第39話

 夏希は、本当はそんな真紀の心のざわめきに気づいているはずだ。〈オリハルコン〉を媒介として心を通わせた時、その圧倒的な心の圧力が真紀の胸に流れ込んできた。それは不均衡に混ざった澱の濁流に思えた。足元をすくわれ、地面ごと流される葦のように、頭を水面から出すのが精一杯だった。汗で滲んだ掌の感覚とは裏腹に、その澱は乾ききっていて、夏希の怒りや苛立ちを映しているようだった。


 確固たる夏希とあやふやな自分。二つの存在の狭間で、〈オリハルコン〉の熱だけが変わらずスカートのポケットから溢れていた。その熱だけが、真紀を前へと進めていた。

 事務棟を出て、管理棟に入る。地下へ向かうエレベーターを降り、ついさっき自分たちが詰めていた第二指令室へたどり着いた。


「ループさせられる時間はあと一時間が限界だから、集中集中」

 夏希は自分を律するように声をあげ、ドアを開けた。

「奥寺、順調か?」

 モニターを覗き込んでいた恵庭が顔を向けた。さっきまでの憔悴した雰囲気はすでになく、落ち着いた表情からは自信のようなものさえ感じられた。


「はい。陽動は成功しています。敵は基地内で出撃準備をしています」

 夏希は夏希で、さも当然のように相手の状況を報告している。

「その様子だと、うまく潜り込めたみたいだな」

「〈オリハルコン〉がないだけ感度が落ちますが、問題ありません。むしろこちらの気配も希薄になって、鳥飼先輩も感知できていません」


 攻撃を受けた瞬間、ドラゴンを乗り換え、偵察を続けていた、ということだろう。最初から、夏希は向こうの動きも予想していたのだ。

「わかった。装置の方も問題ないな」

「機能しています。向こうはまだ、こちらが敵意を喪失していると思っています」

 恵庭は頷くと、隣の柿崎に視線を向けた。


「部隊からの連絡は?」

「奥多摩湖の東西に三個小隊、それぞれ配備完了です」

「よし。司令に報告」

 柿崎が部屋の電話から司令室へ状況を伝える。短いやり取りが、予定通りに進んでいることを物語っている。内海からは引き続き待機するよう命じられ、しばらくはレーダーと外部モニター画面を交互に見る時間が過ぎていった。


 一人取り残された感のある真紀は、交わされるやりとりを聴きながら、少しずつ状況を把握するほかなかった。夏希の言っていた通り、自分には何も知らされないまま、準備が進み、何かが始まろうとしている。けれど、不思議と疎外感は感じなかった。自分の役割が、敵の目を欺くために必要だと理解したということもあったが、それよりも強い感情が、真紀の心を支配していた。


「先輩……、私たち、間違っていませんよね」

 魔法のことを知り、『ヴォーウェル』のことを知り、〈オリハルコン〉のことを知った。まだまだ自分にはわからない世界があり、その理の中で生活している人たちがいることを知った。


 追いかけると決めた背中、想いの先に見える未来。信じると決めた未来を手にするために、やろうとしていること——。渦巻く様々な記憶と意識が混在し、真紀の喉から言葉となって滑り落ちた疑問符に、レーダー画面を見ていた恵庭の目が、真剣な色を宿す。


「正しいかどうか、それを決めるのはお前自身だ。五十嵐真紀がやりたいことを、やればいいんだ」

 強い言葉だった。けれど、言い終わった後の恵庭は、言葉とは裏腹に穏やかな表情になった。この後の展開が読めない不安が、一気に消し飛ぶ。

「私は、この後何をしたらいいんですか?」


 やりたいことをするためには、覚悟と決意が必要だ。わからないことがあれば素直に聞くことも、立派な覚悟だ、と思う。

「五十嵐には、それぞれの能力の制御を援助してもらいたい。奥寺から聞いているかもしれないが、こちらの戦力は筒抜けの可能性が高い。〈オリハルコン〉の能力値は不明確な点が大きい分、相手にとってはいい目くらましいなる」

「鳥飼先輩を、それで惑わすことができるでしょうか?」


「そのために、向こうの通信傍受を逆手に取ることにしたんだ」

「それで、やられたフリをしたってことですか?」

「均衡した状況を崩すには、こちらの弱さを見せるのが一番なの。あのドラゴンの引き渡しで、こちらの挙動がバレて、私が倒れるようなことがあれば、相手に隙が生まれる」

 恵庭の言葉を引き取るように、夏希が言う。


「わざとあの状況を作ったってこと?」

「さっきまでもそう。恵庭先輩も柿崎さんも、この基地のどこかで憔悴した顔で俯いて、どうしようもない雰囲気を醸成したの。攻め込むなら今ですよ、って」

 恵庭が言っていた本番という言葉が、再び頭に蘇る。さっきまでは、舞台を成功させるための嘘の打ち合わせだったということなのだろうか。


「向こうは、こちらが基地内に設置しているカメラの映像や音声を拾って自衛隊の動きを掴んでいた可能性が高い。あの魔法陣は基地内の通信・伝送ケーブルに働きかけ、情報を抜き取っていた」

「真紀とアリスの掌握に失敗して、次は〈オリハルコン〉奪取に動いて、それも御破算。今度は総力戦で挑んでくる。鳥飼先輩の考えることは、だいたいわかる」

「でも、それで誘導して、本当に攻め込まれたりしたら……」


「だから、二日間待ったの。向こうも態勢を整える必要があるだろうし、こちらのリアクションを見れば、潜入作戦が失敗しただけ、と思わせることができる。この二日、何回かこうしてテストをしてきたんだ。地下基地に敷設された魔法陣をハッキングして、偽の映像をループさせていた。今もそう。下では今日の話ばかりして、上ではこの先の準備をしてた。『ニュー』の捕虜とも取引したの。テレポートとオールレンジ・ディフェンスの合わせ技で、もう奥多摩湖の近くに部隊を送っている。あとは、合図を送るだけ」


「どうするつもりなの?」

「私たちは、この場所で『ニュー』を迎え撃つ」

 地下の遥か異空間にあって、夏希の声は力強く、太陽のようだった。




 レーダーに反応があったのは、それからしばらくのことだった。「……動いた」と夏希が呟くのと同時に、それまで同じ場所で明滅を繰り返すばかりだった光の点が、ゆっくりと動き始めた。

 すぐに会議室の内線が鳴る。柿崎が素早く立ち上がり、受話器を取り上げる。ちらりと恵庭に目配せをしたかと思うと、恵庭がすくっと立ち上がった。


「奥寺、猶予はどれくらいだ?」

「あと十分で映像が元に戻ります」

 恵庭が頷く。真紀は部屋の時計に視線を向けた。午後三時半、一瞬の沈黙は受話器を置く音が打ち破った。

「三佐、司令から連絡。奥多摩湖の部隊の展開が開始されます」


「わかりました」恵庭は立ったまま無線機を摘み、ひとつ咳払いをして、手元のスイッチを入れた。「訓練中の各隊は、直ちに作戦行動に移行。繰り返す、作戦行動に移行」

 無線機を柿崎に渡すと、恵庭が先陣を切って第二司令室を出た。後から柿崎、夏希と続く。真紀も遅れまいとすぐにあとを追った。


 陽の当たらない廊下は寒々しかった。恵庭のブーツのかかとが床を叩くたび、真紀はカウントダウンを想起した。数字が減るたびに、心臓の音が高鳴っていく。出口が近づくたびに、〈オリハルコン〉が熱を帯びてくる。

「三佐」

 ドアを開けるとすぐに、待機していた柳瀬が駆け寄ってくる。


「基地部隊の展開は予定通りです。いつでもいけます」

「私も前線に出ます」

「しかし……」

「いいんです。鳥飼とは、ここで決着をつけなければいけません。それは自衛隊ではなく、『ヴォーウェル』の仕事です。小隊長であるお二人に背中を預けます」


「三佐……」

「さあ、行きましょう」

 管理棟に横付けされた装甲車に乗り込む。

「二人はここで待っていてくれ。すぐに迎えを寄越す。後方部隊に合流してくれ」

 ドアが閉まる間際、恵庭は早口にそう伝えると、「出してください」と運転席の柿崎に声をかけた。エンジン音が轟き、タイヤが軋む。管理棟からまっすぐ北へ、木々が多い茂る森に向かって走り去る装甲車を、真紀は静かに見送った。


「本当に、ここで戦うの?」

 真紀は、恵庭の前で聞けなかった疑問を夏希にぶつけた。戦い、戦闘、戦争、犠牲、報復、そうした言葉たちが頭を駆け巡っていた。魔法の世界に身を投じて十日あまり、それでも自分は、まだ日常と非日常の狭間にいた。


 海外の紛争やテロのニュースを見るたびに、別の世界の出来事だと暗に意識の外に置いていた現実、その一端に触れてもなお、戸惑いと逡巡の渦の中で踠いている自分。どこまでも普通の自分が必要だという恵庭、そしてそんな普通な自分を支えようとしてくれる夏希。


「ここでのことは、相手には筒抜けだけど、最近はそれも含めて欺瞞なの。もう後戻りはできないけど、大丈夫。自衛隊の人たちを信じよう。やることはたくさんあるけど、真紀ならやれる」

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