第19話

「私たちは、あなたの力が必要なの。……あなたの持つ〈オリハルコン〉の力が」

 引き締められた唇から溢れた言葉に、真紀は一瞬何を言っているのかわからなかった。

「力なら、石だけあれば、私なんか」喉に引っかかるものがあった。咳払いをして、短く言う。


「〈オリハルコン〉は、術者の魂なしにはなんの効果も発揮しない。前に〈タルタロス〉と戦った時、奥寺さんのマインド・リアクターの効力を飛躍的に高めたのも、あなたの魂が、〈オリハルコン〉に働きかけたから」

「私は、魔法なんて使えないです。普通の、平凡な人間なのに」


 学校の関係者ならば知っていることだろうと、真紀は事実を話した。芹沢は、それに軽く首を振った。

「〈オリハルコン〉は、真の意味で不思議な石。魔石なのに、魔法を持った人間は受け入れない。魂の種類が違うっていう研究もあるけど、本当のところは不明で……。ただ一つ確かなことは、その石が、あなたを選んだ、ということ」


「〈オリハルコン〉の意志ってことですか?」

「そういうこと。〈オリハルコン〉の力は、簡単に言えば、あなたの望む未来を叶える力。あなたの未来が、みんなの未来になる」

 芹沢の声が刃となって、胸の奥に突き刺さる。その意味するところがわからない真紀ではなかった。


「それは、卑怯ですよ」

 未来を叶える力、そしてその未来がみんなの未来になるということは、それを望めと脅されているようなものだ。

「そう? あなたが望むだけで、未来が手に入るのに」

 芹沢も、わかっていて話しているのだろう。自分にとっての未来とは、一体なんなのだろう。それがどこにあるのか、そんなこと考えたこともなかった。


「私には、魔法のことはわかりません」

「そういうのを、言い訳っていうの」

「だって、わからないですよ。私の決断が、戦争の勝敗を……。 それって、私が、どちらが悪いのかを決めるってことですよね。そんなこと、できません」

「やっぱり、五十嵐さんはいいね。すべての責任を負え、なんて、私からは言えない。でも、助けてほしい。今、この状況を打開できるのは、あなただけなの」


「鳥飼先輩たちの考えには、もちろん賛成できません。あんなやり方は、ニュースで見るようなテロリストと同じで……。でも、だからって、戦争していい理由になんてなりません」

「必要なのは、あなたにとっての理由よ。戦争の理由じゃない」


 はぐらかされているような気がした。戦争を許容することと、今を望むことが、結びつかない。けれど、こうしている今も、恵庭は戦っている。おそらく夏希もアリスも、理不尽と戦っている。信じるもののために、血を流している。自分にしかできないことがあるのなら、それをしたい、とも思った。


「私は、私は。……助けたいです。先輩たちを、助けたいです」

「それだけで、今は十分だよ」

 芹沢が笑顔で言う。するとすぐに、顔を俯け、額に手を当てる仕草をする。

 頷き、口元が静かに動く。「グッドタイミング」と小さい声が漏れ、「一緒にいる」と言葉が続く。


(五十嵐、無事に着いたんだな)

 自分の名前を呼ぶ恵庭の声は、少し震えているようにも聞こえた。

「先輩」

(芹沢先生の話したことは、本当のことだ。俺たちには、五十嵐の力が必要だ。五十嵐は、戦争が嫌いかもしれない。俺たちのやり方が受け入れられないかもしれない。それでも、今は、俺の言葉を聞いてほしい。これは、未来を守る戦いなんだ)


 頭の中に響く声は、聴覚の理解を超えて、真紀の深いところに届いた。この声を信じたい、その直感だけに突き動かされ、真紀は汗の滲んだ掌を握りしめた。

「わかりました。それで、何をすればいいんですか?」

(芹沢先生と屋上に上がってくれ。詳しいことは、途中で説明する)

 真紀は顔を上げ、芹沢に向かって大きく頷いた。


「よし、行こうか」

 芹沢が、白衣のポケットに両手を突っ込み、勢いよく立ち上がった。

 屋上までの道のりは、ひどく遠く感じた。途中の恵庭の説明は、要領を得ているとは言い難く、所々でひどく曖昧だった。

(だから、俺たちが着いて、ヘリが来たら、結界の感度を上げるんだ)


「感度って、どうすればいいんですか」

(五十嵐にならわかる。着いたか)

「もう少しです」

 階段を駆け上がる。最後の一段に足をかけ、その勢いで扉を開けた。視界が開ける。眩しい太陽が照りつける屋上の端に出た。街はこの反対側だと見当を付けた真紀は、タイルを踏みしめて走った。屋上の縁を囲む柵にすがり付き、一度大きく息を吸った。


「先輩。着きました。今、どこですか?」

(ヘリが見えるか)

 恵庭の声に覆いかぶさるように、空気を震わせる音が遠くから響いてきた。ローター音が徐々に大きくなる。左右を見渡すと、右、南東の方角に黒い機影が見えた。その近傍で空気の爆ぜる音がする。黒煙が立ち上がる様子に愕然とし、思わず声を上げた。


「先輩!」

(大丈夫だ。もう少しで正面の交差点に出る。いいか。学校を包んでる結界は、普段は視覚を遮る効果しかない。だが、奴らはそこが俺たちの本拠地だと知ってるはずだ。だから、車が校庭に入ったら、すぐに結界の感度を上げて、物理攻撃を遮断するようにしてほしいんだ)

「〈オリハルコン〉で、そんなことまでできるんですか?」


(未来を作る力っていうのは、そういうことだ)

 不確定要素の多い指示だ。けれど信じるしかない。いや、信じると決めたのだ。芹沢と話をして、誘導されているだけだとしても、恵庭の目指すものを信じたい。たとえ、戦争に加担することになっても——。

「わかりました」


 校庭の向こうの交差点に、猛スピードで接近する車が見えた。真紀は屋上の柵に掴まり、車の挙動に目を凝らす。褐色に塗られた車は、乗用車ではなさそうだ。アクション映画で見るような——大きなタイヤを履いた頑丈なジープのような——重厚な車体が左右に揺れ、そのたびに地面が弾け、土煙が舞い上がる。執拗に攻撃を続けるヘリを避けながら、車は、けれど着実に近づいてくる。

(カウントに入る)

 唐突に恵庭が叫び、(十、九、八、……)と数字を告げる。交差点に突っ込んだ車が、車体を斜めに滑らせる。


(三)

 タイヤが煙を巻きあげ、轟々と唸り声をあげる。


(二)

 横に跳びすさびながら、門をめがけて突進する車に、ヘリが機銃を放つ。


(一)

 真紀は柵を握る手に力を込めた。車が門に滑り込む。ぼんやりと空間が歪む。


(今だ!)

 ジーパンのポケットに熱を感じた。微かだけれど確実に見えたその結界に意識を集中する。目を閉じる。羽衣のような感触を振り払い、シェルターのような堅牢さを湛えた空間をイメージする。空が脈を打つ。空気が引き締まる気配に、真紀は閉じていた瞼を開けた。


 追いすがるヘリがミサイルを放ったのと、結界の変化を知覚したのは、ほぼ同時だった。結界の壁にその弾頭をめり込ませたミサイルが炸裂し、爆炎を撒き散らす。至近距離で爆風に煽られたヘリが大きく機首をあげ、急上昇した。


「やった。先輩、うまくいきました」

 真紀は大きく声を張り上げた。飛び上がったヘリは、すぐに体勢を立て直し、今度は距離をとって機銃を打ち込んできた。けれど、その弾も届かない。弾が結界に当たるその瞬間だけ、緑色の光がオーロラのように波を打ち、弾丸はどこか別のところへ飛び去っていく。連続的に胸に響く炸裂音が虚しく聞こえた。


「五十嵐さん、大成功」

 隣で見守っていた芹沢が笑顔を向ける。

「はい。よかったです」

 攻撃が当たらないとわかれば、すぐに退散するだろう。これでひとまず安心できる。そう思った。

「今度は、こっちの番だよ」


 芹沢が、笑顔のまま言った。一瞬、何のことかわからず、真紀は聞き返した。

「自衛隊に戦いを挑んだことを、今度は向こうが後悔する番、ってこと」

 芹沢は早口でそういうと、白衣のポケットから無線機を取り出した。

「攻撃準備」


 無機質な言葉の羅列が、真紀の理解を超えた場所を指す。何を言っているのだ、と頭が理解するよりも早く、芹沢の背中越しに、人の影が見えた。体育館の屋上に、車と同じような褐色の服を着た男が何人か、中腰の姿勢でじっと宙を眺めていた。そのうちの一人が、肩に筒を背負っていた。


「撃て。結界強制解除。送れ!」

 無線に吹き込む芹沢の口元が、にやりと歪んだ。頭によぎったのは、廊下で体を支えられた時の記憶だった。あれは、火薬の匂いだ。戦争の匂い。それが真紀の思考を満たす。世界がひどくゆっくりと見えた。止められるかもしれない。未来を作る力があるのだとすれば、できないことはないはずだ。けれど、そう願っても、もう遅かった。未来を作る力はあっても、過去を変えることはできない。真紀が芹沢の白衣を掴んだのは、もうミサイルが発射された後だった。


「待って」

 真紀のその声は、あまりにも小さかった。ミサイルよりも速いはずの声は、しかしミサイルと違って、何の威力もなかった。消失した結界が直前までミサイルの姿を隠す格好になり、ヘリは突如として現れた弾頭を回避することもできなかった。機関部が爆発の炎を上げ、推進力を失った機体が煙を上げながら校庭に落下する。きりもみし、部品が四方に飛ぶ。ローターが地面に擦れる嫌な音がして、すぐに爆音が轟いた。


 油の燃える匂いが、屋上まで立ち上る。真紀は柵に手をかけたまま、座り込んだ。

(五十嵐、よくやった)

 恵庭の声がした。柵の隙間から見える校庭では、ジープを囲む教師と、車内から降りてくる恵庭が握手しているのが見えた。続いて夏希とアリスが車を降りる姿が目に入り、真紀は固く瞼を閉じた。


「どうして、どうして撃ったんですか」

 真紀の悲痛な声が、油の匂いに混じり、拡散していく。

「それは、これが戦争だからだよ」

 芹沢の冷ややかな声が、真紀の手を強張らせる。戦争、そのふた文字が脳裏に浮かぶ。ニュースで見るような、街を焼く炎や逃げ惑う人々の姿が頭の中のスクリーンを駆け巡る。無関係な人を巻き込み、その人の財産を踏みにじり、それまで築いてきた生活を木っ端微塵にする人のエゴが、この柵を越えたすぐそこで爆発の炎を上げている——。


「先輩。これが先輩の望んだことなんですか」

 真紀は小さな声で呟いた。ポケットの上から〈オリハルコン〉を握り締めた。望んだ未来を与えるというその石はすでに冷たく、恵庭の声は聞こえてこなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る