第十二章 間違ってたっていいんだ ―― 対穂高高校戦、対前橋奏明高校戦 ――

      1

 現在リードしているのはわらみなみである。


 2-1。一点差だ。


 出場停止処分によりピッチの外から応援するしかないやまゆうたけあきらの二人は、プレーの一つ一つに、ボールが行ったり来たりするたびに、ハラハラドキドキであった。


 気持ちの問題だけではなく、実際に佐原南は押し込まれている。相手のパワープレーの前に、隙をついて攻めるどころか完全に防戦一方。ゴールを死守することに精一杯で、何も出来ない状態だ。


 前へ、前へと、相手はどんどん攻め上がってくる。残り時間も少なく、失点覚悟でとにかく攻める以外の活路がないからだ。


 決勝トーナメント第一戦、佐原南の対戦相手はたか高校である。


 このギガモードスポーツクラブフットサル大会は、基本的には関東の高校が出場対象なのだが、一部例外があり、当スポーツクラブ支部の存在する新潟県、長野県、福島県からも数校が参加している。

 それと、ギガモード選抜という、大会主催者の経営するフットサルスクール生による選抜チーム。


 穂高高校は、長野県づみ市にある県立高校である。


 去年、まつもと市にある支部が開催した大会で優勝し、本大会への出場権を得たのだ。


 本大会では、主将のおおみちらいを中心に爆発的な攻撃力を発揮して、予選リーグを全勝で突破している。


 そして現在、決勝トーナメント第一戦を戦っているわけだが、ここまでのところ、その攻撃力を佐原南は押さえ込んでいる。

 いや、押さえ込めなくなって来てはいるが、なんとかこれ以上の失点は防いでいる。


 守備より攻撃という相手の特徴に付け込んで、かなめのゴールで先制した後、すぐさま大道未来の弾丸シュートによって追いつかれたが、後半開始早々にいくやまさとのボレーシュートが決まり、突き放した。

 相手が超攻撃的にシフトアップしてきたところ、佐原南は段々と耐え切れなくなり、防戦一方という現在に至っている。


 なお前回の試合で退席処分を受けた山野裕子であるが、今回、部員の一人としてピッチ近くで試合を見ることは許されている。

 部員を侮辱されたことが乱闘の原因であったため、情状酌量処置が認められたのだ。

 とはいえ、試合に関わることは一切認められていない。


 現在ピッチ上に立っている佐原南の選手は、

 真砂まさごしげ

 しの

 いくやまさと

 づき

 ゴレイロ なしもとさき、の五人である。


 篠亜由美が、相手選手の間から上手に飛び出して、シュートを打った。


 穂高高校のゴレイロもとかおりが軽く腰を落とし、右足を当てて弾く。


 生山里子が、ねじ込もうと素早く詰め寄った。


 三木本香は素早く這い寄ると、ボールを抱え込んだ。

 味方の逆転を信じて、まったく集中を切らせていない。

 素早く立ち上がると、すぐさまキックで前方の常盤ときわへと送った。


 穂高高校の常盤真理子、個人技に優れた選手である。

 とと、と後ろに下がると、落ちてくるボールを反転しながら爪先で蹴り上げた。


 狙いなのか偶然なのか、それはそのまま大道未来へのスルーパスになった。


「コース消せ!」


 審判に注意されるかも知れないことなどすっかり忘れて、裕子は叫んでいた。


 しかし、遅かった。低い弾道のボールは、真砂茂美と篠亜由美の間を抜けていた。


 華麗かつ豪快なパスに、客席から歓声が上がった。

 穂高高校の大道未来は、走りながらトラップして、勢いを殺すことなくドリブルに入り、ゴールへと独走する。


 運の要素も多分にあったのではあろうが、とにかくこのすべてに無駄のない流れるようなプレーに、佐原南の対応は完全に遅れてしまった。

 ベッキの真砂茂美が、佐原南ゴールへと疾走する大道未来を追い掛けるが、その背中はあまりに遠かった。


 佐原南ゴール前では、ゴレイロの梨本咲が低く腰を落として、睨み付けるように身構えている。

 完全な一対一。


 穂高高校に、決定的な同点のチャンスが訪れた。

 距離約三メートル、ゴール真正面、大道未来は躊躇うことなく右足を振り抜いた。


「咲ィィィ!」


 ベンチの裕子は、両腕で頭をかかえ、絶叫した。


 当の咲は冷静だった。

 少しポジショニングが悪く、ブロックした身体の脇をすり抜けそうになったが、さっと右腕を当てて、ボールを弾いていた。


 小さな放物線を描いて床に落下する直前、たっと前に出て、自らのキックで大きくクリア。


 ここで笛が鳴った。

 佐原南の勝利を告げる、長い笛が。


     2

「やったーー!」


 ゆうは大声をあげると、横を向き、両方の手のひらを、たけあきらに向けて突き出した。

 予期していなかった晶は、裕子の手を自分の手で受け止められず、どんと胸を押されてよろけてしまう。


「ノリわる! 暗っ!」

「なんでそんなんで、暗いなんて決めつけられなきゃならないんだよ。やろうとしなかったわけじゃなくて、いきなりだったからだろ!」


 地味で根暗であることを自称公言しているくせに、他人にいわれるとムキになる晶であった。


 試合が終了し、ピッチ上では両校の選手たちが中央に集まって、互いの健闘をたたえ合う挨拶をかわしている。


 裕子は部長であるが、それには参加しなかった。

 先日は退席処分を受けた身とはいえ、途中までは戦っていたから挨拶をしたが、この試合には全く出ていないからだ。


 裕子と晶がいないため、きぬがさはるがゲームキャプテンとして、先頭に立っている。

 いくやまさとが後に続いて副部長気取りなのは、どういうわけか分からないが。


 挨拶を終えた佐原南の選手たちが、ピッチを出てベンチへと戻ってくる。


 武田晶は立ち上がり、梨本咲を迎えた。


「咲、お疲れ。大活躍だったね。あと一試合、退場だけはするなよ」


 当然ではあるが、決勝トーナメントはトーナメントであるからして一敗も許されない。

 ゴレイロが二人とも出場停止などという状況になったら、目もあてられないというものだ。


「まあ、しちゃったらしちゃったで、さ。全力でやらなかったら勝てるものも勝てない」


 咲は、さらりといってのける。


「そうかも知れないけど、でも、しちゃったらしちゃったで、なんてそんな軽くいうなよ」

「大丈夫だって。そしたらあたしが咲の代わりにゴレイロやるから」


 会話を聞いていた衣笠春奈が、二人の間に入り込むと、自信満々の笑顔で自分の胸を叩いた。


 春奈のその笑顔に、晶の顔に少し余裕が戻っていた。


「ごめん、咲。プレッシャーかけてた。春奈、ありがとう。そうだよな、いざとなれば春奈だっているんだからな」


 とはいえ、春奈のゴレイロとしての能力は、それほどではない。


 晶としては、なによりもそういってくれる気持ちが心強いということだろう。ゴレイロ陣への心配りが有り難いということだろう。


「そういや、春奈ってデビュー戦でゴレイロをやったんだよな」


 晶は思い出したようにいった。

 まだフットサル初心者だったというのに、選手不足のためにいきなりゴレイロをやらされて、しかも絶妙な上がりからゴールまで決めてしまったのだ。


「あれは凄かったなあ。体調不良で見ていただけの、誰かさんと違って」


 晶は、ちらり裕子へと視線を向けた。

 裕子は食中毒の病み上がりによる体調不良に生理不調が重なってしまい、頭痛に吐き気に出血に、試合どころではなかったのだ。


「うっせーな、そんな二年も前のこと。じゃあ一昨年の分、しっかりと活躍すりゃあいいんだろ」


 裕子はむっとした顔になり、吐き捨てるようにいった。


 晶は、もう一度ちらりと裕子の顔を見た。


「なんだよ。やんのかあ?」


 凄む裕子。

 晶は、そんな裕子の腕を唐突に掴むと、


「ちょっと来て!」


 ぐいぐい引っ張って、他の部員たちから少し離れた場所へ。


「王子……」

「だから、なんなんだよ」

「やっぱり、試合に出るつもりなんだ」


 晶は、周囲の視線を気にしながら、かろうじて裕子の耳に聞こえるような、ぼそりとした声で尋ねた。


「当たり前じゃんか。出場停止が明けるんだから」

「その足で?」


 晶のその一言に、裕子の表情が変化していた。

 なにかが落ちたように、穏やかな顔になっていたのである。ほんの僅かな変化ではあったが。


 やっぱり、分かっていたのか。

 隠せないな、晶には。


 胸の中で、裕子は微笑んでいた。


 一人抱えていた重荷がとれたためか、すっきりした顔になっていた。


「まあどうせさ、今日が高校生最後の公式試合なんだし。……出なきゃならないって思ったら……躊躇いなく出るつもりでいる」


 もともと考えていたことであるが、晶の言葉に、裕子は改めて意思を固めていた。


 二人は、しばらくの間、無言で見つめ合った。

 先に口を開いたのは、晶であった。


「分かった」


 裕子は、どきっとした。


 晶の、その言葉にではない。

 なんだか晶が、微笑を浮かべたような気がしたのだ。

 普段見せない表情に、ちょっとびっくりしたのだ。


「じゃあ、ちょっとそこに座って」


 晶は、また裕子の腕を取ると、ベンチへと歩き出した。

 いわれるままに導かれて、裕子は椅子に腰を下ろした。


 目の前にしゃがんだ晶は、裕子の右足に手をやると、持ち上げて、するりと靴下を脱がせた。

 バッグから取り出した軟膏を、薄く伸ばしてすり込むと、次いでテーピングを始めた。

 裕子は、呆気に取られていた。

 自分の足首やふくらはぎに、ぐるぐるとテープが巻かれていく様を、ただ黙って見ているだけだった。


「よし。これで少しは、痛みも和らぐと思うから」


 晶は、道具をバッグにしまった。


「ありがと……」


 それきり、また無言に戻る二人。


「そ、それくらい自分でやるからっ」


 裕子は、靴下を履かせようとする晶の手を慌てて払いのけ、自分で素早く靴下を履いた。


 また、言葉が出ず、二人は無言で見つめ合った。

 晶の性格が性格であるため、会話の全くないことなど慣れっこのはずなのに、裕子は何故だかいま、無言でいることが無性に気恥ずかしかった。


「カニバサミ!」


 まったくもって唐突に、両足で晶の身体を包み抱き込んだ。

 そのままぐいぐいと締め上げる。


「そういう意味のないことやめろ! 足、酷くしたらどうすんだよ!」

「もがけばもがくほどに陥るまさに死の罠」


 じゃれあう二人の姿を、いつの間にか近くに寄って来ていたたけなおがじいっと見ている。


「ほーんと、仲いいよねえ」

「どこが!」


 抗議の声を上げる晶。


「そんなあ、晶ちゃん、あたしたち仲良しじゃないのよお」

「だったらそのカニバサミやめろ! 苦しいってば」

「勘弁してやっか」


 捉えた獲物を、死の罠から解放してあげた。

 ジャガイモにも五分五厘の魂だ。


「勘弁してやるのはこっちの方だよ。バカ王子。そんなことよりどう? 足は」


 いわれて、裕子は右のシューズを履き立ち上がる。とんとん、と靴の底で床を叩いた。

 裕子の表情が変化した。花の咲くように、ふわりとした笑みが浮かんでいた。


「悪く、ないかも」


 どこか元気を演技していることを自覚していた裕子であったが、晶から突然与えられた希望に、本当の元気が戻ったような気がした。


「巻き方にさ、ちょっとしたコツがあるんだよ」

「エラそうに」


 でも、自慢じゃなくて照れ隠しだろうけどな。


「あの、足、どうかしたんですか?」


 武田直子が尋ねた。


「いや、なんでもない。いざって時に古傷が痛まないよう念のため。そんじゃ、みんな集合! ミーティングやっぞ!」


 裕子は手を上げ大きな声を出した。


     3

 話す内容は当然、次の対戦相手であるまえばしそうめい高校との試合についてだ。


「相手の特徴だけど、一言で表すなら守備の堅さ。一点二点をしっかりと守ってくる。先制されたら厳しくなるんで、注意してこう。情報通の友達持ってる先輩に、さっき電話で聞いてみたんだけど、前橋奏明って群馬では超有名な強豪校なんだって。どの選手も、とにかくレベルが高い」


 裕子はいったん言葉を切り、ひと呼吸置くと続ける。


「特に注意が必要なのは、主将のはしづめけい。それとよう、通称キッド。ならともかく、なんで戸谷なのにキッドなのかというと、小学生の頃にちょっとものもらいで眼帯してる間に男子にあだ名されたとの、そんなどうでもいい情報も淡々と聞かされた」

「ほんとどうでもいいな」


 ぼそり呟くいくやまさと


「チーム戦術としては守備的だけど、個人技としてこの二人の攻撃力は半端じゃない。逆にいえば、だからこそ守備的にやっていられるんだ。それでも点が取れるから、リスクを冒して攻める必要がない。この二人の攻撃を、しっかりケアしつつ、こっちも攻守のメリハリをつけてガードをこじ開けてこう。先制出来さえすれば、うちだって守備は堅い。と、そんなところかな。その二人に要注意ってだけで、フォーメーションや戦術なんかは、普段通りでいくから。以上。分かった人、手を上げて! はいっ!」


 裕子は、さっと右腕を天高く突き上げた。


 あほか、といった顔で、みんな、だらだらと挙手。


 裕子はさらにもう片方の手を挙げてバンザイした後、ゆっくりと両手を胸の前へと下げながら、


「ヤマダクーンオッパイクダサーイ」


 唐突に、コント歌舞伎23区の持ちネタ。


「くっだらない」


 里子が、一同を代表するかのような一言を呟いたが、しかし、次の瞬間、ぷっ、と誰か吹き出していた。


「お、ズッキーナ、笑った? いま笑ったでしょ? 絶対笑った。決定!」


 裕子は、まるでゴキブリのような素早さでもってづきの前にささっと駆け寄ると、彼女の眼前に自分の顔を持っていった。


「笑ったよねえ」

「笑ってません!」


 葉月は、顔を真っ赤にして否定した。ここでそれを認めたらそれこそ人生を否定されてしまう、とそんな必死さで首を横に振った。


「あらあ、隠さなくてもいいのよお、昨日一緒に真っ裸になってお風呂に入った仲じゃないのよお、ズッキーちゃああん。よっしゃ、、手伝え!」

「おいよ」


 すっと駆け寄る西にしむら


「ヤマダクーンオッパイクダサーイ」

「クダサーイ」

「サンバイクダサーイ」

「オッパイクダサーイ」


 変態的としかいいようのない、この異様極まりない空間から逃れようとする葉月であるが、いつの間にやらしのに背後から羽交い締めされていて、逃げるに逃げられなかった。


 葉月は、必死に堪えているような表情であった。

 素潜りチャレンジで限界に達しかけているかのような、いまにもがぼがぼと吹き出してしまいそうな。


「奈々、亜由美、頑張れ! 気合で負けるな。あとちょっと! なんかこの、やり遂げてない中途半端な気持ちのままで試合したくない。オイオイヤマダクーン」

「笑うより先に泣いちゃう気がしてきた」


 顔に同情の色を浮かべているくせに、がっちり羽交い締めは微塵も緩める気配のない篠亜由美。


「もう次の試合始まりますよ!」


 みなが声の方を見る。

 黒のシャツとパンツ姿の男性。

 昨日の、かしわふなぼり女子との対戦の際に担当だった審判だ。


 葉月は、篠亜由美が羽交い絞めを解除したと同時に、目を覆い隠して鼻をすすりながら、走って逃げていってしまった。ぼほっ、とむせる声が聞こえた。


「君は出場停止明けなんだから、そういうことは慎んで下さい」


 審判に注意され、


「はーい」


 裕子は渋々謝った。

 くそ、もうちょっとで葉月笑わせられたのに。


「怒られちたね」


 奈々。


 裕子と奈々は、顔を見合わせた。

 突如、どちらからともなく大爆笑になった。


 一瞬で空気感染して、部員たちみなが笑い出した。

 などとやっているうちに、ピッチ上に次の対戦相手であるまえばしそうめい高校の選手たちが入ってきた。


「主将のはしづめです」


 キャプテンマークを腕にまいた者が、同じくキャプテンマークを腕にまいた裕子へと近寄ってきた。


 わらみなみの異様なムードに、ちょっとどころか相当に躊躇いつつではあったが。主将がオッパイクダサーイなどと絶叫しているのだ、そうもなるだろう。


 はしづめけい

 色の黒い、健康そうな外観だ。

 すらっとしているが、筋肉質であること一目瞭然。

 膝など肌の露出している部分だけでなく、ユニフォームが中から押し上げられているところからも分かる。

 筋肉が詰まっているのにまるでそれを感じさせない裕子とは、対照的だ。


「山野です」


 裕子も前に出て、二人は握手をかわした。


 他の登録メンバーも列になり、一人、一人、と握手をかわしていく。

 先発である十人だけがピッチに残り、それ以外はベンチへと下がった。

 間もなく、試合開始だ。


 それぞれの先発メンバーは、次の通りである。


 前橋奏明

 ゴレイロ ぶみ

 FP なだおり

 はしづめけい

 よう

 おおかわまさ


 佐原南

 ゴレイロ なしもとさき

 FP 真砂まさごしげ

 しの

 いくやまさと

 ほしいく


 裕子は、自らを先発からは外した。

 足が万全ならば最初から出たいところだが、万全でないのだから仕方がない。


 生山里子が、ボールの上に足を乗せ、キックオフの笛を待っている。


 第一審判が、笛を口にくわえた。


 長い音が鳴った。

 決勝トーナメント第二戦が、佐原南のキックオフで開始された。


     4

 さとはちょんと前へ転がすと、すぐさま横にいるしのへ。


 篠亜由美からほしいく、また里子とパスが繋がり、そしてこの試合のファーストシュート、里子はフェイントでゴレイロの虚を突きつつ隅を丁寧に狙った。


 だがまえばしそうめいゴレイロぶみは、冷静的確な判断で足で弾いた。里子がさっと詰め寄るが、それより先にボールに飛びつき、しっかりと押さえた。


 小踏奈美恵はボールを丁寧に、ベッキのなだおりへと転がした。


 灘香織から、前線の橋爪恵子へ。前橋奏明、一瞬の隙をついての長い縦パスだ。


 そうはさせじと、軌道上に篠亜由美が身体を入れ、ボールをカット。


 だがその直後、亜由美の足の間からはしづめけいが足を伸ばしてボールを弾いていた。


 橋爪恵子、前橋奏明の主将である。

 彼女は、タッチに逃れるつもりで弾いたのかも知れないが、こぼれたボールがラインを割る直前、駆け寄ったようが拾っていた。


「キッド、サンキュ」


 橋爪恵子は右手を上げ、相棒に礼をいった。

 戸谷陽子は、一度ボールをベッキの灘香織へと戻した。


 そのパスを読んでいた里子であったが、惜しくも爪先をかすめるだけで奪うことは出来なかった。そのまま全力で走り続けて、灘香織へと詰め寄るが、次の瞬間にはボールは戸谷陽子へと渡っていた。


 里子は舌打ちした。


 でも、いずれ点は取れる。

 それほどの恐さは、相手に感じない。


 地元では有名な強豪とのことだが、それほど勢いは感じない。堅実にボールを回してくる感じだ。


 直後、その甘い考えに里子は肝を冷やすことになる。

 前橋奏明の橋爪恵子が、亜由美との対峙から、仕掛けた。ボールを右に左にと小さく転がすと、一気に抜き去った。

 と、次の瞬間には、まるで雪崩のように前橋奏明のFP全員が上がっていた。


 その雪崩から抜け出すように飛び出したのは戸谷陽子、その足元にはボールが。と見えた瞬間には、シュートを放っていた。


 だが、なんとか駆け戻った里子が、スライディングで軌道上へ。自分の足元に引っ掛かるボールを、慌てて蹴ってタッチラインの外へと掻き出し、難を逃れた。


 里子は立ち上がると、ほっと安堵のため息。

 事前に相手チームの特徴を聞かされていなかったら、どうなっていたことか。


 前橋奏明のキックイン。

 灘香織は、橋爪恵子へと転がした。


 ボールを受けようとする橋爪恵子のすぐ背後に、突破を阻止しようと真砂まさごしげが張り付いた。


 橋爪恵子は一歩踏み出して、ボールを受けずに角度を変えた。

 斜め後方への、ヒールパスだ。


 茂美が一瞬の躊躇を見せたその瞬間には、ボールは、最前線にいるおおかわまさへと繋がっていた。


 大川昌美に亜由美が詰め寄るが、既にボールは戸谷陽子へ。戸谷陽子から橋爪恵子、そしてマークをずらした大川昌美が悠々と受ける。


 奪えない。

 佐原南の選手たちが懸命に走り、足を伸ばすが、水が手のひらからこぼれ落ちるがごとく、するりするりと相手のパスだけが綺麗に繋がっていく。


 時間が進むにつれ、前橋奏明のボール回しが、どんどんとよくなってきていた。


 速く、的確。自信を持って回している。

 自慢の堅守が、思い切りプレーする勇気を与えてくれるのだろう。

 その勇気が、自信を後押ししてくれているのだろう。

 好循環が生じているのだ。


 出し手と受け手の位置、ボールに関わっていない者の動き、いわゆる連動感というものが敵ながら見事なまでに噛み合ってきていた。


 佐原南も、練習であればこの程度は出来るのだ。

 だが、相手のいる真剣勝負で、ここまでのパス回しは出来ない。


 前橋奏明、さすがに勝ち上がるべくして勝ち上がってきた高校といえるであろう。


 大川昌美が、ポストプレーを見せる。真砂茂美を背負いつつ、素早く反転し、ヒールで真横へと転がした。


 茂美がそれを認識した瞬間には、既に駆け込んできた橋爪恵子にシュートを打たれていた。


 右の爪先で豪快に蹴ったボールは、大砲のように真っ直ぐと佐原南ゴールを襲う。


 完全に枠を捉えていたが、ゴレイロ梨本咲が毎日の練習の成果、成長を見せた。

 左手一本で、大きく弾き返したのだ。


 ピッチ内外でほっと安堵する佐原南の部員たちであるが、その後も前橋奏明のペースは続く。


 佐原南は、完全防戦一方というほどでもないにせよ、守備に追われる時間帯が大半を占めていることは事実であった。


「茂美先輩、クリアしないで繋いで下さいよ!」


 まだ序盤だというのに、生山里子は焦りを感じ始めていた。

 相手の特徴が堅守ということから、勝手に、佐原南が終始支配し前橋奏明が守るという構図を思い描いていたからだ。

 それをいうなら、佐原南だって特徴は堅守だというのに。


 里子の脳内で、彼女自身の悪い部分が育ちはじめていた。

 イライラが募りはじめていた。


 一度相手を下に置くと、その相手にやられることが我慢出来ないのである。試合でも、練習でも、それで何度も手痛い目にあってきているというのに。


 とにかく、どんどん攻めりゃいいんだ。

 受けに回ってるから、相手のペースになってるだけ。

 攻撃は防御、防御は攻撃。どっちも真なら、なら攻撃した方がいい。点をより取った方が勝つ。それがフットサルなんだから。

 理屈なんかはどうでもいいから、とにかく先制すりゃあいいんだ。

 うちだって守備は堅い。先制さえすれば、うちなら守れると、王子先輩もいっていた。

 それなら……


 里子は不意に走り出し、前橋奏明の、大川昌美から橋爪恵子へのパスを奪った。

 勢い重視で、周囲との連係を無視してドリブルで突き進んだ。


「里子、無理すんな!」


 裕子の叫びも、届かなかった。


 蚊がなんかうるさい。


 前橋奏明のゴールへ向かって突進する里子。

 正面には、ベッキの灘香織が待ち受けている。そこを抜けば、ゴレイロと一対一だ。


 絶対に、決めてやる!


 と、スピードに乗ったドリブルで狭くなっている里子の視界から、灘香織の姿が、すっと消えていた。

 なにかおかしい、と里子が本能的に感じたその瞬間、横からガツンと激しい衝撃を受け、よろけていた。

 真横から、橋爪恵子にボールを奪われたのだ。


 橋爪恵子は前方へと走る灘香織に素早くパスを送ると、自身も走り出した。

 里子が一人だけ前へ出すぎていたため、前橋奏明の方が人数が多い状況になっていた。

 舌打ちし、素早く振り向き戻る里子。


 人数有利から一人フリーの灘香織が、味方とのワンツーを繰り返して佐原南の守備をかい潜りながら、あっという間にピッチを駆け上がっていく。


 灘香織と大川昌美の間に入り、パスコースを塞ぐ茂美であったが、すでにボールは反対サイドにいる戸谷陽子へと渡っていた。


 戸谷陽子は、篠亜由美のマークをうまく外して、ボールを受けた。


「キッド!」


 戸谷陽子の背後から、橋爪恵子がニックネームを叫ぶ。その声に反応して、戸谷陽子はボールを爪先で浮かせた。


 駆け寄り、必死に足を伸ばす亜由美だが、それを嘲笑うかのようにその足の上をボールが越えていく。


 上がってきていた橋爪恵子が、そのボールを右足の先でトラップ。

 速度を落とすことなく、そのまま走り抜けるようにボールを運ぶ。戸谷陽子からそういうボールが来ることが、分かっていたのだろう。


 橋爪恵子は、佐原南守備陣を完全に突破し、ゴレイロの梨本咲と一対一になった。

 フェイクを仕掛け、咲のタイミングをずらしてシュート。

 右足の内側で、丁寧に流し込むように、ゴール隅を狙って転がした。


 咲は、タイミングをずらされながらも、なんとか反応し、足を伸ばすが、紙一重の差で間に合わず、ボールはその足の横をすり抜けて、ポストの内側に軽く反射して、ゴールに入った。


 そろりとゴールネットが揺れた。


 前橋奏明の、先制点が決まった。


     5

 なしもとさきは、がっくりと肩を落とした。

 だん、と足を踏み鳴らすと、黙ったまま天井を見上げた。


 そのすぐ近くで、はしづめけいようは抱き合い、髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回し、喜びを爆発させている。


「ボンバーも、サンキュ」


 橋爪恵子は、今度はなだおりに近寄り、背中に腕を回して嬉しそうに何度も叩いた。


 そう、この得点は、橋爪恵子のいうボンバー、ベッキのなだおりによる果敢な攻め上がりから生まれたものなのだから。


 まえばしそうめいは選手のそれぞれが個人技に優れ、戦術理解に優れるだけでなく、空気を共有する能力にも優れているようであった。

 でなければ、あの連係からのゴールは生まれない。


 電光石火、堅守速攻、疾風迅雷、そうした言葉で讃えるしかないといった、それはもう、流れるような見事なゴールであった。


 呆然と立ち尽くしているいくやまさとであったが、知らず知らずに両膝をついていた。

 我に返ると、間近に見えた床に、拳を叩きつけた。

 もう一度、叩きつけた。


 絶対に先制されたくない相手だったのに……

 こうも簡単に、

 自分の、判断ミスから……


 判断ミスというよりも、そもそもフットサルに対して、こういった大会に対して、甘い考えを持っていたのだ。そこを、ついにというべきか、容赦なく横からガツンと、金槌でぶん殴られたのだ。


 自分に対して、ザマアミロといってやりたい気分だった。

 その金槌で、今度は自分で自分をぶん殴ってやりたい気分だった。


「里子、気にすんな。追いつける! 一点差一点差!」


 裕子はベンチから大声を張り上げ、里子を励ました。


「尻ひっぱたいたりカンチョ食らわしたり人前で後ろからガッとズボン下ろすのは、試合が終わったあとだ! あたしが部長としていま出来ること、アホな部員の気持ちを切り替えさせることー!」


 などとみんなの面前で叫んで素晴らしい部長アピールをしているあたり、ちっとも励ましてなどいないのかも知れないが。


 里子はゆっくりと立ち上がった。


「アホっていうそっちがアホですよ」


 弱々しい視線で、ベンチで叫ぶ裕子を見ているうちに、その顔にちょっと笑みが浮かび、そして、持ち前の強い眼光がちょっとだけ戻っていた。


 佐原南ボールのキックオフで試合再開だ。


 先制したことにより前橋奏明が守りに入った、というわけではないのかも知れないがが、その後は両チーム膠着状態に、押しつ押されつの互角の展開となった。

 だがリードしているのは前橋奏明であり、佐原南はこのまま点を取れなければ負けてしまう。


「交代!」


 山野裕子は、膠着状態打開のために手を打った。

 篠亜由美と星田育美を下げて、かなめたけなおを投入した。


 里子を後方に置き、連係はともかく高いマンツーマン能力で守備を頑張ってもらい、前線でナオカナを思い切り暴れさせる作戦だ。


 特に博打でもない、安全かつ効果的な戦法である。と、裕子は信じて送り出したのかも知れないが、しかし、世の中そう甘くはなかった。


 裕子のとった作戦は、強豪と呼ばれるチームのその強豪たる所以を、ただ思い知らされることとなるだけであった。


 ナオカナによるコンビネーションが封じられ、全く機能しなかったのである。


     6

 なんだよこりゃ、まいったなチクショウ。


 やまゆうは、面白くなさそうにバリバリ頭を掻いた。


 ナオカナ投入で巻き返しだ、と思っていたのに。


「厳しいなあ」


 たけなおかなめのコンビネーションは、パスのコースやタイミングをことごとく読まれ、ことごとくカットされてしまっていた。


 久慈要の群を抜いた個人技こそ、それなりに通用するものの、個人技だけではフットサルは成り立たない。


 そもそも個人技という面でいえばまえばしそうめいも相当なものであり、個人としても集団としても成熟した強豪相手に、むしろ佐原南の方こそがチーム力でなんとか対抗している状態ともいえるのだ。


 前橋奏明は選手の個人能力が高いだけでなく、そして相手チームへの対策がしっかりしているだけでなく、相手選手個人個人への対策までもが緻密でしっかりとしている。そうかどうか分からないが、裕子はそのような印象を抱いている。


 実際、研究しているのだろう。

 昨日の段階では、あまりに参加チームが多く、決勝トーナメントでの対戦相手など分かるはずがなかったが、本日の決勝トーナメントならば隣ブロックの勝ち上がった方と当たるに決まっている。

 おそらくは今日の第一戦を、有能な観察眼を持つ者に偵察させたのだろう。


 しかし、ここまでしっかりと対策してくるとは。

 すげーな、くそ。


 これで何度目だろうか。

 また、武田直子の久慈要へのパスをカットされてしまった。しかも今度は、なんとゴレイロのぶみにだ。


 スカウティングから研究した対策があまりにハマるものだから、全員が完全に自信を倍増させているのだろう。


「戻れ! 固めろ!」


 ベンチから、裕子は声を張り上げた。


 急いで守備に戻る久慈要。


 悠々とドリブルで上がっていくゴレイロの背中を、武田直子は懸命に追いかけた。


 決して佐原南をおちょくっているわけではないのだろう。一試合たりとも落とせないトーナメント、これが前橋奏明高校の、しっかりと勝利を積み上げるための戦い方なのだ。


 情報によれば、小踏奈美恵はもともとFPからゴレイロに転向した選手。足でのボール扱いも実に巧みで、ベッキのなだおりとのスピーディなワンツーで、立ちはだかるいくやまさとを見るも簡単に抜き去った。


 灘香織は奪われてカウンターやロングシュートを受けた時に備えて自陣ゴールへと戻っていくが、片やゴレイロの小踏奈美恵はドリブルでどんどん攻め上がっていく。


 ゴレイロ小踏奈美恵から、ピヴォのおおかわまさを狙ったスルーパスが出た。

 大川昌美に真砂まさごしげが食いついたが、しかし大川昌美は難なくワンタッチヒールで後ろに流した。あらかじめ決められていたかのように、微塵も迷うことなく。


 ボールの転がる先へと駆け込んできていたのは、またしてもゴレイロの小踏奈美恵であった。

 ゴール前で、佐原南ゴレイロのなしもとさきと一対一になった。


 咲は、腰を低く落とし身構える。

 長い笛が鳴らされたのと、小踏奈美恵がシュートを放ったのは同時であった。


 ボールは咲の脇を抜け、豪快に、ネットに突き刺さっていた。

 咲は全く、反応することが出来なかった。


 こうして佐原南は、突き放された。

 いや、審判が得点無効のゼスチャーを出している。


 小踏奈美恵が蹴った時点で、既に前半戦は終了していたのである。

 梨本咲は脱力し、尻餅をつくと、そのままばったりと後ろに倒れた。そっと、胸に両手を当てた。


 ベンチでは、山野裕子ときぬがさはるが手を取り合って、二人揃って安堵のながーいため息をついていた。


「審判次第じゃ、失点してたぞ」


 裕子は、額の汗を袖て拭った。


 ほんと、危なかった。

 いまのゴールが認められていたら、と思うとゾッとする。


 でもまあ、失点しなかったというのが間違いない事実だ。

 ツキには見放されていない。

 絶対に、逆転してやるぞ。


 裕子は椅子から立ち上がった。 

 選手たちが次々とピッチから出て、それぞれのベンチへと向かう。

 これから、十分間のハーフタイムだ。


     7

「はい、お疲れさん」


 裕子はぱんぱん手を叩きながら、引き上げてくる仲間を迎えた。


「どうしたみんな、表情暗いよー。あきらじゃないんだから」

「だって……」


 たけなおが、しゅんとしたように下を向いている。

 みなまでいう必要もなく、全員、同じような思いを抱いているようであった。


 普段強気発言ばかりの里子ですらも、元気がない。

 里子の場合は、失点のきっかけを作ってしまったという自責の念もあるのだろうが。


「そんな顔してちゃあ勝てるもんも勝てない。暗いなあ。晶じゃないんだから」

「なんでいちいちあたしのことを引き合いに出すんだよ!」


 不満満面裕子に詰め寄る武田晶。

 はは、とふかやまほのかやなつらから乾いた笑いが起きただけであった。


「仕方ねえなあ。じゃ、作戦会議いくぞー」


 本当は裕子も少し落ち込んでいたが、努めて明るくかつ淡々とした態度で振る舞った。


 後半戦に向けての戦い方の指示は、ごく簡単なものだった。

 守備は出来ているので、かなめたけなおの攻撃力を生かすための味方のフォローについて。これが、話した主な内容であった。


 続いて恒例、軍師きぬがさはるによる、相手個人への対応の指示。

 だけど、精神論的な言葉が大半をしめた。

 それだけ、「知ってれば突ける」という穴が、前橋奏明の選手たちにはないのだ。


「はい。春奈あんがと。とまあ、そんな感じで、要約すると気を抜くな、と。相手、なんかクソ強いからね。だからまあ、なんだその、内容はともかく、最終的に追いついて追い越した状態で試合終了出来てりゃあいいから」


 と、裕子は身も蓋も無い台詞で締めくくった。

 この試合が難しいことなど分かっている。だからこそ、簡単にいってみたのだ。


 もうハーフタイムも終る。

 コート向こう側では、前橋奏明の選手たちが円陣を組み、元気に気合いを入れると、一人また一人とピッチへ入っていく。


 佐原南も、遅れて円陣を組み、それぞれの場所へ散らばる。

 前橋奏明ボールで、後半戦が始まった。


     8

 修正が効いたのか、前半よりもわらみなみの動きがよくなっていた。

 前半戦は、序盤はまえばしそうめいペースで点が動いてからは膠着状態であったが、後半序盤である現在、明らかに佐原南が押している。


 パスがスムーズに回っているし、取られても前線からの守備が効いて、相手をうまく自陣に押さえ付けておくことが出来ている。


 しかし、相手はもともとが堅守に定評のあるチーム。押していようとも、簡単にゴールを奪うことは出来ない。


 百戦錬磨の経験なのか、ただ戦術が佐原南に対してハマっているだけなのかは分からないが、とにかく押されている時の守り方も実にしっかりとしており、まず崩されることがない。


 全国大会に出場したことも多く、強豪同士の戦い方にも慣れているのだろう。

 千葉県でいう、ひがしのような存在か。


 一分、二分……無駄無益とまではいかないが、とにかく全く得点の動かないまま時間ばかりが過ぎていく。


 やるしか……ないよな。

 ベンチに腰を下ろしているやまゆうは、右の足首とふくらはぎを、テーピングや靴下の上からなであげた。


 すーっ、と深呼吸をする。

 両方の拳を強く握ると、腿をぽんと叩き、勢い良く立ち上がった。


「茂美、交代!」


 大声で叫ぶと、ゆっくりと交代ゾーンへ向かって歩き出す。

 覚悟を決めた。

 そんな、裕子の表情であった。


「王子、ズボン逆!」


 背後から、慌てたようにたけあきらが叫んだ。

 はっとしたように、裕子はガニ股になって自らのユニフォームのパンツに視線を下ろした。

 確かに、後ろ前……


「アホウ! なんでずっと黙ってたんだよ!」


 意地が悪いにもほどがあるぞ! ほんと暗いな。


「知らないよ! 王子がほとんど座ってたからだよ。そもそも、なんで自分で気づかないかなあ。って、ここで脱ぐなあ!」


 晶は悲鳴のような叫び声をあげると、試合の時に勝るとも劣らない素晴らしい瞬発力で裕子のもとへ駆け寄り、下着が半分以上見えてしまっているほどにずり下がったユニフォームのパンツを両手で掴んでぐぐっと持ち上げた。


「あいたた、食い込む食い込む! バカ!」

「バカはそっちだ!」


 ピッチ外での異様な光景に唖然としてしまっている前橋奏明の選手たち。


 対して佐原南の部員たちは、部長の寄行にはすっかり免疫が出来ているので、だからなんだというくらいに平然とした顔であった。


「めんどくせえなあ、もう」


 裕子は渋々とした表情で、コートに背を向け中央扉を開き通路へ出ると、早足で更衣室へと向かった。


 お、すぐ近くにトイレがあるじゃん、そこでいいや。


 と思ったが、通路に誰もいないことに気付き、その場で素早く脱いで履き直してしまった。

 会場への扉を再び開ける。

 スコアボードの点数は、動いていない。


「おまた!」


 ベンチへ戻りながら、裕子は叫ぶ。


も付けろ! ったく、こんなとこでいきなりズボン脱いで。またプレーと関係ないことで退場になるところだったよ」


 ぶつぶつと小言で愚痴をいう副部長。


「古いことまだいってら。暗っ」


 裕子は、改めて交代ゾーンへ。小走りでやってきた真砂まさごしげとタッチ。


「お疲れ、茂美ちゃん。ちょっと休んでてよ。おう、王子はん任せたわい。がっつんゴール決めてえや、はんなり~」


 茂美が無口なのをいいことに、妙ちくりんな言葉づかいで台詞を勝手に作ってしまう裕子であった。


 背後から「茂美は関西弁じゃないよ!」としのの怒声が飛んできた。


 茂美の声なんて、そもそもほとんど聞いたことないのに何弁かなんて知るかっつーの。

 それより、試合だ!

 やるぞ!


 ピッチに入るなり、裕子は走り出した。

 笛を吹かれてもおかしくないような激しさでガッと身体を入れて、ようからボールを奪った。


 しかし裕子の足の間から、戸谷陽子の足が伸びて蹴り出された。


 こぼれたそのボールを、なだおりが拾った。


 裕子は、また走り出した。

 指を差し、相手を挟み込むべくいくやまさとへと指示を出す。


 走りながら、裕子は思っていた。

 足の感じ、だいぶいいかも。と。


 ずきずき痛むことを覚悟していたので、とりあえずのところほっとした。


 これも晶のテーピングのおかげだ。

 今日一日、もってくれるといいけど。

 とにかく、今日がというよりこの試合をなんとかしないと。

 負けているんだ。追い付き、追い越さないと、もう次の試合はないのだから。

 出る以上は、足のことなど気にしていられない。全力でやらないと。

 そう、全魂全走だ。


 前橋奏明の灘香織が、橋爪恵子へとパスを出した。


 裕子の読みが当たって、今度は完全に奪い取った。

 短くドリブルし、向こうサイドに見えたかなめへと長いパスを送った。


「カナちん!」


 たけなおが、叫び声をあげながらゴール前へと走り込む。


 久慈要は、裕子からのパスをダイレクトに、ゴール前へと放り込んだ。

 低く、速い、浮き球のクロスに、ゴール前に走り込んだ直子が頭を叩き付けようと飛び込む。

 だが、クロスの軌道上に入り込んだ灘香織に、大きくクリアされてしまった。


「いいよ、続けてこう!」


 裕子は手を叩いた。

 とはいうものの、ここまでしっかり対策されているとなると……もう打つ手は一つか。


さき、上がれ!」


 邪道に見えるが実は正攻法、パワープレーだ。


「え、え、なんであたしが?」


 咲の顔には、疑問符が幾つも顔に張り付いている。


「疲れてないからだよ。そんだけだ」

「どうなったって知らないですよ」


 なしもとさきは、不安そうな表情ながらも小走りに前へ出た。


「どうせ負けてんだ。点取りにいった結果やられるんじゃ仕方ない」

「了解」


 パワープレーというのは、ゴレイロがPAペナルテイエリアを飛び出してFPフイールドプレイヤーとしてプレーすることだ。強引に一点を狙う際に用いられる戦術である。


 つまりは、足元の技術も求められるわけであり、通常は足元の上手なゴレイロ、もしくは本来のゴレイロを交代させてFPがゴレイロの服を着てプレーするものである。


 梨本咲には、足元の技術はそれほどない。

 だからこそゴレイロに転向したくらいなのだから。

 従って、何故自分をパワープレーで使うのかという裕子の采配に疑問を抱くのは当然といえたであろう。


 裕子としては、咲はまだ疲れていないからというのも理由だが、なによりもその、技術への自信の無さというのが大きかった。


 みんなには隠しているが、劣等感に悩んでいる咲である。パワープレーのためにFPと交代させたら、ますます足元の技術に劣ることに落ち込んでしまうだろう。


 でも、ゴレイロだって足元の技術は必要であり、そんなことくらいで落ち込んでもらっては困るのだ。


 現在の正ゴレイロたる位置にいるたけあきらも、この大会が終わればあとは引退するだけ。その後は咲に、正ゴレイロとして頑張ってもらわなければならないのだから。


 ここでやれれば、自信がつくのではないか。

 佐原南の未来に繋がるのではないか。


 だから裕子はベンチからFPを出さずに、あえて咲を前へと上げる指示を出したのである。


 これは裕子の胸のうちのことであり、そのような事情はさておいて、これで佐原南はFPの数が五人になった。フットサルはFP数の少ない競技であるため、単純に得点確率が増加する。


 ただし当然ではあるが、ゴール前がぽっかり空くことになるため、失点の可能性も激増する。下手な奪われ方をしたり、精度の高いロングシュートを打ち込まれた終わりだ。


 その、下手な奪われ方をされないためにも、咲には前線につくように指示をした。真ん中や後方に咲がいたら、奪われた時が怖くて他の選手たちが自由に動けなくなってしまうからだ。


 咲に出した指示は二つ。

 好きにやれ。

 ただし、危ないと思ったらなりふり構わぬ全力で自ゴールへ戻れ。

 である。


 かなめにも指示を出した。少し下がった位置で、五人の中心で全体のバランスを見るように、と。


 前橋奏明、大川昌美はロングパスからのポストプレー。サイドを駆け上がろうとする橋爪恵子へとパスを出した。


 久慈要が軌道上に入り、足を伸ばした。

 全体を見なければならない関係上、出だしが一瞬遅くなり、インターセプトし損ねたが、ボールはこぼれ、橋爪恵子へのパスを妨害することには成功した。


 しかし結局、前橋奏明ボールになってしまう。戸谷陽子が走り寄って、こぼれを拾ったのだ。

 パスの出しどころを探し、すっと視線を動かす戸谷陽子。


 その一瞬の隙を逃さず、佐原南の選手が横からボールを奪い取った。

 梨本咲であった。


「ナオ!」


 咲は、詰め寄ってくる前橋奏明の灘香織をすっとかわすと武田直子へとパスを出した。


 走りながら受けた直子は、収めた瞬間に狙いすましたシュートを放っていた。

 ゴレイロのぶみはぴくりとも動くことが出来なかったが、しかし結果はポスト直撃でゴールはならなかった。


 跳ね返ったボールが、床を転がった。

 小踏奈美恵は素早くボールへ寄ると、遠くへと蹴飛ばした。


「ごめんなさい咲先輩、いいボールくれたのに」

「いいよいいよ。こっちこそ雑なパスを収めてくれて助かった。続けてこう」


 咲はくるり踵を返し、後ろへと戻る。


「すっごいじゃんか、咲! とても上手になってる」


 その咲の背中に、裕子が歓喜と驚きの声を投げ掛けた。


 王子先輩に褒められて咲は、悪い気はしないといった表情であったが、すぐに、むっつりとした顔になって、無視を決め込んだ。


 単に気を引き締めようということか、まだまだこの後、自分がどんな醜態をさらすことになるか皆目見当もつかないから、ということかは分からないが。


 直子のシュートは惜しくも外れたが、前橋奏明としては相当に冷や汗を流したようで、この佐原南のパワープレーに対して選手交代をもって対応してきた。


 ピヴォは、おおかわまさを下げて、さかあゆを、

 ベッキは、なだおりを下げて、さかふうを、それぞれ投入した。


 この二人は、体型も顔立ちもまるで異なるが、一年違いの実の姉妹である。


 姉の坂田歩夢はとにかく小柄でとにかく素早く、技術力があり、特にキープ力に素晴らしいものがある。投入の意図は前からの守備あわよくば追加点を、ということだろう。


 妹の坂田風香は一年生ながらがっちりした体形、特筆すべき能力はないものの、堅実な守備をする。こちらは、灘香織の疲労を考えての交代であろう。


 特に、姉妹故に霊感の合うような、漫画的な必殺コンビネーションなどはないが、群馬県の地元新聞でも取り上げられたことのある二人である。


 主役は常に姉であり、妹はどちらかというと付属物的な扱いでしかないようだが。


 姉の坂田歩夢は、ピッチに入るなり早速その非凡なる能力を披露してみせた。

 食い止め奪おうと正面に立ったいくやまさとを、ドリブルの速度を微塵も落とすことなく、なめらかなS字曲線を描いていとも簡単に抜き去ってしまったのである。


 ただ駆け抜けただけ、と一見簡単そうに感じられるが、視線や微妙な身体の向きや足の動きなどを数手先まで読み合った、当人同士にしか分からない戦いの結果であった。


 坂田歩夢は、里子を抜き去った瞬間に、ゴール前へと速いボールを送った。

 そこへ、ようが飛び込んだ。


 梨本咲の飛び出しがコンマ数秒遅れていたら、前橋奏明の追加点が決まっていただろう。


 大きく蹴られクリアされたボールに、選手全員が宙を見上げた。


 坂田姉妹の妹、風香が大柄な体形を活かし、武田直子に競り勝って頭でボールを跳ね返した。


 橋爪恵子を経由して、また、姉の坂田歩夢にボールが渡った。


 坂田歩夢と生山里子が、また正面から向かい合った。


 今度は久慈要も下がって、里子と二人で応戦したが、だがそれは、坂田歩夢の評判高いキープ力、それが単なる噂ではないことを証明するものでしかなかった。


 三人目の援軍、梨本咲が出鱈目に伸ばした足で、運よく奪取に成功する佐原南であったが、しかし、奪ったこの後どうするかFP初心者の咲が判断に迷っている僅かな隙を突かれ、姉妹の妹であるベッキの坂田風香に奪い取られていた。


 坂田歩夢にかき乱されて、すっかり佐原南の陣形が崩れている。

 後方からそれに気付いた山野裕子が、注意を促そうと口を開きかけたその時である。

 ベッキの、坂田風香が、右足を一閃させた。

 ハーフウエーラインからの、ロングシュートだ。


 プレッシャーのない状態で、大柄な身体からの脚力を生かしたボールは、ぐんと伸びて、低い軌道をほとんどミサイルのような威力と正確さとで、パワープレーのために無人となった佐原南ゴールへと突き進んでいった。

 これが決まれば、前橋奏明の二点目である。


 まさに戦いを決着付ける砲撃であったが、しかしそれは、ゴールへと突き刺さる寸前のところで大きく角度を変えて、二階観客席へと飛んでいった。


 山野裕子が全力で走り込んで、大きく横っ飛びしながら頭に当てて弾いたのだ。

 さすがに跳ね返す方向をコントロールすることまでは出来ず、ボールはゴールラインを越えて、前橋奏明にCKを与えることになった。


 だが、触らなければ確実に失点していたところであり、仮にこのCKから失点したとしても、誰も文句をいえるものではないだろう。


 どちらにしても、裕子に対して誰も文句をいうことの出来ない事態になっていたのだが。


 裕子が、ピッチに倒れ込んだまま、起き上がる気配を見せないのである。

 その顔は、苦痛に歪んでいた。


     9

「王子先輩、どうかしました?」


 たけなおが、不安げな表情でゆうへと近付いた。


 トラックにひかれても、バッファローの大群に踏み潰されても平然としてそうな王子先輩が、ばったり倒れたまま動けずにいるのだ。

 不安なのは当たり前。


 でも、なんともないよね。

 王子先輩、なんともないよね。


 直子は心の中で、手を組んで神様に祈った。


「先輩!」

「……大丈夫」


 にはとても見えないが、裕子は明るい声を出した。

 でも、いくら演技しようとも、その呼気の間から漏れるような震える声が、ごまかせるはずもなかった。

 うつ伏せになって顔を伏せるようにしているが、ちらりと見えるその苦痛に歪んだ表情は、隠しても隠し切れるものではなかった。


「なんとも、ないよ。倒れて顔をぶつけちゃっただけ」


 裕子は膝に手をつきゆっくり立ち上がると、ほっほっ、と平安貴族のような気持ちの悪い笑い声をあげた。


「なら、いいけど」


 直子も軽い笑みを浮かべた。


 ……先輩、見え透いたこといってる。

 顔なんか打ってない。普通にジャンプして、着地しただけ。


 じゃあ、足だ。

 さっきお姉ちゃんにテーピングしてもらっていたけど、先輩、足の状態、よくないんだ。


 ほっほっとか気持ち悪い声で笑っているのだって、怪我の状態がよくないのをわたしたちに隠そうとしているんだ。

 試合になんか、出ている場合じゃないのでは。

 はやく病院に行って、手当を受けた方がいいのでは。

 でも、

 もしも本当に無理なら、試合に出るはずがない。自ら引くだろう。

 だから、きっとまだ大丈夫なんだ。


 と、直子は裕子へと踏み込むことを避けた。

 でも実は、それは自分へのいい訳。

 正確には、踏み込めなかったのだ。

 鬼気迫るようなオーラに……ふざけた顔をしながらも、額から脂汗をだらだら流している裕子のオーラに、威圧されて。


     10

 CKを蹴るのはまえばしそうめいさかあゆである。

 地元で有名な坂田姉妹の、姉の方だ。

 もう少しだけ正確に述べるなら、

 地元で有名な、坂田姉妹の姉の方だ。になるか。


 姉妹どちらも勿論非凡なのではあろうが、姉があまりに派手に活躍するため、妹の存在は少し日影に隠れているところがある。

 というのが、山野裕子が入手した、彼女らの評価である。


 わらみなみゴール前には、選手たちが密集している。

 一人残らず全員がPA内に入り、守っているのが佐原南だ。


 前橋奏明は、ゴレイロが自陣ゴール前、ベッキのさかふうがカウンターに備えて少し下がっており、あとはみなこの混戦に参加している。


 笛の音。

 坂田歩夢は、たっとボールへ駆け寄り、蹴った。混戦の中に放り込むのではなく、自陣へ戻すように床を転がした。


 カウンターの守備に残っていた坂田姉妹の妹、風香が駆け上がり、タイミングを合わせて蹴り足を上げた。


 だが、振り抜くことは出来なかった。

 読んでいた久慈要が、素早く混戦から抜け出して、ボールを奪ったのだ。


 佐原南のカウンターチャンスであったが、しかし、ボールの所有権はすぐに前橋奏明に戻ってしまう。

 ほんの僅かの差で遅れてきた坂田風香とぶつかり合い、ボールはこぼれ、タッチラインを割ったのだが、どちらが最後に触れたのか分からないようなボールであるというのに、審判は躊躇いなく、久慈要が最後に触れたという判定を下したのである。

 運がなかった。


 前橋奏明のキックインだ。

 はしづめけいが入れた。


 前へ出ながら受けたようは、すぐさま前線、ピヴォの坂田歩夢へとパスを出した。


 坂田歩夢が受け様、反転しようとしたところ、生山里子が思わず足を引っ掛けて転ばせてしまった。


 笛が鳴った。

 里子にイエローカードが出された。


 思うようにならない苛立ちからか、里子は床を踏み鳴らした。


「里子先輩」


 久慈要が近付いてきて、里子へ耳打ちした。


「マークを入れ代えましょう。十二番はあたしがマークします」


 十二番の選手、坂田歩夢だ。姉妹の姉、姉妹を有名たらしめている方の、小柄なピヴォだ。


「はあ?」


 唐突の申し出に、あからさまに不快な表情を浮かべる里子。

 だが里子にしては珍しいことに、誰に諭されることもなく自ら怒りをおさめ、冷静な表情へと戻っていた。


「了解」


 後輩に指図されるのは面白くないし、実力見透かされたような発言は床を蹴り砕きたいくらいに悔しい。これが里子の基本的な思考回路ではあるが、そうもいっていられない状況や立場であることも分かっているのだろう。


 佐原南は現在リードされている立場であり、しかもそうなったのは里子自身の判断ミスが原因だったのだから。


 さて、里子が坂田歩夢を転ばせてしまったことにより、前橋奏明に第二PKを与えることになった。


 キッカーは橋爪恵子だ。第二ペナルティマークにボールをセットすると、ゆっくりと助走距離を取った。


 笛が鳴った。

 橋爪恵子はたっと床を蹴り、そして、爪先を勢い良くボールへ叩きつけた。


 サッカーよりも格段にゴールマウスの小さなフットサルという競技では、第二PKのように十メートルも距離が離れると、丁寧なシュートなどそうそう決まらない。ゴレイロの鍛えた動体視力に対応されてしまうからだ。


 高校生しかも女子といったレベルでは、腰が入らず打ち上げてしまうことも多くなるが、とにかく勢いよく蹴ることが得点に繋がりやすい。


 もちろん日々の練習により、女子だって、高校生だって、枠へ飛ばせる確率は高くなる。


 汗と、天性の才、そして運。橋爪恵子の蹴ったボールは、それらが上手く絡み合って、すうと太い筆をゴール右上隅へと走らせた。

 精度抜群の、弾丸シュートだ。


 しかし、その汗と才と運による確率論は、守備をする側にも当てはまる。


 ゴレイロのなしもとさきは、蹴り足から弾道を見切り、かろうじてではあったが左手一本でボールを弾いたのである。


 床にこぼれ落ち、小さくバウンドするボールへ、坂田歩夢が持ち前の瞬発力を発揮して自らねじ込もうと風のように詰める。


 まさに間一髪という僅かの差で、咲はクリアしたが、余裕なく、ボールはほとんど真横といってよいほどに大きくそれて、タッチラインを割った。


 前橋奏明の、高い位置でのキックインだ。

 橋爪恵子が蹴って、戸谷陽子へと渡す。


 戸谷陽子は、迫る里子を見て冷静にワンタッチで坂田歩夢へ、と、先ほどと全く同じ展開になった。


 異なるのは、坂田歩夢とマッチアップするのが久慈要だということ。二人は、ボールを挟んで向き合った。


 相手が誰であろうと関係ない。かわして、ドリブルに入るだけだ。と、坂田歩夢は、先ほど里子を抜いたように、久慈要をひょいとかわす。


 次の瞬間、坂田歩夢の顔が驚愕に満ちたものになっていた。

 それはそうだろう。

 かわした、と思ったら、自分の足元にボールがなく、振り向けば相手の7番(久慈要)がドリブルをしているのだから。


 坂田歩夢の顔が青ざめていた。

 だが青ざめたからといって試合が止まるはずもない。久慈要は、里子とのワンツーで橋爪恵子をかわすと、続く坂田風香を、ドリブル速度を一気にトップギアに上げてぶち抜いた。


 ゴール斜め前、三メートル。久慈要は、迷わずシュートを放っていた。


 しかしボールはゴレイロぶみの身体に当たって、床へと落ちた。


 武田直子が詰めより、押し込もうとするが、ゴレイロのクリアが早かった。


 クリアボールの落下地点にて、橋爪恵子と真砂茂美が競り合う。


 競り勝ったのは真砂茂美であるが、しっかり足元に収めることが出来ず、橋爪恵子に奪われてしまう。


 橋爪恵子からボールを受けた戸谷陽子は、坂田歩夢へ縦に速いパスを送る。


 久慈要がその軌道上に入り込もうとするのを察知したか、坂田歩夢は、素早く前進して先にボールを受けた。


 坂田歩夢は振り返り、また、久慈要と対峙することになった。

 久慈要は、先ほどのボール奪取が偶然ではないことを証明してみせた。坂田歩夢のフェイントを瞬時にかつ的確に読み、またもやボールを奪い取ったのである。


「カナ、やるじゃん」


 マーク交代の件で、まだちょっとだけ不満そうな里子であったが、完全にふっきれたか晴れた笑みを浮かべていた。


 プレーの切れた時に、春奈と一言二言かわしたことによる助言の効果もあるのだろう。しかしそれを差っ引いても有り余る、久慈要の素晴らしい分析適応能力であった。

 負けず嫌いの里子も、認めるしかないのであろう。


 先ほどまでは二人がかりでも簡単には奪えなかった坂田歩夢から、一人で簡単に奪ってしまったのだから。

 しかも二度も。


 ここまでの個人技を持つ久慈要が、何故先ほどまでは坂田歩夢に手を焼いていたのか。理由はある。


 長い経験や研究により、久慈要の脳内データベースには、こういう相手にはこう戦え、というパターンが無数に詰まっている。

 その中には、自分より技術の優れた者との戦い方だって格納されている。

 各相手への具体的な対応方法は長い間の反復練習により、脊髄にまで染み付いているが、坂田歩夢は動きに独自のリズムがあり、久慈要データベース内のどのパターンに当てはめればよいのか、その検索作業に時間がかかっていたのだ。


 相手が対応し返してくる可能性もあるので、あくまで現時点でのことにしか過ぎないものの、現在の時点でこの二人の優劣は傍目からも明らかであった。


 関係に大きな優劣差が生じているうちに、久慈要はどんどん攻め、坂田歩夢を追い込んでいく。


 坂田歩夢の表情に、明らかな動揺、焦りの色が浮かんでいた。


 そこを久慈要は突く。

 坂田歩夢が自身の実力に疑問を持ち焦るほど、久慈要としてはやりやすくなる。実と見せて虚、虚と見せて実、といった単純な騙しが通じやすくなるからだ。


 だがしかし、実際のところ、より焦っているのは久慈要の方であった。いや、彼女だけでなく、佐原南の全員から焦りの色が見えていた。


 無理もない。

 最小差とはいえ、現在リードを許している状況なのだから。


 もう、試合の時間が残り少ないのだから。

 坂田歩夢を使って前線でキープし、あわよくば掻き回し、追加点を狙うという前橋奏明の作戦は、現在のところは久慈要の個人技で食い止めている。


 その間に早く得点しなければ、佐原南の夏が、三年生にとっての最後の大会が、終わってしまう。


 焦りがあるとはいえ、久慈要のプレーそのものは冷静で、また坂田歩夢からボールを奪い取った。


 そう何度もやられるか、と坂田歩夢は踵を返し、奪い返そうと久慈要へと突っ込む。


 爪先でちょんと蹴り上げてかわした久慈要は、すっと視線を走らせ瞬時に味方の様子を確認した。


 王子先輩も、ナオも、相手のマークがきつそうだ。

 なら、


「咲先輩!」


 斜め後方の梨本咲へ声を掛け、ヒールでこんとボールを蹴ると、すかさず駆け上がった。


 咲とのワンツーで、ベッキの坂田風香をかわし、ゴレイロと勝負に持ち込むつもりであった。


 その直後、久慈要が驚きに目を見開いたのは、咲から予想外に見事なリターンが来たからではない。確実にかわしたと思った坂田風香に、ふと気付けば密着されていたことに対してであった。


 久慈要は、今度は個人技で坂田風香を抜きにかかる。

 だが、なかなか抜かせてはくれない。

 押せば引き引けば押すような柔軟さ、決して離れぬ粘着性で、しっかりと、確実に、坂田風香は久慈要の突破を阻み続けた。


 だが、もうゴールは間近。ここを突破しさえすれば、そこには絶対的な得点のチャンスが待っている。前橋奏明が守備を固める前に、と久慈要は仕掛けた。

 左へ蹴り出すふりをして、右へこんと蹴り、一気に速度を上げた。


 しかし、

 また、ついてきている……坂田風香。


 絶対に博打でボールを奪おうとしない、相手が右でも左でも対応出来る守備。奪える率は低くなるが、とにかくゴールを割らせない守備。それが、彼女のやりかたのようだ。


 とはいえ、ゴールはもうすぐ目の前にあるのだ。坂田風香に密着されながらも、久慈要は、ドリブルで横に動きながらシュートを打った。


 ニアに立つゴレイロの胸に当たり、床に落ちるより先に、屈んでキャッチされた。


 久慈要は、気持ち悪さにぞくりと鳥肌が立つのを感じていた。


 打ったんじゃない。打たされたんだ。

 ただくっついてきているだけのふりして、角度のない方へない方へ、わたしを誘導していたんだ。


 本当に、堅実だ。

 もう試合の残り時間も少ないというのに、加えてこの巨大な壁。どう、攻略すればいいのか。


 本当に恐ろしいのは、地元の有名人である姉の坂田歩夢よりも、むしろこの、妹の風香の方なのではないか。


 ベンチの考えとしては、あくまで灘香織の疲労対策として投入しているだけの坂田風香であるが、対戦相手である久慈要は彼女の真価を見抜いていた。

 ただ、奪う派手さがないから評価されにくいだけなのだ。


「キッド!」


 前橋奏明のゴレイロ小踏奈美恵が、ボールを遠くへと投げた。

 キッドこと戸谷陽子が受けるが、里子がすっと身体を入れて奪い取った。


 奪った里子は、すぐに横の久慈要へとパスを出す。


 久慈要は、受け取る寸前に坂田歩夢に寄られてボールを蹴り出されてしまうが、戸谷陽子に拾われる直前に自ら駆け寄り取り戻すと、生まれたスペースをドリブルで駆け上がった。


 再度、姉妹の妹、坂田風香と対峙することになった。

 爪先で軽くボールを踏み付けながら、瞬時に考えをめぐらせる。

 自問する。


 どうする、久慈要。

 大きいだけでない、堅牢なだけでない、この壁をどう攻略する。


 というその言葉、それが答えであることに、久慈要は気が付いた。上手くいくかは時の運だが、少なくとも自分がどうチャレンジすればいいのか、答えが見つかった。


 そうだ。相手が大きいというよりも、自分が小さいのだ。

 いやいや、身体のことだけではない。つまり、相手どうこうではなく、自分がどうなのか、ということが大切なのだ。


 任されて、このピッチに立っているのだから。

 応えるに迷うことはない。

 自分にしか出来ないことをすればいい。

 自分の特徴を生かした戦い方をすればいい。

 早速、行くぞ!


 久慈要は、小柄な体格故の敏捷さで、勝負を挑んだ。

 坂田風香をすっとかわして、一気にゴールへと向かう。

 やはりというべきか、また坂田風香がぴったりと密着して、行く手を阻む。

 これでいい。


 熱くなるあまり、焦るあまり、忘れてしまっていたが、自分が、自分の一番の特徴と思っていること、それは仲間を信頼し、チームに溶け込むということ。

 何年前だったか、よしちゃんにもいわれたことがあるじゃないか。その点に関しては、とてもかなわないなって、笑顔で、佳美ちゃん降参したじゃないか。


 久慈要は、ルーレットで坂田風香をかわそうとするそぶりを見せつつ、ヒールで後方へ戻すように転がした。


 背後に風を感じた瞬間には、梨本咲が、久慈要の脇を駆け抜けていた。

 咲は、迷わず足を振り抜いた。

 ゴレイロは反応出来ない。

 走りながらのシュートであったため精度が悪く、ボールはポストを直撃。

 だが、


 跳ね返るボールへと、山野裕子が飛び込んでいた。

 低空ダイブで、まるで魚雷のように、身体ごと、ボールをネットの中に押し込んでいた。


 残り時間、一分四十秒。

 こうしてついに、佐原南はゲームを振り出しに戻したのである。


     11

「うしゃああああああ! さすがはあたし、よく決めたあ!」


 立ち上がり、雄叫びを上げるゆうに、


「先輩、凄かったあ!」

「というか、なに自画自賛してんですか?」


 なおさとが抱き着いた。


「いいじゃん別に。さきもすっげえよかった! つうか咲のおかげだ。咲と、カナの。二人とも最高!」


 裕子の素直な褒め言葉に、さすがの咲も照れ笑い。小さくガッツポーズを作った。


 むすっとしているのもかえって恥ずかしいからかと思われるが、こんな自分もやっぱり恥ずかしいのか、咲はごまかすようにかなめの背中をバシバシ思い切り叩いた。


 連鎖反応なのか、久慈要も鼻の頭を掻いてかいて、ちょっと口元歪めて照れ笑い。


 咲と久慈要、そんなお互いが面白かったか、同時にぷっと吹き出していた。


「まだ同点!」

「負けてないよ! まだまだ!」


 前橋奏明の選手たちが、自分たちの弱気を振り払うように、怒鳴り、手を叩いている。


「まだ同点!」


 裕子も相手に負けまいと叫んだ。


「勝ってないよ! まだまだ!」


 里子も叫ぶ。わざわざ相手の言葉をもじって、相手の心理に揺さぶりをかけているのだろう。

 からかわれたと思った前橋奏明の何人かからジロリと睨み付けられるが、どこ吹く風だ。


 前橋奏明のキックオフで試合再開。

 追い付いたことにより佐原南はパワープレーをやめ、ゴレイロの梨本咲は自陣ゴール前に戻った。


 疲労を考えると延長戦になるのは辛いため、裕子としては早目の逆転を狙いたいところであるが、やはりゴレイロ無しは失点のリスクが大き過ぎるからだ。


 FPは同数になったが、相変わらず試合のペースは佐原南が握り続け、ボールを回し、攻め続けた。追い付いた側と追い付かれた側の、心理の差というものであろう。


 やがて、前橋奏明の交代ゾーンになだおりが立った。

 ベッキのさかふうを、下げるようだ。


「風香で失点したわけじゃないですよ!」


 さかあゆが声を荒らげて、監督に抗議している。

 必死に妹を擁護するも受け入れられることはなく、交代が行なわれた。


 坂田歩夢は、地団駄を踏んだ。

 前橋奏明は守備と攻撃を引き締めようとしたのかも知れないが、この選手交代は結局、なんの意味もなさなかった。


 むしろ佐原南からすれば、坂田風香を下げてくれたことに感謝であった。


 交代から三十秒後、佐原南が逆転ゴールを決めたのだから。


 たけなおからの浮き球パスを、灘香織をかわしたかなめがダイレクトボレーでゴールへ突き刺したのだ。


     12

 どっと歓声が沸いた。


「カナ、ナイスシュー!」

「世界一!」


 わらみなみの選手たちは、かなめに抱き付いたり、背中をばしばし叩いたり、髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。


 もう、残り時間は一分もない。

 ここで、佐原南に選手交代。


 やまゆうは自分を下げて、真砂まさごしげを入れることにした。


「任せた」


 ピッチを出た裕子は、ゆくっくりとベンチへ歩いていく。

 逆転での最高の盛り上がりの中、最後までピッチに立っていたかったが、そうもいっていられない。


 あきらにまいてもらったテーピングの効果も虚しく、裕子の右足はずきずきと痛みが酷くなってきていた。幸い逆転もしたことだし、守備固めをするなら茂美の方が遥かに適任だ。


「お疲れ」


 武田晶が、戻る裕子へと声を掛けた。


「ほんっとに愛嬌のないツラだな。そういう時は、にっこり笑って声を掛けるもんだろ」


 裕子はドッカリと椅子に腰を下ろした。


「やだよ恥ずかしい」

「顔がジャガイモみたいという時点で既に恥ずかしい生き物なんだから、これ以上恥ずかしいもなにもあるか。お疲れさまでしたあご主人さまあん、ってメイドみたいにさ、ほら、いってみ」

「お、お、おつ、お疲れ……ふざけんな、バカ王子!」


 などと下らないやりとりをしながらも、二人とも視線はピッチ内での戦いに釘付けであった。


 試合の残り時間は三十秒。

 黙っていると一秒が耐え難いほどに長く、ついつい晶をいじってしまう裕子であったが、いじったところでやはり一秒の長さも、それに耐える辛さも、なにも変わりはしなかった。


 リードされている時には、あんなに試合時間の短さを呪ったというのに。


 一点差だからハラハラしてしまうというだけではない。

 まさかの連続失点で逆転されたまえばしそうめいが、なりふり構わない攻撃に出てきており、佐原南が押されに押されているのだ。


 現在、ゴレイロのぶみはベンチに下がり、FPフイールドプレイヤーであるおおかわまさがゴレイロのユニフォームを着てピッチに立っている。


 パワープレーだ。

 両チームの立場は、ほんの数分前までとは完全に反対のものになっていた。


 焦りから冷静なプレーが失われていようとも、そもそも前橋奏明はそこの空気を吸っているだけで新入部員ですらすぐに勝者のメンタルが身体の芯にまで染み込むといわれているほどの強豪校。

 その勢いの前に、先ほどまでの佐原南の優勢はあっという間に失われて、すっかり防戦一方になってしまっていた。


 だが、佐原南の誰一人として気迫、執念、集中力を失ってはいなかった。身体を張り、押されながらもゴールを死守している。


 残り時間、あと十秒。

 終了までの秒読みが始まったことにより油断してしまったわけではないのだろうが、相手の凄まじい気迫と執念に、里子が奪われ突破を許してしまった。


 奪い取ったのは、坂田歩夢。

 里子は、完全に振り切られた。慌てて振り向き背中を追うが、もうその背中は遥か向こう。


 坂田歩夢は、走りながらゴール前へとパスを出した。

 そこへ、橋爪恵子が走り込み、受けた。


 ゴールすぐ前で、ゴレイロ梨本咲との一対一。

 前橋奏明にとっての、この決定的絶対的な、そして最後のチャンスを見逃すはずなく、橋爪恵子は躊躇なく右足を振りぬいていた。


 梨本咲にとって、すぐ眼前から放たれた破壊力抜群のシュートであったが、運か、実力か、気迫か、執念か、それとも相手の焦りか、ともかく彼女は、放たれたその瞬間に、右腕一本で強く弾き上げていた。


 全員が、見上げていた。

 高く舞い上がるボールが、ライトに照らされているのを。

 くるくる回りながら、ゆっくりと落下を始めた。

 咲は、高く跳躍し、ボールをがっちりと両手の中に包み込んだ。


 着地した瞬間、長い笛が鳴った。

 それは、佐原南の勝利を告げる笛であった。


     13

「やったーっ!」


 と、ベンチのたけあきらは、不自然で不気味な堅い笑顔を作り上げてやまゆうへと両の手のひらを突き出した。


 だがしかし、裕子が受ける手を寸前でさっと引っ込めたため、晶は勢い余って裕子の男子みたいな胸へと突っ込んでしまった。


「なんだよもう、せっかくそっちのノリに合わせてやったのに!」


 憮然とする晶。それはそうなるだろう。

 いまの可愛らしい喜びの仕草、普通の女子にはなんということのないものでも、彼女にとってはどれだけ莫大な勇気や覚悟のいることか。


「さっきノリ悪いっていわれたこと、まだ気にしてんかよ。ほんと暗っ。ネクラ女ッ!」


 晶の努力や羞恥心を、これでもかとばかりボロクソに粉砕する裕子。


「いいよもう! 口きいてやらん」


 晶は憮然とした表情で腕を組み、お尻を回転させてピッチの方へと向き直った。


 裕子はピッチの方に顔を向けたまま、急に穏やかな真顔になって、静かに口を開いた。


「晶、ようやくさ、出場停止が解けるね。次からの試合、本当に、期待してっから」


 そういうと、柔らかな笑顔を作った。


 晶は横目でちらりと裕子のことを見ると、すぐ視線を戻した。表情にこそ変化はないが、顔の色が、見る見るうちに真っ赤になった。裕子の態度に、ぷんぷん怒っているのが恥ずかしい、とそんな気持ちになったのだろう。


 それを見て裕子は、ぷっと吹き出し、そしてお腹を抱えて大笑い。


 からかわれたのかなんなのか分からず、晶はきょとんとしてしまっていた。


 実際、からかったのだ、裕子は。

 そして、それに紛れさせて、本心を伝えたのだ。


     14

「カナ、ありがと」


 勝利の余韻残る佐原南側のピッチ上で、いくやまさとかなめの頭を撫でている。


 里子は次いでたけなおとハイタッチ、真砂まさごしげの背中を叩いた。


「うん、みんな頑張ったあ」


 まるでキャプテンだ。キャプテン里子だ。


さき、大活躍だったね。さすが次期の正ゴレイロ」


 里子は、なしもとさきの正面から近付くと、背中に腕を回し、軽く叩いた。


 素直に褒めても照れるだろうなと思い、わざと、咲が憎まれ口を叩きやすいような、ちょっと嫌味を含ませた祝福の言葉を選んだのだが、その反応は、里子が微塵も予測していないものだった。


 咲は、無言のまま里子の背中に腕を回し返すと、きつく、抱きしめてきたのである。


「うわ、ちょっと咲……」


 予測は、微塵もしていなかったけど、でも、咲がそうした理由、すぐに分かった。


 その、息遣いから。

 全身が、ぶるぶる震えていることから。


 咲は、泣いていたのである。


     15

 試合後の、両校の挨拶が終わった。


 まえばしそうめいは、「絶対に優勝してよね」というはしづめけい主将の言葉とともに、大会を見届けるために二階観客席へ移動した。


 わらみなみは、まだピッチに残って、ストレッチを行なっている。


「たったいま終わったばっかだってのに、すぐ試合かあ」


 間髪ない連戦を、いくやまさとがぼやいている。


 個人的には、体力には自信があるし、逆転勝利でノッているうちに戦い続けた方がやりやすい面もあるし、と考えれば別に不利な条件とも思わないが、他のみなは生山里子ではないのだからして、どうしようもないところか。

 しかしみんな体力ないからなあ。せめて王子先輩の百分の一でもあればいいのに。


「うおお、昇華プリントユニだあ! かっこいいなあ、畜生!」


 さっそく王子先輩、やまゆうの元気な大声。

 前言撤回。みんなが王子先輩の百分の一も元気があったら、ありすぎてうるさくて仕方ない。


「いちいち叫ばないでくださいよ。鼓膜が破れたらどうすんですか」

「だってさあ、里子、あれ見てみろって。あのユニフォーム」


 裕子は、ピッチの反対側ゴール前を指差した。

 黄色から黒へと上下にグラデーションがかかった、うっすら細かな模様でびっちりのユニフォーム姿がアップを行っている。


 絵柄模様にグラデーションといった、昇華プリントならではの華やかさに、裕子は素直に感動し、羨ましげな視線を向けていたのである。


 準決勝、佐原南の第三回戦の対戦相手であるギガモードスポーツクラブ選抜の選手たちである。

 彼女らは、大会主催者であるスポーツクラブによる十八歳以下の選抜チーム。特別参加枠による出場だ。


「なんだ、あんなの。全然よくない」

「そうかなあ」

「あたし、いまのうちのユニフォームが好きですから。あたしが部長になったら、今後五十年はこのままのデザインでいくように御触れを出して、OGとしてずっと監視しますから」

「うん。じゃあ里子は部長にしない」

「ちょっと、なにそれ! そんな理由で、有能な者が本来落ち着くべきポストを奪うつもりですか!」

「だって里子、性格悪いんだもん」

「去年までのあたしでしょ! 自分勝手だったのは認めますよ。いまその片鱗もないでしょ!」


 これからすぐに大事な試合だというのに、次期ポストのことで喧嘩を始める二人なのであった。


     16

「あーあ、向こう疲れてないからいいですよねえ。なんか、ずるいなあ」


 たけなおが、先ほどのいくやまさとのようなぼやきを発した。


 次の対戦相手であるギガモード選抜は、早い時間帯に決勝トーナメント二回戦を行っており、三回戦に備えて充分に休むことが出来ている。

 この大会のように、一日に何試合もこなさなければならない場合には、そうしたところも勝敗を大きく左右する要素になってくる。だから、直子は不満なのだ。


「まあ、昨日と違って今日は会場一つだけで、順繰りに試合してくんだから、どうしても組み合わせの問題でそういうことが起きちゃうのは分かるけどさあ。でも納得いかないなあ」

「いや、ナオ、もしかしたらこれは……意図的かも、知れない」


 かなめだ。彼女は直子の近くに立ち、今朝配付されたトーナメント表のコピーを手にしている。


「え、カナちん、それどういうこと?」


 直子は、コピーを覗き込んだ。


「このスケジュールだよ。開始時刻を見てよ。ギガモード選抜が勝ち上がるとして、常に自分らはそこそこ休めて、試合直後で疲れの取れていない相手と当るように組まれている。もちろん一回戦以外はだけど」

「ああ、確かに。……あれれ、でも、もしもうちを破って決勝に進んでも、そこは逆に休みないよ」

「決勝では負けていいんだよ。宣伝が目的なんだから。こういう大会って、決勝戦まで行かなかったら、ほとんど取り上げられないからね。むしろ優勝してしまうとうさん臭くなるから、準優勝でちょうどいい」

「うええ、酷いよお、インチキじゃんかあ。うー、絶対勝ちたくなったぞ。でも、うちらが勝ったら、また休みなく次の試合かあ」


 正確には二十分ほどは空くが、それだけではとても疲労の蓄積を取り除けるようなものではないだろう。


「ね、ちょっと、カナ。いま話してたことってホント?」


 やまゆうが、真顔で近寄ってきた。


 顔の表情は大真面目だが、歩き方がふざけたような擦り足。


 なるべく試合以外では、足に負担や刺激を与えたくないからだろうな。

 と、直子は思った。でも、事情を知らない者には、不気味この上ないだろうな。


「分かりません。開始時刻を見ていて、そんな気がしただけで。偶然かも知れない。でも、もしそうだったとしても、試合に出る選手たちはきっとなにも知らないでしょうね」

「なるほどね。しかし、確かにこの試合間隔の違いは、えらく不公平だなあ」


 裕子は自分の手にしているトーナメント表のコピーを、改めてまじまじと目にしている。


「里子のバカならさあ、きっと、逆転勝利で気分ノッてるうちに試合出来てラッキーとか思うんだろうけど」

「でも、そう思うしかないですよね。それに、この試合に勝ったらあと一勝するだけだし、勢いがついて本当に優勝しちゃうかも知れませんよォ」


 直子は、にまにま笑顔で裕子の腕をつんつくつんつくと突付いた。


「初優勝、達成しましょう! おーっ!」


 直子は元気に右腕を突き上げた。


「そうだな。優勝、しちまおうか。しかしナオって、一緒にいると明るいパワーをくれるよなあ。……なのに、一つ屋根の下で暮らしていて、なんの影響も受けないあいつはなんなんだろうか」


 裕子の視線の先、直子の背後から、クションとくしゃみが聞こえてきた。

 漫画みたいなことって、本当にあるんだなあ。と、姉のくしゃみについ微笑んでしまう直子。


 と、その時であった。

 突然、直子の表情が変わった。


 びくりと全身を小さく痙攣させたかと思うと、硬直したかのように背を伸ばした。


 いつもの柔らかな笑みが失われ、緊張の色が、顔全体を覆っていた。

 その視線は、一点を凝視していた。


「どした?」


 裕子はくるり身体を回転させる。

 直子の態度の、その理由が分かったのだろう。裕子の表情も、小さくではあるが変化していた。


「なんで、こんなところに……」


 裕子は、ぼそりと呟いた。


 観客席の端にある階段を下りて、こちらへと近付いてくる女性の姿。

 直子が緊張に固まってしまっている原因は、その女性であった。


 かすかに口を開く直子であるが、言葉を発するためというよりは、口の中が一瞬で乾いてしまって唾液も全然出なくって、無意識に口が開いただけであった。


 硬直しているだけでなく、背筋が完全に凍り付いてしまっていた。見動きどころか、身体を震わせることすら出来なかった。


 直子でなくとも、誰でもこのようになっていたのではないか。

 同じような目にあった者ならば。


 誰であるか、見間違えるはずもない。

 やまひでであった。


 いでけいあんどうまさ、他校の男友達と共謀し、直子や西にしむらに暴行を加えようとして学校を退学処分になった、元佐原南高校の生徒だ。


 現在、いかにも繁華街の不良少女といった感じの私服姿であった。

 以前は黒髪であったのが、強力な脱色剤でも使ったのか現在は完全な金髪だ。


 彼女、山田秀美は、ゆっくりと、そして真っ直ぐと、直子へと向かっていた。

 そして直子の数歩手前で、歩みを止めた。


 突然の部外者の侵入に、周囲は誰もみな唖然としてしまっている。状況がまるで掴めず、声を発することも出来ないのだ。


 山田秀美は、ガムを噛んでいるようである。クチャクチャと、わざと音を立てているようであった。


 その顔には、笑みが浮かんでいる。見る者に、嫌悪感や畏怖感を抱かせるような類のものだ。自分がこの場に姿を見せたことにより、直子がどのような反応をするのかを楽しんでいるのだろう。


 直子は硬直して直立したままであり、それ以上の、目に見えて反応と呼べるような反応はなかった。


 緊張しているのは誰にでも分かるが、しかしそれだけでは山田秀美には面白くないところであろう。

 刺激を得よう、ということか、彼女はゆっくりと口を開き、声を発した。

 ささやくように、

 一言づつゆっくり、はっきりと。


「学校、退学になっちゃったよ」


 と。


 知っている。そんなこと。


 見動きどころか、そう心に思うことすら精一杯の直子。

 息苦しい。

 自分の胸の中で、心臓の鼓動がどんどんと速まっているのを感じていた。

 こんなに苦しいのに、鼓動を抑えることが出来ない。


 心臓の音、聞かれているのではないか。

 この静まり返った中、山田秀美はそれを楽しんでいるのではないか。

 弱虫、と。


 直子は、溜まったつばを飲むことも出来なかった。

 ごくり、という音を聞かれてしまう気がして。

 自分の中身を、すべて覗き見られてしまう気がして。


 味方しかいないこのような場においてさえ、気を強く持つことの出来ない、弱い、情けない、本当の自分を、見透かされているような気がして。


「ね、聞こえてる? もう一回いうね。あたし、学校を退学になっちゃったよ。……お前のせいでさあ」


 山田秀美は繰り返すと、先ほどからのニヤニヤをいっそう強めた。

 さあ、どういう反応を見せてくれるのか、と。


 他のみんなと同様に、この予期せぬ来訪者に一瞬とはいえ飲まれた裕子であったが、すぐ我に返ったようで、怒気満面になり二人の間に割って入ろうとした。


 部員をというより、仲間を守らなければという思いだったのであろうが、だが、横から突き出された腕に、通せん坊をされた。


 裕子を制止したのは、たけあきらであった。


 晶は無言のまま裕子の顔を見つめ、小さく首を横に振った。


 裕子は一歩引いた。

 はがゆい気持ちは隠せないようで、なんとも不満げではあったが、晶とともに事の成り行きを見守ることにしたようである。


「あれあれえ、先輩たち、ほかのみんなも、誰も庇ってあげないんですかあ?」


 山田秀美は、願ったりかなったりのニンマリ顔であった。


「ちょっと。笑えるんだけど。みんなでこいつを庇ってギャーギャー騒ぎ立ててくる、って思ってたのに」


 それでも直子に、なにかしらのダメージを与えられればよい、と思っていたということか。


「なあに、誰も助けないの? そんなん面倒ってくらい、こいつ嫌われてんの? ほんと、笑っちゃうんだけど」


 わざとらしい声で笑う山田秀美。


 相変わらず、ぴくりとも動かず、立ち尽くしている武田直子。


 身体同様に硬直したその顔の表情から、驚き、焦り、悲しみ、苛立ち、不安、様々な負の感情を感じ取ったか、山田秀美は満足そうであった。


 だが、もしも本当にそう感じていたのだとすれば、それは山田秀美の大いなる勘違いであった。


 確かに最初直子は、まるで蛇に睨まれた蛙のように、恐怖心から硬直してしまっていた。

 動揺し、視線をそらすことも、逃げ出すことも、なにか言葉を発することすらも出来ないでいた。

 表面上では、いまもそう見える。


 しかし、その内面では大きな変化が生じていたのだ。


 そうだ……

 視線をそらすことが出来ない、じゃない。

 そらしては、いけないんだ。

 こんなところで、逃げちゃいけないんだ。


 と、そのような考えが、体内で急速に育っていた。

 ほんの少しだけ横へ視線を動かせば、そこには仲間たちの顔が、そこには王子先輩の顔、姉の顔がある。

 だからこそ、そちらを見たくなかった。

 ここで逃げたくない。頼りたくない。そう思っていた。


 だって、これからの長い人生、庇ってくれる味方の顔を見ながらでしかなんにもいえないなんて、そんなの、嫌だから。

 辛いだけだから。


「ねえ、武田さん、退学になった責任、とってくれるのかなあ」


 ゆっくり伸びた手に、直子はぎゅうっと胸倉を掴まれていた。

 本人も、理不尽なことをいっているのは分かっているのだろう。

 勿論、わざといっているのだろう。


「ねえ、武田さあん」


 ぎゅう、と締め上げられて、直子は、くっと呻いた。

 苦しさを堪えながら、不意に、心の中で深呼吸をしていた。

 本当は、本当の深呼吸をしたかったけど、身体が固まって全然思い通りに動いてくれないから仕方なく。


 二度、

 三度と。

 深呼吸をした。

 心の中で。


 その効果かどうかは分からない。

 気持ちが冷静になったわけじゃない。

 恐怖が消えたわけじゃない。

 むしろ、山田秀美との再会によって、奥深くへ押し込めたと思っていた恐怖心は完全に蘇っていた。


 だけど、

 それら負の感情を上回るなにかが、身体の奥底から生じつつあった。


 その感情がなんと呼ぶものなのか、それは分からない。

 分からないけど、決して悪くはない。

 どちらかといえば心地の良い、信じられる、そんな、感情であった。


 そうだよな。


 直子は一瞬のうちに、山田秀美との様々なことを思い返していた。

 逃げようとせず、心の奥に封印しようとせず、あえて飛び込んで、思い返していた。

 佐原南高校に入学してからの、この数ヶ月間のことを。


 わたしは、絶対に、間違ってなんかいない。

 なんにも、怖がることなんかないんだ。

 いや、間違ってたっていいんだ。

 わたしは、ただ、わたしを守るだけ。

 それが出来るのは、それをしていかないとならないのは、お姉ちゃんじゃない。わたし自身なんだから。


「ねえ、武田さん、どうしてくれるのかなあ!」


 山田秀美は、胸倉掴んだ直子を強く揺さぶった。

 喜悦の笑みを浮かべながら。


 直子は、自分を掴んでいる腕を激しく払いのけると、ダンと足を強く踏み鳴らした。


「自業自得だボケ!」


 大きな声で、怒鳴っていた。


 自分の発したその声に、その言葉に、一番信じられないのは、おそらく直子本人であったことだろう。

 相手を睨み付け、威嚇する、その仕草態度を一番信じられないのは、直子本人であったことだろう。


 だが、というべきか、当然というべきか、山田秀美の受けた衝撃も負けず劣らずの相当なもののようであった。

 まさに呆然という言葉の相応しい、そんな表情で、今度は先ほどのまでの直子のように山田秀美の方こそが、凍り付いたように硬直してしまっていた。


「二度とそのムカツク面ァ見せんな!」


 直子の二太刀目をバッサリと袈裟懸けに浴びた山田秀美は、はっ、と真っ白な状態から我へと返ったようであるが、正気に戻ったことによりますますその顔に浮かぶ混乱を深めただけであった。


 理解不能、予測不能な出来事に、ということか、目を白黒させ、頬をひきつらせている。

 反撃の出来ない、気の弱いタイプ。武田直子もそうであるはずだ、と思っていたのだろう。

 学校に身を置けなくなった自分にとっての、思い付く圧倒的弱者も、怨みの対象も、現在この武田直子だけであり、だからこそ、今日という日を選び、にとっての大事な場でをズタボロにしてやろう。そう思ってわざわざ、このような遠い地にまでやって来たのだろう。


 そんな身勝手思考が招くのは、不可解さによる混乱。

 なにも考えられなくなっては我に戻る、と、そんなループに山田秀美は陥っているようであった。


 ぶるぶると、山田秀美の全身は震え出していた。

 いまにも口からぶくぶくと泡を吐きそうな、そんな表情であった。


 自分の意識によるものなのか、脳細胞が崩壊しないようにという自己生存本能によるものなのか、それは分からないが、山田秀美は、呻き声を発するとくるり踵を返し、早足で歩き出していた。


 踏み抜いてしまいそうなくらいに、激しく足を踏み鳴らしながら。

 それだけが、いま彼女の出来る精一杯の抵抗、意思表示ということなのだろう。


「ちょっと、君」


 ふかやまほのかとつじが呼んできたばかりの会場係員が、山田秀美を呼び止めた。


 だが山田秀美は、伸びるその腕を振り払い、通路へと姿を消した。


 残った直子は、なおも仁王立ちの姿勢で立ち尽くしていた。

 悲しいような、怒ったような、なんとも捉えようのない、そんな表情で。


「ナオ」


 かなめがそっと声をかけるが、意識ここにあらずで直子はぴくりともしなかった。ただ、荒い呼吸をしているだけであった。


 少しおいて、今度は山野裕子が声をかけ、軽く肩を叩いた。


 一気に糸を切られたマリオネットのように、直子は突然くにゃりと崩れた。まるで幼児のおままごとのような姿勢で、床に座り込んでしまった。

 はあはあ、

 と荒い呼吸をしていた直子であったが、やがて、ながーーいため息をついた。


 その口元には、笑みが浮かんでいた。


「いっちゃいました……あたし」


 ちらり、と、見上げるように裕子へと視線を向けた。


 額の汗を袖で拭うと、改めて、マラソンを走りきったかのような心地好さげな笑顔を裕子へと向けた。


 自分のこと以上に緊張してしまっていたのだろうか、裕子は、ほっと安堵の息を吐くと、直子と同じような笑みを浮かべ、拳を握り肘を曲げ小さくガッツポーズを作った。


 直子はいきなり、声を上げて笑い出した。

 おかしそうに、本当に楽しそうに、いつまでも笑い続けていた。

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