第34話

「私は、アリスが起きるまでここにいるよ。先に行ってて。先輩はきっと、真紀が来てくれればそれだけで嬉しいはずだから」

「何それ」

 はにかむ夏希に、真紀は脱力する。本気なのかからかっているのか、それさえもわからない。事情通の夏希は、未だに目を閉じたままのアリスに寂しげな視線を送り、再び真紀に向き直った。


「ほら、早く。先輩はきっとまだ校庭だよ」

 真紀は腰を浮かせ、校庭に向かおうと教室の出口に顔を向けた。そこで、廊下の向こうから足音が近づいてくるのがわかった。そのリズムには覚えがあった。

「五十嵐!」

 唐突に恵庭の声がして、体がピクリと反応する。すぐにドアから顔を覗かせた恵庭の顔がほっと緩むのが遠目にもわかった。


「先輩……」

 言わなければいけないことはたくさんあった。けれど、本人を目の前にして、それ以上のことが言えなかった。言葉になる前の想いが胸でせき止められ、喉からは吐息だけが漏れた。

「無事なのか?」


 恵庭の声に、だから真紀は頷くだけだった。みるみるうちに視界が滲む。どうしたのだろうと思った時には、大粒の涙が瞼から溢れ出していた。自分でも、どうして泣いているのかわからない。頬を伝う雫を掌で拭いながら、ただただ首を横に振った。

「……五十嵐」


 恵庭が静かに近づく気配がする。

「大丈夫ですよ。真紀は強いんですから」

 夏希の声がすぐ横で聞こえた。その掌が背中をさすっていた。温かい感触が更に真紀の温度を上げ、言葉になれなかった感情が涙腺から止め処なく流れてくる。

 ひとりになり、後ろめたさと後悔でがんじがらめになった自分が、今こうして励まされている。遅れてやってきた感慨が、逆に真紀を落ち着かせていった。


 呼吸が少しずつ楽になり、涙が引いていく。目を開けると、こちらに背中を向けた恵庭が見えた。

「先輩、ごめんなさい。色々、心配かけてしまって」

「いや、こちらこそ、すまなかった。五十嵐のことを、理解したつもりが、まるで何もわかっていなかった」


「〈オリハルコン〉のことは、えっと、なんとなくわかりました」ちらりと夏希を見遣り、すぐに視線を外す。「私が望む未来が叶う……。それを全て引き受ける覚悟なんかないですけど、みんなが目指す未来がそこにあるなら、私も一緒に行きたいです」

「先輩、真紀がここまで言ってるのに、何黙ってるんですか」

「ああ。戦いは、これからもっと激しくなるかもしれない。助けてくれたら、僕らも心強い」


「はい」

 恵庭の差し出した手を、真紀は握った。油で汚れ、冷え切った指先が強く手の甲に絡む。それでも、その先端からは戦う覚悟が滲み出ていた。恵庭の目がみるみる赤くなる。わずかに視線を上に向けた恵庭は、すぐに手を離した。

「一色は大丈夫なのか?」

「支配からは解放されたはずです。そうだ、これ、返します」

「あの鍵か」


「ええ。強力な精神操作魔法がかけられてましたけど、その……〈オリハルコン〉の力も借りられたので、なんとか」

「そうか。平気か?」

 恵庭が暖かく声をかけてくれる。自分は、本当に心配されている。自分の存在を受け入れ、着地点を見出そうともがいている。異なる背景を持っていても、こうして他者に寄り添い、同じ方向に向かうことができる。もちろん、自分も同じだ。みんなが互いに支え合い、新しい地平を目指している。

 それが、自分の望む、未来の姿だ。


「私の希望は、みんなが笑顔でいられることです。魔法が使えても使えなくても、そうなれたらいいなって思います」

 それは所詮、子供じみた夢にすぎないかもしれない。

 けれど、だからこそ守りたい。そういう世界の可能性が、ここにはある。〈オリハルコン〉がその道を照らしてくれるなら、それを信じてみたい。

「そうだな。その方がいい」

 恵庭がそこで初めて笑った。柔和に下がる目尻が、僅かに光って見えた。




 眠るアリスを自衛隊員に預け、真紀は恵庭や夏希と一緒に校庭に降りた。ジャリっと小石が靴の底を擦ったが、その不快感は目の前の光景によって一蹴された。

 惨状は真紀が想像していた以上だった。敷地を囲むフェンスはそこここで崩れ、緑色の網がちぎれて支柱にぶら下がっていた。校舎と体育館を結ぶ通路脇から校庭に降りる。校庭にはいくつもの穴が穿たれ、黒く変色した地面からは細い煙がふらふらと立ち上がっては風になびいていた。


 ジープやトラックは校庭の隅に追いやられ、デタラメに停まっていた。中には屋根が吹き飛んだ車両もあった。その周りで、隊員たちが忙しなく動いている。怪我をした隊員を担架に乗せている向こう側では、トラックから降車した隊員がマシンガンを構えていた。横一列に並び、ゆっくりと校庭の中央へ進んでいく。

 視点をその進行方向に向けると、ドラゴンの群れがうつ伏せに倒れているのが見えた。全部で十頭はいるだろうか。体のあちこちに、細長い切り傷があった。眠っているのか、時折ゆっくりと体が上下に動く以外、目立った動きは見せない。


「うまくいきましたね」

 夏希が恵庭に話しかける。

「奥寺が飛び出した時は、もうだめだと思ったよ」

「これ、全部先輩が?」

「いや、柳瀬三尉が、術を使って」

「ドラゴンにはドラゴンの戦いがありますから」

「なにそれ」


 夏希は真紀の言葉にウィンクをする。

「本当は、柿崎さんと柳瀬さんとは話をしていたんです。先輩からあの鍵を受け取る前に、魔法と自衛隊の武器を組み合わせたらどうなるか、そういうことを……」

「そうだったのか」

「ええ。簡単な世間話のつもりでしたけど、重力加速度を変化させて荷重をかける方法はその時に」


「さすが、『ヴォーウェル』の作戦部長だな」

「いいな、作戦部長」

「不思議ですよね、どうしてそういうのって蔑称に聞こえるんですかね」

 さっきまでの緊迫した空気を払うように、そうしてじゃれ合う恵庭と夏希のやりとりに茶々を入れながら、搬入口の脇を通り過ぎ、車列に近づいていく。こちらに気づいた柿崎と柳瀬が、揃って姿勢を正した。


「お疲れ様です。三佐」

 背筋を伸ばして敬礼する表情は、戦闘後の緊張と高揚がにじみ出ていた。

「三佐はやめてください。それより、状況はどうですか?」

「はい。飛来した飛竜型異世界生物は一色さんの〈ガルディス〉種を含めて全部で十一頭。校庭に残った十頭は全て戦闘不能の状態です。現在、捕獲に向けた準備をしているところです」


「被害状況は?」

「負傷者が三名、いずれも軽傷です。被害は軽装甲車が中破一、トラックのフロントガラスが吹き飛んだ車両もありますが……。ようやく事態は落ち着いたと思われます。三佐を否定されたのも、久しぶりですしね」

 柿崎から思いがけない反撃を受け、恵庭は苦笑した。


「そうですね。ドラゴン相手に、よく学校を、基地を、守ってくれました」

「三佐のおかけです。みんな不安でした。けれど三佐が果敢に先行していかれて、不遜ながら勇気付けられました」

「無鉄砲っていうんですよ、あれは……。お礼なら、ニプラツカに言ってあげてください」


 恵庭がそうして謙遜するたびに、柿崎と柳瀬は緊張に表情を硬くするのだった。

 年下とはいえ、自衛隊の中ではやはり階級がものを言うのだろう。自分にとってはただの先輩でも、自衛官なのだ。

「先輩、感傷に浸るのはまだ早いですよ」

 夏希がぴしゃりと固い声で穏やかなやり取りを封殺した。その視線は横たわるドラゴンたちに向けられている。


「捕獲して、それからどうするんですか?」

 釣られて、真紀もドラゴンの方を見た。血を流し、力なく転がる姿は痛々しくもあり、あまり見ていたいものではなかった。

「今のところ、基地内に収容することを考えている。こうなってしまっては、学校の協力も必要になってくるだろう」


「基地にはドラゴンの生態に詳しい人がいないんです。相良さんや一色さんの力を借りないといけない局面がくると思います」

「そうですよね。学校には先輩から話してください」

「捕虜のこともあるし、あまり悠長に構えるわけにはいかないから、これから話をしてくるよ」

「でも、それだけじゃダメだと思います」


 夏希の目の色が変わるのがわかった。何かを決意し、覚悟を決めたと思える瞳。夏希の心の動きに合わせるように、網膜の裏側がオレンジ色に光った気がした。

「奥寺、また無茶をしようとしてるんじゃ……」

「少しだけ、少しだけですよ。それに、芹沢先生の企みを阻止できるかもしれません。敵のドラゴンを、私に貸してください」


「危険じゃないのか?」

「安全な企みなんてありませんよ。いつ、また攻撃を受けるかわからないのに、いつまでも防戦ばかりでは損耗していくばかりです」

「そうは言ってもな……」

「先輩、私も協力します。ドラゴンのことはわかりませんけど、向こうも負けたことにはとっくに気づいていると思います。反撃が来る前に、できることがあるなら、やっておきたいんです」


「五十嵐……」

「三佐、もう自衛隊だ『ヴォーウェル』だと言っている時ではないかもしれません。私たちにできることなら、やるべきかと」

 柿崎の口調は思いの外強く、諭すような雰囲気があった。恵庭が黙り込み、沈黙がかえってグラウンドの喧騒を連れてくる。思いあぐねている恵庭の後ろで、寝息を上げるドラゴンに悪戦苦闘する隊員たちの影が見える。今この瞬間も、『ニュー』は第二、第三の刺客を放っているかもしれない。


 時間的猶予はなく、自分にできることをずっと考えていた真紀にとって、常に変化する状況に振り回されるしかなかった真紀にとって、今のこの状況は、決して望んでいたものではなかった。そんな自分を助けてくれた人がいる。戸惑うばかりだった自分を、励まし、勇気づけてくれた人がいる。

 これまでの安穏とした日常を失った代わりに、新しい世界を知ることができた。この世界を守りたい。この人たちの力になりたい。もしかしたら、これも〈オリハルコン〉の意思なのかもしれない。知らないうちに、あの赤い結晶に心を奪われているかもしれない。


「先輩。私たちを信じてください」

 魔法の力を世界に知らしめようとする美鈴のことが頭をよぎる。『ニュー』の首魁かもしれない人、自分とほとんど年齢の変わらない人が、魔法の力を世界に示そうとなりふり構わず攻め込んでくる。夏希が何をしようとしているのかはわからなくても、それが最終的には美鈴に、『ニュー』に繋がっているはずだ。


 まっすぐ、信じると決めた。夏希の決意も、恵庭の逡巡も、すべてを信じる。じっと見つめる恵庭の視線が一瞬下がり、けれど、ひとつ息を吐くのと同時に、口元を引き締め、柿崎、柳瀬、夏希、そして自分の順に目を合わせていった。

「わかった。ここの指揮は柳瀬三尉に任せます。私は教頭に事態を説明してきます。柿崎一尉は、彼女たちを基地へ」

「は」

 揃って敬礼を返す二人の目は、戦闘の爪痕を残す校庭にあって、昼時の太陽を受けて赤橙色に輝いていた。

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