第5話

「避けて!」

 夏希が大きく後ろに飛び退く。それを呆然と視界に入れた真紀は、「真紀ちゃん!」と投げかけられた声にぐんと体を引っ張られた。アビーの腰に手を回したアリスが真紀の腕を掴み、同時にアビーが翼を大きく広げる。二人分の重みを引き受けたアビーの体が急激に大きくなる。アビーがその体を仰け反らせ真紀の体が宙に浮くのと、黒い塊が校庭に激突したのはほぼ同時だった。夜の闇よりも黒い圧力を放つ球体は、爆発的に膨れ上がった土煙の陰に隠れたのもつかの間、舞い上がった砂塵を急速に吸い込み、その姿を吹きさらしの地面に晒した。


「何なの? あれ」

 アリスに引き上げられ、右手でアビーの首に掴まった真紀は、眼下に見る出来事に目を疑った。時折表面にスパークのような光を発しながら、その光さえもたちまち吸い込まれるように消えてしまう。大型車程度のそれが、倍以上の大きさのクレーターを校庭に穿ち、その中心で何かを探しているようにうごめいている。


「〈タルタロス〉……」

 アリスはそれだけ言って言葉を失ったように目を白黒させていた。

「何なの? その〈タルタロス〉って……」

 アビーは校舎を見下ろすほどの上空へと一気に駆け上がっていた。一定の距離をとって旋回しながら、時折「くわ、くわ」と鳴き声を上げる。さっきまでの呑気そうな雰囲気はなく、アビー自身も戸惑っている気配が伝わってくる。


「それそのものが暗黒とか地獄とか、そういう存在。小型のブラックホール、みたいな」

 アリスの声は震えていた。知識としては知っていても、目にするのは初めてなのだろう。現実世界に顕現することさえ稀なのかもしれない。そんな存在を目の前にして、真紀は夏希の無事が気になった。真紀は首を左右に振ったが、いち早く危険を知らせてくれた友人の姿を認めることはできなかった。校舎の影に身を潜めているのか、もしかしたら、〈タルタロス〉に飲み込まれてしまったのか。

「夏希ちゃんが」アリスの背中に声をぶつけた。


「わかってる。あの中から助けるのは不可能だけど、大丈夫。まだ生きてる」

「わかるの?」

「〈タルタロス〉が夏希ちゃんを食べてたら、もう私達も吸い込まれてるはずだから」

 それは言い換えれば死刑の執行が猶予されているだけとも捉えられ、真紀は薄ら寒い思いがした。


「〈タルタロス〉には明確な意識はなくて、命令で動かされているだけなの。多分、最初に“目が合った”夏希ちゃんを食べない限り、こちらに敵意を向けてはこない」

「じゃあ、今のうちに助けなきゃ」

「この距離じゃわからないよ。それに近づいて、もう一度“目が合った”ら、今度は私たちが襲われちゃう」

「そんな!」


 空中からまっすぐに猪突してくるブラックホールを避けるだけで精一杯だったのに、今こちらに向かって来られたら、避けられるポイントはさらに限られる。空に隠れる場所はなく、まさに自分たちは飛んで火にいる夏の虫だった。

「操ってる人を探すか、消滅するのを待つしか」

「探すって、どうすれば……」真紀は必死に頭を動かした。何か、何か手立てはないだろうか。「夏希ちゃんの力なら、その人を探せるんじゃない?」


「まだ学校には結構な人が残ってるし、さすがに雑多な思念から命令者の思惟を見つけるのは難しいよ」

 ぐるりと周回を続けるアビーの背中越しに、〈タルタロス〉が身じろぎする雰囲気を感じた。スパークする光が強くなり、じりじりとその球体が回転をするのが、巻き上がり吸い込まれる土煙に見て取れた。どこが前なのか判然としないが、動き始めた理由は、夏希を見つけたと考えるほかに説明のしようもない。


「ヤバい。どうしよう」

 アリスの声が涙色に変わる。アリスは少しずつアビーの高度を下げる。バチっと火花が散る音が大きくなる。その度に、この瞬間にも〈タルタロス〉が夏希に飛びかかるのではないか、と真紀は気がきではなかった。掌が汗で濡れ、真紀は無意識に制服のポケットに腕を伸ばした。


「そうだ」それが指先に触れた時、電気が走ったような閃きが浮かんだ。「アリスちゃん、もう少し降ろして」

「これ以上はヤバいよ」

「お願い、もう少しだけ」

 真紀は〈タルタロス〉の巻き上げる土煙を凝視した。アビーが体を傾け、真紀の頭が地面に近づく。校舎の壁スレスレに飛んだその場所から、渦を巻くそれが、僅かではあるがヒダのような跡を校庭に刻んでいるのが見えた。


「体育館の方だ」ヒダの示す先、〈タルタロス〉の体を挟んだ反対側に夏希がいる。そう確信した真紀は、「うまくいくかわからないけど」とポケットの中に入っていたそれをアリスに手渡した。

「これって……」


「私が合図したら、体育館の入り口あたりに向かって思いっきり投げて」

「わかった」

 アビーが速度を上げた。横向きにかかる遠心力に、真紀は回転しそうになる体を押しとどめるので精一杯だった。ドラゴンに乗ったまま投擲をするのはさすがに自分では無理そうだった。それよりも、真紀は体育館との距離を測ることに注力した。円を描くアビーと体育館の距離が最短となる場所、その一点を読み、胸の中でカウントダウンをする。


「投げて!」

 アリスはその掛け声の通り、アビーの遠心力を利用して思いっきり振りかぶり、真紀が渡したそれを体育館に向かって投げつけた。

「夏希ちゃん!」

 アリスが精一杯の声を張り上げ、夏希に呼びかける。みるみる小さくなるそれが、体育館の入り口近くの通路に落ちるや、キーンと甲高い音が校庭に響いた。思わず目を瞬く。続けざまに空気が激しく震え、びりびりと胸や背中に反響がこだまする。真紀は、陽炎のように揺らぐ空気の渦が窓ガラスにぶつかる様を見た。斜め方向から校舎に襲いかかったそれが建物全体を身震いさせ、歪みに耐えきれなくなった窓ガラスが四散する。間一髪渦をやり過ごしたアビーが速度を落とし、慎重に〈タルタロス〉を睥睨するように飛ぶ。


「アリスちゃん、見て」

 旋回するアビーの背中越しに、震えながらみるみる輪郭がおぼろげになっていく〈タルタロス〉が見えた。

「うまくいったみたい」


 目頭に涙を溜めたまま、アリスが振り返った。ほっとした表情に、真紀も胸をなでおろす。体育館に向かってゆっくりと降下する。入口近くの段差から、夏希がひょっこりと顔を覗かせた。


「夏希ちゃーん」

 アリスが涙声で叫ぶ。さらさらと土が解けるように瓦解する〈タルタロス〉が、つかの間差し込んだ春の日差しに断末魔のスパークを爆ぜさせ、校庭にすり鉢状のクレーターを残して消えた。


 アビーが「くわ、くわ」と嬉しそうに声をあげ、するすると降りていく。体育館の脇、校庭に降りた夏希のそばに着地したアビーは、上体を下げ、真紀とアリスを傍に降ろした。すぐに、アビーはぶるぶると体を震わせ、元の大きさに戻っていく。

「危なかったね」


 あっけらかんとした様子の夏希に、「夏希ちゃーん」と涙で濡らした頰を擦り付けるアリスを横目に、真紀は自分の思いつきが形になった実感に浸っていた。それを夏希に渡せば何かが起こるかもしれない。単純な思いつきだった。

「それにしても、こんなものどうして持ってたの?」


 夏希が指先にそれを示した。一見すればただの石にしか見えないそれには、滑らかな表面に赤い鉱物の結晶が浮き上がっていた。

「さっきの忘れ物」

 真紀は夏希の手からその石を受け取った。春の柔らかい光に照らされ、少し傾けると結晶の断面がキラリと光沢を放つ。

「そういうことじゃなくて、それって〈オリハルコン〉でしょ?」


 真紀の発した〈オリハルコン〉という言葉に、真紀はどう返事をすればいいのかわからなくなった。この石が自分のものだと疑いなく思う一方で、その単語は全く未知のものだった。そんなはずはない、これは昔から自分が持っていたもの。けれど、それがどうして夏希の役に立つのか、どのように役に立ったのか、真紀には想像することもできなかった。


「おじいちゃんの家でしか見たことなかったけど、やっぱりそうなんだ」

 アリスが涙を拭いながら、興味津々といった顔で真紀の手元を覗き込んだ。二人分の視線を掌に感じ、真紀が思いあぐねていると、不意にチャイムがなった。校舎に付いたスピーカーががさがさと音を立てる。


「一年二組の五十嵐真紀さん、一色アリスさん、奥寺夏希さん。以上三名は、至急生徒会室まで来てください。繰り返します。一年二組の五十嵐真紀さん、一色アリスさん、奥寺夏希さん。以上三名は、至急生徒会室まで来てください」

 予告も理由もなく一方的にそう告げると、放送は唐突に終わった。


「呼ばれちゃったね」

「もう帰りたいよ」

「なんだろうね」

 三人で口々に言いながら、しばらくお互いの顔を見た。それでも、呼び出しに応じないわけにはいかず、「行きますか」と夏希が真っ先に踵を返し、真紀とアリスがその後を追った。


 このタイミングで呼ばれて、〈タルタロス〉や〈オリハルコン〉が関わらないはずはない。今日は一体何なのだと真紀は暗澹とした気持ちになる。何よりも真紀を締め付けるのは、これが向こう三年間も続くのではないかという恐怖だった。


 いったいどうすればいいのだろう。胸中に呟いても返事はない。恵庭の声と思ったあの言葉たちは、結局なんだったのだろう。そう感じただけで、すべては自分の思い込みなのかもしれない。助言をくれたはずの相手に呼び出しをくらい、前を歩くアリスと夏希の後ろをついていくしかない自分が、どうしようもなく惨めに感じた。


「アビーは連れてってもいいかな」

「大丈夫じゃない?」

 じゃれ合いながら校舎へと向かう二人の背中が急に遠く感じ、真紀は足の運びを早めた。

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