第15話

 自分たちの力で、どうにか救ってあげたい。真紀の手は、無意識にワンピースのポケットに向かう。掌に〈オリハルコン〉の存在を感じた。じんわりと熱を湛える小石に全てを委ねるしかないのが悲しいが、一般人の自分には、これしかすがるものがない。

 アビーを連れてこられないのに、〈オリハルコン〉は大丈夫だった。その辺りは、有機物と無機物の差なのかもしれない。魔法の制約など自分には到底理解できず、真紀をふわふわとさせる。


「今って、何時くらいなの?」

 アリスが、思いついたように言う。

「どうかな、時計……。あれ、着けてたっけ?」

 夢の中では、風景や服装が安定しない。路地はさっきから同じところをぐるぐるとしているようだったし、最初はワンピース姿だった自分も、いつの間にかショートパンツにキャミソールという際どい格好に変わっていた。ちらりと胸元を見やり、下着をつけているか確認する。


「はい」

 美鈴がスマートフォンを取り出す。ホーム画面に表示された時刻は午前五時半を過ぎた頃だった。

「もうそんな時間なの?」

 アリスが驚いた声を出す。

「夢を同調させるのって結構難しいんだよ。レム睡眠のタイミングなんて本当はみんなバラバラだし」


「どうやったの?」

「それは、企業秘密です」

 夏希は美鈴に向かって得意そうに笑った。夏希自身が開発した手法、ということなのだろう。魔法といっても、その能力の使い方は人それぞれなのかもしれない。

 美鈴は「ふーん」と納得いかない顔でスマートフォンの画面を覗き込んだ。その時、不意に美鈴の表情が強張った。


「来た」

 震えるような小さな声だったが、手首を返しこちらに向けられた画面は確かに着信を告げていた。

「非通知……。とりあえず、先輩は電話に出てください」

 夏希は思案顔をすぐに引き締めると、美鈴の肩に手を置いた。


 美鈴が頷き、スマートフォンを耳に当てる。神妙な顔でじっと中空を睨む美鈴の横顔が曇る。黒い靄が美鈴の足元から急速にせり上がって来たのは、その直後だった。瞬く間に腰辺りまで迫った靄が、時計回りに回転し、その密度を増していく。真紀とアリスは、反射的に二人から離れてしまった。渦中の二人は、お互いを支えあうようにして踏ん張っていたが、苦悶の表情を浮かべる夏希に、アリスが堪らず声をかけた。


「夏希ちゃん、大丈夫?」

「もう少し……」

 回転を続ける靄はさらに上昇し、夏希の言葉を遮るまでになった。勢いを増す靄は竜巻のように暴威を撒き散らし、周りに落ちているチリや落ち葉を巻き上げていく。

「夏希ちゃん!」


 真紀は叫んだ。これは、たぶん美鈴が体験したこととは違う。靄は、美鈴がその陰湿な雰囲気を表現するために使った言葉だったはずだ。こんな事態は夏希も想定していなかったのではないか。

「やっぱり、バレてたんじゃ……」

 アリスの弱々しい声は、轟々と響く風にかき消されそうだった。

「そんな……!」


 だとしたら、夏希と美鈴が危険だ。

「アビーは? 来てないの?」

 わかっていても、そう聞いていた。

「ドラゴンは夢を見ないんだ」

 目を開けていられないほどの風が、絶望を伴って真紀とアリスを襲った。悲鳴が重なり、足が地面を離れたと思った時には、後ろの壁に背中を打ち付けていた。重い衝撃が全身に走り、呼吸ができなくなる。ずるりと地面に頭をぶつける。体のあちこちが痛みを訴える。夢なのに痛みを感じる。夢なのに、死の恐怖が胸を迫り上がってくる。


「アリス」

「真紀ちゃん、怪我は?」

 風が二人の髪を乱し、視界を塞ぐ。真紀は一度体を丸め、髪を一重に結んだ。

「たぶん、大丈夫。擦りむいてるくらい。アリスは?」

「私は……」

 声に力がなかった。胸元に引き寄せられた腕からは、血が流れていた。壁の破片が当たったのだろうか。頭がかっと熱くなる。真紀はポケットからハンカチを出し、アリスの腕に巻いた。きつく締め付ける。じんわりと血が滲む。


「腕を押さえてて」

 痛みに顔を歪めながらも、アリスは路地の向こう、渦の中心に視線を這わせていた。風は、更に勢いを増していた。もう美鈴と夏希の姿は見えない。

「鳥飼先輩! 夏希ちゃん!」

 アリスの叫びは悲痛だった。夢の中で戦闘は避けなければいけない、と夏希が言っていた。敵は容赦がない。こちらが介入したことにそうとう憤慨しているのかもしれない。


「どうすればいいの?」

「わかんないよ」

 不毛な言い合いをしている場合ではないのに、他にできることはなかった。壁に背中を預けなければ立っていることもままならないのだ。目の前に立ちふさがる黒い竜巻が、地面との隙間でスパークをあげる。青白い光に照らされて、足元に影ができた。


「ねえ、あれ見て」

 アリスが何かに気づいた様子で、竜巻の一点を差した。連続する閃光が竜巻の中央部に何かを投影していた。人の形をしたそれが、横たわった姿勢のままゆっくりと上昇していく。それと呼応するように、風が静かになる。急速に勢いを失っていく竜巻が晴れ、靄が薄くなっていく。

 夏希が何かしたのか、と期待したが、靄の先から見えたのは、美鈴の姿だけだった。


 さっきのシルエットが夏希だとしたら、と続きを想起する暇はなかった。路地の真ん中に佇む美鈴の顔が、不釣り合いなほどの狂喜に染まっていた。さっきまでとは様子があまりにも違っていた。不安と戦い、助けを求めて来た美鈴とは別人のように思えた。

 ライダースーツというのだろうか、継ぎ目がほとんどないグレー一色の装いは、風になびく髪と合間って妖艶とさえ形容できるものだった。とても十代後半の女子高生がする服装とは思えない。さっきまで、ジーンズにワンピースという、いたって普通の格好だったのに、一体どうしたというのだろう。これも夢の不安定さがもたらしたものなのだろうか。


「夏希ちゃんは?」

 アリスの問いかけには答えず、美鈴は組んでいた腕をほどき、体の横で軽く振った。すると、空中から黒い棒状のものが現れた。上下に一箇所、垂直に枝分かれした部分がある。片方の足をそこに乗せたと思うと、美鈴の体がふわりと宙に浮かんだ。

「一般人に迎合するから」

 数十センチ宙に浮いているだけなのに、その声には迫力があった。高いところから聞こえる声、教壇だったりステージだったり、そういう場所で人を従わせる声だ。


「先輩!?」

 事態についていけないのは、アリスも同じだった。困惑する声は、不安定に空を舞う。美鈴の元に届いているのか、判然としない。

「あなたたちも、運が悪かった。あの男に絆されて、何も知らずに」

「どういうことですか」

「魔法って言葉を、どう思う? 真紀ちゃん」

 不意に尋ねられ、真紀は困惑した。この状況で言葉遊びなどなんの意味もないのに、聞かれるとどうしても考えてしまう。


「時間稼ぎのつもりですか?」

 答えようとしていた真紀を制し、アリスが言う。潤んだ瞳に怒りの色が浮かんでいた。それにも、美鈴は涼しい顔をしたまま、言葉を押し被せた。

「時間を稼ぎたいのは君の方でしょ。夏希ちゃんならなんとかしてくれる、そう思っている」

 アリスは、腕を押さえながら、ぐっと黙り込んだ。空に浮かんで消えた夏希が、どうにか事態を打開してくれるのではないか。そう考えていたのは自分も同じだった。


「魔法っていう言葉自体、魔法の使えない人間たちが作った言葉。昔から、魔法や魔力は、忌み嫌うものとして恐れられていた。当然、その敵意は能力を有する人間にも向けられた。魔女狩りとか、弾圧とか。そういうの、聞いたことくらいあるでしょ?」

「でも、それは昔の話じゃないですか。今は、距離を取りながら、みんな同じ世界に住んでて、私たちだって、ちゃんと学校に通うことができる。それは、私たちの親の世代が頑張ったからって……」


「アリスちゃん、それはあの恵庭が言ってたの? それこそ、まやかしだよ。分かり合えるはずがない。魔法は怖いもの、恐ろしいもの。みんなそう思っている。今だって、能力を持った人たちは、魔法使いっていう言葉で括られて、管理されている。動物園と同じ。管理する側とされる側、その構図は何百年経っても変わらなかった」


 話しながら、ジリジリと美鈴が近づいてくる。空中に、波紋のような文様が浮かんでは消える。その度に、美鈴の足元から黒い靄が漏れ出て、真紀とアリスの周りを少しずつ取り囲んでいった。

「だからって、私たちを騙して、何をするつもりなんですか?」アリスが目尻に涙を浮かべながら言う。

「『ヴォーウェル』を潰す」美鈴の声が一段低くなり、目に怪しい光が見えた。

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