第31話
無線から、柳瀬のはっきりとした声が届いた。
「柳瀬三尉。そうか……」
『ワイヤーの重量を数トン単位にすることで、ドラゴンの動きは封じることができるはずです』
柳瀬の声は得意げだった。重力を操ることは知っていたが、加速度調節だけではなく、こういう使い方もあるのだとは、気づかなかった。
どれだけドラゴンが怪力でも、限界はある。何本ものワイヤーに絡まれたドラゴンには、十数トンの力がかかっているのだろう。次々に地面に倒れこむドラゴンは、足を踏ん張るたびにワイヤーが皮膚に食い込み、激痛に悶えていた。
「三佐」
柿崎が手を伸ばした。
「どうにか、生きてますね」
恵庭がその手を握る。小塔から車内に戻り、無線機を掴んだ。
「第二小隊は隊列を維持したまま、ドラゴンを包囲」
『了解』
装甲車とトラックがドラゴンを取り囲むように等間隔に並び、車内に残っていた隊員が降車して後部座席を開く。ライフルを取り出すと、歩兵に素早く渡し始める。何をするつもりなのだと訝しむ恵庭に、柳瀬が無線越しに答えた。
『筋弛緩剤の入ったライフル銃です。これで活動は停止できるはずです』
「わかりました。準備が整ったら、実行してください」
無線にそう吹き込むと、恵庭はふうっと息を吐いた。
「後は我々に任せて、三佐は五十嵐さんのところに」
「ええ。そうします。ドラゴンの処置が終わったら、負傷者の搬送をお願いします」
恵庭の命令に、柿崎がさっぱりとした笑顔を向けた。ドラゴンの阿鼻叫喚が、ライフル銃の発射音が響くたびに小さくなり、事態はようやく沈静化した。機敏に動く第二小隊を横目に、恵庭は軽装甲車から飛び降り、校舎へと走った。
**
穏やかな日常というものは、何かを引き換えにしなければ手に入れることはできない。例えば魔法、例えば戦争、例えば期待——。恵庭の言葉を断ち切り、生徒会室から遠ざかること一週間、真紀は教室の最前列で、三時間目の数学を受けていた。
夏希は、授業が始まる前にどこかへ消えた。アリスは欠席だ。教師は二人のことを事前に承知していたらしく、真紀の後ろに二つ並んだ空席のことを取り立てて話題にあげることもなかった。
教師は黒板と手元のノートを交互に見ながら、黒板に単元名を羅列していた。真紀は半ば惰性でそれを書き写しながら、頭の中では夏希やアリスのことを考えていた。
夏希は、おそらく恵庭と一緒に何かをやろうとしている。四時間目の体育が急遽校庭から体育館に変更になったことも、何か関係があるような気がしていた。
アリスは、昨日あたりから様子がおかしかった。家の用事だと言っていたが、それにしてはそわそわとして落ち着きがなかった。美鈴とのことがあってから、アリスは日に日に元気をなくしているようにも思えた。何かに迷っているような、戸惑っているような、そういう目をしていた。
魔法に出会ったあの日、アリスの悲しそうな目を見るのが嫌で飛び込んだ世界は、それから数日でまた大きく変わってしまった。その変化が怖かった。イデオロギーの衝突と言えば聞こえはいいが、やっていることはテロ行為の応酬だ。そこからは何も生まれない。失うだけだ。それでも、戦おうと奮闘する恵庭の姿を、この一週間、何度も見かけた。今朝も、職員室で頭を下げ、校庭を駆けずり回り、事態に対処しようとしていた。今、こうして自分が授業を受けているのも、その恵庭の頑張りがあったからなのかもしれない。
そういう姿を横目に見ながらも、真紀は見て見ぬ振りをしていた。
高校に入ってから最初の数学の授業。内容はないに等しく、簡単に中学の復習をしたと思えば、あとはこの一年のカリキュラムの説明が始まり、そうして授業が中盤に差し掛かった頃、唐突に警報が鳴り響いた。
「自衛隊より、緊急の避難指示が発令されました。生徒の皆さんは、大至急各自でこの学校から退避してください。ただし、校庭に降りることは禁止します。繰り返します。生徒の皆さんは、大至急、避難してください」
切迫した声が教室に響き渡り、にわかに教室がざわめく。廊下に近い場所に座るクラスメイトが、ドアを開け、外の様子を伺おうとするのが目に入った。
「廊下に出るんじゃない。早く、避難を開始して。ゲートを開けるものは、早急に準備を」
数学教師の一声がざわめきの中を駆け巡った。逃げろと言いながら校庭に出るなというのは、つまりそういうことなのだ、と遅ればせながら理解する。
入学式の日にゲートを開きかけていた男子生徒、高橋がすくっと立ち上がる。片手を後ろの黒板にかざした。金色の光がまばゆく空間を照らし、すぐに直径二メートルほどの穴が開いた。その向こう側に青空が見え、風が吹いているのか草がなびいているのもわかった。どこかの草原か牧草地か、とにかくここではない安全な場所に繋がったのだろう。
「一列になって、順番に」
その高橋は、そのままクラスメイトを誘導した。席の近い生徒から、順次そのゲートを通り抜け、別の空間へ転移していく。
結果的に、真紀が最後になった。前には高橋がいて、手を出してくる。「五十嵐さん、こっちへ」
「五十嵐、怖がることはない」
教師の声に背中を押され、真紀は光の帯の向こう側を見た。草地がどこまでも広がる、雄大な景色がそこにあった。穏やかな風を受け、さっきまで慌てた様子だったクラスメイトも、すっかりリラックスして寝転がったり、走り回ったりしている。
生徒会室で聞いた恵庭の声が頭に響く。教室で自分を心配そうに見る夏希の顔がちらりと脳裏を掠める。真紀はきつく目を閉じ、そこから耳を塞ぎ、目を逸らした。自分は違う。自分は普通の人間だ。戦うことはできない。何かを守ることもできない。何もできない。真紀は光の帯に足をかけないように、慎重に跨いだ。
喧騒が遠のく気配がする。景色が開け、上履きが地面を踏みしめる。さらさらと足元を流れる背丈の長い草が、ふくらはぎを刺激する。
「高橋、あとは頼んだ」
数学教師は高橋に声をかけ、教室のドアに向かって歩いていく。高橋は、その後ろ姿を見送り、自らの体をゲートに通した。手をかざし、軽く撫でるようにすると、光の帯がするすると回転し、世界が閉じていく。光の輪が一点に収束し、弾けるように消えると、もうそこは一面の草原だった。
緩やかに傾斜した大地は、ゲートの入り口があった方向に下がっていて、向こうには小さな川が流れているのが見えた。日光が揺れる水面に反射し、プリズムのように輝いていた。
反対側に視線を向けると、そちらには森が広がっていた。明るい緑色は、初夏の香りをその葉から発散させているように思えた。戦いとは無縁の場所。その感覚が、真紀の心を穏やかにした。
それなのに、心の片隅には、ここにいることへの違和感を訴える小さな自分がいる。『ヴォーウェル』の一員としての役割を捨て去り、自分の殻に籠ることを是とする大きな自分を見上げ、声にならない声で叫んでいる。
それを見下ろす真紀自身は、でもとだってを繰り返し、その声を封殺してきた。
でも、戦いたくない。だって、怖いのだから。
普通でなくなるのが、怖いのだから。
ついこの間まで、その普通を疎んじていたのに——。
眼前に突きつけられた自己矛盾を、真紀は静かに、呆然と見つめた。袋小路に迷い込んだ気分だった。
「私は、どうしたら……」
真紀がぼそりと呟いたその時、制服のポケットがブルブルと振動した。電話だ。手に取った端末には、夏希の名前が表示されていた。
「はい、もしもし」
「真紀、まだ避難してないの?」
走っているのか、夏希は荒い呼吸の合間に言った。
「ううん。高橋くんがゲートを開けてくれたから、そこにいるんだけど」
「嘘、ゲートを開いたんでしょ? 高橋くん」
夏希は上ずった声を出し、真紀に強く問いかけた。
「そうだよ。どこかの草原みたい。これって、もう別の世界なんだよね」
そばに立つ高橋に視線を送ると、話を聞いていたらしい高橋が小さく頷いた。
「……高橋くんにすぐ代わって」
僅かな時間を置いて、真紀が早口で言う。
「え……」
「早く!」
夏希の勢いに、真紀は慌てて高橋にスマートフォンを突き出した。
「夏希ちゃんが代わってって」
「女帝が?」
夏希は、クラスの男子から「女帝」なる不名誉なあだ名を拝命されていた。入学式の一件で、クラス全員にマインド・リアクターをかけたことが影響しているのだ。そのことは、夏希曰く本人たちは覚えていないはずなのだが、特に男子は、夏希には近寄り難い雰囲気を感じているのだろう。
けれど、今はそこに抗弁している場合でもない。真紀は頷き、顔を引きつらせる高橋にスマートフォンを持たせた。
「高橋だけど……」
電話を代わった高橋は、目を空に向けながら、夏希の話に耳を傾けた。
「ああ、それなら、高いところに小さな穴を開けてるんだ。電波が通らないと……」
言い終わらないうちに、高橋はスマートフォンを耳から離し、顔をしかめた。夏希の声がスピーカーから漏れ聞こえる。高橋がそのまま電話を寄越してくる。
「……く塞いで。なんてこ……」
「夏希ちゃん?」
真紀は電話に問いかける。向こう側で何かが倒れたのか、それとも壊されたのか、大きな音が響いた。
「高橋くんに、今すぐ穴を塞ぐように言って。それから、すぐに森に逃げて」
「夏希ちゃん?」
真紀の呼びかけを無視するように、電話は切られた。
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