第33話

「くわ、くわ」

 小さな翼をばたつかせ、真紀の肩に乗る。

「アビー」

 真紀がその頭を撫でると、くすぐったいのか目を閉じて、頬を寄せてくる。いつものアビーに戻ったのだ。

 アビーが大人しくなると、自然と炎も治まっていく。一箇所に集められたクラスメイトたちが、ぞろぞろと真紀の周りに集まってくる。


「五十嵐、大丈夫か?」

 口々に声をかけてくるクラスメイトを見渡す。不安と安堵が交錯する顔を見て、真紀もほうっと息を吐いた。

「うん。私は大丈夫。でも、アリスちゃんが……」

 〈オリハルコン〉がアビーに何をしたのかまではわからない。アビーの正気を失わせていた呪文か何かが解除されたのだろうとは思ったが、今のアリスがどんな状況なのかは見当もつかない。


「女帝はどうしたんだ?」

 高橋が真紀に尋ねる。特に含んだ所のない問いかけに、真紀はかすかに首を横に振った。

「わからない。……高橋くん、ゲートを開いてもらえるかな」

「いいけど……」

 高橋が真紀の正面に空間を開いた。金色に光る帯の向こうに、教室の様子が映る。


「ありがとう」

「行くのか」

 ゲートを開けた高橋が、真紀を見て言う。周りに立つクラスメイトも、皆一様に戸惑いを隠せない表情を浮かべていた。

「うん。私も、『ヴォーウェル』の一員だから」


 自分の言葉に、真紀は心の中で頷いた。そうだ。簡単なことなのだ。自分の役割を顧みず、ただ普通を通そうとしていた自分が、恥ずかしく思えてくる。恵庭が目指す世界の全てを受け入れたわけではない。けれど、それでも自分は、『ヴォーウェル』に選ばれたのだ。そのことを、ついさっきまで忘れていた。みんなを信じると決めた。それならば、信じてくれたみんなを、これ以上裏切るわけにはいかない。


「気をつけて」

 ほとんど話したことのない隣の席の木下が、自分のことを心配している。

「一色さんをお願い」

 木下の後ろの席の黒澤が、自分を真剣な眼差しで見つめる。

 アリスは、やはりクラスの人気者だ。そんなアリスが、本心からあんなことを言っているとは、思いたくなかった。


「うん」

 真紀は大きく頷くと、ゲートに足を踏み出し、手を振った。クラスメイトに笑顔が戻る。体をかがめ、空間を跨ぐ。ゲートの近くにいる高橋が手を払うような仕草をすると、光の輪が閉じていった。




 教室の状況は、想像以上に悲惨だった。机はことごとくひっくり返され、教室の隅に折り重なるように倒れ、傾いていた。椅子も無造作に散らばり、中には窓を突き破り、桟に引っかかっているものもあった。

 ゲートの向こうからでは見えなかったが、薙ぎ払われた床に、アリスが横たわっていた。傍には夏希がいて、じっと座り込んでいる。真紀は思わず駆け寄り、横に立った。


「夏希ちゃん、大丈夫?」

 夏希に声をかけた。放心状態の夏希は、しばらくは呆けた顔をアリスに向けたままだった。夏希の肩に手を置く。静かに振り向く夏希の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。 

「うん。アビーも無事なんだね」

 下瞼を指でぬぐいながら、夏希がようやく笑顔を見せた。夏希の手は、アリスの胸元に当てられていた。


「アリスちゃんは、大丈夫なの?」

 真紀は夏希の横に膝をつき、アリスの顔に視線を向けた。

「もう落ち着いたよ」

 穏やかなその声に安心する。肩に乗っていたアビーが、アリスの顔の周りを旋回し始めた。「くわ、くわ」と気の抜けたような声でアリスに呼びかける。けれど、その瞼は硬く閉じられたままだ。


「アビーが操られてたように見えたけど、まさかアリスも?」

「うん。これを使って、強引に洗脳を解いたよ。最初はうまくいかなかったけど、途中からすうっと楽になった」

 夏希がアリスの胸に置いていた手をこちらに向けた。小さな鍵が、そこにあった。その鍵は、きっと人の心を操る鍵、マインド・リアクターと同じような力を持った魔道具なのだろう。


「きっと、〈オリハルコン〉が……」

 〈オリハルコン〉が、未来をこじ上げる力を与えたのだということはすぐに想像できた。

「そっか」

 夏希の声は沈み、憂いを湛えていた。

「でも、こういう使い方なら、平気」


 夏希の気遣うような気配に、真紀は素直に言った。本当の意味でアリスを助けるために役に立ったのなら、それが一番いい。

「うん。私のマインド・リアクターが全然効かなかったから、正直やばいって思ってた」

「恵庭先輩の方は、大丈夫なの?」


 アリスの無事がわかり、ほっとしたいところだったが、そうも言っていられなかった。避難の理由は聞かされていなかったが、アリスとアビーが操られ、『ニュー』に攻め込まれたことは確かなのだ。

「アリスがドラゴンを率いてきたけど、多分もう終わったと思う。校庭も静かになったし」

「アリスちゃんがドラゴンって……」


 真紀は言葉を失った。操られ、自分の意思と無関係に『ニュー』の行為に加担させられる。それがどれほど屈辱的なことか、真紀には想像することさえできない。

「多分だけど、鳥飼先輩が何かやってたんだと思う」

「でも、もう一週間も前だよ」、

 アリスと美鈴が接触したのは、あの夢の中だけだ。そのあとは、すぐに美鈴の身柄は『ニュー』に奪還され、姿を見せていない。人目のつかない場所で接触していたのだろうか。


「遅滞性なのかもしれない」

 夏希は別の可能性を話し始めた。

「遅滞って、遅いってこと?」

 真紀の問いかけに夏希が頷く。

「魔法にも、病気と同じで発現に早い遅いがあるの。あの時、鳥飼先輩がアリスの背中をずっとさすってて、それが引っかかってた」


「その時に魔法を……」

「たぶん。あの時から、あの人は、今日のことを考えていたんだと思う」

 自分が捕まってもなお、アリスを刺客として送り込む算段など、どういう精神ならば可能なのだろう。

「そこまでして守りたいものって、なんなの?」


 魔法の権利を守り、虐げられている自分たちに光を灯す。それがどうして、こんな結果になるのだ。原因と結果が結びつかず、真紀はつい大きな声を出してしまった。夏希が驚いたように目を大きく開ける。はっとして顔を俯けると、夏希が慎重に話を切り出した。

「それは、本人に聞いてみないとわかんないよ。でも、それだけ向こうもここを押さえるのに必死なんでしょ。自衛隊と〈オリハルコン〉、鬼に金棒ってやつ」

「アリスは、〈オリハルコン〉を寄越せって言ってた」


「やっぱり、そうだったか」

 夏希はアリスの額をさすり、悲しそうな声を出す。

「私が〈オリハルコン〉を持っているから」

「〈オリハルコン〉を持っている真紀は、何も悪くない。誰も悪くない。〈オリハルコン〉の意思には、誰も逆らえないの」

 〈オリハルコン〉は、自分の望む未来を叶えてくれる。それが〈オリハルコン〉の意思であり、使命だ、と芹沢は言っていた。


「真紀ちゃんは、何か知ってるの?」

「一応、いろいろ調べたからね。真紀が〈オリハルコン〉を持っている理由も」

「〈オリハルコン〉は、私がずっと……」

 入学式の日に宇佐美から忘れ物だと渡された時に感じた違和感が再び胸をついた。これは自分がずっと持っていたもの、という意識がある一方で、やはりいつから、どうして持っているのか、そういう記憶は霞の中にあるようで、手を伸ばすと遠くへ行ってしまう。


「芹沢先生が言ってたんでしょ? 真紀が選ばれたって。魔法を使えない人の中から〈オリハルコン〉が選ぶんだって」

「うん。確かにそう言ってた」

 その場にいなかったはずの夏希がなぜそれを知っているのか、喉元まで上がった疑問は飲み込んだ。今は、夏希の話すことを聞くのが先決だ。

「〈オリハルコン〉にとって、真紀は依り代のようなものなの。逆に言えば、真紀は巫女のような役割を担ってる。〈オリハルコン〉と同期して、未来を叶える力。そしてその〈オリハルコン〉を守るのが、自衛隊の役割でもある」


「この学校に自衛隊がいるのも、これを守るためだってこと?」

「正確には、設立自体に関わっていると言ってもいい。〈オリハルコン〉は常に、時の政府の道しるべとして機能していた。旧日本軍も、その力を武器に太平洋戦争を起こした。戦争に負けたのは、〈オリハルコン〉を守護していた当時の巫女が、あまりの惨状を悲観したから、とも言われている」


「そんなことって。だって、この石は……」

「たぶん、真紀がその〈オリハルコン〉を手にしたのは、入学式の日が初めてだったはず。宇佐美先生は、誰かの指示であれを真紀に渡した。真紀はその瞬間、〈オリハルコン〉に心を奪われた、ってところかな。それが〈オリハルコン〉の処世術なのかもしれないし、儀式的なものなのかもしれない。そうして巫女の懐に入り込み、契約を結ぶ。その人の未来を叶える。けれど、それは国の思惑に換言される。この意味は、きっと大きい」


「私が勝つと思った方が勝つ……。芹沢先生はそんなことも言ってた」

「〈オリハルコン〉を持っている限り、真紀は日本の運命を背負うことになる。いくら戦うことを拒んでも、国益のため、国民の未来のため、そんな風に言われたら、どうする?」

「個人の願望と国の将来って、そんなの天秤になんてかけられないよ。私は普通の女子高生だよ? 国のことなんて考えたこともないのに……。恵庭先輩は、このことを知ってるの?」


「どうだろう。芹沢先生が吹き込んでいるかもしれないけど、恵庭先輩にこれを知る権限はない、っていうのは確かだよ。このことは、自衛隊の一佐以上と、『ヴォーウェル』本部の幹部しか知らないことだから」

「それを夏希ちゃんが知っているのは、聞かない方がいいの?」


「そうだね、そうしてくれると嬉しい」

「でも、それなら私はどうしたらいいの?」

「今は、まだわからない。芹沢先生が何かをしようとしているのは確かで、恵庭先輩はそれを止めようとしている。なかなか難しいみたいだけど」

「先輩のところへ行こう」

 恵庭に会いたかった。自分の無事を伝えたい。自分の不義理を謝りたい。自分の決意を聞いてほしい。沸き起こる衝動に駆られ、真紀は夏希の腕を掴んだ。

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