ向かって、音もなく飛び立った。

その姿を見送るように、彼も空を仰いだ。

「ありがとう…バーン……」

足元から吹き上げる花散らしの風とともに、そんな言葉が届いた気がした。

(さよなら……)

桜の花びらが舞い上がるその向こうに、野鳥の姿が見えた。

その姿とダブるようにサキエルは元の姿に戻りながら白い天使の羽を広げ、彼女の魂を包み込むようにして天に昇っていった。

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