第18話
(アビー、お前もこの声が聞こえているな。もっと高度を下げろ。ビルと同じ高さまで降りるんだ。戦闘機も手が出せなくなる。早くそこを離脱するんだ)
恵庭の言葉が通じたのか、そこでアビーが急降下する。こちらに近づいていた戦闘機は、機銃を撃つことなく通り過ぎ、旋回すると遠ざかるそぶりを見せた。アビーはさらに地上に近づいていく。耳元を風が猛スピードで通りすぎ、髪が引っ張られる。
「先輩、夏希ちゃんとアリスちゃんは?」
(二人なら無事だ。ただ、鳥飼には逃げられた)
「先輩を逃がすために、これを?」
(それにしては大げさすぎる。その戦闘機にしたって、哨戒中だったにしても早すぎる)
恵庭の声に焦燥が感じられた。恵庭も予想していなかった展開、ということだろう。裏をかいたつもりが、向こうはそれさえも計算のうちだった、ということだろうか。騙し合いの応酬の渦中にいる自分は、未だ自由の利かない不恰好な姿で空を飛んでいる。
ビルの間の幹線道路上空を飛びながら、アビーがしきりに首を左右に振る。真紀はなされるがまま、体を強張らせる。
目まぐるしく変わる視界の下では、騒ぎが伝染したのか、そこかしこで車が路肩に止まり、人が路上に溢れていた。煙の上がる駅の方を眺め、何事か話をしている。その上空で、アビーは何かを探し、真紀は脱げそうになる靴が気になっていた。
(五十嵐、アビーの行き先はわかるか?)
「たぶん、学校の方だと思います。方向はあってるはずです」
(わかった。コースを外れるようなことがあったらまた連絡しろ。こっちも学校に向かう)
恵庭の気配がすうっと遠ざかる。アビーの鼻先がひくひくと動いている。敵の気配を探っているのかもしれない。
「アビー。もう少しだから、頑張って」
アビーがちらりと真紀を見た。瞼がわずかに上がる。こちらのセリフだと言われているようで、真紀は唇をすぼめた。
アビーに咥えられたまま校庭に戻ると、校庭には数人の教師が待ち構えていた。校長に教頭、学年主任と、責任者が顔を揃えているあたり、ことの重大性を物語っているように思えた。着地の衝撃を受け、体が軋む。アビーが瞬間首を動かし、少しでも衝撃を和らげようとする姿が健気に思えた。
「五十嵐、無事だったか」
それら責任者の後ろに立っていた宇佐美が近づいてくる。
傍に立つアビーが、体をフルフルと震わせる。みるみるうちにその体が縮み、元の大きさに戻った。
「はい、なんとか。恵庭先輩たちも、今こっちに向かっています」
宇佐美に答えながら、その後ろに視線を流した。ざわめきを吐き出しながら、校舎から続々と教師がこちらに駆けてくるのが見えた。宇佐美も後ろを伺う。
「芹沢先生と保健室に行け。歩けるか?」
「たぶん、大丈夫です」
アビーを肩に乗せ、腹や足に目をやる。痛みはない。けれど、横になれるならそうしたかった。養護教諭の芹沢が手招きをするので、そちらに向かう。
学校の中は、驚くほど静かだった。生徒が登校するには早く、教師も、そのほとんどが校庭に出ているのだろう。ひたひたと靴底が擦れる音がするばかりで、薄ら寒くもあった。
「無事でよかった」
「私は、アビーにしがみついてただけでしたけど」
「〈ガルディス〉種に接することができるだけでも、受け入れられている証拠」
「いえ、全然です」
「心配しないで。私たちがついてるから」
「はい」
「恵庭くんもいるし、奥寺さんも一色さんも、もちろんあなたも、勇敢だった」
「でも、戦争とか……。こんなことになるなんて」
「そうね。現実世界は、簡単じゃないから。理想とするものが違えば、正義も変わってくる。そういうこともある」
「鳥飼先輩のことですか?」
「彼女が『ニュー』の一員だったとは、残念ながらついさっきまで誰も気づいていなかった。魔法の世界は一枚岩ではないけど、事態がどれだけ切迫しているのか、誰も評価しなかったし、何の対策も講じてこなかった。そのツケを、恵庭くんは払おうとしている」
「私は、どうすればいいんですか」
「やるべきことがわかっている人は少ない。わかっていても、できないこともあるし。人の世は、お話の世界みたいに単純じゃない」
芹沢の言いようは、何となく理解できた。人の心は、単純化できない。物語が面白いのは、主張がはっきりした人たちが、その信条に沿って行動するからだ。パターンを踏襲し、たまの番狂わせがスパイスとなって物語を彩る。勝ち負けなんて最初からわかっていて、だからこそ困難を経てそれが達成されることに、みんな感動するのだ。
でも、現実は違う。一貫性のある人の方が少ない。みんな状況に流され、うねりの中で足を引っ張ることしか考えない。大人も子供も関係なく、日常で起こっていることはそれがすべてだ。
その日常が壊れるかもしれない。たとえ理不尽に満ちた世界であっても、たとえ自分の力などなんの価値もなくても、それでも、壊れた先にもっとひどい未来があるのだとしたら——。それを守るために、恵庭も夏希もアリスも懸命になっている。それはよくわかっているはずなのに。
「誰も戦ってほしくないんです。戦争なんて、正直遠い世界の出来事だと思っていました」
「戦うのが怖い?」
芹沢の問いかけに、一瞬悩む。正直に答えていいのか、そうでないのか。けれど、結局はここで虚勢を張っても仕方がないという意識が勝った。
「怖いです。魔法が虐げられているのは、想像できます。それを許せないと感じる人がいても不思議じゃないと思います。でも、考え方が違っても、お互いのことが想像できれば、戦うことだって……」
思わず足が止まる。校庭の様子が横目に見えた。教師はまだ外にいた。空を指差している。駅の爆発からはもうそれなりに時間が経っているのに、空には煙がいく筋も棚引いていた。そう思っていると、また新しい爆煙が上がる。ガラスが割れたままの廊下の窓から、遅れて轟々と振動が伝わる。
「五十嵐さん、離れて」
芹沢に腕を掴まれ、反対側の壁に体を押さえつけられる。
「爆発、ですよね」
「追われているのかもしれない」
「大丈夫なんですか?」
「第一小隊が展開しているはずだけど、あの様子だと一部突破されたみたい」
「第一小隊って、自衛隊、ですか?」
「そう。部隊が駐屯しているって話は先生から聞いてるでしょ。さっきの爆発に対して、神奈川県から治安出動の要請が出たの」
「先輩たちはその人たちと一緒にいるんですか?」
「多分ね。大丈夫、そんな深刻そうな顔をしなくても。ただやられてるわけじゃないから」
「本当ですか」
「信じることが大切。五十嵐さんが信じてあげなくちゃ、誰が恵庭くんを信じるの」
芹沢が真紀の肩を抱く。芹沢の首元を風がさらう。消毒液の香りに混じって、何か別の匂いが鼻を突いた。
保健室のベッドに腰掛け、向かいに芹沢が座る。簡単な問診をして、「怪我はなし。体調も、とりあえず問題なし」と芹沢は呟きながらメモをとる。初めて入ったが、その雰囲気は想像通りだった。薬品の入った戸棚があり、その横に据え付けられた机には、ノートパソコンとマウスがあるくらいで、ペンや書類の類は見当たらなかった。その机に向き合う形で座る真紀に、芹沢は閉じたバインダーを膝の上に置き、正面に見据えた。
「五十嵐さんの疑問というか、戸惑いは、当然のことよ」
芹沢の柔らかい声が、真紀を包む。白衣を羽織った芹沢は、さっきと変わらず穏やかな表情だった。
「こんな状況で、相応しくないかもしれないですけど」
「状況に流されないっていうのは、大切なこと。誰も、戦争なんて望んでない。私だって、恵庭くんだって、そう」
「それでも、戦うしかないってことですか?」
「少なくとも、今はね。武器を持った相手が、私たちを制圧しようとしている。それは間違いない。そして、それに屈するわけにはいかないの。間違えてほしくないのは、交渉の用意はある、ということ。ただ、外交的手段に出るにしても、この状況を看過することはできない」
「それは、わかっているつもりです」
芹沢が、そこでひとつ、息を吸った。言葉の端々に漂う不穏な雰囲気がその瞳に映るようで、真紀は居心地の悪さを感じる。潮目が変わる、そんな予感とも兆しともつかない何かの存在が、真紀の掌に汗を滲ませた。
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