第36話

「行きましょう。早い方がいいでしょう?」

 相良は担任に一礼して、職員室を出ていく。恵庭はちらりと教頭の顔を覗き、頷く様子に相槌を打つようにして、相良を追った。

 校庭に降りる。すでに『ニュー』のドラゴンの姿はなく、ニプラツカだけが校庭の隅でうずくまっていた。


「ニプ」

 相良が声をかけると、丸めた体を起こし、首をもたげてこちらに視線を寄越した。喉をごろごろと鳴らす。

「よしよし」相良が近づき、首を撫でる。「よく頑張りました。ゆっくりお休み」

 相良がニプラツカの耳元で囁くと、ニプラツカが瞼を閉じて、再び丸くなった。安心したのか、相良が何か術をかけたのかもしれない。


「三佐」

 不意に声をかけられ、そちらに顔を向ける。現場の指揮を頼んでいた柳瀬が、肩で息をしながら駆けてきた。すでに負傷者の搬送や車両の移動は終わったようで、血相を変えて近づいてくる柳瀬とは裏腹に、グラウンドに残る隊員たちは、静かな動作で散らばった薬莢を黙々と拾っていた。

「何かあったんですか?」


 どうしても、良からぬ報告を想像し、体が硬くなる。緊張しようが自然体だろうがこと事案に対しては冷静に事態を見極めなければいけない。恵庭はなるべく穏やかに、声をかけた。

「例の弾痕ですが、基地の他の場所からも同じような痕跡が見つかったという報告が上がっていまして」

「具体的には、どの辺りですか?」


「管理棟を挟んで、ちょうど反対側にひとつ、管理棟から二時の方向にもうひとつ、最初のものと合わせて三つ確認されています」

「わかりました。現場に行きましょう」

 柳瀬が頷き、基地へと続くエレベーターに向かおうと踵を返す。

「すいません。ちょっと、いいですか?」

 そこで、相良が手を小さくあげて、遠慮がちに言った。


「相良さん、何かわかったんですか?」

「わかった、ってほどじゃありませんけど、今朝副会長のお話を聞いて、考えていたんです」

 今朝、と言われ、奥寺と二人で相良を訪ねた時のことが頭に蘇る。そういえばその時、応援要請に至った経緯として基地内の不穏な動きのことは説明していた。

「魔法で姿を消すことのできる人が、一方でその存在を誇示するようなことをするのだろうか、と疑問だったんです。でも、もしそれが銃弾の痕じゃなかったとしたら……。捕虜になっている人が複数箇所で何かを埋設したとしたら、もっといえば、魔法陣か何かを敷設していたとしたら……。そう思ったんです」


 相良の説明は、閉塞した空気を押し開き、新たな風を恵庭の脳裏にもたらした。

「魔法陣……。攻撃が目的でなければ、まさか、情報——」

 現代の戦争は情報戦、柿崎が以前言っていたことだ。その可能性を口にすることで、恵庭は確信に近い感触を得た。そして、どうしてその可能性に気づかなかったのか、と自責の念に駆られる。責め立てる自分がいた。


 基地サーバーへの不正アクセスが『ニュー』の仕業だということは想像に難くない。とすれば、『ニュー』は以前から『ヴォーウェル』の情報取得を目的としていたことになる。どうして、という問いかけは愚問だった。それこそが、〈オリハルコン〉に関わる情報の収集を目的としていたはずだ。

「盗聴を可能とする魔法陣は、古い文献で読んだことがあります」

 柳瀬が思案顔で言った。


「もう失われた術式と言われていますが、科学と魔法の融合が、困難を可能にしているのかもしれません。本当なら、その捕虜は地上でも同じことをしたかったはずです。鳥飼さんがいなくなって、校内の情報を入手する術を失っていますから」

 相良が柳瀬の言葉を引き取り、続けた。恵庭にもそれは思い至る節がった。

「だからマスターキーへの対抗策が打てなかった……」


「そう考えると、色々と辻褄が合うんです。敵の動きが俊敏だったのも、それにしては地上での動きが場当たり的だったのも、情報の多寡が影響しているんだと思います」

 これまで不明だったピースが補完され、一つの像を結ぶ。その感覚に、恵庭は全身の肌が引き締まるような痺れを感じた。

「あの時感じた強烈な負の感情は、向こう側の思念が漏れたもの、とすれば合点がいきます」


 発信装置が魔法陣を構成しているとすれば、それを介して開発者や指導者の意思が、つまり鳥飼に近しい人間の思惟が宿っていても不思議ではないのではないか。

「そうですね。どんな情報を拾っているのか、詳しい調査が必要だと考えます。ですが、迂闊に掘り出したりしたら、それこそ芽を失うことにもなりかねませんし、どういう方法をとればいいのか……」

 柳瀬が逡巡する。思案顔になる相良と柳瀬を交互に見据え、恵庭はひとつの考えを口にした。

「それなら、適任がいます。なにせ、彼女は一度鳥飼と対峙していますから」



   **



 明かりを落とした部屋に、モニターだけが煌々と光り、そこにいる恵庭や柿崎の顔を照らしていた。

「真紀、行くよ」

 モニターの正面に座り、ヘッドマウントを被った夏希が、真紀の手を取り、力を込めた。白くぼんやりとしていた画面が、徐々に濃淡をはっきりさせていく。

 基地に降りてから三時間、ドラゴンが目を覚ますまでに、準備は整えていた。一旦校舎に戻った夏希と基地の一室に入り、柿崎と詳細を詰めている間に、恵庭が学校と話し、相良を連れてきた。


「あなたは、本当に得体が知れませんね」

 相良は、育ちが良さそうな落ち着いた喋り方をした。夏希曰く、その力は確かなようで、眠っているドラゴンを観察しただけで、使役できそうな個体を選び、三頭を指名したらしい。

 入れ替わるようにして恵庭と柿崎が出て行った後は、主にドラゴンの習性や行動についてのレクチャーがあり、精神感応によるドラゴンの制御、ドラゴンの視覚情報をモニタリングする特殊な装置——どうやらそれはアリスの父が映画撮影の際に使用していたらしい——の機能などが矢継ぎ早に説明された。


 そして今、夏希のつけるヘッドセットには、マインド・リアクターによって制御されたドラゴンの視覚情報が映像となって展開されている。それが会議室の大型モニターにも出力され、加速のたびに遠ざかる街並みと、みるみる近づく雲の輪郭がはっきりと映し出されていた。

「あてはありませんが、東京方面に飛んでみます」

 正面を向いたまま、夏希が慎重に答えた。夏希と繋いだ掌にある〈オリハルコン〉が、夏希に普通以上の力を与えているのは、なんとなくわかった。世界を違えて思念を飛ばすほどの力は夏希にもないらしい。しかも、人とは違う価値観を持ったドラゴンをコントロールしているのだ。制御するにも気配を探るにも、常時とは比較にならない魔法の力を必要とする、と作戦が始める前に夏希が言っていたのを思い出す。


 絶えず脈動する掌が、緊張する夏希のものなのか、不安が胸を焦がす真紀のものなのか、それとも〈オリハルコン〉の未来を願う力なのか、真紀にはわからなかった。

「わかった。慎重にな」

 画面を覗く恵庭の横顔にも、緊張の色が見える。視線をモニターに戻すと、雲の間を進むドラゴンの姿が見え隠れする。その翼が雲を押し分け、空と溶け合うさまは、どこか幻想的だ。

 空に上がってから、ドラゴンはゆっくりと飛んでいた。事前の話だと、『ニュー』がドラゴンの敗北を知ったなら、少なくとも回収に動くはずで、ドラゴンの位置は把握しているだろう、ということだった。帰ってくる個体がいると気づけば、何か動きがあるはずだ、と夏希は主張した。


「誘導されるか、何か目印があるか、とにかく、『ニュー』の基地を示す何かがあると思うんです」

 戦うことはない、危ないことはしない、という条件でこの作戦を許可した恵庭は、しかし心配で仕方がないのだろう。画面をつぶさに確認して、少しの変化も見逃さないように、じっと目を凝らしている。

 ドラゴン目線の映像が流れるモニターの隣には、レーダー画像を投影する小さい画面が設置されていた。使役するドラゴンを中心に、前方に二頭を示すマーカーが点滅している。下にうっすらと描かれた地形を見るに、どうやら東京湾上空にいるらしい。東にまっすぐ進んだドラゴンたちは、そのあたりで北寄りに進路を変えようとしていた。


 隣に座る夏希がびくりと体を震わせた。何事かとモニターを見ると、雲間から飛行機が飛び出したところだったらしい。ドラゴンよりも巨大な鉄の塊は、着陸の準備でそれどころではないのか、こちらの様子には構うことなく、するすると高度を下げていく。

「今の彼らは、普通の人には見えません。あの鱗には光学迷彩のような作用があるんです。この映像はドラゴンの視覚を映してますからそんなことにはなりませんが」真紀の後ろに立つ相良が澄ました声で言う。「レーダーに映すのも難しかったんですが、こちらの司令の方が準備を手伝ってくださって」


「内海司令が、ですか」

「ええ。研究中のアンチ・ステルスシステムを試験的に導入してもらっています」

「実験にはちょうどいい、というわけか」

 恵庭がぼそりと言う。第二司令室を使うことが許された時から、恵庭は「内海司令がこんなに協力的なのは怪しい」と訝しんでいたが、そう言う理由があったのかもしれない。

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