第14話

「間違えて飲ませないでよ」

 グラスは、麦茶が三つと水がひとつ。アリスがアビーの口元に水の入ったグラスを持っていく。アビーは器用に舌を使い、舐めるように飲んだ。「くわ、くわ」と嬉しそうな声を出す。

「お茶はダメなの?」

 真紀はグラスを傾けるアリスに聞いた。


「カテキンとかタンニンとか、ドラゴンが苦手な物質っていうのがあるの。少しなら平気だけど、摂りすぎると体調崩しちゃうんだ」

 どんな動物にも、与えてはいけないものはあるのだ。そういう些細なことさえも珍しく、面白い。

「いろいろ難しそうだね」

「犬とか猫とか、そういうのと結局は変わらないかもしれないけど、この世界の生き物じゃない分、気を使うことは多いかもね」


 アビーのことを話すアリスは楽しそうだ。家族であり友達でもあり、信頼できるパートナーでもある。〈タルタロス〉との戦闘で見せたコンビネーションは、こういうやりとりの積み重ねなのだろう。

 そういう存在は、異なる世界と繋がっているアリスたちにとって、かけがえのないもののはずだ。普通の自分には、逆立ちしても手に入れることのできない存在。危険もあるだろうが、羨ましい。素直にそう感じた。


 美鈴がテーブルにつくと、不意に部屋が静かになった。閉じられたドアにかかったカレンダーをじっと見る美鈴の視線を、三人が追いかける格好になる。ふうっと息を漏らした美鈴が、コップを手にとった。

「あと二日。あれはそう言った。それが本当なら、明後日の朝を、私は迎えることができないかもしれない」

「そうならないように、全力を尽くします。っていうか、先輩がそんなんだと、うまくいくこともダメになります。作戦会議、しましょう」


 夏希の声には、普段とは違う熱がこもっていた。瞳がまっすぐに美鈴を捉え、その内側にある覚悟を伝える。美鈴が息を飲み、手元のコップに視線を落とした。

「わかった。ごめん」

 美鈴はコップをテーブルに置き、体育座りの膝を倒した。

「いいんです。自信がないのは私も同じです」

「夏希ちゃん、だっけ? あなた、やっぱりすごいよ」

 笑顔を向ける美鈴に、夏希は軽く咳払いをした。照れているのか、指で頬を掻く。


「実際のところ、相手の手口も素性もわからないっていうのは、かなり厳しい状況ですからね。今日はまず、相手の尻尾を捕まえます。先輩はいつも通りの時間に就寝してください。あとのことは、夢の中で話します」

「そんなことしたら、相手にも手の内が知られてしまうんじゃない?」

「まあそうなんですけど、今話したら、それこそ相手に先手を打たれます。間違いなく、先輩の精神を探るでしょうから、知らない方がいいんです」


「……了解。夢の中でもあなたに会うのは、正直気が進まないけど」

 少し間を置いて美鈴が余計なことを言う。

「奇遇ですね」

 夏希も応戦し、緊張をはらんだ空気が解ける。けれど、自分たちならまだしも、やはり先輩にそういうことを言うのはどうかとも思う。

「ちょっと夏希ちゃん」

 たまらず、真紀は夏希の肩に手を置いた。


「いいの。私もこういう方が気楽でいいから」

 美鈴は掌をひらひらとさせ、微笑みを浮かべる。その顔が少しだけ悲しそうで、美鈴の不安が透けて見えるような気がした。




 時計の針が零時を回るまでに、準備は整った。といっても、それぞれが授業で課された宿題を片付け、全員で風呂に入り、歯を磨き、寝るまでにやるべきことをやっただけだった。風呂は、これまたマンションのそれとは違い、大理石でできた大浴場だった。規模としては旅館の温泉かそれ以上で、数十人が一度に入っても余裕だろうと思われた。しかも、普通の湯船以外にも、ジャグジーのついたものや泡風呂などもあり、もはや魔法だからなんでもあり、という次元ではなく、「鳥飼先輩のお父さんって、すごい趣味ですよね」とアリスが呆れるほどの徹底ぶりだった。


 美鈴の部屋はそういう趣向ではない分、シングルベッドがひとつだけのシンプルな部屋で、真紀たちは客間から薄いマットレスと掛け布団を運び入れることになった。頭を美鈴のベッドに向け、三人が横に並ぶ格好になる。修学旅行先での雑魚寝のような趣だった。

「電気、消すよ」

 美鈴が声をかけ、リモコンを操作すると、蛍光灯が消え、小さなオレンジ色の電球だけが薄く部屋を照らした。


「先輩、おやすみなさい。コンタクトは、先輩が寝入ったあたりでやります」

「ありがとう。おやすみ」

 暗くなった部屋で、美鈴の声が静かに響く。自分の部屋より幾分高い天井を見つめていると、横に並ぶアリスが早くも寝息を立て始める。つい今しがた、「私、枕が変わると寝れないんだけどね」と呟いていたとは思えない寝付きのよさだ。

 アリスも自分も、夏希の力の前にはやれることは限られる。入浴中にちらりと聞いた話では、美鈴の夢には三人でダイブするらしい。夢の中に入ってしまえば、アリスもアビーを使役することはできず、普通の女の子に戻ってしまう。アリスは魔力があるからまだいいだろうが、自分は、正直足手まといにならないようについていくのがやっとだろう。


 恵庭が自分たちをこの場所に向かわせたのは、何か意味があるのだろうか。ただ、自分に勉強しろと言っているだけなのだろうか。

 そんなことを考えているうちに、少しずつ頭の中に霧がかかり始める。眠くなってきた、と思う前に、真紀は意識を眠りの淵に沈めた。




「——真紀」

 名前を呼ばれ、どきりと心臓が跳ねるのと同時に喉を勢いよく空気が流れる。目を開ける。乱れる呼吸は、肩を揺する夏希の真剣な目を見ているうちに収まっていった。

「ごめん、ここは?」

 周りは、見たことのない街角だった。体を起こした拍子に、掌がざらりとした冷たいものに触れる。夏希に体を支えられ、建物の壁に体を寄せる。歩道は石畳で、その凹凸は靴の裏からも感じることができた。建物は淡いグレーの石材で統一されていた。四隅が円形に盛り上がり、柱と壁が一体になっている。


「お姫様の夢の中」

「先輩は?」

「あっち」

 真紀が寄りかかっている壁から細い通りを挟んだ反対側に、美鈴はいた。傍にはアリスの姿もある。放心した様子のアリスは、自分と同じように、どこにいるのか把握しきれない様子だった。夢の中、それは思っていた以上に現実味のある風景だ。言われなければ、ここが実在する世界だと錯覚しても不思議ではない。それくらいのリアリティーがあった。


 夏希が二人のいる方へ歩き出し、真紀も追いかける。

「夏希ちゃん、真紀ちゃん。よかった、会えた」

 薄暗い路地裏で、美鈴に背中を支えられながらも、笑顔を浮かべるアリスに安堵する。世界が灰色に染まっても、アリスだけは明るい。

「これで揃ったわけだけど、隊長さん、作戦は?」

 美鈴はアリスの背中に手を当てたまま、夏希に熱い眼差しを向けた。

「今日は相手の尻尾を掴むのが目的なので、大それたことはしません。電話がかかってきたら、それを逆探知します。相手も夢に干渉するために意識を飛ばしているはずですから、そこから所在地を特定して、あとは現実世界で対処することになります」

「逆探知って、それもマインド・リアクターでできるわけ?」


「意識の波を捕まえれば、そこまで難しくありません。電話をかけてくるなら好都合です」

「刑事ドラマみたいなことするんだ」

 アリスが意外そうに口を挟んだ。

「引っ張り出したりするのかと思ってた」

「言ったでしょ。尻尾を掴むだけだって。夢の中で戦ったら、先輩の脳が耐えられない」

「そっか。夢の中って、そういうことなんだもんね」


「私としては、どっちでもいいんだけど」

 美鈴が投げやりに言う。

「さすがに、危険ですって」

 夏希は、思いの外真剣な声を出した。飄々としていても、無茶はしない、ということだろう。

「じゃあ、電話が鳴るまで、この辺をうろうろしてればいいの?」


「タイミングはわかりませんが……。夢の中の風景はいつもこんな感じですか?」

「うん。たぶん。そういえば、小さい頃、イギリスに住んでたことがあって、ロンドンの路地裏とか、こういう場所があるんだ。その時の記憶が作っているのかも」

「ロンドンにいたんですか?」


 アリスが前のめりに聞いた。美鈴に興味津々らしい。人懐っこい雰囲気は夢の中でも変わらない。

「魔法って、どうしても西洋の方が発展してるから、うちは行ったり来たりしてる時期があったの。私のためだけじゃなくて、両親も勉強がしたかったみたい」

「いいですね。私も憧れます」


「両方のことを知ってると、まあいいところも悪いところも見えるからね。ロンドンは、いうほど綺麗じゃないし、東京も横浜も、魔法で出遅れてるってわけじゃないし」

 路地をゆっくり歩きながら、他愛のない会話をする。まるで学校で話しているのと変わらない。むしろ、夢の中の方が美鈴はリラックスしているようにさえ思える。表情が随分と柔らかい。これがこの人の本当の姿なのだろう。

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