第8話

 生徒会室から昇降口まで、誰も口を開かなかった。真紀は廊下の窓から校庭を覗いた。校庭には複数の教師の姿があった。クレーターの周りに集まり、なにやら議論をしているかと思えば、途端にクレーターの中心部が盛り上がり、一瞬にして穴が塞がった。倒れていたサッカーゴールはすでに元に戻っていて、さっきの狂乱の痕跡は跡形もなく消えた。


 その様に絶句していたのは真紀だけで、すぐ前を歩くアリスと夏希は、まっすぐ廊下の端に視線を向けていた。こういう時、気の利いたことのひとつも言えないところが、自分が普通である証左なのだと自嘲する。迷いなく歩く二人の背中が再び遠く感じる。さっきとは違い、もう走っても追いつけないだろう。どこまで行っても並行な世界。二つの世界の境界がここだとして、自分はどう足掻いても向こう側に行くことはできないのだ。


 沈黙は時間を長く感じさせる。廊下の壁が途切れた先に覗く階段に視線が向く。月曜の朝も、今朝と同じようにひとりで登ることになるはずのそれを横目に進む。そこでアリスが突然立ち止まった。


「夏希ちゃん、私のことはどうでもよかったわけ?」

「なにが?」

「真紀ちゃんを信じたって、私のことは何も思わなかったの?」

「そうだな、アビー頑張れって思ってたよ」

 いたずらっ子のように不敵に笑う夏希は、飄々とアリスを受け流す。


「くわ、くわ」

 アビーがアリスの胸の中で嬉しそうに尻尾を振っていた。

「私ってアビー以下なの?」

 アリスの切実な声がかえって笑いのツボを刺激した。嚙み殺そうとした笑い声が、沸き立つ安堵に押されて真紀の口から溢れ出した。


「真紀ちゃんまで、私をダメな娘だと思ってるんでしょ」

「そんなことないって。だって……」

「もう助けてあげないからね」

「ごめん」


 真紀が謝ると、今度はアリスが笑う番になった。涙を滲ませた目に、さっきまでの張り詰めた色はすっかり褪せていた。緊張の糸が切れ、真紀は改めて自分の心と向き合った。アリスが本当は自分をどう思っているのか、普通の自分にはわからない。けれどそれは重なっていく時間が解決してくれるだろうという期待があった。この二人と一緒なら、何かが変わる気がした。


「なんか、大変そうだよね」

 真紀は誰にでもなく言った。緩慢に過ぎていくだけの日常にあって、今日ほど変化の多い一日はなかったかもしれない。特別な能力を持った人たちの中に自分の居場所が本当にあるのか、真紀は半信半疑だったが、そう考えている時点でこの現実を受け入れようとしている自分がいるのも事実だった。


「いいんじゃない? たまにはさ、こういうのも悪くなって」

 夏希は気安い笑顔を真紀に向けた。三人の中で、一番状況を冷静に捉えているはずの夏希は、そうすることで自分たちを安心させようとしているのかもしれない。


「でも、肝心の活動内容とか、全然教えてくれなかったね」

「まだ入るって言ったわけじゃないからね。部外者には教えられないことがあるんだよ、きっと」

「夏希ちゃん、絶対わかっててそういうこと言ってるでしょ?」

「どうかな」

 アリスの指摘を風と受け流すその横顔を見て、真紀は月曜の自分を再び想像した。そこには三人で廊下を歩き、生徒会室の前でじゃんけんをする姿があった。



  **



 沈黙を保ったまま生徒会室を出ていった三人の後ろ姿が妙に胸に残った。来てくれるだろうか。不安は消えない。別れ際、入るなら月曜日にもう一度来るように伝えたが、それもどうなるかわからない。決定権が相手にあるというのは、心細いものだ。


 人の想いとは裏腹に、全てが自分の思うままに進むことなどまれだ。直接的であれ間接的であれ、人は自己と他者の関わりの中から新たな自分を形成し、そうして連続的に揺れ動いていく。今、自分が期待を持って送り出した三人に、別の誰かが異なる意見をぶつけた時、どちらを選択するのかは彼女たちなのだ。


 けれど、それは自分も同じようなものだ。この高校を受験したのも『ヴォーウェル』に入ったのも、結局は親の敷いたレールの上に乗っているだけなのだ。指示をされたわけでも強要されたわけでもない。ただ、己が感じる自分の役割、それを形作ったのが親の意向ではないと、誰が言い切れるだろう。


 会長の席に座り、そうしてしばし考えにふけっていると、誰かが心に働きかける気配がした。頭の中がざわつき、まるで周波数を合わせるように、それが徐々にクリアになっていく。マインド・リアクターの受信をする時特有の感覚だ。そして、ざわつきの大きさと感度の鋭さで、相手が誰なのかは大体わかる。


(動きが性急すぎるな)

 久しぶりに聞く声だった。といっても恵庭はその声の主には一度しか会ったことがなく、今はどこで何をしているのかさえ知らない。知っているのは、ドイツ人であること、そして堅気とは言い難い組織に所属していることだ。


「エアリアス……。相変わらず遠慮がないな」

 前置きをせずに用件を話し始めたエアリアスに、恵庭は呆れた声で応えた。

(電話する前に、『これから電話するね』と電話するやつがいると思うかい?)

 エアリアスはいつもそうして妙な屁理屈を並べる。付き合っている時間もなく、恵庭は話を戻した。


「性急っていうのは、『ヴォーウェル』加入のことか?」

(あの三人、それなりの力を持っているのは確かだが、そこまで突出しているわけでもない。それほど『ヴォーウェル』の内部事情は逼迫しているのか?)

「俺も詳しくは聞いていない。無駄な詮索はしない主義なんだ」


(それで組織が守れるのかな。私には関係のないことだがな)

「わかってるなら、余計な口出しはしないでくれよ」

(冷たいな。アドバイスくらいしてもいいじゃないか。とにかく、用心したほうがいい)

「アドバイスという割には抽象的だな」


(今は、泉の水が溢れそうになっているだけだ。どこに流れるのか、それがわからないことにはな)

 エアリアスの意味深な発言は今に始まったとこではない。しかも、それがあながち間違いでもないのだ。

「状況はわかった。その発端が、三人の加入、ということか」


(お前の上は、何かとんでもないことを考えているのかもしれない)

「何も考えていないよりはよっぽどマシだ」

 恵庭は投げやりに言った。エアリアスが失笑する。(言うね。私の部下だったら君は即クビだな)


「お前の組織と違って、こっちは風通しがいいんだ」

(スカスカでなければいいな)

 エアリアスの意趣返しに、今度は恵庭が失笑する番になった。

「要件はそれだけか?」

(そうだな。今のところは……。また何かあったら連絡する)


 エアリアスはそうして会話を切り上げた。電話が切れるように、回線の閉じる気配がする。勝手だ、といつも思う。嵐のようにやってきて、爆弾を投下して去っていく。異能を操る自分でも気後れしてしまうほどのプレッシャーが炸裂し、嫌でもその言葉に捕らわれてしまう。それも、向こうは務めて自然なのだから、かえって実力の差を見せつけられることになる。だいたい、こちらの送信範囲がせいぜい半径五百メートルなのに対して、向こうは地球の裏側からでも思惟を発することができるのだ。マインド・リアクターだけをとって見ても、自分はおろか奥寺も、エアリアスの足元には遠く及ばない。


 恵庭は椅子に深く座り、エアリアスの言ったことを反芻した。『ヴォーウェル』の性急とも言える動き、三人の能力、何かの前兆——。指摘をされると、そうなのかもしれない、とも思えてくる。

 かといって、具体的な事実や現象があるわけでもない。全ては憶測に過ぎず、エアリアスもまだその評価を決めかねている、という印象だった。全ては上が決めること……。そういう受け身の姿勢が漫然と悪化する事態を傍観するだけの自分を作り出すことを自覚しながら、溜息を吐き、窓から外を見た。校庭とは反対側に位置するこの場所からは、生垣の緑が見えるだけで、グラウンドでの狂乱は届いていない。


 とにかく、今は三人を信じて待つしかない。そう決めてしまえば、入学式の今日、これ以上生徒会室にいる意味はなくなる。家に帰るか、図書室に寄っていこうか、徒然に考えていると、滅多に鳴らない会長席の電話が鳴った。

「はい。生徒会室、恵庭です」

 上ずる声にかぶるように、咳払いが聞こえた。電話機に表示された内線番号の主、教頭の妙に甲高い声が続く。


「恵庭くん、校庭での騒ぎの件で話があるから、至急、校長室に来るように」

「……はい。わかりました。すぐに向かいます」

 やれやれ、と思う。手段は問わないと言っていたのに……。こうして教師から突然の呼び出しを食らうのが、学生の本分なのだろう。

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