第16話

「人質ってことですか?」真紀は言いながら戦慄を覚えた。

「交渉にもカードがいるからね。さすがに後輩が三人も捕まれば、悠長なことを言っていられなくなる」

「恵庭先輩は、鳥飼先輩のことを心配して、私たちを寄越したんですよ」


 生徒がトラブルに巻き込まれたら、それに対処するのも『ヴォーウェル』の仕事だ、と恵庭は言っていた。魔法の世界を守るため、そして科学の世界と渡り合うために、強くなろうとするその姿に共感したからこそ、自分たちは今ここにいるのに——。真紀が堪らず口にした言葉に、美鈴はふん、と嘲笑を浮かべた。

「だからなんなわけ? 偽善者に付き合うほど私たちは暇じゃないし」


「先輩……」

 何もできない。誰も救えない。魔法使いごっこをしていた自分には、美鈴の主張に反論することはできなかった。過去の迫害、管理されるだけの日々。陰に陽に続けられてきた戦いの歴史は、真紀には到底想像できなかった。美鈴が何に苦しんでいるのか、それを推し量ることなどできるばずもない。


 だからと言って、看過できるものではなかった。

「恵庭先輩は、多分許しませんよ」

「最初から、そんなこと望んでないよ。わかってほしい、っていう段階じゃない。これはね、戦争なんだよ」


 真紀の言葉を聞いても、美鈴は態度を変えることはなかった。戦争という言葉に、怯みそうになる。頭の中で、小さい頃に見たドキュメンタリーの映像がフラッシュバックする。着るものにさえ困り、空の容器を抱えて地面に座り込む女性や子供。街を蹂躙する爆発の炎。独裁者の演説——。どこにも救いがない、荒涼とした世界が広がるばかりの脳裏に、それでも、と抗おうとする恵庭の背中が見える。


 あの背中についていきたい。その一心で、真紀は反駁した。

「おかしいです。同じ能力者なのに、戦争なんて起こして、その争いになんの意味があるんですか」真紀は、足元を周回する靄を一瞥し、再度美鈴を仰ぎ見て言った。

「何もおかしくなんかない! 人間同士で、これまで散々戦争してきたじゃん。戦争の歴史を否定するのは簡単だけど、戦争がなかったら、私たちの国はここまで発展してない」


 頭がずきずきと痛んだ。恵庭が入学式で話したこととも違う、それは魔法と戦争、そして政治の話に聞こえた。どうしてこんな話になったのだろう。

 頭痛が消えない。真紀は視線をさまよわせた。黒い靄は未だ、真紀とアリスを囲むようにしている。こちらに少しでも不穏な動きがあれば、すぐに拘束されるだろう。


「戦うしかない。もう他の選択肢はないの。でも、普通に戦っても勝てない。夏希ちゃんは強敵だったけど、油断したね。もう目を覚ますことはない。二人も、しばらく私の中にいてもらうよ。そうすれば、あの人も簡単に手出しできない」

 夏希ちゃん、と心の中で叫ぶ。大きく、何度も、何度も。届かないなんて、考えたくなかった。信じたくなかった。


 一陣の風が、真紀の髪を撫でる。真紀は顔を上げ、風の去った方を見る。鈍色の空が視界を覆う。この風には、身に覚えがあった。

「よそ見している暇はないんじゃない? 早くしないと、学校に行く時間になっちゃう」

 嘲笑うように美鈴が言う。余裕を滲ませ、こちらにすうっと近づく美鈴を、真紀は睨みつけた。声が聞こえたのは、その時だった。


「それはこっちのセリフですよ」

 その声は、空の遥か彼方から舞い降りたようにも、すぐ耳元でさえずったようにも思えた。あまりにはっきりした声音に、美鈴の表情が一瞬無色になり、すぐに紅潮した。

 夏希の声は、かび臭い路地裏であっても、薄暗い教室であっても、どこで聞いても明るい匂いがする。真紀はその姿を探した。建物の屋上、路地裏の暗がり、視線を巡らせても、夏希はどこにもいない。


「夏希ちゃん!」

 アリスが涙声を上げながら、周囲をきょろきょろと見回す。

「私の声が聞けてそんなに嬉しい?」

「どうして……」美鈴が沈痛な顔で呟いた。「そんなはずない!」

「想定外なんて、今時流行りませんよ」

 その言葉とともに、ぶわりと空気が振動し、気づくと夏希が美鈴の正面に立っていた。風に髪が揺れ、合間からうなじが覗く。その後ろ姿は、妖艶で扇情的で、女の自分でもどきりとしてしまう。決して敵に回してはいけない。そこに関しては、美鈴に同情してしまう。


「魔法が使えるのに、どうして普通の人間に肩入れするの?」

 美鈴の声が揺れる。

「そんなつもりはないけど、主義を認めさせるために他人を巻き込むなんて、ナンセンスだって思うだけです。魔法が使えるからって、偉いわけじゃないですよね。徒競走なら負けない、水泳なら負けない、数学なら負けない、ピアノなら負けない、それと何も変わりません」


「そんなこと……!」

「先輩、残念ですけど、話の続きは外で聞かせてもらいます」

 夏希の最後通告が黒い靄を揺るがせた。ぐらりと世界が歪む気配がする。がこん、という音が立て続けに空間を揺らす。夢が壊れる音だ。ついには足元の地面が揺れる。石畳に割れ目が生じ、石造りの建物がぐらりと傾く。

「コントロールが……」

 空中に留まる美鈴さえも、その振動に翻弄されるように、旋回を始めた。態勢を整えようと体を捩れば捩るほどに、回転速度が早まっていく。ついにはバランスを崩した美鈴が片足を地面につけ、炎を宿した目を夏希に向けたが、夏希は涼しい顔を向けたまま、小さく息を吐いた。


「夢は、いつか終わります」

 轟々と崩れ落ちる建物を背に、美鈴の顔から感情が抜け落ちていく。悄然と立ち尽くすのみになった美鈴が、小さく肩を揺らした。

「いつから……。そう、あなたに勝負を挑んだのが間違いだったのかも」

 悲しく笑う美鈴の輪郭がぼやける。崩れかけた足元が大きく揺れ、真紀の意識は唐突に途切れた。




 じんわりとした温かさに目を開けると、カーテンの開け放たれた窓から朝日が差し込んでいた。いつもと違う景色に、昨日のこと、そして夢のことを思い出す。眠気はすぐに飛び去った。真紀は慌てて体を起こし、後ろを振り返る。

 美鈴が寝ていたベッドには誰もいなかった。隣ではまだアリスの寝息が聞こえる。「アビー、そこは蟻塚だよ」とわけのわからない寝言を言っている。


「真紀、おはよう」

 夏希の声に振り向く。ドアの近くに佇むその足元に、後ろに手を回したまま横たわる美鈴がいた。

「おはよう。もう、大丈夫なの?」


 一瞬だけ夏希に視線を向け、すぐにまた、美鈴の寝顔に吸い寄せられる。

「うん、まあね」夏希の穏やかな声に、事態の収拾が図れたことを確信する。

 不安に脈打つ心臓が徐々に落ち着きを取り戻したが、追い詰められた状況から急に解放され、戸惑う自分もいた。そんな不安定な心情を察してか、夏希が言葉を続けた。


「魔法で眠ってるだけだよ。私たちが先輩の夢から抜けた時点で、勝負ありだったから」

 夏希が話しながら、美鈴の頭を避けるようにしてこちらに近く。美鈴のベッドに腰掛けると、その横をぽんぽんと叩いた。

 夏希の声はひどく遠かった。眠気は覚めたのに、まだ夢の中にいるみたいだ。夏希がいなければ、何もできない。一度立ち上がり、夏希の隣に座る。


「何もできなくて、ごめん」

「ううん。謝らないといけないのは私の方。本当は、先輩が怪しいって気づいていたの」

「もしかして、最初に会った時から?」


「心に強力なプロテクトがかかってた。こっちを警戒してたんだろうけど、それがかえって裏目に出たってことかな」

「黒い靄に飲み込まれた時は駄目かと思った」

「そうだよね。あれは危なかった。危うく私の精神が侵食されるところだったから」


「ついてこない方が、よかった?」

 美鈴を疑っていたとはいえ、それも自分がいなければ、もっとうまくできたのかもしれない。わかっていたはずなのに、その現実を前に、真紀はどうしても自分の無力さを感じてしまう。いてもいなくても、何も変わらないのではないか、そういった強迫観念が真紀の意識を散漫にする。


「てっきり、囮にされたとか、時間稼ぎにされたとか、怒ってるって思ってた」

 夏希の言いように、真紀は首を傾げる。そのタイミングでアリスが、「そっちはハリウッドだよ」と困惑した声を出した。また寝言だ。それを聞いて、真紀と夏希は揃ってクスクスと笑った。


「何の夢見てるんだろうね」

「大陸縦断の途中なんじゃない?」

 一通りアリスの夢を弄ったあと、夏希が真剣な顔に戻る。「でもさ……」と言葉を切った夏希は、変わらずドアの前で横になる美鈴を一瞥し、そのまっすぐな髪を揺らした。


「そういうのって真紀らしいね。〈オリハルコン〉といい、その考え方といい、やっぱり真紀は普通だよ」

「普通って言わないでよ」

 普通というそのふた文字に、意識しまいと思っても心が反応してしまう。それをずっと恥ずべきものだと思っていたのに、それを自分らしいと言われてしまうのは、別の意味で恥ずかしい。

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