第十三章 お姉ちゃん、ありがとー!  ―― 対ギガモード選抜戦 ――

     1

「すんません」


 ほしいくは、がっくりとうなだれている。


「アゴのせいじゃない。気にすんなって」


 やまゆうはそういうと、育美の長い顎をこちょこちょした。


     2

 そう。

 いくのせいでは、断じてない。

 彼女はただ、競っただけ。

 落下してくるボールの所有権を得ようと、相手と正当に競り合い、身体を跳躍させ、受けただけ。


 競ったにつも、単に急に止まれず勝手にバランスを崩して転んだだけ、そう見えた。

 転んだ理由は本人でないので分からないが、とにかく育美とは身体が触れてすらいない。ゆうの角度からはよく見えていたから、絶対に間違いはない。


 だが下された判定は、ほしいくの著しく危険な行為。

 一発退場であった。


 ベンチから猛烈に抗議した裕子に対しては、イエローカードが出された。

 脳の血管がぶちりぶちりと切れ、自分を制御出来なくなって怒りの形相で審判へ詰め寄ろうと立ち上がったところを、かなめに両肩を強く押さえ付けられ、椅子に座らせられた。


「また退場になりますよ」


 確かにこのまま審判に詰め寄っていたならば、百パーセントに近い確率で退場になっていただろう。前回の退場時と同様、ベンチからの抗議で。


「ありがとカナ。もう、冷静になったから」


 そうでもなかったが、沸点に達しかけたお湯の温度が若干下がったのは事実。

 まだまだカップラーメン作れるくらいに熱いが、ともかくおかげでなんとか退場だけは免れることが出来た。

 しかし星田育美の一発退場という判定は、もう覆らない。


「すんません」


 こうして、育美は自責の念を顔中に滲ませて、すごすごとベンチに戻ってきたというわけである。


「アゴのせいじゃない。気にすんなって」


 こうして、今度は裕子がなだめる側になって、育美の長い顎をこちょこちょしているというわけである。


     3

 現在このピッチで行われているのは、準決勝。

 わらみなみ高校対ギガモード選抜だ。


 ギガモード選抜とは、この大会の主催者であるギガモードスポーツクラブに所属する、有能な選手を集めて構成されているU―18のチームだ。


 現在前半三分、これまでのところ両チームともに得点は生まれていない。


 しかし佐原南はほしいくの退場によって、これからの二分間を一人少ないという不利な状況下で戦わなければならない。

 それは、佐原南の選手たちに格別の絶望感を与えるのに充分過ぎる条件材料といえた。この大会で佐原南は既に、選手の退場という数的不利を何度も経験しているにもかかわらずだ。


 なぜならば、相手の強さの半端でないこと、試合開始からの三分間で、嫌というほどに味あわされていたからだ。


 ギガモードスポーツクラブは、関東を中心に全国に四十ほどの支部がある。

 フットサルに力を入れているところばかりではないが、とにかく、相当な人数からの選抜なのであり、分母の違い故に、フィジカルに恵まれテクニックに優れた選手が多く揃っているのだ。


 みなフットサルをよく理解しており、急造チームであるはずなのに、探れども探れども急造故のチームワークの欠陥が一切見えてこない。

 それはそのはずで、彼女らにはチームの色、特徴が全くないのだ。


 自らの個人技を信じ、あえて連係面での戦術的特色を出そうとせずに、一般的なフットサルのセオリーのみで戦っているのだ。


 選ばれた有能な選手たちが、ただ勝つために、堅実に試合を運んでいる。

 基本的なことを、ロボットのように淡々と、ロボットのようにハイレベルで、ミスもなく。


 このような、なんともいえない相手の不気味さが、佐原南の選手に人数不利による絶対的絶望感を与えていたのである。


 開始からこれまでの三分間だけで、奇跡という言葉が陳腐に思えるくらいに、でも他に表現する言葉も見つからない神懸かったセーブを、ゴレイロのたけあきらは連発していた。

 運と実力、どちらかがほんの少しでも欠けていたならば、もうすでに何点取られていたか分からない。


 両チームとも、まだ選手交代はなく先発メンバーのままだ。


 佐原南は、ゴレイロ たけあきら

 FPフイールドプレイヤーは、真砂まさごしげ

 いくやまさと

 きぬがさはるの三人。

 FPが少ないのは、星田育美が退場したためである。


 対するギガモード選抜は、

 ゴレイロ きくもと

 FPはしま

 につ

 

 くぎむらあかね


 主将の志賀美也子は去年、U―18女子日本代表に選ばれ、海外遠征も経験している。

 優れた個人技もさることながら、ゲームを組み立てる能力が非常に高い。

 佐原南としては、一番注意しなければならない人物だ。


 佐原南は数的不利の状況に対応するため、少し引いて、より守備的になっている。基本陣形としては、1-2よりは0-3に近いだろう。


 春奈が走り回って相手の攻撃を遅らせ、最後の突破を許さぬように里子と茂美が食い止めている。

 しばらくは、それで上手く対応していたが、ギガモード選抜の数的有利を生かしたパス交換に茂美が翻弄され、ついに釘村茜の突破を許してしまった。

 突破から即シュートではゴレイロに反応されるため、釘村茜はドリブルでさらに切り込んだ。斜め前方からゴールへと迫りながら、シュートチャンスを窺う。


 だが、ボールタッチがほんの少し大きくなったところを、生山里子が見逃さず、横から足を伸ばして蹴り出した。


 佐原南は、辛うじて難を逃れた。

 ギガモード選抜のキックインだ。


「茂美先輩、8番はあたしが付きますから6番お願いします。あとは近い方が見ましょう。春奈先輩は、機を見て上がって下さい。みんなで引いてたら、どんどん打たれるだけですから」


 生山里子の指示に、春奈と茂美は小さく頷いた。


「はあ、まるでキャプテンじゃんかよ」


 ベンチからやりとりを聞いていた裕子の顔には、自然と笑みがこぼれていた。

 入部した頃は、自分のことしか考えていなかったくせに。

 みんなを追い抜いて一番になったらとっとと部活辞めます、などと悪びれもせず公言していたくせに。


 成長というのか変化というのか分からないが、とにかく裕子は、里子の態度に対してちょっとした感動を覚えていた。

 変わってきていることなど、とっくに分かっていたことなのに、いまのやりとりを見ていて改めてそう強く変化を確信し、嬉しい気持ちになっていた。


 ギガモード選抜、田嶋野有紀のキックインであるが、これを境に、彼女たちの動きががらりと変わった。

 より攻撃的に、スイッチを切り替えてきたのだ。


 隙あらばみな、とにかく前へと上がってくる。

 ベッキの選手である田嶋野有紀までが、ほとんど前線に張り付いているほどであった。


 引いて守る佐原南であるが、里子のいう通り引き過ぎてもやられてしまう。

 守備のためにも前へ出て攻撃したい春奈たちであるが、しかし打つ手もなく、ゴール前を固めて死守するのに精一杯という状態から抜け出すことが出来なかった。


 ギガモード選抜の、その人数をかけた攻め方は、当然といえば当然であった。

 フットサルのようなコート上の選手数が少ない競技において、相手が一人少ないというのは、それだけで絶対的な得点のチャンスだからだ。

 そして、無茶をしない限りはそうそう失点もしないわけであり、ならばこれを機に猛攻を仕掛けなければ勿体ないというものである。


 だが、佐原南はもともとが守備力に定評のあるチーム。絶対的危機ともいえるこの状況にも、少しずつ順応してきていた。

 局面での守備の連係が、秒を追うごとに洗練されたものになってきていた。


 それによって出来たほんの僅かなゆとりから、春奈が、少しずつ前へ出られるようになってきていた。


 ピンチに変わりはない。

 しかし、なんとかなるかも知れない、と佐原南の選手たちに若干の希望が生まれていたのもまた事実であった。


 春奈が前から守備をし、里子の声掛けに従って時にはぐいぐい攻め上がって相手を分散させ、強引に突破を試みようとしてくる相手に対しては茂美と里子がまさに鉄壁となって立ち塞がる。


 育美が退場する前よりもゴレイロの仕事が減ってしまったほどに、三人のFPは見事な連係を見せていた。


 勿論、ゴレイロの晶だって集中力を切らせてはいない。

 フットサルのように、フィールドの狭い、プレーヤー人数の少ない競技では、一瞬の油断がそのまま失点へと直結するからだ。


 突如、ギガモード選抜の田嶋野有紀が、遠目から矢のようなシュートを放ってきたが、晶は落ち着いて両手で弾き出した。


 遠くから打たれてしまうのは、これは仕方ない。

 相手の方が人数が多く、こちらはがっちり引いて守っているからだ。


 ゴレイロである自分が油断しなければいいだけのこと、と気合を入れたか、晶はグローブを外してはめ直した。


 ギガモード選抜のCKである。

 キッカーの志賀美也子が、ゴール前の密集の中にハイボールを放り込んできた。


 佐原南の意表を完全に突いただけでなく、狙ったコースも非常に精度の高いものであった。

 軽い山を描いて、田嶋野有紀と新田利恵いう二人の長身選手が肩を並べている間を目掛け、すっと落ちた。


 晶は、瞬間的に決断を下し、素早く飛び出していた。

 大きくジャンプ。新田利恵の頭上で両手を振るい、ボールを弾き飛ばした。


 もしも相手の身体にぶつかりでもしたら、PKを取られてもおかしくない激しいプレーであった。

 ほっとする間もなく、クリアボールを拾った釘村茜の突破を里子が防げず抜け出され、晶との一対一を作られてしまった。


 釘村茜は、タイミングをずらし、シュートを放った。


 だが、晶は惑わされることなく冷静にポジショニングを取り、全身でブロック。胸に当たり、こぼれた。


 ねじ込もうと狙っていた志賀美也子が、すっと詰め寄る。


 間一髪、晶はボールに自ら駆け寄り遠くへと蹴飛ばした。


「晶先輩、助かりました」


 里子は振り向くと、晶に軽く頭を下げた。


「気にしない。そのためのゴレイロなんだから」


 立て続けに大活躍することとなった武田晶であったが、星田育美の退場から二分間における、特筆すべきピンチとしはこのくらいであった。


 佐原南の守備は崩れることなくしっかりと持ち直し、冷静に相手のボールを跳ね返し続け、退場から二分間が経過したのである。


     4

 退場した人数の、補填が可能になった。


「頼むよー、亜由美ちゃん」


 ゆうは、しのの背中をばんと叩いた。肩に手を置き亜由美の身体をぐるりんと反転させると、両手で胸をぎゅっと掴んだ。

 ぎゃっ、と悲鳴が上がった。


「エロオヤジ!」


 亜由美は両手で自分の胸を隠しながら、裕子を睨みつけた。


「いや、緊張してるっぽいからさ」

「そりゃあするわい。こんな強い相手だってのに、こんな場面で入ることになって、すっごい緊張しますよ。でもまあ、やれることやってくるわ」


 こうして、ほしいくが退場した分の補填として、篠亜由美が入った。


 亜由美は、それほど技術力の高い選手ではない。

 素質という面では、完全に並である。

 だが、練習の厳しさに愚痴をこぼしながらも二年以上コツコツとやってきた経験値があるし、それ以外にも亜由美を出すメリットは色々とあるのだ。


 なかなかに舵取りの才能があり、いるだけでチームのバランスが良くなる。

 これが、亜由美の長所の一つであり、入った早々のボールタッチで緊張も解けると、早速とその能力を発揮した。


 亜由美を入れたことと人数が戻ったこととの相乗効果により、佐原南は段々と攻守ともに落ち着きを取り戻していった。


 真砂まさごしげからのパスを受けた亜由美は、ギガモード選抜のベッキであるしまをすっとかわすと、落ち着いてタイミングを計り、グラウンダーのシュートを打った。


 コースは隅をしっかり狙った悪くないものであったが、少し勢いが足りず、ゴレイロに踏み付けられて、そのまま拾われた。


「茂美い、良いパスだったよー」


 亜由美は、真砂茂美へとぶんぶん両腕を振った。


 今のが、亜由美を出すもう一つのメリットだ。

 大親友であるためかどうかは分からないが、茂美との相性が抜群に良いのだ。性格は完全に正反対な二人であるというのに。


 褒められて調子に乗ったのか、また茂美から亜由美へ、良いパスが送られた。

 浮き球の、ロングパスだ。


 茂美のパスセンスもさることながら、亜由美がそれを感じて走り出していたから、茂美のロングボールが良いパスとなったのだ。

 逆をいえば、亜由美の動き出しを感じていたからこその、茂美のパス、どちらが優れているということではなく、とにかく、相性が良いのだ。


 これで形勢逆転、巻き返せる、などと裕子は微塵も思ってはいない。とにかくもう少し粘って、無失点を保ちつつ攻略の糸口を見つけるつもりだった。


 だがしかし、

 ここで一つの悲劇が起こることなど、誰が予測出来たであろうか。


 亜由美はロングボールの落下地点へと走り込み、くるり振り返ると、重心を落として胸トラップする姿勢を取った。


 そこへ、ギガモード選抜ベッキの田嶋野有紀が駆け戻ってきた。完全に亜由美に抜かれてしまい、全速力で戻ったためか、速度を殺し切れず、勢いよく亜由美へぶつかった。


 二人とも、どうと重たい音とともに床に崩れた。

 捻ってしまったらしく、亜由美は苦悶の表情で右足首を押さえ、ごろりごろりと転がっている。


 綺麗に体当たりを受けて吹っ飛ばされていたならばともかく、重心を落としており踏ん張りがきいてしまったことがアダになったのだろう。


 審判の笛で、試合が止まった。


 茂美が、亜由美を心配して駆け寄ってきた。

 屈んで、様子を窺う。


「ありがと、茂美。大丈夫、まだ、やれるから」


 と微笑んで安心させると、亜由美はよろよろと立ち上がった。


 先ほどのプレーに対し、第一審判が右手に持ったレッドカードを、高く掲げた。


 しかし、

 なんとそれは、亜由美に向けられたものだったのである。


     5

 口を半開きにしたまま、しのは呆然と突っ立っている。


 この不可解判定に、やまゆうもまさかと思ったが、どうやら審判が本気のようであると知ると、一瞬にして血液沸騰。怒鳴っていた。


「なんでレッドなんだよ! 削られた方が退場って、おかしいだろ! このドア……」


 「ホ」までいっていたならば、また裕子はカードを貰っていたかも知れない。

 今回もまた、ぎりぎりのところでかなめになだめられたのだ。正確には、なだめられたというより、手で口を塞がれた。


 真砂まさごしげは、だんと足を踏み鳴らすと、第一審判の前へと歩み寄った。密着といってもいいくらい眼前に立つと、嘗め回すようにジロジロと怪訝そうな視線を向けた。


「バカにするんじゃない!」


 審判は怒鳴り声を上げると、茂美に対してイエローカードを高く掲げた。

 しかし茂美は態度を改めるつもりは毛頭ないようで、さらにけわしい表情になって、審判を睨み付けた。


「もういいんだよ茂美! どうも失礼しました」


 亜由美は、茂美の背後から、腕を引っ張り、審判から引き離した。

 この機転がなければ、間違いなく茂美まで退場していたであろう。


 審判から離れはしたが、茂美は相変わらず審判を睨み付けている。


「すげー、あの茂美が怒ってる」


 その珍しさ、発するオーラの凄まじさに、自分の怒りが少し冷めてしまう裕子であった。


 佐原南への厳しいジャッジに対してというよりも、亜由美が痛い目にあったというのに悪い者扱いされたことへの怒りであろう。二人は大の親友同士だから。


「なんか、判定の基準がおかしくないですか?」


 ギガモード選抜の主将であるが、自分たちに有利な判定が働いたにもかかわらず、第一審判へと疑問を投げ掛けている。


「そんなことはない」


 当然ではあろうが、審判は首を横に振って懸命に否定した。


 裕子はベンチから、第一審判が後ろを向いたタイミングで、思い切りあかんべえをしてやった。さらに、猿のおもちゃのように、両足の裏をぱしぱしと合わせ叩いた。反対側のタッチラインに立つ第二審判が見ていたのに気づいて、慌てて素知らぬ顔で口笛を吹いた。


 素知らぬ顔といっても、あたしの顔、きっと相当に険悪な感じになっているんだろうな。

 当たり前だよ。補填でFPが四人に戻ったというのに、すぐに、またもや微妙どころではない判定で退場させられてしまったのだから。

 しかし一体なんなんだ、この不可解判定の連続打ち上げ花火はは。

 向こうはただでさえ実力者揃いだというのに、なおかつスケジュールが有利に組まれていて、その上に審判までが味方かよ……


 と、裕子が心の中でぼやくのも仕方がない。

 意図的かどうかは別としても、結果として出来事ことごとくがこうも不利に働いているとあれば。

 二分間という地獄のような長い時間を耐えに耐え凌いだ佐原南であるというのに、これからまた、その地獄が始まるのだ。


 一瞬たりとも気を抜くことの出来ない試合であることなどは、相手の強さを考えれば当然のことであるが、しかしこれはあまりにも酷いのではないか。

 もしもフットサルの神様というものが雲の上だかどこかにいるのなら、何故にこんな試練ばかりを与えてくるのか。


 まあとにかく、この二分が勝負だ。

 また耐えきれば向こう、簡単に点は取れないぞと焦ってバランスを崩すかも知れない。


 そうだ、過ぎたことは変えられないんだから、やれることをやるしかない。


「またさっきみたく、集中して! うちなら守り切れる!」


 裕子は立ち上がり、叫んだ。

 また腰を下ろそうとした時である。


「王子先輩」


 と、久慈要の指差す方を見た瞬間、どくんと胸が高鳴った。


 ギガモード選抜のベンチでは、FPフイールドプレイヤー登録選手である西にしざわやすが、群青色のゴレイロ用ユニフォームを上から着込んでいたのである。


 裕子は、心の中で舌打ちした。

 ヤバすぎるよ、これは……


「パワープレー、気をつけて!」


 怒鳴るように叫んだ。

 ギガモード選抜の交代ゾーンで、きくもとと西澤靖子が入れ代わった。


 見た目上は群青色のユニフォーム同士、つまりゴレイロ同士の交代に見えるが、そうではない。ゴレイロに代えて、FPが入ってきたのだ。


 再び手にした相手が一人少ないというこの状態を、今度こそは、絶対に仕留めてやろうと。

 西澤靖子が入るなり、ギガモード選抜の選手たちはさらにギアをアップさせた。


 もうとっくにトップギアだとばかり思っていたのに。


 と、裕子は、ぎゅっと拳を握りしめた。

 いまにもぼたぼた垂れてくるのではというくらいに、手の中は汗でじっとりと濡れていた。


「もう少し引け! ゾーンで守れ!」


 裕子はまた、怒鳴り声を上げた。

 ギガモード選抜は、小さな町を飲み込む巨大な津波さながらの激しさで、佐原南へと襲いかかった。


 につが走りながら、くぎむらあかねへとパスを出した。


 きぬがさはるが釘村茜へと意識を向けた瞬間には、既にボールは西澤靖子へと渡っていた。


 なんなんだよ、こいつら!

 裕子は歯軋りした。


 なんでこんな素早いダイレクトパスが出来るんだ。

 離れた県に住む者同士、ほとんど一緒に練習する機会なんかなかっただろうに。


 でもまあ、分かっていたこと。相手が凄いことなんか。

 みんなもそれは分かっている。

 怖れず、あなどらず、また守り切ってくれるはずだ。


「シゲ、そっち!」


 里子が叫んだ。

 シゲとは茂美のことだろう。佐原南は現在のところコートネームを使う習慣はないのだが、この極限的な状況に、自然とそうなってしまったようだ。心身ともに「先輩」を付ける余裕も、敬語を使う余裕もないのだ。


 余裕がないのは当然だ。

 こちらの退場に加えて、向こうのパワープレー、FPの数がギガモード選抜の方が二倍近く多いのだから。


 人数差から、マンマークなど出来ないことは勿論だが、ある程度基本とするマーク相手を決めておくことすら無理だ。そのため、マンマークが基本のフットサルではあるが、ゾーンで守る戦術を、先ほど裕子は指示したのだ。


 選手たちは常に声を掛け合い、指をさし合い、その都度自主的にマークをする選手を決め、マークを受け渡す選手を決めている。


 脳味噌フル回転。

 ほんの少しでも気を抜いた時が、やられる時だ。


 声を掛け合い、といっても、こんな時にも茂美は無口である。口は開いてはいるようなのだが、ごにょごにょ声でよく聞こえない。

 しかし、不思議なことに周囲との連係はまったく問題ないようであった。

 特に里子との呼吸は、お世辞抜きに完璧であった。

 一年以上も一緒に練習して多少は分かりあえてきているというだけでなく、意外と馬の合うところもあるのかも知れない。


     6

 ギガモード選抜につの、ボールタッチが大きくなったのを、しげは見逃さず、瞬時に駆け寄り大きく蹴り飛ばした。


 クリアしたつもりだったのだろうが、詰めていたくぎむらあかねの身体に当たり、床に落ち転がった。


 マイボールにするべく、いくやまさととギガモード選抜の西にしざわやすが、猛ダッシュを見せた。


 ほんの一瞬の差で、里子が早かった。

 クリアはせず、そのまま自陣コーナーへと向かい、自分の身体でボールをキープする。


 フットサルには四秒ルールがあるため、いつまでも自陣キープは出来ないが、里子はここでぎりぎりまで粘ってから、大きくクリアするつもりだった。


 二分耐えれば選手数が戻る。

 二分は百二十秒。

 とにかくこのように一秒一秒を大事に稼ぐことが、百二十秒に繋がるのだ。


 だが人数差を利用されて、三人掛かりで強引に奪われ、さしたる時間稼ぎも出来なかった。


 しかも取り囲まれた際に、故意でないにせよ脛を蹴られたり足の甲を踏み付けられたりしたというのに、審判、二人もいるくせにどちらも全く見ていない。


 見ていないのか、見ていない振りをしているのか、それは本人たちにしか分からないことだが。


 ゴールライン沿いを走るしまの背中を、里子は必死に追い掛けた。

 しかし里子の追撃を止まって待ってやる義務は田嶋野有紀にはなく、


「ユキ!」


 声のする方、佐原南ゴール前へとパスを出した。


 ゴール前で待ち受ける西澤靖子には、茂美がぴったりついていたが、しかし簡単に田嶋野有紀からのパスが繋がってしまった。

 茂美が油断していたというよりも、茂美は他も見なければならず、また西澤靖子の動き出しの駆け引きが実に巧みだったのだ。


 西澤靖子はゴール斜め前で、ゴレイロ武田晶のタイミングをわずかにずらすと躊躇なく右足を振り抜いた。


 ゴール上隅に突き刺さりそうな弾道であったが、横から飛び込んだ生山里子が、頭に当てて弾いた。

 里子は、飛び込んだ勢いとボールを受けた衝撃とで、ブレーキかけられずポストに顔面激突。


 ねじ込もうと詰め寄る西澤靖子であるが、里子も痛いのを我慢してボールに駆け寄り、大きくクリアした。


 クリアしようとしていたのは、里子だけではなかった。

 ゴレイロの武田晶も同時に、ボールを蹴っていた。


 二点からの打撃を受けたボールは、ぐんぐんと飛んでハーフウェーラインを越えると、一体どのような回転が生じているのか、突然ぶるぶると上下左右に大きくぶれ始め、ギガモード選抜の、パワープレーにより守護者不在のゴールへと落ちていった。


 ごくり、と唾を飲む里子。


 この速度、角度、なんだか、入ってしまいそう……

 いや、入る。


「奇跡! 漫画シュートだ!」


 少年サッカー漫画でよく見るような合体シュートに、思わず里子は拳を振り上げ叫んだ。

 しかし奇跡が起こるには、なにかがほんのちょっぴり足りなかった。


 バー直撃。

 ボールは跳ね返り、床に転がった。


 だけどまだボールは死んでいない。

 ギガモード選抜のゴールへと、床に落ちたボールへと、衣笠春奈が全速力で走り込んでいた。

 奇跡が起きなかったのならば、自分たちの力で、結果を引き寄せればいい。と、そんな迷いのない表情で。


 その春奈の背後から、志賀美也子が猛追する。

 出だしの判断は良かったものの、春奈は足の速いタイプではない。ほとんど端から端、と到達目標までの距離が長かったために、結局あと一歩というところで追い付かれ、並ばれ、寄せられ、クリアされてしまった。


 だが、この春奈のファイトによって、佐原南はこの試合で初めてのCKを得ることになった。

 キッカーは春奈自身である。


 ギガモード選抜ゴール前に、佐原南の選手は二人。里子と茂美だ。ゴレイロの晶は、しっかりと自陣ゴールを守っている。


 対して、守るギガモード選抜の選手たちは、里子と茂美に一人ずつ付き、一人はゴレイロとともにゴール前を固め、残る一人はカウンターでの攻撃に備えてハーフウェーラインまで上がっている。


 なお、ギガモード選抜はパワープレイのためゴレイロをFPが本職の西澤靖子に代えていたが、CKのために戻すことはせず、そのままだ。守った後の速攻を重視しようということだろう。


 審判の笛。

 春奈は軽く蹴って、ゴールへ向けて転がした。


 ゴール前から抜け出た里子が、春奈へと走り寄りながら、ボールをワンタッチで戻した。


 入れ代わるようにPAペナルテイエリア内へと切り込んだ春奈は、角度のないところからシュート狙う振りをして、ヒールで後方へと流した。


 転がるボールへと全力で走り込んだのは、自陣ゴールを守っているはずの武田晶であった。


 晶は、右足を思い切りボールに叩き付けた。


 精度完璧弾丸シュート。

 だが、運が悪かったのか、それとも本来FPの西澤靖子にゴレイロとしての位置取りのセンスがあるということなのか、とにかくシュートは決まらなかった。西澤靖子の胸に当たって、床に落ちた。


 茂美が素早く詰め、押し込もうとするが、しかし、ゴレイロの閉じた両足にがっちりとブロックされ、シュートを弾かれた。


 と、本職ゴレイロではない西澤靖子は、ここでミスを犯した。

 この敵味方入り混じった中で、クリアをせずに自らの足元に転がるボールを拾おうとしたのだ。


 そこを逃さず、里子が横から駆け抜けながら奪い取った。


 西澤靖子は、バランスを崩して後ろへ転んでしまった。

 里子は切り返し、ボールを踏み付けると、尻餅をついているゴレイロとポストの間へと、丁寧にボールを転がした。

 ゴールネットが揺れた。


「よっしゃあああ! 先制点、生山里子おお!」


 里子は雄叫びを上げながら、両手を天へ突き上げた。


 一人少ない中でゴールを決める、というこの劇的な展開に佐原南全員のボルテージは一瞬にして最高潮へ! ……とはならなかったのは、審判の笛のせいであった。


 里子の反則を取られ、ゴールが認められなかったのである。


     7

「なんで? どこがファール? あたしボール奪っただけで、ゴレイロに触れてもないのに! これが逆だったら絶対に流すくせに! だいたいさっきからさあ…」


 いくやまさとが顔を真っ赤にしながら、怒鳴り声を張り上げて審判に詰め寄っている。


 無理もない。この劣勢の中、絶望的な状況の中を耐えに耐え、ようやくにして先制ゴールを決めたはずなのだから。

 ゴレイロが勝手にバランスを崩して尻餅をついて、それのどこがファールなのか。


しげ! 里子の口を塞げ! 殴れ!」


 ベンチからのやまゆうの指示に従って、真砂まさごしげは里子の身体を背後から押さえ付けて、口を塞いだ。手が空いていないので、殴るかわりに頭突きをかました。


 予期せぬ理不尽な暴力を後頭部に受けた里子は、ぐっと呻くとよろけ、床にがっくり片膝をついた。


「あぶねえ。FPが二人っきりになるとこだった」


 里子の退場という、かなりの高確率で起こるはずであった未来を変え、ほっと胸を撫で下ろすタイムパトロール隊隊長。

 ふーっとため息をつき終えると、楽しげな笑みを浮かべた。


「しっかしさ……なんだよなあ、あれは」


 ゴールは取り消されちゃったけど、でも、なんだよ、あのサインプレーはさあ。

 確かにあれ、練習で何度も何度もやったことあるけど、でも、まさかこの一人少ない状況でやるとは。

 みんな、勝つ気満々じゃんかよ。


 裕子は、なんだか嬉しくなってきた。部員たちの、不屈の闘志に。

 勿論、気持ちだけで勝てるものでもない。


 でも、大丈夫。


 いま目の前で繰り広げられている凄まじい攻防に、裕子はそう確信していた。


 うちの部員たちは、本当に凄い。まさに一騎当千。


 一人少ないという危機感から、集中力がアップして実力以上の力を発揮しているというわけではない。もともとの、実力があるのだ。才能と、練習で培った経験があるのだ。


 裕子は、試合開始前のたけなおの言葉を思い出していた。

 ナオのいう通り、この試合に勝てばそのまま勢いで優勝してしまうかも知れない。


 そうだ。

 かも、じゃない。

 するんだ。

 優勝を。


 裕子は、汗ばんだ拳をぎゅっと握りしめた。

 亜由美の退場から、もうすぐ二分が経過する。

 また、人数が五人に戻る。

 一人少ない状況を二度に渡って耐え抜いたことで、必然的に湧き上がるであろう高揚ムードにも後押しされて、互角以上の展開に持って行けるかも知れない。

 そのように胸をドキドキさせながらも期待に目を輝かせているのは、裕子だけではなかっただろう。


 スコアレスという均衡が破られたのは、そんな矢先のことであった。


     8

 結果から先に説明すると、先制点をあげたのはギガモード選抜であった。

 それは、次のように。


 わらみなみのゴール前。

 完全に押し込められている佐原南に、ほとんど全員でPAペナルテイエリアまで攻め上がっているギガモード選抜、両者みっしりごっちゃとひしめき合う大混戦の中から、真砂まさごしげがボールを持ち、飛び出した。


 ギガモード選抜の選手たちは、あまりに個々の、点を取ろうとする意識のみ高く、そしてあまりに密集し過ぎていたため、誰が誰をどうするという基本的な対応がなおざりになってしまっており、その隙を茂美が突いたのた。


 パワープレーでギガモード選抜の四人までが佐原南PA内に入り込んでいた中、守備に残っていたのはベッキのしま。彼女は、突然ボールを持って抜け出てきた茂美に対し、すっと詰め寄ると、ゴール前不在を焦ったかショルダータックルでどんと身体をぶつけていた。

 予期せぬ容赦ない一撃に、さすがの茂美も吹っ飛ばされ、転がった。


 おそらく田嶋野有紀のタックルは、イエローカードも覚悟のプレーだったのだろう。

 ギガモード選抜の自陣には一人もいないのだから。


 ここを突破されてしまったならば、失点する確率は九九パーセントどころの話ではない。

 レッドカード覚悟で止めたとしも不思議ではないくらいのシーンであった。


 だというのに、笛は、鳴らなかった。

 田嶋野有紀はセルフジャッジで動きを止めることなくボールを奪うと、そのままドリブルで、佐原南ゴール前へと向かった。


 これにより、佐原南のPA内になんとギガモード選抜の選手は五人になった。

 それを迎え撃つ佐原南は、ゴレイロを含めても三人しかいない。茂美がまだ倒れているためだ。


 佐原南はゴール前を三人で固めていたが、突如、いくやまさとが飛び出した。


 意表を突いてボール奪取を試みたのだろうが、田嶋野有紀には冷静に対応された。

 田嶋野有紀は、ぎりぎりまで里子を引きつけておいて、横にいる西にしざわやすへとパスを出したのだ。


 里子は、舌打ちするような苦い顔で、慣性の法則を筋力で捻じ曲げすぐさま西澤靖子へとダッシュ。しかし、既にボールは、田嶋野有紀へと戻っていた。


 と、その瞬間には、へ。


 パスコースを塞ぎつつボールを奪おうと、志賀美也子の正面からきぬがさはるがぴったりと付いた。


 志賀美也子は焦らず、くるり後ろを向いて、背中で春奈からボールを守る。


「ミヤ!」


 くぎむらあかねが、巧みな上下動で里子のマークから逃れていた。


 志賀美也子は、釘村茜へとパスを出す…ような素振りをしつつ、突如反転して右足一閃。


 囮に釣られた! 自分の迂闊さを呪うような春奈の顔。

 どう思おうとも、既に遅かった。


 PA内での混戦状態で視界が完全に塞がれており、反応が自慢の晶も、さすがにどうしようもなかった。


 いつボールが通過したのか、晶の背後で、ゴールネットが揺れていた。


 前半十分。


 あと十秒でしのの退場から二分を経過、というところで佐原南は失点した。


     9

 きぬがさはるいくやまさとは、がくりと肩を落とした。


 たけあきらは、両手を床に叩きつけた。


 ギガモード選抜の選手たちは、ようやく生み出した先制点に、肩を抱き合い喜んでいる。

 まだまだ点を取るぞ、とお互いに気合いを入れ合っている。


 試合再開。

 ギガモード選抜はパワープレーをやめて、正ゴレイロのきくもとが戻った。


 佐原南の部長、やまゆうはベンチでガリガリと自分の頭を掻いた。


とズッキーナ、出動だ! 春奈、交代!」


 ちょっと驚いた表情の春奈であったが、指示に従い、真っ直ぐと交代ゾーンへ向かった。


 づき西にしむらも、アップをやめて交代ゾーンへと向かう。


 裕子は真顔で、葉月の背中に声を掛ける。


「ズッキーさあ、あんまり、気負わなくていいから。なんとかしなきゃ、とか責任なんか感じなくていい。自分の思うように、やってくれればいい。なにがどうなろうと、別になんか一発ギャグやれなんていわないからさ」


 保証は出来ないけど。


「はい」


 葉月は、ゆっくりと振り返り、いつものおとなしい表情でおとなしく返事だけすると、また奈々と肩を並べて歩き出した。

 衣笠春奈に代わって九頭葉月が、退場分の人数補填として西村奈々が、交代ゾーンからピッチへと入った。


「無茶でしょ」


 ベンチに戻ってきた春奈の、開口一番裕子への言葉であった。


「分かってる。でも、みんなの疲れを考えると、やっぱり奈々も使える状態にしないと、この試合に勝っても優勝は難しいと思うから」


 感情が大袈裟なほどに顔に出る春奈は、また、びっくりしたような表情を浮かべた。


 実際のところ、本当に驚いていたのだろう。

 圧倒的不利な要素が満載どころではない、絶望的といっても過言でないこの試合中に、裕子が、この試合に勝つことを当然の前提として、先の試合のこと、優勝することを考えていたからだ。


 春奈は、にんまりとした笑みを浮かべていた。


「まあ、王子がそう考えてるんなら、ね、あたしはただサポートするだけだっ」


 勢いよく腰を下ろしながら、揃えた両足をぴょんと跳ね上げた。


「頼りにしてるよ、春奈。でもね、今あたしのいったこと、全部、自分へのいい訳かも知れないんだけどね。……単に、奈々を試合に出してあげたいと思っているだけかも。自分でも、自分の気持ちが分からないんだ」

「でも確かに、こんなに退場者が多いんじゃあ、全員の力を合わせないと優勝は厳しいよね」

「しかしまさか、こんなに退場者が出る大会になるなんて、想像もしていなかったよなあ」


 退場者の続出に、そこからくる疲労の蓄積に、と奈々を試合に出す大義名分は揃ったものの、しかし、そうであればなおのこと、登録メンバーには奈々ではなくかじはなを選ぶべきだったのではないだろうか。


 五人でプレーするフットサルという競技で、十二人もいる登録選手が次々と脱落して、ここまでただの一人すらも欠かせない大事なものになってくるとは思ってもいなかった。

 メンバー選考に関して、迂闊であったと批判されても反論することは出来ない。


 だけど、

 だけど……

 これは一体……どうしたことだ。


 裕子が動揺するのも無理のない出来事が、今、ピッチ上で起きていた。

 驚いているのは、裕子だけではない。


 佐原南の部員たち全員、正確には葉月と奈々を抜いた全員が、目の前の光景を呆然と見つめていた。

 部外者が見れば、別段なんということはないプレーに過ぎない。


 奈々が相手にプレッシャーをかけて追い込み、葉月がボールを奪い取った。

 ただそれだけのことだ。


 見事な連係ではあるが、珍しいものではない。

 だが、佐原南の部員たちは、奈々をよく知っている。


 このようなプレー、どう好意的に解釈しても偶然の結果としか思えない。

 しかし、そんなプレーを葉月と奈々は、何秒も経たないうちにまたもや披露してみせた。

 さらには三度目。しかも今度は、奈々はにつに対して追い込むと見せて自分で直接奪ってしまった。


「ええええええっ!」


 シンジラレマセン!

 奈々の素晴らしいボール奪取に、裕子の脳味噌は大混乱。

 思わず両手で頭を抱え、立ち上がっていた。

 気づくと隣で春奈も全く同じポーズをとっていた。二人揃って同じポーズはなんだか恥ずかしいので、裕子はすぐに椅子に座り直した。

 冷静になり、ピッチの葉月と奈々のプレーに着目した。


「奈々、小さく」


 葉月は、ギガモード選抜のゴールを指さした。

 指示通り、奈々はドリブルで進む。


 だが、横から入り込んできたギガモード選抜のベッキしまに、あっという間に奪われてしまった。


「奈々、よかったよ」


 葉月はそう褒めながら、守備に走り戻った。

 褒められた奈々も、気持ちよさそうな笑みを見せつつ葉月を追った。


 追いつつ、葉月との連係でまたもやボールを奪い取っていた。


「葉月と奈々に、一体、なにが……」


 まだ目の前の光景が夢か現か分からないといった、裕子の呆然とした表情。


「関係あるのか分かりませんが、ズッキーナ先輩ねえ、昨夜は遅くまで、布団の中でなにかノートに書き物してましたよ」


 ふかやまほのかが、やはりピッチでの光景に視線釘付けになりながら、裕子に語った。


「じゃあ、それだな」


 葉月のリードによる二人の連係が、昨日の試合に比べて格段によくなっている。なにもしていないわけがないからな。

 しかし、よくなっているのは一目で分かるのだがが、具体的に、なにが異なるのだろう。奈々の動きの、なにがどう変わったというのだろう。

 目の前で起きていることなのだから、いわば回答を見せられているようなものだというのに、それが分からないなんて。


 そんな不思議な感覚に陥っていた裕子であったが、ボールを持った相手に全力で向かい、まとわりついている奈々を見ているうちに、ようやくその理由が分かってきた。


 奈々じゃない。葉月だ。

 葉月の、動きが変わったんだ。


 この試合での奈々とのコンビネーションに関しては葉月に全権委任しているので細かいことは分からないが、おそらく奈々に難しいことは一切要求せずに、合図とともにボールを持った相手をただひたすら追い掛けるように、そう打ち合わせてあるのだろう。

 どうせ長時間の出番はないのだし、体力的にはそれほど問題はないだろう、と。


 奈々は、事象の予測は苦手だが、起きたことへの対処は速い。

 裕子は奈々についてそう分析しており、以前、そうした奈々の特徴を書いたノートを葉月に渡したことがある。


 葉月はその奈々の特徴を、奈々ではなく自らの動きを変化させることで生かそうと考えたのだ。


 相手を変えるのが難しいならば、自分が変わればいい、ということだ。

 確かに健常者がやっているのと同じことを、コツコツ努力して練習して出来るようにしていくことも大切だけど、現実的に、知的障害者である奈々に、現在、なにが出来るのか、奈々の武器はなんなのか、葉月はそこをドライに追求してみせたのだ。


 裕子も考えていなくはなかったやり方だけれど、こんな、葉月ほど割り切った考え方はしたこともなかった。


 目から涙、じゃなくて、それじゃ当たり前だ、えっと、目から、あれ、なんだっけ。鼻かな、鼻から涙、って鼻水やん。


 涙か鼻水かはともかく、裕子は、迷いようのない単純なプレーでピッチを躍動する奈々の姿と、わずか一日で連係をここまで改善してしまう葉月の工夫とに、なんともいえない感動を覚えていた。


 パスを繋ぐのがフットサル。マンマークが基本。

 という考えからすると、あっちにこっちにふらふらという奈々たちの動きは、セオリーから完全に外れるような邪道のプレーではあるが、とにかく葉月の地味だか奇抜だか分からない発想により、結果として前線からの守備が復活し、それによりチーム全体としての守備にも余裕が出来てきていた。


 ギガモード選抜を完全に押し込めることは出来ないが、若干、相手の前線を後退させて、サンドバッグという状況からは確実に脱することが出来ていた。


「すっごいなあ」


 春奈だ。裕子の横で、表情豊かに素直な感嘆の声を上げている。


 裕子の気のせいだろうか。

 審判のジャッジも、まともになってきたように感じる。


 ああもあからさまな判定が続くとさすがに隠せなくなると自重したのか、もう相手が失点したことだし一安心、ということなのか。


 まあ、審判が試合を操作している確証などどこにもないのではあるが。


 裕子は膠着状態で落ち着いた中、腕を組み、口をぎゅっと結び、思考していた。

 リズムもムードも変えることが出来たし、これはこのまま、行けるか。

 いや、厳しい。

 やはり葉月と奈々のコンビネーションは付け焼刃。おそらく、すぐに対策される。

 ならばどうすればいいか。

 相手をとち狂わす要素を、もう一つ追加すればいい。

 とち狂わす……なにか……誰かを……

 って、いるじゃん、適任者。


「茂美、お疲れ! 交代!」


 裕子は叫びながら立ち上がると、自ら交代ゾーンへと向かった。


     10

 しげはもう疲労困憊、対して自分は体力充分。


 足の痛みを我慢すればいいだけなんだから、なんということはない。

 ここで頑張らなくていつ頑張るのだ。

 とはいえ、その足の痛みがもう表現しようのないくらいに酷いのだけど。


 座っていると紛れるけれど、立つとそれだけで足首がズキズキズキズキ。

 でも、そんなこと気にしている場合じゃない。

 行くぞ!


「茂美お疲れ! あとははんなり任せときい」


 裕子はわけの分からないことをいいながら、パーンと茂美とのタッチの音を会場中に響かせ、ピッチに入った。


「うおりゃあああ!」


 入ったばかりの裕子は、雄叫びあげながら本来向かうべきとは反対方向へと走り出した。


 前線でづきがギガモード選抜の選手にからみつき、ボールを奪おうとしているのだが、裕子はその中に飛び込んだのだ。守備の要であるベッキとして入ったというのに。


「王子先輩、なに勝手に上がってんですかああ!」


 いくやまさとの怒鳴り声。


 裕子が上がったせいで、わらみなみの自陣には里子とゴレイロのあきらしかいない。


 案の定、といった対応を相手は取った。

 ギガモード選抜のにつは、横へステップを踏んで奈々をかわすと、すぐさま強く蹴って前線へとボールを送った。

 ゴレイロが飛び出すべきかを躊躇するような、いやらしいところを狙ったロングボールだ。


 里子は落下地点へと全力で走って戻り、頭で弾き出そうとしたが、すぐ背後からくぎむらあかねが迫って来ていたため、ゆとりを持って処理することが出来ず、誤って小さく上に跳ね上げてしまった。


 それを拾った釘村茜は、すかさずシュートを打った。

 

 勢いのあるシュートであったが、武田晶は右腕一本で弾き上げると、落下するところをキャッチした。

 晶だから悠々と処理しているように見えるが、いまのシュートの質は非常に高く、並のゴレイロならば失点していてもおかしくはなかっただろう。


「シゲ先輩の代わりにベッキで入ったんだから、守備してくださいよ守備。下手したら、いまやられてましたよ。あたしのことばかり散々にいうくせに、王子先輩だって他人のこといえないじゃないですか!」


 本来つくべきベッキの位置へと、ようやくてくてくと歩いてきた裕子に対し、里子は不満げな顔で痛烈な批判を浴びせるが、いわれた方は鼻の下を伸ばしてすっとぼけた顔、話全然聞いてない。


「里子、王子になにいっても無駄だよ」


 武田晶は、アンダースローでボールを里子へと転がした。


 ため息つきつつ受けた里子、そこから裕子、さらに裕子から葉月へと繋がった。


 しかしここで奪われた。

 葉月が、奈々を見る余りちょっと油断してしまい、しまに後ろから強引に身体を入れられたのだ。


 ドリブルで駆け上がる田嶋野有紀に、奈々がすかさず詰め寄った。


 葉月のフォローというよりは、ただ約束通りに、射程に入った標的に襲い掛かったということだろう。


 田嶋野有紀のボールタッチが少し大きくなったところ、奈々は見逃さず爪先を伸ばした。が、うまく収めることが出来ず、ボールは横へ転がった。


 タッチラインを割ろうかというその瞬間、裕子が間に合った。

 裕子は、右足で軽く踏み付けると、すぐに周囲を確認しながらゆったりとしたドリブルに入った。


「ズッキー!」


 と手を上げ、前線の葉月へと大きくボールを送り込もうという合図を示しつつも、実際の行動は別でヒールで軽く蹴って後方へと流していた。


 後方から駆け上がっていた里子は、速度を落とすことなく受けると、裕子が相手を引き付けて出来たスペースを上がって、今度こそ葉月へとパスを通した。


 丁寧にトラップする葉月。

 その眼前に、ギガモード選抜の新田利恵が立ち塞がった。


 葉月は、右から抜くと思わせ左へ、と相手を揺さぶり、横にいる奈々へとパス、と見せて、最終的に新田利恵の右側を、なんの変哲もない単純なドリブルで走り抜けていた。

 PAペナルテイエリア内に入り、ゴレイロと一対一を作り出すと同時にシュートを放ったが、惜しくも足で弾かれてしまった。


 転がったボールはゴールラインを割った。

 得点は出来なかったが、チャンスはまだ続く。佐原南のCKだ。


「里子、分かるようになってきたじゃん」


 裕子が悪戯っぽい笑みを浮かべている。さっきのヒールパスのことだ。


「まあ、そりゃあ。もの凄~く不本意ですけど」


 思考レベルが同じになってしまったような気がして。ということならば、それはまあ不本意であろう。自分は王子先輩ほどはバカではないと思っていたのに、と。


 CKのキッカーは九頭葉月だ。

 祈るような真面目な表情で、ゆっくりとボールをセットしている。


 裕子は最近、葉月が出ている時には彼女にFKやCKを任せることが多い。

 派手さはないが、堅実な、良いボールを蹴るからである。


 ギガモード選抜は、ここで選手の交代を行なった。

 釘村茜に代えて、ながみね

 田嶋野有紀に代えて、ざきむつみ


 彼女らも守備に参加し、ギガモード選抜ゴール前は敵味方渾然一体。

 その中の一人である山野裕子が、先ほどから指示なのかなんなのか、ひっきりなしに大声を発している。


「里子、いいな、里子が受けて、そのままズドーンな。里子がズドーン。分かったか、里子、お前のことだよ、そこの男だか女だか分からないキツイ顔した佐原南の7番!」

「先輩、うるさいよ!」


 里子が、キレ気味に怒鳴った。

 一人守備に残っているところ裕子のせいでスポット当てられ恥ずかしいではないか、というよりも、単純に裕子の大声がうっとうしかったのだろう。


 審判の笛。

 キッカーの九頭葉月は、少しだけボールから下がると、たたっと助走を付け、蹴った。


 助走はゴール前へ勢いよく放り込むという騙しで、実際に蹴ったのは、マイナス方向へと転がすボールであった。


 そこへ、守備に残っていた生山里子が、豹のように力強くしなやかに走り込んでいた。


 ズドーン。

 裕子のひっきりなしにあげていた言葉に、無意識に影響されたかのだろうか。

 中途半端なポジショニングになっていたギガモード選抜の、守備網の間を抜けて、里子が豪快に足を振り抜き叩き付けたボールはゴールへと唸りをあげてまっしぐら。


 稲妻のようなシュートであったが、ゴールに突き刺さらんとする間一髪のタイミングで、運か実力か両方かゴレイロのきくもとが右手で弾き上げ、ボールはゴールラインを割った。


「うおおお、おっしいいい!」


 手を振り下ろし、残念がる裕子。

 その顔は少し、いやかなり楽しげであった。


 惜しいシュートを放った本人である生山里子は、反対に困惑、ぽかんとした表情を浮かべている。


 やたらしつこく叫んでいたことが裕子の作戦だったというのは理解出来るものの、こんなにも上手く相手が撹乱されるなんて不思議で仕方ないのだろう。


「ま、あの先輩になら、みんな、巻き込まれちゃうよなあ」


 里子は苦笑し、頭を掻いた。


 ゴレイロがボールを弾き出したことで、佐原南のチャンスはまだ続く。

 今度は、反対方向からのCK。

 またもや、キッカーは九頭葉月だ。


 先ほどと同じように助走をつけ、先ほどと同じようにマイナスのボールを転がした。


 同じように走り寄って受けた里子であるが、今度は変化を付けて、シュートは打たずにすぐ葉月へと戻した。


 葉月は走りながら受けて、横からPAペナルテイエリア内へと切り込んだ。


 ながみねが突破を阻止しようと、葉月の前にどんと立った。


 葉月は踵を返して反転し、自分の身体でボールを守りながら、ゴール前へと入ってくる西村奈々を横目に確認すると、右足アウトでノールックパス。

 するする転がるボールに、


「ずどーん!」


 奈々は叫びながら、力任せに蹴り付けた。


 ゴール真正面、そして至近距離からのシュートであったが、咄嗟にゴール前へ身体を入れたしまに当たって、ボールは跳ね返った。


 葉月が詰め寄り、田嶋野有紀とぶつかり合いながらシュートを打つが、僅かに外れてポストを直撃、高く跳ね上がった。


 裕子はボールの落下地点に走り込むと、と競り合い、高くジャンプして頭を叩きつけた。

 お互い身体をぶつけ合っていたため、無理な体勢でヘディングのタイミングも合わず、ボールはクロスバーの遥か上を越えて、二階観客席の方へと飛んでいった。


 着地する裕子。

 びびっと電流が槍のように足を刺し貫き、激痛に呻き、顔を苦痛に歪めた。


「大丈夫ですか、先輩」


 里子が尋ねる。


「ああ、大丈夫大丈夫。なんともない」


 裕子は、ほっほっと平安貴族のような気持ち悪い声を出すと、お笑い芸のような妙な走り方で後方へと戻っていった。


 心配そうな顔で、里子は見ている。


「もしかしたら、足でも痛めたのかなって思ったけど。というかさっきから、足を庇っているように思えるんだけど。……しかし、アホな走り方だな」


 そうぼそり呟くと、気のせい気のせい、と里子も裕子の後を追って自陣へと戻った。


     11

 ギガモード選抜ゴレイロ、きくもとのゴールクリアランスだ。


 ハーフウェーラインを越え、ギガモード選抜のざきむつみが胸で受ける。



 づきは逃げ道塞ぐように反対側へ回り込みながら、西にしむらへと合図を出した。


 序盤、試合開始直後は圧倒され続けたわらみなみであったが、現在は、若干ではあるが優勢に戦えていた。


 葉月&奈々による誰もが予期しなかった活躍で息を吹き返したところに、やまゆうの悪戯が後押しして、ギガモード選抜の選手たちはすっかりペースを狂わされていたからだ。


 奈々は尾崎睦へぴたり密着し、苛立つ相手の一瞬の隙をついてボールを奪い取った。


 実戦に勝る習練の場はないということなのか、奈々もこの試合の中で、急速に試合に慣れ、成長を遂げていた。


 葉月と奈々という前線の二人がきっかけで引き寄せたこの流れであるが、それが後ろを安定させ、後ろの安定により葉月たちも次々と仕掛けることが出来るという好循環が生まれていた。


 そんな、良い雰囲気の中であったとはいえ、やはり次に起きた出来事は、味方である佐原南の部員たち全員を驚かすに充分なものだっただろう。


 奈々が、ながみねの二人を背負ったかと思うと、反転、細かなボールタッチで稲妻マークのようにシグザグに、一瞬にしてその二人を抜き去ったのだ。


「これを見たかったあ!」


 信じられない光景に他の部員たちが唖然とする中、裕子は一人、歓喜の声をあげていた。


 まさか裕子も、こんなところで見られるとは思わなかったが、奈々の奥底にその能力が有ることは知っていた。

 だから嬉しい驚きに喜びはしたが、他の部員のように呆然としてしまうようなものではなかった。

 今年の春に、バスケットボール部の試合で見せた素晴らしい一瞬の集中力、もう既にそれだけが目的ではないけれど、とにかくそれを見たさに裕子は奈々をフットサル部へと誘うことになったのだから。


 相手の守備を二人まで引き付けて抜け出した奈々は、完全に独走状態になった。


「奈々、行けえ!」


 裕子はゴールを指差し、叫んだ。

 そして、ごくりと唾を飲むと、奈々を追って走りながら、この後の成り行きを見守った。


 奈々の、独走。

 前方には、ゴレイロだけ。


 だからもう、奈々の苦手なチームワークは関係ない。

 走って、ゴレイロの隙をついて、ゴールを決める。

 それだけ。

 個人技の世界だ。


 まさか見られるとは思わなかった、奈々の……得点。

 いや、まだ決めてないけど。


 決めてくれよ。

 追い付いて、逆転だ。


 次も勝って、絶対に優勝するんだ。

 そうすれば奈々の転校、もっと遅らせられるかも知れないんだから。


 もしかしたら、転校自体、取り消せるかも知れないんだから。

 そうなろうとなんだろうと、最終的には奈々の家庭での決断だけど、でも、選択肢は与えてあげられる。


 自己保身、対外評価ばかり気にしている校長。頭にくるけど、でも、そうだからこそ奈々自身がゴールを決めれば、校長に掛け合う大きな材料になる。


 だから、

 奈々、

 決めちゃえ!


 しかし、現実は甘くなく、裕子の考えるように事は運ばなかった。


 背後から全力で追いかけ、追いついてきた長嶺八江の爪先に踵を蹴られて、奈々は転んでしまったのだ。


 長嶺八江も、奈々の足に絡み取られるように引っ張られ、よろけ、思わず奈々の頭部を蹴ってしまった。

 その頭部につまづいて、うつ伏せの奈々の背中にのしかかるように倒れ、ごろり床に転げ落ちた。


「すみません! 大丈夫ですか?」


 長嶺八江はすぐに起き上がり、手を差し出すが、奈々はそれどころではなく、うぎゅううう、ぎいいいい、と、まるでナマズのように唸りながら足をばたつかせている。


「奈々!」


 裕子の呼びかけに奈々は反応し、


「だじよーぶ」


 と、ひらひら片手を振ってみせた。


 無事、か。

 裕子は安堵のため息をついた。


「しっかし、またノーファール扱いかよ」


 裕子は、吐き捨てるようにいった。

 相手もわざと危険なプレーをしたのではないことは分かるが、しかし、これで警告どころかファールですらないとは。


 こちらを故意に退場させるような真似はやめたものの、あちらを庇う判定は相変わらずか。


 と思っていたら、第一第二審判の示し合わせの上、長嶺八江にイエローカードが出された。

 もしかしたら、裕子の声が聞こえていたからかも知れない。


 奈々はようやく痛みがひいたようで、腕立てえびぞりのように、ぐいと上体を持ち上げた。

 あらためて長嶺八江が手を伸ばして、謝りながら引っ張り起こした。


「本当にごめんなさい、頭、蹴っちゃって」

「ありがと。これ以上バカになりようがないから大丈夫」


 奈々は歯を剥き出してぐふふと笑った。


 ドロップボールで試合再開。

 だが、それから十秒も経たず、長い笛が鳴った。


 前半戦終了だ。


 佐原南高校 0―1 ギガモード選抜


 ビハインドで折り返しである。


     12

 ピッチから両チームの選手たちが出て、それぞれのベンチへと戻っていく。

 これから十分間のハーフタイムだ。


、頭、なんともないか? ガツって蹴られてたけど」


 ゆうは、奈々の頭を撫でてみる。

 特にコブなどは出来ていないようだ。


「なんともないじぇーーい」


 奈々は、自分の頭をぽかぽかと叩いてみせた。


「そう? ならよかったじぇーーいっ。って、なにそれ? しかし、凄かったなあ、ズッキーナとのコンビ。奈々、やるじゃんか」


 などと会話をしながらベンチへ戻ると、ベンチではたけなおが真ん丸顔のほっぺたを膨らませてぷりぷりと怒っていた。


「なんですかあ、審判のあの判定は。ひどすぎますよお。試合になんないよ」

「試合時間の組み方だけじゃなく、審判まで使って試合を操作しようとしてるってことだろうな。でも、証拠はないし、どうしようもない。怒っても無駄だよ。とかいって、あたしも何度もブチ切れかかって、カナが止めてくれなきゃどうなってたか分からないとこだったけどね。……そんじゃ、みんな集まって!」


 わらみなみの選手たちは、退場などで試合に出られない選手も含め登録メンバー全員で裕子を中心に車座になり、その周囲に、登録外の部員たちが立った。


 山野裕子ときぬがさはる作戦参謀の二人を中心とした、後半へ向けてのミーティングが始まった。


 裕子は、大きく広げた足の間にある小さなホワイトボードに、カラー磁石を次々と並べていく。


「前半の最後の方よかったから、後半も、しばらくは同じ面子でいくからね。たださ、ズッキーナと奈々が相手を囲い込んだ時の後ろの動きをはっきりさせよう。バランス考えて一人は残って、一人は前線のサポートの意味と押し込める意味で少し上がろう。えっと、こんな感じで、かな」


 カラー磁石を、一つ一つ動かしていく。


「頃合いを見て、ナオカナ出すから。それまでに守備陣は鉄壁の完璧に仕上げておくから、出たら後ろは気にせずとにかく暴れるように」

「分かりました」

「はい」


 直子とかなめは返事をし頷いた。


 続いて、最近すっかり定番の、相手選手個人個人への対策。

 担当は、軍師春奈だ。


「8番、しまは真ん中に行きたがる癖がある。そのくせ視野がちょっと狭いのか、こっちの左右からの駆け上がりにちょっと慌てたところがあった。守備のバランスも大事だけど、機会を見て、左右から上手に揺さ振っていこう。

 あと、5番のは万能で、個人技凄いけど、本当に肝心なところではパスばかり選択している。それ覚えといて。どちらかというと攻撃の選手で、振られ弱いところもあるから、彼女が守備に回ったら、単純なワンツーが結構有効だと思う」

「んにゃ、5番のは、ちょっと違うかなあ」


 みんなが、はっと驚いた表情で、いま口を挟んだ者の顔を見ていた。

 西にしむらの顔を。


 視線を気にした様子もなく、奈々は続ける。


「確かに振られ弱いかも知れないけど、リーチが長いから、なんだかんだ跳ね返していた。ワンツーより、むしろ一人で懐に飛び込んでいった方が、向こうは嫌がると思う。飛び込むと絶対に胸をそらしてるから、そこでワンテンポ稼げるし。

 あと6番、ドリブルで仕掛けようとする時は、必ず右足をズッとずらす癖がある。

 4番、左でのタッチが苦手で、それを懸命に隠そうとしてるけど、でもそのタイミングでプレッシャーをかけると戸惑って変な動きするか、後ろへ戻そうとする。見た限りでは、九回中の九回がそうだった」


 これまでピッチに立ったギガモード選抜の選手たちの、脳細胞、潜在意識に踏み込むような細かなことを、奈々は涼しい顔で、順々にすらすら並べていった。


 佐原南の部員たちは全員、すっかり唖然として言葉を忘れてしまっていた。


 ほしいくなど、口をあまりにあんぐりと開けすぎて、長い顎がいまにも床に突き刺さりそうなくらいであった。


 仲間たちの視線が自分に集中していることにようやく気付いた奈々は、にんまりと笑った。

 そして、ゆっくりと口を開いた。


「いまね、天使が肩にいるんだ。それでね、いろいろ教えてくれるんだよ」


 奈々は、肩にとまった天使にちらりと視線を向けると、次いで天井を見上げた。

 照明、さして強くはないが、見上げるとさすがに眩しいようだ。

 手を、伸ばした。


「天使さんね、空にもたくさんいてね。みんな、仲良しさん。ふわふわ、ふわふわ、天使の羽、落ちてきた。ふわふわ、ふわふわ、まるで、雪みたい」


 その言葉に、裕子も天井を見上げてみた。

 見えた。裕子の目にも。


「きれいだな」


 裕子は微笑を浮かべながら、手のひらを前へ差し出した。

 手のひらに、身体に、心に、天使の羽がふわふわと落ちては、じんわり、じんわりと溶け込んでくる。


「見えないよ」


 晶もお付き合いで天井を見上げ、首をキョロキョロさせてみるが、やっぱり天使なんぞ見えるわけがない。


「うん。心の汚い奴には見えないんだよ」

「なんでそう、いちいち人をイラつかせるこというかな。どっちが心が汚いんだよ」


 晶は唇を尖らせながら、裕子の顔をじろりと睨んだ。


 裕子は気にせず笑いながら、


「ま、とにかくだ、後半戦はそんな感じってことで。奈々のアドバイスも参考に、どんどん攻めてこう」

「おーっ!」


 武田直子と衣笠春奈が、右腕を高く突き上げた。


「その意気だ。絶対に逆転出来る。気合い入れて頑張ろうぜ。なんてことはない、あっちがギガモードなら、こっちはメガモードだ!」


 裕子は握り拳を突き出して、力強く声を張り上げた。


「あの、メガの方が小さいんだけど。遥かに」


 先ほどの仕返し代わりか、ささやかなつっこみを入れる晶。


 などとやっている間にも、後半戦開始時刻が近付いてきた。

 ギガモード選抜の選手たちが、一人、また一人とピッチに入っていく。


 佐原南も続いた。


「晶、さっきの調子でさ、神セーブ連発頼むよ。後半守り切ってくれさえすれば、ぜ~ったいに勝つから」


 裕子は、ゴール前へと向かう晶の背中に声を掛けた。


「得点、期待しているよ」


 晶はキーパーグローブをはめると、ぎゅっと握り、感触を確かめながら、振り返った。


「二点でいい。……もう絶対に失点はしないから。せっかく奈々たちが前線からリズムを作ってくれているというのに、これ以上失点なんかしたら台なしだからね」

「大丈夫。三点取るから」

「どこからくるんだ。その自信は」

「いまね、あたしの肩に天使が降りてるんだあ」


 裕子は、先ほどの奈々の台詞を真似した。


「ペテンシじゃなきゃいいけどね。ま、とにかくお互い、いや、みんな、やれることしっかり頑張ってこう! 逆転するぞ!」


 気合入れはいつも裕子に任せている晶であるが、珍しく周囲に向けて大声を張り上げた。


「おーっ!」


 と、気合を受けてピッチ上に散らばる佐原南の選手たち。


 やる気満々じゃんかよ、晶。

 裕子は苦笑した。


 ゴール前から青いユニフォームの背中を見守るというのが、どんな眺めなのか分からないけど、その眺めも今日でおしまいだもんな。

 だって、もうすぐ夏休みで、その間にあたしたち三年生は引退してしまうのだから。

 大学に行ってもフットサルを続けるつもり、なんていっていたけど、この仲間たちとはお別れなんだということに変わりないものな。

 ナオいわく、お姉ちゃんは泣き虫らしいし。しんみりきて泣きそうなのを隠したいのかもな。

 ま、お互い悔いのないように、頑張ろうや。

 守りは、任せたから。

 信じてるよ、晶。


 別に思いが届いたからというわけではないだろうが、背後から、バスっ、とグローブに拳を打ち付ける音がした。


 審判が、笛を口にくわえた。


 鋭い音が鳴り響いた。

 準決勝、後半戦が開始された。


     13

 前半戦終わり際の流れのままに、わらみなみは前へどんどん攻め上がっていく。


 奪い奪われといったこの攻防を、客観的にデータ分析するならば、一進一退の、両チームとも互角の展開といえる。


 だがこの会場にいる人たちの目には、明らかに佐原南が押しているように映っていているはずである。

 何故ならば人間の目というものは、空気を見ることが出来るからだ。


、こっちに小さく!」


 後方から縦を駆け抜け最前列へと飛び出したやまゆうは、づきを真似た声掛けで西にしむらからボールを貰った。


 貰うとすぐに、しまの前で反転し、ポストプレーでボールキープ。

 づきながみねのマークを外して駆け上がるのを待ち、ボールを転がした。


 それを受けた葉月もまた、ポストプレーで長嶺八江を背負った。

 ちらりと奈々を見て、パスを出すと見せつつ、振り向きざまのシュートを放った。


 しっかり狙ったわけでもないのにしっかりと隅を捉えた、精度の高いシュートだったが、ゴレイロのきくもとにブロックされ、落ちたところをキックで大きくクリアされた。


 クリアボールを、ギガモード選抜のざきむつみが追う。俊足が自慢の選手だ。


 彼女は走りながら、伸ばした足の甲で上手にトラップ。流れるように、ドリブルの動作に入った。


 ギガモード選抜にとって絶好のカウンターチャンスであったが、いくやまさとが尾崎睦に追いついた。

 身体を寄せて、相手の動きをよく見ながら、ファールにならないようにボールを弾き出し、キックインに逃れた。


「里子、サンキュ。さ、しっかり守ってしっかり攻めるぞ!」


 裕子はぱんぱんと手を叩いた。


 ギガモード選抜のキックインは、里子が読んで後ろから足を伸ばして奪い取った。


 先ほどのようなピンチもあるにせよ、それでも全体的には佐原南のペースであった。

 前半戦終盤のペースを、上手く保てていた。


 だが、当然といえば当然であるが、相手は対策を講じてきた。

 引いて一点を守り切るのではなく、反対に、雪崩のように人数をかけて攻めてくるようになったのである。


 対策、といっても、戦術としてはなんということはない単純なものだ。いや、本来なら戦術ですらない。フォートップそしてゼロバックにすれば守備はともかく攻撃力は上がるではないか、といわれているようなもので、いやそれは違うとしか返しようがない。


 ただし現在の状況を考えると、ギガモード選抜の取った対策は、非常に意味のあるものといえた。


 ギガモード選抜としては、いま現在FP四人と四人がぶつかり合ってのまともなフットサルをさせて貰っておらず、佐原南の邪道ともいえるプレーの数々が作り出すその雰囲気に押されてしまっていること。


 それと、ギガモード選抜はもともとが個人技に優れた実力者揃いであること。


 この二点が、意味のある作戦になっている理由である。

 選手全員を前目に置くことで、当然ながら佐原南の守備はやりにくくなるし、ある種の背水の陣とすることで、攻めにも前からの守備にも勢いが出る。

 とにかくあと一点取ってしまい、今度はがっちり引いて守り切ればいい。


 ギガモード選抜の取ったその作戦は、大胆であり単純であり、今回においては非常に現実的かつ効果的であった。


 強引にでも勢いを持った攻めをすることで、あれだけ自分たちを苦しめた佐原南の九頭葉月と西村奈々による前線を、完全に飲み込んで、封じ込めてしまったのだから。


 次々と攻め上がってくるギガモード選抜に、引いてそれを受けざるを得ない佐原南。

 つい先ほどまでがらんとしていた佐原南ゴール前は現在、敵味方の入り乱れる混戦地帯になっていた。


 だが佐原南としては、このままやられるわけにはいかない。尾崎睦がシュートかパスか迷った一瞬の隙をついて、葉月がすっと足を突き出しボールを奪った。


 しかし、息つく暇もなく横から長嶺八江の足が伸びてくる。葉月は、跳ぶように横へ素早く動いて逃れるが、今度は反対側、に奪われそうになり、慌ててクリア。

 だがクリア不完全。尾崎睦の足に当ててしまった。


 跳ね返ったボールを、PAペナルテイエリアのすぐ外に残っていたしまに拾われてしまう。


 田嶋野有紀はスペースを見つけると、すかさず速いボールをゴール前へと蹴り込んだ。


 パスの軌道上に素早く入り込んだ尾崎睦が受け、ゴール前を向いてシュートのタイミングを計る。


 振り上げた足が振り下ろされようという瞬間、ゴレイロの武田晶が全身のバネを駆使して、床を這うような跳躍で尾崎睦へと飛び込んでいた。

 晶は両腕を伸ばして、しっかりとボールをキャッチした。


 その腕を踏み付けられて、晶は苦痛の呻きを漏らした。


 ゴール前に密集していた選手たちは、ボールのみを意識するあまり突き飛ばし合ってしまい、ギガモード選抜の田嶋野有紀が思わず晶の右腕を踵で踏んでしまったのである。


 晶は顔を歪めながらもボールは離さず、引き寄せて、がっちりとお腹に抱え込んだ。


 四秒を取られる前に、と素早く立ち上がって、ボールを持った右腕をぶんと振った。


 ようやくボールが遠ざかったことで気が抜けたか、晶はあらためて苦痛に顔をしかめ、踏まれた腕を押さえた。


 宙を飛ぶボールは、ハーフウェーラインを丁度越えたところに落ちて、小さくバウンドしながら転がった。


 生山里子と、ギガモード選抜の長嶺八江が、所有権を競り合い、肩を並べて走る。


 紙一重の差で、長嶺八江が早かったが、トラップをミスしてボールを落ち着かせることが出来ず、そこを逃さず里子が奪い取った。


 あらためて二人は正面から対峙した。

 タイミングを見計らい、里子は、すっと横へ動いた。


 抜いていた。

 傍から見ても気持ちいいくらい、簡単に、かつ豪快に、里子は相手を抜き去っていた。


 あまりにも一瞬の出来事に、長嶺八江の側からすれば、目の前の対戦相手がいきなり空気に溶けて消えてしまったように感じられたのではないだろうか。


 魔法ではない。

 別に、里子は特別なことをしたわけではない。

 ただ、ハーフタイムでの奈々の助言通りに仕掛けてみただけであった。


 結果に少し驚いた表情を浮かべながらも、里子は大きく前へと蹴った。


 前線の九頭葉月は走りながら、斜め後ろから飛んでくる里子からのパスを、ちょこんと爪先を当ててダイレクトにゴール前へと送った。


 と同時にギガモード選抜の田嶋野有紀が、スライディングで軌道上に飛び込んでいた。ゴール前へのパスを予測したのであろうが、だが葉月はその予測を予測して浮き球を上げたのだろう。


 分かっていての葉月のプレーであったのか、この田嶋野有紀が慌ててスライディングで軌道を塞ごうとしたことも、ハーフタイムで奈々が話していた通りであった。


 ボールは低空を、小さな山を描いてゴール前へ。ゴレイロが飛び出すべきかどうかを躊躇するような、それは嫌らしい位置へと、葉月は蹴り込んでいた。


「どーん!」


 奈々が、長嶺八江のマークを外してゴール前へと全力ダイブ、頭を叩き付けた。

 バウンドし、ゴールに吸い込まれたかに見えたが、しかし直前でゴレイロ菊本美奈の伸ばした足に弾かれてしまった。


 小さくバウンドし、転がったボールに、菊本美奈は跳躍するように飛び込んで、強く、遠くへとクリアした。


 落下地点へと、裕子とギガモード選抜の長嶺八江が走る。


 早かったのは裕子で、相手を背負いながら胸で落とし、足で踏みつけた。

 振り返り、長嶺八江と向き合う。


 裕子は、先ほど里子が彼女に対して行なったのと全く同じように、すっと横へ動いて彼女を抜くと、ドリブルで上がりながら奈々へとパスを出した。


 個人技には自信があるはずなのに一度ならず二度までも……ということか、長嶺八江はすっかり青ざめた顔になっていた。


 この通り、いざ実践してみればハーフタイムでの奈々の助言は実に的確であった。


 効果絶大で、個人技の優れた者の揃うギガモード選抜の選手たちに対して、佐原南は個人で対等に渡り合えるようになっていた。


 チームとしての成熟度は、寄せ集めのギガモード選抜と、長く連係を磨いてきた佐原南と、どちらが上かはいうまでも聞くまでもない。個人で負けていない以上は、チーム力という面で佐原南が優位に立つのも当然の成り行きといえた。


 優位といっても僅かなものに過ぎないが、せいぜいが相手の前線を後退させる程度であった前半戦に比べれば、そして、本来の相手の実力を考えれば、これは見逃すことの出来ない攻撃の機会であった。


 前半終盤や後半序盤のように、また、佐原南がどんどん前へと出られるようになり、葉月と奈々による前線が再び活性化を始めた。


 この後半戦だけを見ても、立ち上がりは佐原南のペースで、次いでギガモード選抜が攻撃枚数を増やすことで相手の流れを断ち切り、と思えばまた佐原南がチーム力を発揮してペースを握り始めた、という実に目まぐるしい展開。

 現在1ー0というロースコアではあるものの、観客席で観戦している者たちを魅了する、好ゲームと呼んで差し支えない素晴らしいプレーをピッチ上の十人は見せていた。


 先ほどまでのギガモード選抜の怒涛の攻撃は、現在、佐原南の勢いを受けて完全になりを潜め、リスクを冒すことを避けて守備を主とするゲーム運びに徹底していた。

 少し引き気味になっているということもあり、それがまた、佐原南がある程度ボールを保持出来るようになってきている要因でもあった。


 そのような全体的な情勢など関係なしに、とにかく妖精のごとく笑顔で元気に駆け回っているのが西村奈々だ。


 先ほどのハーフタイムでは、あれだけ淡々と的確に相手の弱点を語っていたというのに、そこを突くつもりは当人にはさらさらないようで、とにかくボールを持つ相手に挑みかかっては、しつこくまとわりついている。前半途中に投入された時と、プレーにいささかの変化もない。


 現在の状況に合わせて前線を巧みにコントロールしているのは、相方の九頭葉月である。


 葉月も、実によくやっている。

 奈々とコンビを組むだけでも一苦労だというのに、前と後ろとの橋渡しや、個人としてのプレーも並以上のレベルで仕事をしている。


 葉月が一年生だった頃のことである。

 裕子は前部長から、里子も葉月もピヴォの適性を持っているといわれたことがあった。


 裕子は当初、自分がバカだから理解出来ないのか、もしかしたら前部長の方がもっとバカなのか、どっちなのだろうと本気で思っていた。


 里子はフットサル初心者ながらも運動神経がとても優れていることはすぐ分かったし、とにかく気が強く、自分が自分がという性格だし、ピヴォ向きなことに疑問を挟む余地もなかったが、葉月に関しては、「はあ?」と思わざるをえなかった。運動神経が悪いわけではないのだが、とにかく気が小さく、自分に自信がなさすぎるからだ。


 でもいまは、前部長のいっていたことが理解出来る。

 現在の葉月はすっかりチームに溶け込んで、チームにいなくてはならない存在になっているが、それはすべて、彼女自身の気の小ささから来ているであろうからだ。


 自信がないから誰よりも一生懸命に練習して個人技をみがき、自信がないから周囲との連係などチームの中での自分を常に考えている。


 そんなピヴォが、一人くらいチームにいてもいい。いや、むしろいた方がいい。


 そして、そんなピヴォが、そんなピヴォだからこそ、ついに輝く場所と、輝くべき時を得た。自分への自信のなさから徹底的に研究した、奈々との連係から。


 田嶋野有紀からボールを奪い、長嶺八江をかわし、また独走体制に入った奈々。


 小さくあっち、

 小さくあっち、


 と、楽しげにドリブルをする奈々に、ほんの少し遅れて横を走る葉月。


 葉月の背中を、田嶋野有紀が地響き立てて追い掛ける。


 奈々たちの進む正面、ギガモード選抜ゴール前にはゴレイロの菊本美奈が構えている。


 PAペナルテイエリア内に入るか入らないかというところで奈々はシュートを打ったが、しっかりとポジショニングしている相手に対してタイミングが正直過ぎ、ブロックされた。


 だが、奈々にとってシュートとは大きいドリブルのこと。打った瞬間に自身を加速させて、ブロックのこぼれを押し込もうと詰め寄っていた。


 ボールへと伸びる菊本美奈の腕、奈々の足。


 バン、と音がしてボールは真横へ飛んだ。

 葉月が胸で受けて、右足で踏み付けた。


 シュートを打つにはあまりに角度がない上に、戻ってきたベッキの田嶋野有紀が、眼前、ゴールとの間に入り込んできた。


 葉月の行動は躊躇がなかった。すっと前へと出ながら、田嶋野有紀をするりとかわして奈々へボールを渡すと、そのまま奈々の背後を回り駆け抜けた。


「こっちに小さく!」


 いわれた通り、奈々は葉月の声の方へと蹴った。

 小さくどころかかなり強烈なのが葉月へと飛んだが、彼女は倒れ込みながらも右足を上手に合わせていた。


 ゴレイロの脇をすり抜けるように、ボールはゴールへと吸い込まれていた。


 ゴールネットが、大きく揺れた。


 トラップしていたならば、ゴレイロに余裕を与えてしまっていただろう。葉月の好判断によるボレーシュートが決まり、後半七分、ついに佐原南は同点に追い付いた。


     14

 素晴らしいプレー、素晴らしいシュート、ゴールに、観客席からどよめきがあがった。そして拍手が起こった。


 わらみなみの部員たちも、歓喜の叫びをあげた。思いのほかあっさりと決まってしまった同点弾であるが、これまでずっとリードされていたのだ、喜びの大きさは変わらない。


「ズッキーナ、すっげええ! つうか、プレー地味なくせに得点がいつもボレーな気がするう」


 やまゆうはまだ床に倒れている葉月のところへ小走りで寄ると、引っ張り起こしてあげるどころか腹部に祝福のエルボードロップをお見舞いした。


 ぐ、と容赦ない一撃に息が出来ず苦しそうにしている葉月の頬っぺをむにゅりと引っ張って、


「はい笑顔~」


 強引に、得点に喜ぶ笑顔を作ろうとする。


「先輩、やめて……」


 ぐちゃぐちゃの変な顔。同点弾を決めたというのに、かくも辱めを受ける葉月であった。


 審判がイラついている気配を背中に感じた裕子は、慌てて立ち上がり、「ふざけてるんじゃない!」と、葉月を引き起こした。


 あぶね。忘れてた、この審判たちギガモードを勝たせたいんだった。


 試合再開。


「早速交代!」


 葉月奈々コンビの使えるめどは立った。同点に追い付いたこともあるし、体力を考えて、裕子は二人をベンチに下げた。


 入れ代わりにピッチに立ったのが、この試合初投入、充分に休息をとったナオカナコンビ、たけなおかなめだ。


 直子は、里子からのパスを受けてファーストタッチをすると、早速というべきかドリブルで相手の守備陣へと切り込んだ。


 ギガモード選抜のながみねが、さっと寄ってくる。


 二人は向かい合った。

 直子がちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべると、続いて長嶺八江が驚愕の表情を浮かべた。


 対峙する相手、つまり武田直子の足元に、ボールがなかったのだ。少し視線を横へと向けると、その先にはドリブルで駆け上がる久慈要の後ろ姿。


 長嶺八江が混乱している間に、さらに彼女の目の前から武田直子の姿が消えていた。


 意識が久慈要に向いている間に、背後に回り込んだのだ。


 背後に風を感じたか、長嶺八江が慌てて振り返る。遥か前方、久慈要からパスを受ける武田直子の姿があった。


 ドリブルで進む直子の前方から、ギガモード選抜のしまが迫る。直子は引き付け、右側から抜きにかかると見せて、左の久慈要へとパスを出した。


 だがそれは、全力で駆け戻った長嶺八江が読んでおり、走り続けながらパスの軌道上に入り込んでボールをカット……いや、そうなる寸前、久慈要が自ら駆け寄ってボールを受けていた。


 絶対に奪ってやる、と槍のように突き出る長嶺八江の足先を、軽快な動きで難無くかわした久慈要は、そのまま駆け抜ける。

 守備に戻っていた田嶋野有紀と向き合うが、それも一瞬、右と思わせ左を抜いた。

 PAペナルテイエリア内に入った。

 ゴレイロのきくもとと一対一だ。


 久慈要はドリブルの速度を落とし、相手のタイミングをずらすようにしてシュートを打ったが、角度がなさすぎた。ゴレイロの身体に当たって、落ちたところを大きくクリアされた。


「いいよ、その調子! どんどん打ってこう!」


 裕子は、後方から声を張り上げた。


「そして、さすがあたし。すべてが計算ずく」


 小さな声で、自画自賛の言葉を付け足した。

 すべてが、かどうかはともかく、確かに裕子の狙い通り、ナオカナをこのタイミングで投入することによって、ギガモード選抜は完全に混乱に追い込まれていた。


 後ろの混乱は前の混乱を招き、そらにはピッチ上の選手だけでなく、ベンチ、監督やスタッフ、総出で浮足立ってしまっており、誰も落ち着かせることが出来ず、混乱が勝手に拡がっていく。


 武田直子と久慈要という佐原南の一年生二人に、いいように掻き乱されて、ギガモード選抜はすっかり防戦一方に追い込まれていた。


 自慢の個人技でどっしり構えて当たろうにも、久慈要の方がギガモード選抜の誰よりも技が冴えており簡単に止められない状態であるし、あまりに人数をかけて守ろうものなら、それこそ相棒の武田直子を自由にさせてしまうだけだ。


 ピッチ上の選手が活躍するだけではなく、外からはきぬがさはるがひっきりなしに声を飛ばして、状況に応じた指示を送っており、それによりFP四人の連係の質がより高まっていた。


 それら一つ一つの要素の積み重ねが、いつしか、圧倒的ともいえる佐原南ペースを作り上げていた。


 面白いくらいにボールが回る。

 奪われない。


 ナオカナを安易に出さずに、我慢に我慢をしていた結果といえた。


 寄せ集め集団の欠点をなくすべくフットサルのセオリーに従った堅実なプレーをするのはいいが、他校のようにもう少し佐原南を研究しておけば、ここまでの事態にはならずに済んだろうに。そう裕子は思った。


 ギガモード選抜の、混乱が混乱を招いての収集つかないこの状態は、そう簡単には収束しそうもなかった。


 久慈要が、ギガモード選抜のながみねとの間を抜けてゴール前へ。


 ギガモード選抜は、混乱を自覚して全員がゴール前まで引いており、佐原南の選手との混戦状態。その中に、久慈要は飛び込んだ。


 四方八方から足が突き出されてくる中、久慈要は蝶が舞うがごとく軽やかな動きで、さすがのボールキープを見せる。


 後方から、攻撃参加で上がった生山里子が、久慈要を追い抜いた。


 その足元には、ボールが。

 久慈要が、相手をかわしざまにヒールで転がしたのだ。


 ゴレイロが飛び出した。


 里子は無理してシュートを打たず、反転して、ゴレイロからボールを守る。


「カナ」


 と、パスを出すふりをしつつ、再び反転、シュートを打った。


 ボールはゴレイロの足に当たり、跳ね返った。


 ゴレイロが前進して、転がったボールを処理しようとした時には、既にシュートを打った本人である里子が自ら詰め寄って、再びシュートを放っていた。


 角度のほとんどないコースであったが、しかしゴレイロの伸ばす手の指先をかすめて、ネットの内側側面にボールは突き刺さっていた。


 佐原南 2―1 ギガモード選抜


 後半終盤での逆転弾に、里子は右腕を突き上げた。


 ピッチ内外から、佐原南の部員たちによる歓喜の声があがった。


 反対にがっくり肩を落として意気消沈しているのは、ギガモード選抜の選手たちである。圧倒した時間帯も多く作りながら一得点しか出来ず、逆転せれてしまったのだから。


「カナのキープから、美味しいとこだけ持ってきやがって」


 裕子は、里子に近寄ると背中をバシバシと叩いた。普段のことがあるので、ちょうどいいやと結構強めに。


「それも実力のうちですよ」


 里子はそう強がった。

 強がらずとも、本当は裕子もよく分かっている。


 シュートを打った体勢から瞬時にして自分で詰めるなど、並の身体能力や判断力ではない。あの角度で決めるなど、並の技術ではない。

 この試合、すっごい頑張ってたからな。ご褒美だな。


「すっかり息が荒くなってんじゃん。ずっと出っ放しだったから、さすがの里子も疲れたか?」


 裕子の指摘通り、里子は肩で大きく呼吸していた。表情にはまだ出ていないが、相当に疲弊していることは間違いないだろう。


「ぜんっぜん疲れてまっせん」


 虚勢と胸を張る里子。あまり立派な胸ではないのだが。


「ああそう? でもだーめ。交代」


 ちょうどいいタイミングで、ちょうどいい奴が点を取ってくれた。心置きなく下げられるというものだ。

 勝てばさらに次の試合が待っている。

 ここで里子に潰れられては困るのだ。


 優勝するためにも。

 この試合は、そのための通過地点に過ぎないのだから。


     15

 さとと交代で入ったのは、ゴレイロのなしもとさきだ。


 この試合でずっとゴールを守ってきたたけあきらは、ゴール裏まで小走りで回り込んできたきぬがさはるから、


「頑張ってね」


 と、FPフイールドプレイヤーのユニフォームを受け取ると、素早く頭を通した。


 晶はゴレイロが本職であるが、足元でボールを扱う技術が非常に高く、FPをやらせても並以上の実力を発揮するため、要所要所でFPとしてピッチに立つことがある。

 いまもその準備をしているところだ。


「しかし晶って、青いユニフォームが似合わないよね」


 春奈がぼそり一言。


「うるさいな」


 ナオだっておんなじような顔だろ。


 と、心の中で続きをぼやく。


 まあ、ナオは似合っているけど。……どうせわたしは、黒とかグレーしか似合わない暗い顔だよ。


「さ、あっち戻った戻った」


 FPユニフォームをかぶり終えた晶は、春奈の背中を軽く叩くように押して、追い払った。


 ゴール前へと梨本咲が、グローブをはめながら歩いてくる。


「咲、ゴレイロ任せたよ。気負わず、リラックスしてやればいいから」


 晶は、咲の肩に手を置いた。


「そういうこというから、緊張するんですよ」

「なんだ、やっぱり緊張してんだ」

「してません!」

「なんだそりゃ」


 あっけにとられる晶であったが、次の瞬間には笑みが浮かんでいた。

 それにつられ、咲の顔にも。


 めったに見られる光景ではなかった。

 二人とも普段は不機嫌そうな表情で、笑顔を見せることなどほとんどないからだ。


 誰かに見られたら絶対にからかわれるな、と、晶はすぐにいつもの顔に戻り、「お互いベストつくそう」と、咲に背を向け、小走りで上がった。


 佐原南のキックインであったが、ギガモード選抜に身体を入れられ、奪われてしまう。


 奪ったは、立ち塞がる武田直子の胸をどんと突き飛ばす激しいドリブル突破。


 何故か笛は鳴らず、志賀美也子は青ユニフォームを着たばかりの武田晶と向かい合った。


 志賀美也子は、またぎフェイントで、晶を右に左に揺さ振り、抜きにかかる。


 晶はタイミングを計り、ファールにならないように上手に足を伸ばし、ボールを横へと蹴飛ばし、奪い取った。

 走り出す。


「ああもう、なんでこれで、普段ゴレイロなんだよ!」


 後方にいる咲の、それは冗談なのか本音なのか。

 いずれにしてもなんとも表現できない複雑な気持ちを味わっているのは間違いないだろう。それほどまでに素晴らしい、晶のFPとしてのプレーであった。


 だが、巧みなボール奪取を見せた晶であるが、次の瞬間、床に転がっていた。背後から志賀美也子に服を掴まれ、倒されたのだ。


 笛が鳴った。

 第一審判が、イエローカードを高く掲げた。

 志賀美也子に出されたものであった。


「なんだ、晶が貰ったかと思った」


 やまゆうが、ほっと胸をなでおろしている。


「そんなわけないでしょ」


 晶はそういうと、ゆっくり立ち上がった。

 腰に手を当て、左右に捻ってみる。特に痛みはない。

 さっき混戦の中で踏まれた右腕は、まだ痛むけど。


「いやいや、あの審判を甘く見るなって」


 二人は、第一審判へちらりと視線を向けた。渋々出したカードであろうことが想像出来る、そんな表情であった。


 なるほど。

 晶は納得した。


 運がよかった。どうこじつけられて、こっちのファールにされるか分からないな。気を付けよう。


 佐原南はFKフリーキツクを獲得した。

 ファールを受けた本人である晶が蹴り、前方にいる妹の直子へと縦パスを送った。


 直子は、少し戻ってボールを受ける。

 背後にぴたりと、ながみねがくっ付いた。


 くるりんと回って、長嶺八江を一気に抜き去ろうとしたが、しかし強引に足を突っ込まれて、ボールを奪われてしまう。


 だんだんと、ギガモード選抜の選手たちのプレーが激しくなってきていた。


 個人のプレーだけでなく、チーム全体として、勢いが激しくなってきているようであった。


 先ほどから続いているチームの混乱が収束したわけではないが、だからといって逆転された以上はこのままでは負けてしまうわけで、選手のそれぞれが、なりふり構わずに全力を出してきているのだ。


 それだけではなく、彼女らのそういうプレーを、審判が流すのだ。よほど危険なプレーでない限り。

 反対に、佐原南のファールには躊躇なく笛を吹くのに。


 パスを受けた裕子は、出しどころを探す。

 と、そこへざきむつみが強引に身体を突っ込ませてきた。


 ボールにいっているとはいえ、これは単なる体当たりだ。

 怪我で踏ん張りのきかない裕子は、単に痩せて体重の軽い少女である。激しく吹っ飛ばされ、頭を床に打ち付け、転がった。


 だが、笛はない。

 ギガモード選抜、尾崎睦はドリブルでゴール前へ一直線。


 ゴレイロ、梨本咲と一対一だ。

 尾崎睦はタイミングを計って、右足を振り抜いた。


 精度抜群の弾丸シュートであったが、咲はしっかりと見切り、身体を横へ移動させながらボールを正面からがっちり胸の中に抱え込んだ。


 佐原南の部員たちから、おーっと歓声と拍手が起きた。


「あたしがこういうの止めちゃおかしいのかよ!」


 咲は、ちょっと嬉しそうなのを仏頂面を作ってごまかしながら、ボールを強く蹴り前線へと送った。


 ほんと、咲、成長した。


 晶は、いまのが自分のセーブであるかのように喜ばしい気持ちになっていた。


 来年の佐原南はもっと強くなるぞ、と確信していた。


 かなめとギガモード選抜のしまが、肩をぶつけ合うようにボールを追いかける。


「カナ! こっち、かすっただけでファールだから気をつけろ!」


 晶は、わざと大きな声で叫んだ。

 本当にそうかどうかは分からないけど、念のために審判を牽制だ。


 やはり審判のジャッジに幾ばくかの疑いを抱いているらしいギガモード選抜の選手たちには、不快な思いをさせてしまうかも知れないけど、紳士淑女なことをしていられる余裕は、こちらにはないのだ。


 田嶋野有紀はこれもまたファールであろうという強引さで身体を当ててボールを奪うと、反転し、大きくクリアした。


 志賀美也子が全力疾走、タッチラインを割りかけていたボールをぎりぎり拾うと、尾崎睦へとパスを出す。


 ギガモード選抜は、とにかく前へ前へと、がむしゃらに、どんどん攻め続けた。

 ゴレイロ以外の全員が、高い位置を取り続けた。


 連係面ではちぐはぐであったが、個々の技術と、審判の笛加減によって、ギガモード選抜は津波のような迫力で佐原南を襲い続けた。


 しかしながら、要するにそれは前掛かり。きっちりと押さえ込むことさえ出来るのであれば、むしろ佐原南にとっては得点のチャンスが増えることになる。

 そして佐原南は、そのチャンスをものにした。


 それは単純なカウンターから始まり、熟成された見事な連係に終った。


 晶の奪取からのパスを受けた久慈要が、サイドを駆け上がった。

 久慈要は、必死に詰め寄る長嶺八江を軽くかわすと、ゴール前へと全力で駆け上がっていた晶へと精度の高いパスを送った。


 ゴール前でパスを受けた晶へと、ゴレイロが飛び出す。

 晶はゴレイロを引きつけ、かわし、さらにスライディングで飛び込んできた田嶋野有紀を身を浮かせてかわすと、空中でちょこんとボールを蹴って真横へパス。


 最後に直子が、頭で押し込んだ。


 後半十四分、佐原南は3-1と、ギガモード選抜を突き放した。


「お姉ちゃん、ありがとー!」


 直子は、喜び満面に姉へと抱き着いた。


「離せよ、試合中だよ」


 むすっとした顔で、晶は妹を突き放した。

 本当は小躍りしたいくらいに嬉しかったが。


 このゴールが、というよりも、直子が生き生きとピッチを躍動してくれていたことに。あのショックから完全に立ち直って、より強くなってくれたことに。


 急いでボールをセンターへ戻し、試合を再開させるギガモード選抜の選手たちであったが、それからほどなくして、タイムアップを告げる笛が鳴った。


     16

 勝利してはいけないはずの試合、確証はないが、状況からそうとしか考えられない試合、それにわらみなみは勝利してしまった。


 運命を変えた、というと大袈裟かも知れないが、とにかく佐原南の選手たちにとって、信じられないような逆境につぐ逆境の連続であり、苦戦した分だけ喜びも大きく、ピッチの中には部員全員が入り込んで、はしゃぎ、抱き合い、歓喜の雄叫びをあげている。


 宇宙創生のビッグバンとはこのことか、というくらいに、佐原南高校女子フットサル部の部員たちは、身も溶けよとばかりに押し合いへし合いの、混沌の渦の中で喜びを爆発させていた。


「おい、ふざけんなよ!」


 なしもとさきが、ほしいくふかやまほのかにいじられている。

 結んでいた髪の毛を解かれて、ぐしゃぐしゃにされた挙げ句、巨大なまげのような変な髪型に結び直されてしまっていた。


 お祭り騒ぎの佐原南と対称的に、ギガモード選抜の選手たちはすっかり意気消沈。

 主将のは、どうしようもない苛立ちや悔しさを隠せずに、目に涙を浮かべている。


 それに気付いたやまゆうは、ちょっとしんみりした気持ちになってしまった。


 負けて悲しんでいる人間の姿を見るのは、いつものことながらちょっと複雑な気持ちだ。


 辛い練習を耐えに耐えて、臨んだ試合だっただろうに。

 でも、勝負は時の運。

 辛い練習というなら、こちらも同じだ。


 それよりも……


「あのさあ」


 裕子は、第一審判が近くを通ったのに気付き、ずいと詰め寄った。


 しかし彼は、ばつ悪そうな表情を浮かべながら、「次の準備で忙しいから」と、足の回転を速めてそそくさと去っていった。


「なんだありゃあ、認めたようなもんじゃねえか」


 裕子は腰に手をあてて、去りゆく審判の小さな背中を見送った。


「ま、勝ったんだからいいじゃん。もう審判も邪魔してこないだろうし」


 晶がなだめる。

 勝たせるべきギガモード選抜はもう敗退したのだから、もう試合内容に神の手が下される心配はない。


「そうだね。でも、このスケジュールのせいで、みんなへっとへとのばってばてだよ。くそお。しかもアゴと亜由美ちゃんが、次は出られないしさあ」


 裕子は渋い顔で、両手で頭をがりがりと掻いた。


「先輩」


 その、アゴことほしいくが、いきなり裕子の眼前に巨体をさらした。


「わお! 突然でかい頭を近付けるな! びっくりするだろ!」

「先輩、次出られないあたしの分まで頑張って下さい。どどすこアゴ注入!」


 育美は、裕子の頭を巨大な両の手でむんずと掴むと、その顎に自分の長い顎を押し付けた。


「ぎゃああ、王子先輩とアゴがキスしてるー」


 深山ほのかが文字通り飛び上がって驚き叫び、嬉し恥ずかしといった表情で赤らんだ両のほっぺを手で押さえた。


「違う! 見る角度見る角度。顎くっつけてただけ」


 裕子は育美を突き飛ばして逃れると、自分の手で顎をごしごしこすった。


「くそ、ほんとになんだか得体の知れないものを注入された気がするよ」


 と、手の甲の、こすった部分を舐めてみたが、汗の味しかしなかった。


「妙な気合いも注入されたし、決勝戦……勝つしかないよな、ここまで来たらさあ」


 裕子は、周囲にいる武田晶やいくやまさと西にしむらの顔を見回した。


「優勝すっぞお! おりゃああああ!」


 さっきの気合いのお返しに、育美の顎をバッチンと思い切り引っ叩いた。

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