第27話

 三時間目が始まろうとする時間、十時三十分を過ぎた頃、教室に入って来た教師に近づき、恵庭はこれから授業を抜けると伝えた。

「そうですか。わかりました。頑張ってください」

 目を見て言われると、意識していなくても緊張する。それほど大変なことをするつもりはないのだが、それでも、教師に励まされ、そして振り返る先にいるクラスメイトの顔を見るにつけ、恵庭は決意を新たにした。誰も口を開かない。けれど、そこには確かに闘志があり、興奮があり、畏怖があった。


 自分のように自衛官との二足の草鞋ではなくとも、みんな戦っている。戦いを避ける努力が必要なのだ。そのために戦う。自分は間違っていない。そう言い聞かせる。そうすることで、胸の底に吹き溜まる不安に蓋をした。


 教室を出る。そこでチャイムが鳴る。十時三十五分。あと、二十五分。

 授業の始まった廊下は、教室から教師の声が漏れ聞こえるだけの、静かな空間だった。自分の足音も、ゴム底の上履きを履いていてはほとんど耳に入ってこない。窓の向こうの校庭からも、人の声はしない。三時間目の体育の授業は、さすがに屋内で実施するように通達してもらった。


 地下基地では柿崎が準備を進めている。表向きは、別の駐屯地への物資補給の命が下り、その準備のため、ということになっている。今頃は、第一小隊の所有する、いわゆる73式トラックに水や携帯食料を積んでいるところだろう。


 段取りを確認しながら、恵庭は校庭に降り、朝のうちに用意していた機材の前に立った。エレベーターの中で作業をする。果たしてこれで効果があるのかどうか、半信半疑ではあった。今になって、検証もせずに本番に臨もうとしていることに気づいた。

 今更奥寺に声をかけている時間はない。準備を終える頃にそれに気づくとは、間が抜けている。一発勝負で行くしかないか、と胸の中で呟く。


 機材を背負い、外に出ると、急に視界が遮られた。

「先輩、これならきっと、うまく行きますよ」

 上から声をかけられ、すぐに光が戻る。搬入口の上、そこに陣取る巨大なドラゴンの背中に、奥寺はいた。

「不意打ちはやめてくれよ」


「そうでないと、意味がないんですよ。私だって、段取りがあるんですから。それに、リハーサルもなしに本番はダメですよ」

「悪かった。でもよかった。ちょうど、それを考えていたところだ」

「呆れた。もうじき時間ですし、待機していましょう」

 奥寺がドラゴンの背中を撫でる。「ぐるぐる」と喉を鳴らしたドラゴンが、首を伸ばしてくる。恵庭はその頭にあるツノに手をかけ、体を引きつけた。静かに体が宙に浮く。自分で飛ぶのとはまた違う感覚に、また五十嵐のことを思い出した。初めて出会った朝の風景が目に浮かぶ。自分に手を引かれ、訳もわからず空に上がったときのあの顔は、今から思えば気の毒だった。知らなかったとはいえ、無茶をさせてしまった。


 ドラゴンが首を回し、搬入口の上へと降りる。

「そういえば、三年の人は?」

「相良さん、実習の授業で抜けれないみたいで、ニプラツカだけ借りてきたんです。素直な子だから大丈夫、とだけ」

 巨体からは想像もできない、まるで妖精のような名前のドラゴンを見上げ、その腕を撫でてやる。


「お前の指示にも従うんだから、奇特なやつだな」

「先輩はいつも、一言多いんですよ」

 鱗がゴツゴツとして、それだけでも堅牢な柱のような重量感がある。呼吸に合わせて上下する腹回りを視界に捉え、恵庭は少しだけ安堵した。冗談が言えるだけ、奥寺も落ち着いているということだろう。


「あとは、時間が来るのを待つばかり、だな」

「ええ」

 腕時計を除くと、十一時五分前だった。

「先輩、アリスのことなんですけど」

「ああ。今日は欠席なんだろう」


 一時間目の休み時間、相良のところにドラゴンの相談をしに行った時、神妙な顔で奥寺はアリスの不在を語っていた。

「宇佐見先生が家に連絡を入れたらしいんですけど、母親も、学校に行ったとばかり思っていたらしくて。スマホにも連絡入れてるんですけど、読んでないみたいですし」

「まさか、『ニュー』の奴らに」


「わかりません。ただサボっているだけかもしれませんし。でも、何か胸騒ぎがして……」

「そうか。これが終わったら、俺も探すのを手伝うよ」

「すいません。心配かけさせてしまって」

「いや、先週色々あったからな、何が起きても不思議じゃない」


 何が起きても……。自分で言いながら、恵庭は寒々とした思いだった。戦争なのだ。本当に、何が起こってもおかしくはない。刻一刻と近づく時間は、恵庭が何を思っていても、その歩みを止めることはない。

 足元で、ごとりと音がする。エレベーターの箱が降りる音だ。無人のそれは、しばらくすると止まる気配を見せた。それを最後に、振動が止む。びゅうっと風が吹いた。ニプラツカが「ぐるぐる」と小さく唸る。自分の出番が来ることを感じているのだろう。


 ドラゴンは頭がいい。人の言葉を理解し、己が納得すればそれに従ってくれる。善悪の判断基準もあるらしい。ドラゴンの道徳心とはどのようなものか、それを調べた文献を以前読んだことがあった。退廃した世界であっても気高く己の意志を貫く強さを持ったドラゴンは、人間の優柔不断さに不満を持ちながら、それでも居場所と役割を与えてくれる人と持ちつ持たれつの関係を築くことを選んだのだという。


 自分たちの行いが誤っていると判断されたら、敵対することになるのだろうか。

「そろそろですよ」

 奥寺が小さな声で言う。すると、それを待っていたように、また足元が揺れる。エレベーターが動き出した。みるみるうちに現実に引き戻された恵庭は、その時をじっと待った。

 扉の向こうで、ブザーが鳴るのがわかった。それを受けたように扉が開く音がする。恵庭は腰を落とし、地上の様子を食い入るように見つめた。


 褐色の幌を被ったトラックが、静々と校庭に姿を見せた。間に軽装甲車を一台ずつ挟み、三台が続けて外に出てくる。第一小隊の抱える軽装甲車の半数とトラック全台、予定通りだ。

 車両はそのまま校庭の真ん中まで進む様子だった。視界の端でそれを捉えながら、恵庭はじっとニプラツカの腕に体を預けていた。鱗の内側にある筋肉が、ぐわりと盛り上がる。そう思った時には、その巨体に似つかわしくない俊敏さでニプラツカの首が下へ伸びる。車列の過ぎた空間へ、大きく口を開けた頭部が突入していく。鋭い歯が並んだ口が緩く閉じられ、そこからぐっといううめき声が漏れ聞こえた。


 恵庭はニプラツカの口元をじっと覗き込んだ。校庭の黄土色がざらりと霞む。ホログラムのように揺れる空間が、そこに人の脚を浮かび上がらせる。すねを覆うコンバットブーツに淡い迷彩の戦闘服、見るからに軍人の装いだ。口の間から腕を出し、腰のあたりを探る素ぶりを見せる。


 危険を察知したのか、ニプラツカが首を緩やかに振る。動き自体は緩慢に見えたが、その衝撃は相当のもののようだ。弾き飛ばされるように人の体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。とっさに体を丸め、ごろごろと転がる兵士を横目に、恵庭と奥寺はニプラツカの首に掴まった。間髪入れず地上に降りる。

 起き上がろうとする兵士の体を挟み込むように、鈍い衝撃音を伴ってニプラツカが両足を地面につける。首をぐるりと回し、恵庭たちを兵士の横に降ろすと、そのまま兵士をじろりと睨みつける。


「くそ、やっぱり罠か」

 上半身を起こした兵士が、恨めしい声を吐き捨てる。

「ひとりか」

 恵庭は静かに、落ち着いた声を出した。ここで取り乱すのは得策ではない。こちらのペースに引き込むには、冷静さが必要だ。


「だったらどうだと言うんだ」

 兵士が体を傾ける。それに反応したニプラツカが、手を兵士の向こう側へ素早く振り下ろした。地面が揺れ、砂煙が舞い上がる。衝撃で兵士の体がこちらに倒れる。その手に、携帯電話が握られていた。恵庭が素早くそれを取り上げる。

「両手を上げて、頭の後ろにつけるんだ」

 兵士は、舌打ちをし、しぶしぶといった様子で恵庭の指示に従った。


「どうしてドラゴンなんかに」

 兵士は、心底わかりかねる、といった調子で呟いた。まさか、エレベーターに番茶の希釈溶液を噴霧したとは思いも寄らないだろう。ドラゴンが嫌いなカテキンを豊富に含むそれは、ニプラツカにとっては忌み嫌う対象であると同時に、本能的な敵意を発現させるトリガーになる。小麦粉の匂いから着想を得た作戦は、見事に成功した、というわけだ。

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