第32話
「女帝は何だって?」
高橋が、左耳に手を当てながら言う。未だに夏希の声が響いているのかもしれない。
「穴をすぐに塞げって」
「なんで?」
「わかんないよ。でも、必死そうだった。それで森に逃げろって……」
森に移した視線の端で、何かがチリッと光るのが見えた。反射的にそちらに顔を向けた真紀は、その空間から音が聞こえるのに気づいた。甲高く、金属が軋むような音が、長く空気を揺らす。ボリュームが上がるように次第に明瞭になっていく音に、真紀は眉をひそめた。
「何の音だ?」
高橋が戸惑いがちにその空を見る。じっと目を凝らすと、小さな光の輪が網の目のように配置されているのが見えた。これが、さっき高橋の言っていた電波を通す穴だろう。つまり、そこは元の世界と繋がっているのだ。
「高橋くん、塞いで」
「でも……」
逡巡する高橋の頭の上で、それまでとは比べ物にならない大音量が鳴り響いた。
鼓膜を揺さぶる高音に耳を塞ぐ。無意識に閉じた目を開けると、もうさっきまでの小さな穴は見えなくなっていた。その代わりに、三角形の頭が空間から突き出ていた。鼻の頭に小さなトサカを生やしたその顔を、見間違うはずもなかった。
アビーが、無数に開いた穴を突き破り、こちらの世界に強引に入ろうとしていた。頭を細かく揺らすたび、空間の輪郭から青白い光が稲妻のように迸った。
「おいおい、これって一色のドラゴンか?」
「うん。どうしたんだろう。大きいし」
喉をぐるぐると鳴らしながら穴を広げようと頭を左右に振っていたアビーが、そこで唐突に小さく縮まり、勢いよくこちら側に入ってきた。
「くわ、くわ」と鳴き声をあげ、真紀の周りを旋回する。足を怪我している。赤く腫れたそこからは血が流れていた。
「怪我してる。アリスちゃんはどうしたの?」
その顔に話しかける。目が赤いことに、今更ながら気づく。その目が、しきりに周りを観察するように動き回る。何かを探しているのか、もしくは、見定めているのか、充血した目が大きく見開かれ、「くわ、くわ」と鳴く声も大きくなる。
「アビー……?」
真紀がその体に手を伸ばそうとした時、アビーは唐突にその体を翻し、そして再び体を巨大化させた。急激に拡大する影が真紀を覆う。太陽を背に、どしんと草を踏みしだいたアビーは、そこで大きく口を開いた。
さっき聞こえた金切り音が、草原をびんびんと震わせる。再び耳を塞ぐ格好になった真紀の目の前で、その口から巨大な炎の塊が迸った。
熱を感じる暇もないほど、それは瞬く間に草原を滑り、遠くの地面に激突した。たちどころに爆炎が上がり、胸を打つような衝撃が僅かに遅れて押し寄せてくる。
「どうしたの?」
真紀は必死にアビーに問いかけるが、一週間前に心が通じ合った感覚が嘘のように、血走ったアビーの瞳には、何も映っている気配がなかった。
「逃げるぞ、五十嵐」
棒立ちする真紀に、高橋が必死の形相で腕を伸ばす。強引に真紀を引き寄せ、半ば引きずるように走りだした。さっきまで談笑していたクラスメートも、散り散りになって草原を駆けていく。逃げる人の頭上を火球が飛び交い、その退路を断つように炎が立ち上がる。真紀の正面にも炎が迫る。高橋はそのたびに左右に体を捻り、熱を避けるように走り続けた。
「森に行けって、夏希ちゃんは言ってたけど」
「わかってるけど、避けるのが精一杯なんだ」
あと少しで森の入り口、そう思っても、すぐ手前で爆発の火花が上がり、選択肢が潰されていく。
アビーは巧みに炎の勢いを調整しているようで、気づけば炎で囲まれた区画に、クラスの生徒全員が集まっていた。
「何をするつもりだ……」
腕を離した高橋が、アビーを睨みつける。物言わぬアビーは、血走った目で自分たちを睥睨していた。
「大人しく、その場に座って」
アビーから声が聞こえた。スピーカーがどこかに仕込まれているのか、それとも頭に直接声が届いているのか、判然としない。けれどその声は、間違いなくアリスのものだった。
「アリスちゃん、どういうこと?」
真紀はアビーに向かって戸惑いがちに問いかけた。アビーの視線が真紀を刺す。
「仕方がなかったの。私は、もうここにはいられない。おとなしく、〈オリハルコン〉を渡して」
「戦争は嫌だって、言ってたのに。それなのに……」
これは、戦いですらない。武力で圧倒し、相手をねじ伏せ、奪い取るのは、本当の悪党のすることだ。真紀はうつむき、きつく目を閉じる。
「鳥飼先輩も言ってたけど、もう遅いんだよ。やっぱり、魔法はこんな風に隠れてちゃいけない。私たちの権利は、私たちの手で守らなきゃいけない。そのために、真紀ちゃんの〈オリハルコン〉が必要なの」
「〈オリハルコン〉を使って、それで手に入れた権利なんて、何の役にも立たない。こんなやり方はダメだよ。ここが自衛隊の基地になっているのだって、魔法と社会の繋がりを保つためだって……。ちゃんとそうやって居場所を守っているのに、その何が不満なの」
「自衛隊がここで何をしているのか、恵庭先輩が何を隠しているのか、真紀ちゃんは知らないから、そんなことが言えるんだよ」
「……先輩が何をしているのか、それは知らない」
真紀は少し間を置いて、正直に言った。恵庭がまだ自分に話していないことなど、それこそたくさんあるだろう。学校に自衛隊がいるのも、もっと深い理由があるだろうということくらい、予想していた。
「だったら——」
抗弁を続けようとするアリスの言葉を、「私は」と真紀が遮った。
「私は、普通が嫌でたまらなかった。……だからこの世界は、私にとっては特別な世界なの。アリスちゃんにとってはこれが普通かもしれない。魔法が虐げられて、それでも前に進まなくちゃいけなくて」
「そうだよ。だから戦う」
「でも、私は戦いたくない。それは今も変わらないよ。アリスちゃんとは、戦えない」
普通であることを恥じていた自分と、普通でいることを求める自分。そのせめぎ合いの中で、真紀は何を信じたらいいのか、それをずっと考えていた。
「アリスちゃん、こんなこと、もうやめよう」
「無理だよ。もう後には引けない」
泣きそうな声で、アリスが言う。切実さを増した声音に、真紀は一歩後ずさりした。スカートのポケットの裏地が腿に当たる。ポケットの中の〈オリハルコン〉が、じんわりと熱を放っていた。掌をそっとポケットに添わせる。何かに反応しているような、そんな感覚が真紀の掌を熱くさせる。アリスの言っていることは、鳥飼と同じだ。魔法世界を解放し、世間にその存在を知らしめる。そうやって強制的に市民権を獲得しようとしている。
それは間違っている。ただただ、そう思った。気圧されそうになる体を引き戻し、真紀はアビーを、その向こうにいるアリスをまっすぐに見つめた。
「まだ間に合う。だって、まだ私たちはここにいるもん」
入学して一週間しか経っていなくても、私たちという言葉で括ることができるくらい、色々なことを経験した。状況の変化に戸惑い、信じ、裏切られた。
けれど、ここで話していることに何か意味があるなら、今は信じる時なのだ。
普通の自分は、信じることしかできない。恵庭を信じる。夏希を信じる。アリスを信じる。自分が信じたいものを信じる。信じたところで、裏切られるかもしれない。鳥飼のように、アリスのように——。
けれど、それでも信じる。
「ここにいても、何も変わらないんだよ。魔法はいつまでも異端の存在で、誰にも見向きもされない。期待と幻滅を繰り返すだけ。真紀ちゃんだって、このあいだの出来事を忘れたわけじゃないでしょ?」
アリスの言葉が、真紀の胸を悲しくさせる。魔法の世界のあり方は、自分にはわからない。〈オリハルコン〉の力がどれほどのものか、自分にはわからない。けれど、急進的な行いは、やはり賛成できない。戦わずにそれを成し得ることなど、できないかもしれない。それでも、アリスをこれ以上、悲しませなくない。その思いだけで、真紀は言葉を紡いだ。
「忘れないよ。あんな思いはしたくない。戦わなくて済むなら、その方がいい。でも、誰かが虐げられる未来は、誰も望んでないよ。恵庭先輩は、そんな現実と戦ってる。夏希ちゃんは今も、そんな恵庭先輩を支えてる。だから私も、みんなの力になりたい。私の力は、戦わない未来のためだから」
〈オリハルコン〉の熱が、そこでまた上がった。掌を焦がすほどの熱量に、真紀はとっさに手を離した。脈を打つ感覚が、体に伝わってくる。その度に、内側から力が湧いてくるような気がした。未来という言葉に反応したのかもしれない。自分が望む未来を叶える力。芹沢がそう言っていたのを思い出す。
「そんな未来……」
アリスの声が小さくなる。その声を伝えるアビーの目が、〈オリハルコン〉の鼓動に呼応するように明滅を始めた。赤と茶色を行き来する眼球が、真紀の視線とぶつかる。
「アリスちゃん、お願い。恵庭先輩を助けてあげて」
真紀は、制服のスカーフを掴み、大きな声をあげた。脈動する胸の鼓動が指先を押し返す。アリスは何も言わなかった。声は聞こえない。声を伝えていたアビーが苦しそうに目を瞬く。何回かそれを繰り返すうち、目の明滅が徐々に治っていく。茶色の目が、くりくりと動いたかと思えば、アビーはまた小さい姿に戻った。
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