第28話

「お前は、ずっと地下にいたのか」

 恵庭は相手の質問には答えず、こちらが知りたいことを聞いた。

「そうだ。ヘリの爆発に紛れて侵入して、一週間、お前たちの動きを見ていた」

「あの弾痕もお前か」

 整備棟の前に残った、あの思惟の詰まった、悪意に満ちた痕跡。その時に頭に浮かんだイメージを再び描き、そこで恵庭は強烈な違和感に襲われた。あの時感じた、真っ赤に塗り固められた負の感情が、この兵士からまったく伝わってこないのだ。


「銃? そんな無粋なもの、俺は持たない」

 兵士は開き直ったように言う。

「目的はなんだ」

 恵庭は、心の狼狽を悟られないように、さらに質問を重ねた。悪意のないところに色はつかない。この兵士でなければ、一体誰がやったというのだ。


「敵状視察。まあ、今となっては、あまり意味はないがな」

「どういう意味だ」

 つい、相手の言葉に反応してしまう。兵士はこちらの心の内などお構いなしに話を進める。

「その携帯、見てみろ」


 くっくと喉を鳴らし、笑い声を漏らす。その兵士が何をしたのか、確認する必要さえないのかもしれない。それでも、恵庭は折りたたみ式の携帯電話を開き、メールの送信ボックスを開く。一番上、つい数分前に発信されたメールが目に入る。


〈Go〉

 恵庭の頭に、唐突に赤と黒の縞模様が映った。激しく明滅するイメージに、思わず顔をしかめる。その根源を求め、空を仰いだ。隣に立つ奥寺も、恵庭のあとを追うように視線を移す。

「先輩、あれ……」

 奥寺の声が震えていた。どんな時も冷静な彼女が、驚き、慄いていた。恵庭も言葉を失い、青空に浮かぶ無数のドラゴンを呆然と仰ぎ見る。東の空から近づく編隊は、徐々にその異形さを、その異様さを顕在させていく。恵庭も奥寺も、先頭を飛ぶドラゴンから目を逸らせることができなかった。


「一色、だな」

 その姿は、〈タルタロス〉へ立ち向かった時の姿と同じだった。あの時見た背中は、もう見えない。

「どうして……」

 奥寺の悲痛な叫びが耳に痛い。けれど、悲観しているだけでは、事態は緩慢に悪化していくだけだ。ベルトを抜き、座り込んでいる兵士の手を後ろ手に縛る。最初から敵意のない相手は、それにも素直に従った。


「柿崎一尉」

 グラウンドに出た第一小隊の面々も、ドラゴンの接近には気づいている様子だった。それぞれが車両から降り、小銃を片手に隊列を組もうとしていた。その後ろ姿に呼びかけると、柿崎が振り返り、こちらにかけてくる。

「この男を、地下へ。あと、校舎内の生徒に避難指示を」

「はい」


 柿崎はすぐにベルトを掴み、男を持ち上げた。無線で学校に連絡を入れながら、エレベーターに設置された電話に縋る。地下基地との連絡は、校舎外ではそこしかない。応援を呼んでも、間に合わないかもしれない。実際に物資を積載している分、地上に持ち出した武器は少ないはずだ。持ちこたえられるのか。守れるのか。胸の奥にしまったはずの不安が、別の言葉を伴って浮上してくる。喉元まで迫るそれを、奥歯で咬み殺す。


 先頭を飛んでいたアビーがドラゴンの群れを離れ、降下してくる。ついには高校の防空圏内に侵入してきた。高校を中心とした半径百メートルの球体状の結界は、来るもの拒まず、去るもの出さず、簡単に言ってしまえば、外からのカモフラージュ効果と、生徒の使役している動物が逃げ出すのを防ぐ役割を持っている。軽装甲車が容易に進入できるように、ドラゴンも易々と侵入できるのだ。

「奥寺」

 アビーはゆっくりと旋回しながら、こちらの出方を伺っているように思えた。その姿を眺めていた奥寺に呼びかける。


「五十嵐を呼んでくれ」

「でも、真紀は……」

「わかってる。だが、あの数のドラゴンには、五十嵐の力が必要なんだ」

「先輩が欲しいのは、真紀の力じゃなくて、〈オリハルコン〉の力ですよね? だから、それを、わかってないっていうんです。〈オリハルコン〉は、戦争の道具なんかじゃない」

 正面から対峙する奥寺の目に、涙が浮かんでいた。いつも気丈な姿からは想像もできない表情に、それでも目を逸らすことはしなかった。真剣なのは、こちらも同じだ。


「奥寺、もう時間がないんだ」

 小隊を分断したのは、結果的には失策だった。戦力的には明らかに見劣りする。装備を整えた中隊規模の普通科と特科の混成部隊でも勝てるかどうか、というくらいなのに。それは、この緑ヶ丘駐屯地総員の六割強、残りはその他施設中隊や後方支援中隊なのだから、実質全軍と言ってもいい。地下に基地を築くのも異例なら、出入り口が分隊を運ぶ機能しか持たないエレベーター一基というのも異例なのだ。即応を前提としていない基地の脆弱性は、そもそもこの場所を捕捉されないという性善説に基づいたものだった。


 今更、駐屯地の設備を嘆いていても仕方がなく、だからこそ、頼れるものは他にないのだ。恥も外聞も投げ捨てて、それでも残るものがあるはずなのに、五十嵐だけでなく、奥寺さえも説得できない自分がいる。わかってくれるはず、そう考えている自分が、まだいる。逡巡しながら、どうにか言葉を探す恵庭をよそに、奥寺はふうっと息を吐き、思いも寄らないことを言ってのけた。

「ドラゴンには、ドラゴンの戦い方があります。今は、時間を稼ぐしかありません。それと、アリスも、取り戻します」


 決意を宿した奥寺の目を、恵庭は正面から見た。同時に、校舎から警報が響き渡り、にわかに騒がしくなった空と大地が、恵庭の胸をかき乱した。

「すべては無理だ。そもそもドラゴンの戦い方って、どうすればいいんだよ」

「詳しいことは後で。先輩はここにいる部隊の指揮をお願いします。私もサポートしますから」

 奥寺がニプラツカの腕に掴まる。飛翔する群れをじっと眺めていたニプラツカが、雄叫びとともに火球を天空に放った。アビーのすぐ鼻先を掠めた火球が、学校を覆う結界にぶつかり、爆発の炎を上げて四散する。轟音と爆風が校庭を囲うフェンスを揺るがした。


「奥寺!」

 火球に驚いたアビーが、ぐるると喉を鳴らし、体を傾けて急降下した。背中に掴まるアリスの背後は深紅のオーラで満たされていた。敵意と憎悪がないまぜになった色調に、恵庭は叫ばずにはいられなかった。恵庭の言葉がどこまで奥寺に届いたのか、アリスを一心に見つめるその瞳は答えてくれなかった。

 他のドラゴンが降りてくる気配はなかった。恵庭は上空の動きを注視しながら、小隊の車列に近づいた。後ろから、連絡と敵兵の引き継ぎを終えた柿崎もやってきた。


「下の様子はどうですか」

「残りの部隊すべてに招集をかけるよう、司令部には伝えました。装備を整えてこちらに上がってくるまで、十五分はかかると思われます」

「それまでは、現有戦力で対処するしかない、ということですね」

 視界の端が光る。柿崎と話している間に、ニプラツカとアビーが、本格的に戦闘を始めたのだ。お互い、口から火球を放ち、それを直前で回避する挙動を繰り返す。ニプラツカは体の周りにも防御シールドを張っているようで、火球は空中で不自然に軌道を変え、上空で爆散した。


 赤いオーラをまとうアリスとは対照的に、奥寺の体は青い光で覆われていた。それは相手を慮り、心配する色合いだった。

(先輩、人の心を覗いている暇があったら、援護してください)

 脳を揺さぶる奥寺の声に、恵庭は思わず耳を塞いだ。容赦ないマインド・リアクターを介したテレパシーは、普段の奥寺が加減をしてくれていることを知るには十分だった。

「わかってるが、どうすればいい!」

 思わず塞いだ瞼をあけ、恵庭は上空の奥寺に向かって声を荒げた。


(アビーの足を攻撃してください。少しでも動きを鈍らせて——)

「お前は、それでいいのか」

(アリスもアビーも、操られているだけです。だから、捕まえないと)

「わかった」

 一色とアビーを心配こそすれ敵意を向けていないとすれば、屈服させる手段を持っているということだろう。今はそれにかけるしかない。


「柿崎一尉、攻撃準備。目標、敵ドラゴンの脚部、送れ」

「了解」

 柿崎がすぐに無線に吹き込む。銃を携えた隊員が構えの体制に入る。軽装甲車上部の小塔が回転し、五・五六ミリ機関銃の先をアビーに向けた。本当にいいんだな、と恵庭は胸の中で奥寺に呼びかける。返事はなかった。奥寺は、いつ覚悟を決めたのだろう。一色と敵対し、当たれば無事ではすまない攻撃を繰り出すニプラツカを駆ることに、ためらいはないのだろうか。


 自分よりよほど大人に見えるその背中を仰ぎ、恵庭は短く息を吐いた。考えている時間はない。できることをやる。そう彼女たちに言った自分の言葉を思い出す。今は、奥寺を信じ、その背中を支えることが、自分のできることだ。

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