第6話
生徒会室は校舎の一階、体育館とは反対側の隅にあった。あったといっても、そこを見つけるまでに、一度二階の職員室に行き、場所を聞いて階段を降り、廊下の端まで歩くことしばらく、と随分回り道をした。
ついさっきまで校庭で得体の知れない物体と格闘していたのに、学校の中は先ほどの混乱とは全く無縁の時間を過ごしていたのか、いたって通常営業だった。あの時、確かに割れた窓ガラスの破片さえ見当たらない。吹き曝しになった窓から覗く校庭には〈タルタロス〉の穿ったクレーターがはっきりと残っていたし、その時の衝撃でうつ伏せに倒れたサッカーゴールは校庭の縁でいまだに助けを待っている状態だったが、その様子を眺めているのは自分たちだけだった。
職員室にはまだ教師が何人もいたし、途中でクラスメイトともすれ違った。それでも、外でのことは誰も何も言わなかった。校庭の痕跡がなかったら、夢か何かと錯覚してしまいそうだった。もしかしたら、この学校ではこれこそが日常なのかもしれない。
生徒会室と札のかかった扉が近づき、真紀は身構えた。扉の向こうに恵庭がいると思うと、本当にこのまま突撃してもいいものか、不安になる。
「じゃんけんしない?」
あと一歩で扉の前というところで、先頭を歩く夏希が唐突に提案してきた。
「勝ったら肩でも揉んでくれるの?」
アリスが右肩をさする。
「どうしたの、急に?」
夏希は不敵に笑うのみで、二人分の疑問符を秦と受け流すと、「最初はグー」と言って拳を突き出した。条件反射で同じ動作をしてしまい、もう後には引けなくなった。
「じゃんけんぽん」
掛け声とともに突き出した二本の指が二人の掌に重なる。
「やった、勝った」
真紀はつい歓喜の声をあげた。じゃんけんをしたのが久しぶりなら、それに勝ったのも久しぶりだった。
「じゃあ、真紀が先頭ね」
間髪を空けずに夏希がそう宣言するや、アリスもうんうんと頷き、二人揃って真紀の後ろに素早く並んだ。
「どうしてそうなるの?」
これでは完全にぬか喜びではないか。真紀は抗弁したが、返事の代わりに背中をずいと押され、扉の前に突き出された。
「ほら、早く」夏希が急かし、続けてアリスが「すぐに私たちも入るからさ」と言う。
真紀はなおも反抗しようとしたが、そこで目の前の扉がガラリと開き、恵庭が顔を覗かせた。壇上で毅然と魔法界の過去と未来について語っていた顔が蘇る。
「あ、すいません」
真紀は反射的に頭を下げた。扉の前で騒いでいたのを注意されると思った。しかし、恵庭の反応は予想とは違っていた。
「すまない、呼び出してしまって。とりあえず入って。事情はすぐに説明するから」
落ち着いた声音にほうっと緊張が解けるのを感じた。どうやら叱責のために呼ばれたわけではないと安心する一方で、それなら一体なんの用なのだ、と真紀の疑問は尽きることがなかった。
**
自分について考える時、決まって頭をよぎるのは、幼い頃、父親に聞かされたこの世の理だ。当時はほとんど理解できなかったが、高校生になり、基本的な分別がつくようになると、その言葉の数々が恵庭の思考や思想に深く絡みついているのがわかるようになった。良くも悪くも、そうして自分を縛り、行く道を示してくれる道標は、確かに自分の中にある。
そうした生きる指針を持ってしても、立ち塞がる現実は想像を超えることがある。名前の知らない感覚と感情が脳を揺さぶり、こめかみを脈動させる。
結局のところ、自らの役割を自覚してもそれで全てが上手くいくわけではない。放送部が名前を読み上げてから十分程、ドアの向こうで話し声が聞こえ、恵庭は立ち上がった。一層強くなったこめかみの疼痛に、わずかに顔をしかめる。自分の不甲斐なさが半分、期待が半分といった心境だったが、これからのことを考えると、別の意味で頭が痛い。
どこまで本気なのか、入学式が始まる前に職員室に呼び出された恵庭に校長が語った話は、これまでの慣習を大きく逸脱するものだった。入学式の手前に仕掛けるのも異例なら、その日のうちに審査をすることも前例がなく、指示に従ったものの、ついさっきまで、恵庭は半信半疑だった。今も、まだ信じられない。そう都合よく人材が集まるものなのかと訝しみながら、それでも恵庭の直感が、間違いないと告げていた。
「じゃんけんぽん」
ドア越しに聞こえるのは、子供っぽい他愛ないやり取りで、とても〈タルタロス〉を打ち破ったトリオとは思えない。
候補者のリストを見た時は、自分の目を疑った。ドラゴン使いとマインド・リアクターはともかく、ひとりは全くの一般人だったのだ。そもそも入学を許可すること自体前代未聞なのに、加えて〈オリハルコン〉の貸与とはどういうことか。何かあるに違いないとも思ったが、理由に当たる項目は一切なく、「ほら、早く」と急かす声が恵庭をも急き立てた。
まったく、と胸中に呟き、恵庭はドアを開けた。
「あ、すいません」
びくりと体を揺らして頭を下げる少女を一瞥し、「すまない、呼び出してしまって。とりあえず入って。事情はすぐに説明するから」と声をかけた。
生徒会室は、通常の教室の三分の一ほどの広さがある。奥に生徒会長の机があるほかは、二人がけのソファーが応接机を挟んで向き合っているくらいで、周りは戸棚で囲まれている。調度品が少ない分ゆとりがあるとも言えるが、こうして誰かを招き入れる場合は、その中途半端な床面積が災いし、薄ら寒い空気を醸し出す。ソファーに腰掛けるように促しても、三人は硬い表情を崩さず、恵庭は何から話せばいいのかわからなくなった。
「僕は副会長の恵庭。入学早々申し訳ないけど、少し時間を貰えればと思う」
左から奥寺、一色、五十嵐の順に座った彼女らは、窮屈そうに体をすぼめながら一様に硬い表情をしていた。特に五十嵐は、こちらを見る目に不安の色が色濃く現れていた。すると、五十嵐の背景がぼやけ、暗いグレーがベールのように包み込むのが見えた。
恵庭は、人の感情をそうして視覚的に検知することができる。不安はグレー、喜びはオレンジ、恐怖は青、といった具合だ。恐怖で顔が真っ青になる、という比喩は、恵庭のような能力を持った人間の言いようが広まった例だと、昔父親から聞いたことがあった。
一色も、五十嵐ほどではないものの、グレーがかった青色をしていた。不安と畏怖がない交ぜになった感情は、恵庭にも想像がついた。一方の奥寺は、引き締めた表情を崩さないものの、ライトグリーンが頭を覆っていた。リラックスしている、ということらしい。一体どういう神経をしているのか恵庭の方が不安になったが、冷静に話を聞いているのだと無理やり納得し、恵庭は話を続けた。
「この学校はその設立から一般的には超能力や魔法といった能力者を集め、その社会進出を後押しし、日本における能力教育の礎となるべく努めてきた。とはいえ、世間にはまだ公式に発表していない存在でもあって、その能力の未熟さから不慮の事故やトラブルがあとを絶たなかった。そこで、生徒の自主性を重んじながらも学校の秩序や風紀を守り、健全な高校生活を支援するために作られたのが、『ヴォーウェル』という組織だ。『ヴォーウェル』の設置には——」
「すいません、ホーエル、ですか?」
一色がそこで小さく手を挙げ、恵庭の説明を遮った。一色が黄緑色の空気をまとい、戸惑いを伝えていた。これまで何度となくお歴々に説明していたくせで、つい急いでしまったと自分を恥じた。
「ホーエルじゃなくて『ヴォーウェル』だ。何がどうなればクジラみたいになるんだよ」恵庭は咳払いをして一色に視線を送る。出だしが肝心だ。ここで拗ねられたら、元の木阿弥になってしまう。恵庭は立ち上がり、ドアのそばに追いやられたホワイトボードを引っ張り出した。ペンを取り、『Vowel』と綴った。右に傾いたアルファベットを、座る三人が見上げる格好になる。
「学生相手にスタートした組織は、いつしか能力者が世界と対峙するための自衛組織に姿を変えたんだけど、この学校は、その発祥の地なんだ」
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