第38話

 基地の医務室は、管理棟と整備等の間、ちょうど降りてきたエレベーターの真向かいにある事務棟の三階にあった。受付で面会の意思を伝えると、すんなりと通された。

 夏希が運ばれて、内海司令に連絡を取った恵庭は、憔悴しきった顔で、「しばらく、俺たちはお役御免だ。これからは、大人の仕事だそうだ」と言い、そのまま椅子に座り込んでしまった。さすがの柿崎も話しかけるタイミングを逸してしまったのか、しばらくは無言が司令室を占領した。夏希の意識とシンクロしていた画面は暗転したまま光を失い、レーダー画像もなんの信号も映さなくなった。


 自分たちにできるのは、ここまでなのだろうか。アリスも夏希も傷つき、もはや自分たち『ヴォーウェル』では手に負えない事態にまで発展してしまった。大人の出番、というのは、自衛隊と『ニュー』の全面対決を意味しているはずだ。

 誰も望んでいない戦争を、どうして止めることができないのだろう。誰かが傷つくことを、どうして避けることができないのだろう。真紀はぽつぽつと浮かんでは消える煩悶と向き合いながら、薄暗い廊下を歩いた。


 医務室のある区画は、清涼な空間だった。かすかに消毒液の匂いがする。廊下の両側には胸の高さに手すりがあり、雰囲気はまさに病院のそれだった。ドアには診療科の名前や当直医の氏名が表示されたディスプレイが埋め込まれていて、反対側の窓からは中庭が見渡せた。

 通路を渡ると、少し廊下が曲がり、直線になった先が病棟区画のようだった。大部屋の類はなく、どれもが個室らしい。等間隔で並ぶドアには、同じようにディスプレイがあって、病室と氏名のみが表示されていた。受付で聞いた番号を反芻しながら、ゆっくりと歩く。


 夏希の病室は、そんな病棟の一番奥にあった。奥寺夏希の表示を確かめ、真紀は軽くノックをした。特に返事はなかったが、眠っているのならそれも当然だ。真紀はドアの取っ手を強く握り、横にスライドさせた。

 白いベッドとシーツが真っ先に目に入り、一歩、二歩と足を進めると、柔らかいレースのカーテンから漏れる光に照らされた夏希の顔が見えた。

「夏希ちゃん」ベッド脇の椅子に腰掛け、真紀は閉ざされた瞼をじっと見ながら言った。「何が正しいのか、私、わからなくなっちゃった」


 聞こえていないことを承知で、真紀は言った。自分が望む未来を信じてここまで来たのに、こんな現実は望んでいなかった。みんなを危険に晒して、それが目指すべき未来だとは思いたくなかった。

「どこで、間違えちゃったのかな……」入学してから、ずっと考えていたことだった。魔法が使えない自分がここにいる意味をずっと考えていた。けれど、その答えはついぞわからなかった。


 真紀は、穏やかに寝息を立てる夏希の頬に手を伸ばした。温かいぬくもりに、ほっとする。本当に、気を失っているだけだ。微かに震える頬は、さっきと同じように、規則的な呼吸によって小さく上下している。乙女の柔肌、という不釣り合いな言葉が浮かぶが、こうして夏希の顔をじっと眺めることはこれまでなかった。

 夏希はいつも、自分たちの前を歩いていた。恵庭からの厚い信頼を受け、自分とアリスを支え、導いてくれた。迷っている時には、ゆっくりとそばに寄り添ってくれた。〈オリハルコン〉を使うと決めた時は、そっと背中をさすってくれた。


 ずっと自分を見守ってくれていたのに、夏希が倒れても、自分はやっぱり何もできない。自分が望んだ未来は、こんな姿をしていなかったはずなのに……。

 三十分くらいそうしていただろうか。窓の外は相変わらず茫洋とした春の光に満ちて、ここが地下だということを忘れさせる。いっそうのこと、全てが悪い夢、なんてことになればいい。そう思っていると、シーツの中から伸びた夏希の手に腕を掴まれた。

(動かないで、そのままにしてて。落ち着いて、私の話を聞いて)

「夏希ちゃん、もう大丈夫なの?」


 現実に引き込まれ、真紀は思わず声を上擦らせた。いつの間に起きていたのか、頬を触った時にはすでに起きていたのか、色々な想像が頭を巡ったが、そんな真紀の戸惑いを意に介する素振りもなく、夏希は「そっか、もう普通でいいんだよね」と呟き、勢いよく体を起こした。


「なんていうか、ようやく準備が整ったって感じなの」

 夏希の声はなぜか弾んでいるようにも聞こえ、先ほどのダメージを微塵も感じさせなかった。狐につままれたような気持ちを持て余し、真紀は夏希に顔を寄せた。

「どういうこと?」

「司令室に戻ろう。歩きながら説明するから」


 夏希がベッドから起き上がり、真紀は夏希に引き上げられる格好になる。戸惑いが体を硬直させ、強張った腕が夏希の手に抗うことになった。

「恵庭先輩が待ってる。本番はこれからだよ」

 夏希の声に、より正確に言えばその言葉にはっとする。思えば、いつでも恵庭と夏希が矢面に立ち、準備をしてくれていた。そうして図らずも危険を避けてきた自分は、後からついていくのが精一杯と言い訳をしていたのかもしれない。


 真紀の後を追うように廊下に出る。春の日向が廊下に差し込み、夏希の背中をまだらに照らす。それがレースのカーテンのようにも見え、まるで自分が舞台の袖にいるような錯覚を覚えた。これまではずっとリハーサルだったのかもしれない。けれど、ここから先は本番の舞台なのだ。そう思うと、胸に迫るものがあった。


「作戦部長の本領発揮ってこと?」

 夏希を茶化し、気持ちを落ち着かせる。何が待っていても、自分は一人じゃない。それだけは確かで、それだけで何も怖くない。

「部長は、きっと恵庭先輩だよ。芹沢さんはもっと偉いから、本部長か何かかもしれない」

「じゃあ、内海司令が専務とか?」


「そこまではいかないんじゃない? 取締役ってなると、先輩のお父さんくらいにならないとだめじゃないかな?」

「難しいんだね、大人って」

「そんな世界で、先輩は部長だからね……。真紀が支えてあげないと」

「私には、難しいよ」


 誰もいない廊下は、声がよく響く。自分の声が上ずって聞こえ、頬が熱を持つのを感じる。あの時、自分を空へと、この世界へと引き上げてくれた人は、まだ足下も覚束ない状況で迷い、行く道を探しているのを感じる。

 〈オリハルコン〉がポケットで熱を発した。トク、トクと脈を打つ振動が、真紀の背中を押してくれる。夏希の腕が、真紀を導いてくれる。


「恵庭先輩が整備棟の近くで弾痕を見つけたの、聞いたことあるでしょ?」

「うん。誰がやったのか、まだわからないって」

「基地に忍び込んだ敵を外に誘い出して、裏をかいたつもりが、そこを攻め込まれた」

「アリスがドラゴンを引き連れてきたっていう、あれ?」


「そう。あの時は時間がなくて考えてる暇がなかったけど、いくら何でも、アリスたちが来るのが早すぎた。捕虜にしたあの男がメールで合図を送ったとしても、その前に待機していないと絶対に無理なの」

「じゃあ、筒抜けってこと?」

「そう」

「もしかして、その銃弾が……?」


「整備棟だけじゃなかったの。基地のいたるところに、弾痕があった。警告にしては数が多すぎるし、目につかないものがほとんどだったみたい。全てを地図にプロットしたら、魔法陣ができていることがわかったの。打ち込まれていたのは、小さな通信装置だった。陣を媒介として、それが相互に影響しているみたい。総じて巨大な電磁波増幅装置、それがこの基地を覆っている」


「でも、それじゃあこの会話も」

「それは大丈夫。さっきまでの一時間弱かな、その映像をループさせてるの」

「なんか、映画みたい」

「これを提案したのは柿崎さんなんだけどね。真紀がほっぺたを触ってきたときはやばかった。くすぐったくって」


 夏希が意地悪く、こちらに視線を向けた。その時の光景を思い出し、指先に感じたものは違う熱で、頬が赤くなる。

「やっぱり起きてたんだ。先に言ってくれてたら、もっと大人しくしてたのに」

「ごめん。どうしても、知ってると意識しちゃって不自然になっちゃうから。テンプレっぽいけど、敵を欺くには、まず味方からって、それをやってみたかったの」


「それをやっちゃうんだから、やっぱり作戦部長は夏希ちゃんだよ」

「それ、やっぱり蔑称に聞こえるんだよね。とにかく、今のうちに準備を進めないと」

「やっぱり、戦うの?」

「戦いは、避けられないよ。でも、別に正義のため、とか、魔法の世界のため、とかじゃないし、ましてや恵庭先輩のため、でもないんだ」


「じゃあ、どうして夏希は戦うの?」

「なんでだろうね。多分さ、戦う理由なんて、それこそいくらでもあるんだ。火のないところでも、戦いは起こる。見せかけの平和に縋るのをやめただけ、っていうのが一番しっくりくるかも」


「それって、悲しいよ」

「楽しくはないよね。嬉々として戦うのは間違ってる。悩んで、悩んで、悩んで、迷って、迷って、苦しんで、その先になきゃいけない」

「苦しみの果てに、何があるの?」


「なんだろうね、焼肉かな。最近全然食べてないから、この戦いが終わったら、みんなで食べに行こうよ」

 禅問答のような真紀の問いかけを、夏希はそうやってはぐらかした。戦いが終わったら——。夏希には、結末のイメージがすでにあるのだろう。鼻歌を歌う気配さえ漂わせた夏希を尻目に、真紀の胸に降り立ったイメージは、ただただ深く暗い空洞のみで、隙間風が吹き込むばかりだった。

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