第十一章 人、殺したことありますか?

     1

「おっきいお風呂だったよねえ」


 きぬがさはるは最上級生だというのに、なんだか一番子供みたいにはしゃいでいる。


 みたいじゃない。ほんと子供だよ。

 明日は決戦だってのに、まあ無邪気にはしゃいじゃってさ。

 別に暗く厳かに過ごせとはいわないけど、限度があるだろ。


 と、普通にしているだけで暗く厳かに思われてしまうたけあきらとしては思ってしまう。


 わらみなみ女子フットサル部の部員たちは、青いユニフォームではなく白黒ストライプの地味な浴衣姿で、ぞろぞろと通路を歩いているところだ。


「ほんとほんと、おっきかったなあ。反対側がさあ、湯気でほとんど見えないくらいだったよねえ」


 やまゆうも大満足といった笑顔。


 こいつが一番の子供なんだよな。

 春奈が大人に見えてしまうくらい。

 ったく三年生は、わたし以外どいつもこいつも。

 くそ、なんか一言いってやる。


「だからって、走ったり泳いだりするかな、普通。他の宿泊客だっているってのに、王子たちと一緒にいると恥ずかしいことばっかりだよ」


 小言をいう晶であるが、さして毒のある言葉を吐けなかったどころか、百万倍の猛毒を返されることになるとは。


「でもさあ、おとなしくしてたって転ぶやつは転ぶからなあ。つるーん、ってさあ。おんなじ恥ずかしいんなら、じゃあ楽しく騒がなきゃあ損だよねえ」


 裕子は、なんとも嫌らしい視線を晶へと向けて、にまーっとした笑みを浮べた。


「ちが、あれは王子たちが!」


 晶は、顔を真っ赤にして弁明しようとする。


 なんの話かというと、晶は、浴場であまりに子供っぽく騒ぎまくる裕子たち(山野裕子、衣笠春奈、かじはなふかやまほのか、西にしむらの五人)を注意しようとして立ち上がったところ、石鹸で足を滑らせて転んでしまったのである。


「しかもあれ、三メートルくらい滑ってなかった?」


 裕子は、春奈に振った。


「うん、滑ってた滑ってた。どうすりゃあんなこと出来るんだか」

「そんな滑ってないよ!」


 二メートルくらいだ。多分。


 ここは、さら駅近くにあるホテルだ。佐原南高校女子フットサル部の部員たちは、本日ここで一泊するのである。


 大会主催者であるギガモードスポーツクラブの、関連会社ホテルの安い部屋に割引価格で泊まることも出来たのだが、せっかくの遠征なのだし、とみんなで自腹を切って普通のホテルに泊まることにしたのだ。


 予選突破出来なければ翌日の試合はないわけだし、ならば堅苦しいビジネスホテルよりも、はなから観光気分で宿泊してリラックスしよう。と、部員ほぼ満場一致で決定したのである。


 大部屋に部員全員ぎっちりなので、かえって部屋代は安くなった。当然ながら、非常に窮屈であるが。


 窮屈ではあるが、ただし食事はちゃんと一人一人に出るし、まだ食べてはいないけれどもその評判はとても良いらしいし、お風呂も広くて気持ち良かったし、だから部屋が多少窮屈だろうと気にならないくらいに、みんなの総合満足度は高い……ようである。


 晶だけは、そうは思っていないので。


 物理的に窮屈、というのは自分も特には気にしないが、大人数で宿泊というのが生理的に嫌。苦手だ。


 いずれにしても自腹切っているし、副部長という身分でなくともやはり自分一人だけ個室というわけにはいかず、そこは我慢するしかないところなのであるが。


 でも、我慢出来るだろうか。

 不安だ。

 激しく。


 去年の合宿みたく、王子にペースを乱されまくるんじゃなかろうか。


 ゴリ先生の部屋に避難ってわけにいかないからな。大問題になっちゃう。そもそもどこかも知らないや。


 陰が薄くすっかり忘れられている存在である顧問のゴリ先生だが、殿方の身であるため、彼女らと同じ部屋に泊まるわけにはいかず、一人部屋なのである。

 しかも、このホテルの個室にどうも気に入ったものがなく、近くにある別のホテルに一人で泊まるとのことだ。


 先ほど部員たちと一緒にこのホテルに来て、全員揃っていることだけ確認すると、さっさと出ていってしまった。


「あ、おばちゃんたち、さっきはどーも!」


 老婆が三人、向こうから歩いてくるのを見て、裕子はバカでか過ぎる大声を張り上げて、深く頭を下げた。ほのかやなつらも続いて挨拶をした。


「さっきあどーも!」


 西にしむらも真似して頭を下げた。妙にお尻をぷりぷりさせているのは、誰の真似だか分からないが。


 小一時間ほど前になるが、大浴場の場所が分かりにくくてグルグルと回ってしまっていたところ、丁度入浴を済ませて部屋へ戻ろうとするこの老婆らに気付いた裕子が声を掛け、行き方を尋ねて無事に辿り着くことが出来た。ということがあり、そのお礼をいったのである。


「いやあ、おばちゃんたちいってた通り、ほんとに風呂でっかいっすねえ。思わず泳いじゃいましたよ~。なんか子供みたいにっつーかペンギンみたく床滑っちゃってる奴もいたしい。三メートルも」


 裕子は、老婆らと談笑している。


 こいつは、ほんとに誰とでも気さくに話すよなあ。

 これも才能だよなあ。

 ……別に、羨ましくなんかないけどね。

 全然。


     2

 ほしいくは、巨体を仁王立たせて戦士のように天井を見上げている。


 と、立ち姿のシルエットだけ見ればかっこいいが、しかしその顔は、よく見るまでもなく変態的であった。

 アゴというあだ名の通りの長~い顎を、ぴくぴくと痙攣させているのである。

 顎だけではなく、唇や、頬もだ。


 ぴくぴく、ぴくぴく、ひとしきり痙攣させると、今度は、目をあわただしくグルグルと動かし始めた。

 口を小さく開いたり閉じたり、いまにもよだれ垂らしそう。


「さ、なんでしょう」


 育美は、上を向くのをやめて姿勢を普通に戻すと、目の前にいるみんなを見渡した。直前までアホをやってたとは思えない、堂々たる態度で。


 ここはわらみなみ女子フットサル部の部員たちの泊まる、和式の大部屋だ。


 部員たちはみんな、座布団に腰を下ろしており、それぞれの前には御膳が置かれている。

 夕食の最中、ささやかな座興を行なっているところである。


「星が綺麗だな、って思っていたら、いきなり顎が痙攣しちゃったとこ」


 ふかやまほのかが手を上げ、答えた。


「ハズレ」


 育美は大袈裟に腕を交差させて、バツ印を作る。


「顔の窪みに水を貯めて運んでいるところ」


 なつ


「ハズレ。あたし顎は長いけど、そんな窪みなんかねーよバーカ」

「削岩機のかわりに顎を打ち付けて岩を砕いていて、ちょっと疲れて休憩していたら、ミネラル不足で顔の筋肉が攣ってしまったところ」


 しのが、絶対有り得なさそうなことを妙なリアリティをもって具体的に答えた。


「ハズレ。みんな想像力がないなあ。答えは、あたしの顎の上で二匹のオオカマキリが戦っていて、勝利した一匹が、あたしの鼻を乗り越えて上がってきて目ん玉にカマを突き立てようとしてきて、あたしが断末魔の悲鳴をあげているところでしたあ」

「分っかるわけないじゃん、そんなの! ずるい。お金返せ! 払ってないけど」


 たけなおが抗議の声をあげた。


「あたしは、アゴが顔の上に巨大な氷を乗っけて気合いで砕こうとしているところかと思った。カマキリだなんて、分かんないよ」

「そう? あたしは、顎にカマキリが乗ってるところまではイメージ出来たんだけど」


 かなめが腕を組み、首を傾げながら真顔でぼそり。


「カナちん、それやばいよ、逆に」


 親友の感性を本気で心配する直子であった。


「それじゃあ、あたしもゼスチャークイズで!」


 やまゆうは大声を張り上げると、すっくと立ち上がった。

 ずんずんと歩いて上座まで行くと、星田育美とバトンタッチ。


「よろしくだぜえ、せんぱあい」

「おっけいだぜえい、へんたいなこうはあい。では、クイズスタート」


 と、裕子は突然しゃがみ込んだ。

 なんだか、激しく力んでいるような表情だ。

 顔、真っ赤。

 すぐ横にある何かを、両手を素早くクルクル回しながら引き寄せようとする。


 まさか……


 という、全員の表情。

 裕子が自分で「カラカラカラ」などと、思わず擬音を発してしまったものだから、もうまさかもへったくれもない。


 みんな、心底げんなりとした顔になっていた。何故、よりによって食事の座興で……


 周囲の空気を全く読めない裕子は、なおも続ける。

 カラカラ引っ張り出したその物を、尻に当てて前、後ろ、そして、それの匂いをかぐしぐさ。

 不思議そうな顔で、手にしたものをちょっと離してじっと見つめる。

 もう一度、匂いを嗅ぐと、今度は四つん這いになり、床に鼻を押し付けた。


「ただのアホだな」


 たけあきらが、ぼそり。


 裕子は四つん這いからしゃがんだ姿勢に戻ると、腕組みし、首を右に傾け左に傾け、右に傾け左に傾け。


「はい、以上です。ではアンサーーターーーイム! いまのなんだか分かった人?」


 裕子はでっかい声を出した。


「なんとなく想像つくけど……いいたくない」


 かじはなは、眉間にしわを寄せて渋い表情だ。


「同性でもセクハラって成立するのかな」


 と、いくやまさと


 他、誰も口を開く者はおらず、部屋はしんと静まり返ってしまった。

 ながが、いまにも吐きそうな顔をしている。


 明らかに異常な空気が場を包んでいたが、まるで気付いていない者が一人。西にしむらですら、あれみんなどうしたの? という顔になっているというのに。


「みんな、分からない? もう、想像力ないなあ」


 想像力あるから誰も答えられないんだよ! 裕子以外の全員が、そう思っていたことだろう。


「正解は、和式トイレでうんうん頑張った物が、なんだかカレーの匂いがして、まさかと思ってもう一度嗅いでみて、もう間違いなくそれはカレーの匂いそのもので、一体これ、ご飯の上に盛ってみたらどうなるんだろう、と、試してみるかどうするか自分の気持ちがだんだん抑えられなくなってドキドキしている武田晶」


 しん。


 空気が、完全に凍り付いていた。

 部屋は、完全に静まり返っていた。


 息遣いどころか、心臓の鼓動や血管の脈流まで聞こえそうなほどに。

 つい先ほどまで、部屋はあんなに賑やかだったというのに。


 その惨劇をもたらした当人と、あれえという顔の西村奈々を抜かして、みんなすっかり顔が青ざめてしまっていた。


 おい……

 この人、本当にいっちゃったよ。

 食事中だっていうのに……

 そうはイカのナントヤラ的にぼかすことなく、ズバッといっちゃったよ。

 最低……


 非常識への非難の視線が、氷の槍になってずかずかと裕子に突き刺さる。身体が見えないくらい無数の突き刺さりまくっているのに、当人、裕子は全く気付いていない。


「って、それなんであたしなんだよ! 他の誰だって、クイズになるだろ! というか、ご飯の時にそんな下品な問題出すなよ! バカじゃないの。くっだらない!」


 武田晶は怒鳴った。

 自分がネタにされたからというよりは、おそらくこの緊迫した空気に真っ先に耐え切れなくなったのだろう。


「でも、晶先輩、意外とやりそう」


 里子も、この雰囲気に耐えられず、ちょっと空気を変えてみようと思ったが、青ざめた顔のままで一言、発してみた。


「やるわけないだろ!」


 自然発生的なものでないため会話のラリーが進まず、また場がしんと静かになった。


「お姉ちゃんがトイレの神様と呼ばれていることを、なんで知ってたんですか。王子先輩」


 数秒後、武田直子もまた、なんとか気まずい雰囲気を打破しようと、得意のお姉ちゃんネタに持ち込んだ。


「呼ばれてないよ。お前が勝手にいってるだけだ!」

「でも、あたしがトイレ入ろうとすると、いつもいるじゃーん」

「お前のタイミングの問題だろ!」


 またまた怒鳴る晶。


 会話はそこで途切れた。普段ならば、晶ネタとあっては好物である咲が食いつかないはずがないのだが、咲も誰も、続く者はなかった。


 また、沈黙が場を支配した。

 三十秒ほど経過したであろうか。


「ああもう!」


 生山里子が、勢い良く立ち上がった。


「王子先輩って、ほんと最低だよな。バカで下品で乱暴で低脳で単細胞で。空気はまるで読めないし、よく平気で生きてられるよ。あたしだったら存在自体が恥ずかしくて自殺しているね。せっかくの食事だってのに、まあムッチャクチャにしちゃってさあ。なんなんだよ、このどうしようもない静けさは。もう、あたしが健全なネタで空気戻すしかない」


 里子は、部屋の隅っこへと行って自分のバッグからなにやら折られた紙切れを取り出すと、上座に向かい、「王子、どけ!」とあぐらかいている裕子を蹴飛ばし転がした。


「はい、注目! これははなのノートのコピーです!」


 折り畳まれていた、A3のコピー用紙を広げた。

 書かれているのは、手書きの折れ線グラフだ。

 一番上には、「変態偏差値」と書かれている。


「見ての通り、フットサル部員の変態偏差値グラフだそうです。なんでしょうかね、これは」

「ちょっと、里子! いつそんなコピーとったの? 信じらんない! やめてよ!」


 梶尾花香は立ち上がると、里子の元へ走り寄り、紙を奪おうと手を伸ばす。おっと、と里子は身を翻して避ける。


「さて、グラフがここでカクンと落ちてます。来月のところ。つまり、三年引退と同時に変態度が薄まるということでしょうか。どうやらそのようです。下にはっきり備考が書かれてます。王子、晶、引退。お、先輩二人を呼び捨ててますね。このノートの中では、あたしがご主人様なんだものってとこですかね。変態二匹は、とっとといなくなれ!」

「思ってないよそんなこと! 書いてないことまで勝手にいわないでよ!」


「ハナあ、あれ本当?」

「細々したこと、熱心だねえ。でもデータの根拠はあ?」


 裕子と晶が、花香を左右から挟み打ちだ。

 花香は、晶にほっぺたをつんつん突つかれて、縮こまってしまっている。


「さて、次のページのコピー。なんてタイトルですかね。『むっつり偏差値!』 これもまた、三年生引退後に大幅下降してますねえ。ええと、備考によると、ジャガ、茂美、引退につき、と。なるほどなるほど。そりゃ下降するでしょうねえ、花香の思う通り彼女らがむっつりなら。おや、いま気付きました、晶先輩が呼び捨てどころかジャガになってます」

「書いてない! 里子、書き換えたでしょ!」


 少しでも晶たちの自分への感情を軽くしようと、花香は金切り声で必死に訴えた。


「書き換えたかどうか、筆跡見りゃあ分かるだろ」


 里子は涼しい顔である。


「ハナ……なんでことごとくあたしが出てくるんだよ」


 晶、顔はいつもの通り鉄仮面であるが、身体がぷるぷる震えている。


「ハナ! 茂美はね、茂美はね、むっつりなんかじゃないよ!」


 今度は、武田晶と篠亜由美からの挟み打ちを受ける花香であった。


「ごめんなさい! ちょっと冗談で書いてみただけで! 悪気はないんです! 本当にごめんなさい! 本当に悪気ないんです。あたし晶先輩も茂美先輩も大好きですから! どうもすみませんでした!」


 花香は声を裏返らせて、土下座をし、何度も何度も頭を下げた。


 ぷーーっ、と誰かが吹き出した。

 それは、久慈要であった。

 笑いを堪えようとして、お腹を押さえて苦しそう。結局堪え切れず、あはははと足をばたつかせながら大笑いを始めた。


「うそ」

「カナが……」


 滅多に見ることの出来ない久慈要の様子に、みな唖然としてしまっていた。


づきを笑わせる企画だったのになあ」


 山野裕子は、苦笑しながら鼻の頭を軽く掻いた。


 先ほどの星田育美のゼスチャークイズや、生山里子のフリップ芸、当人らは単なる座興のつもりであろうり、まさにその通りであるが、そもそも何故このような座興を行なうことになったのか。


 なにかリラックス出来ることしようよ、という裕子の発案なのであるが、裕子が抱くその裏の、というか真の目的は、づきを笑わせることにあったのである。


「いや、前にさあ、葉月のお父さんと話をした時にね、葉月はお笑い番組が好きだとか、スカートまくれ上がってパンツ見えてんのに気付かないくらい笑い転げてるとかいっていたからさあ、なんか楽しませるようなことわればひょっとして笑ってくれるんじゃないかと期待してたんだけどね」


 しかし、当の葉月は、硬直した顔で、頬をぴくりとも動かしておらず、まさかもっと絶対笑わなさそうな久慈要の方が笑い出してしまうとは。


「まあ、親睦深める意味もあるから、意義のあるものにはなったか。……でも、葉月を笑わせたかったな」


 残念がる裕子であった。


 里子がフリップ芸を終えて席に戻ると、上座でずっとあぐらをかいていた裕子が勢い良く立ち上がった。


「葉月にふさわしいあだ名! はい、春奈」


 裕子は、衣笠春奈をぴっと指差した。


「えー、なにそれえ、いきなりいわれても出てこないよ。じゃ、不思議ちゃん」


 春奈、深く考え込むような渋い顔しながらも即答であった。


「そんな不思議、でもないかな葉月は。没。じゃ、はい、隣」

「暗いからクララちゃん」


 里子が答えた。


「葉月を舐めんな。葉月は暗いんじゃなくて、笑えるくらいに真面目なんだ。暗いってのは、晶みたいなジトジト陰湿なのをいうんだよ。次」

「はづちゃん」


 梶尾花香。


「なーんの捻りもない。次」

「平成パントマール」


 星田育美。


「まんま、お笑い芸人にいるじゃん。雰囲気違うでしょ。次」

「連続チョップ君」


 篠亜由美。


「なんだそりゃ。あだ名じゃなくて単に変わった芸名だろ。個人的に嫌いじゃないセンスだけど。没。次」

「ズッキーナ」


 大きな声ではないものの、さりとて小さくもない声で、確かにそうはっきりと、

 真砂茂美が、

 声を、

 発していた……


 青天の霹靂。信じられない出来事に、起きてはならぬ出来事に、部屋が一瞬にしてしんと静まり返っていた。


 先ほども裕子が凍り付くような静寂をこの場にもたらしたが、その時とは全く別の理由で。


「茂美先輩の声、あたし、初めて聞いちゃった……」


 ほのかだけでなく、おそらく一年生全員がそう思ったことであろう。


 ぼそぼそと何か喋ってはいるようだがまるで聞こえない、伝わらない、篠亜由美による通訳というか人間拡声器というかがないと意思疎通も出来ない存在、それが真砂茂美なのだから。


「二万年ぶりに茂美の声を聞いたあ! 茂美の声には千人分の重みがある。ズッキーナにい、けってえーい!」


 裕子はぱちんと指を鳴らすと、ぴっと葉月を指差した。

 一同、ぱちぱち拍手。


 当の九頭葉月は、恥ずかしそうにずっと下を向いたままであった。


 勝手にそんなこと決めないでよ、だいたい王子先輩はさあ……などと心の中ではあれやこれや抗議の声をあげているのかも知れないが。


「ナオさあ、なんか晶先輩のことで、面白い話ないの?」


 話題を変えたのはなしもとさきであった。


 葉月への助け舟を出したのか、この雰囲気ならなんでも聞けると思ったのか、それは咲本人にしか分からない。

 まあ咲に限らず、学校での武田晶を知る者にとっては、家庭での晶の話を聞くのは楽しい娯楽になるのであるが。


 晶は学校内では無表情無感情といった鉄仮面的なイメージが浸透しているため、家庭での、まるで女の子のような生活ぶりというギャップが、実に面白いのである。


 とはいえ先行しているそのイメージが、最近、妹によって崩れに崩れてきているわけではあるが。


「ねえ、ナオさあ。なんかない?」

「ないよ、そんなの! 地味で暗いのがあたしなの! 面白い話なんかあるわけない!」


 必死に否定する姉の晶。


「ありますよ」


 直子は、さらりと返事をした。


「おい!」

「お姉ちゃんってね、すっごい泣き虫なんですよ」

「いつ泣いたよ!」


 こまごまと合いの手というか突っ込みをいれる晶であるが、直子はまるで気にせず穏やかな表情のまま語り出した。


「子供の頃にね、あたしがいじめっ子にいじめられていて、太った強そうな男の子がリーダー、それと、もう二人いて。あたしは、どんと押されたことで怖くて、わんわん泣いちゃってて。お姉ちゃんがたまたま通りかかって、あたしを助けてくれたんです。


 その子らに飛び掛かって、取っ組み合って。


 助けてくれたっていっても、ぼろっぼろにやられちゃいましたけど。相手は男の子が三人ですから、それはもう一方的に。


 擦り傷だらけになって、痛みに涙を浮かべているお姉ちゃんに、大丈夫、痛くない? って声をかけると、お姉ちゃん、にっこり微笑んで、痛いよ、って。痛いのは嫌だけど、ナオが泣いているのはもっと嫌だから、って、そういったんです」


 思いも寄らぬ話の成り行きに、晶はどういう表情、態度でいればいいのか分からず(もとからあまり表情はないようなものだが)黙ってしまっていた。

 また直子に、咲の喜びそうなことを色々と暴露されると思っていたのだろう。ピーナッツが鼻に入って取れなくなったことがある、とか。


「へえ、いいお姉ちゃんじゃあん。感動した」


 かじはなが、両手を合わせて目を潤ませている。


「にっこり微笑む晶先輩か、想像つかんなあ」


 なつ、腕を組んで空想努力。


「でもさあ、小さな頃の話でしょ? そんなぼろぼろにやられちゃっても涙を浮かべる程度だなんて、むしろ我慢強いほうで、よく泣くって話とは違うでしょ? 仮に殴られて痛くてわんわん泣いたとしてもさあ」


 篠亜由美が疑問を口にするが、構わずに直子は話を続ける。


「お姉ちゃん、小学生の頃に空手を習ってたんですけど、確か、この頃からなんです。たぶん、このことがきっかけだったんですよ。あたしのことを守りたい、っていう。ね、お姉ちゃん」


 直子は柔らかな笑みを、姉へと向けた。


「まあ、きっかけといえばきっかけだけど。ただ単に、強くなってあいつらをやっつけてやりたかっただけだよ」


 晶は、つっけんどんな顔で、答えた。


「ほら、この態度。優しいくせに、正直にそうといえない。ほんと不器用なんですよね。ついこの前もね、あたし、ちょっと精神的にまいっちゃってることがあって、詳しくはいえないけど、死にたいくらい辛いことがあって。……そしたら、なんとお姉ちゃん、一人二役で漫才やって、あたしのことを励ましてくれたんです」


 あまりの意外さに、おーっと声があがった。


「その漫才、聞いてみたあい!」


 嬉々としたはしゃぎ声を出す梨本咲の口を、晶は押さえつけながら、


「なんでいうんだよ!」


 怒鳴っていた。

 でも妹は、まるで笑みを崩さず、


「あたしその時にね、しみじみ思ったんです。この家に生まれてきて、お姉ちゃんの妹として生まれてきて、よかったなあって。そしたらね、それはほんわかと、暖かい、うれしい気分のはずなのに、なんだか涙が出てきちゃって……」


 思い出して今も涙が滲み出てきたのか、直子は人差し指で目を拭った。


「トイレ行ってくる!」


 姉は、腕で目を隠しながら勢い良く立ち上がると、ぐすぐすと鼻をすすりながら、小走りに部屋を飛び出した。


「ね」


 直子はけろりとした笑顔で、みんなを見回した。


「すっごいよな、晶先輩は。……忍耐が。あたしにナオみたいな妹がいたら、絶対にぶっとばしてるよ」


 恐ろしいものの片鱗を味わったかのような、青ざめた顔で呟く生山里子であった。


     3

 もう太陽はとっくに遥か西の彼方へと消えており、闇夜の天幕が広がる時間帯であるが、今夜はどんよりとした曇り空であるため見上げると街明かりの反射に薄明るかった。


 やまゆうは、一人で街の中を歩いている。

 ジャージ姿だ。


 都会に比べればなんということのない賑わいであるが、とりの自宅周辺の、真っ暗で人っ気のほとんどないのに慣れた身としては、人や自動車の数が多くて実に明るく騒々しく感じられた。


 なにをしているのかというと、買い物である。木更津駅のすぐ近くにある夜九時まで営業しているドラッグストアで、スプレー式の痛み止めを買って、ホテルに戻るところである。


 大通り沿いの、広い歩道を歩いている。


 ベンチと公衆電話ボックスとの間に、ボロを着た数人の男たちがおり、大きな笑い声をあげている。

 うるせーな、と思いつつ、避けて回り込もうとする裕子であったが、目に飛び込んできた予想もしていなかった光景に、


「ゴリ先生!」


 思わず叫んでいた。

 ホームレスとおぼしき集団の中にすっかり溶け込んで、裕子たちの部活の顧問が酒盛りをしていたのである。


「やべ! 見つかった。山野、みんなに内緒な」


 口調こそ慌てた風であるが、顔はそうでもないようだ。酔って大胆になっているのか、目撃者が自分と同類の生物だからなのか。


「いえるわけないでしょ、こんなこと。なにやってんすか、もう」


 人には遅刻するな勉強しろ真面目になれと、文句ばっかりいってくるくせにさあ。


 就寝前の自由時間なので酒を飲んでいても問題はないのだろうが、こんなことを広められたらちょっと立場がない、と思ったか、ゴリ先生は束の間の仲間たちに別れを告げると、裕子と一緒に歩き始めた。


 ホームレスたちは、手に手に小汚いハンカチを振って友の卒業をお見送りだ。


「だいたい内緒もなにも、絶対バレるでしょ。だってここ、あたしらの泊まってるとこの目と鼻の先ですよ。どっかのホテルに泊まるんじゃなかったんですか?」

「実はな、そんな金ないのだ。ちょっと借金してて。野宿しようとベンチに寝ていたら、おっちゃんたちに声かけられて、意気投合してさ」


 この近くに住む知り合いにワゴンカーで迎えに来てもらって、その知り合いの家に泊めてもらうか、またはワゴンカーの中で一人一夜を過ごすはずだったのだが、知り合いにデートの予定が入ったとかで、あっさりと友情を裏切られてしまったとのことである。


「教師のくせにそんな適当なことやってて、だらしないというかなんというか。なんか、毎朝遅刻のことで注意されてゲンコツ食らったりお尻を叩かれたりしてるのが、腹立ってきた。とのことに理解を示してくれたりして実は良い先生かもと思っていたけど、やっぱりゴリ先生はダメ先生だと思います」

「そういうこと、本人の前でいうなよ。ズバッとさあ。いや、本人いないとこでもいうな。……しかし、その西にしむらのことだけど、お前さ、なんでそんなにあいつに一生懸命なんだ」

「別に取り立てて一生懸命とは思ってないけど。せっかく知り合えて、せっかく入部してくれたんだから、フットサルを、フットサル部にいることを、楽しいと思って欲しいだけ。特別扱いはしていない……つもりだったけど、途中から、悩みました。特別扱いすることこそが平等なんじゃないか、でも、そういう風に考えること自体、失礼なんじゃないか、って」

「やっぱり、変わってるよ、お前」

「それが変わってるってんなら変わってるでいいですよ」


 他人からどう思われるかなんて、自分にはどうでもいいことだから。


 二人は口を閉ざし無言のまま、夜の街をしばらくの間、ふらふらと歩き続けた。


「実は、奈々にこだわるのには、理由がありまして」


 無言なら無言で構わなかったのだが、何故だか唐突に、口を開きそんな言葉を発していた。


「なんだよ」


 ゴリ先生は反応したが、しかし裕子は、自分から語り出しておいて黙ったまま、歩き続ける。

 先生も、特にはなにも聞かず、歩き続ける。


 三十秒ほど経った頃であろうか。


「先生、あのさあ」


 裕子は、躊躇いがちに口を開いた。


「ん?」

「人、殺したこと、ありますか?」


 その言葉に、ゴリ先生は、慌てたように裕子の顔に視線を向け、目をぱちぱちさせた。

 裕子は、前方を真っ直ぐ見据えたままだ。


 言葉の非現実感に、ゴリ先生はちょっとほっとしたように、


「あるわけないだろ。そしたら、教師やってねえよ」

「あたし、あるんですよね。小学生の頃。つい最近まで自分でも気付いてなかったけど、きっとそれが、奈々を気にする理由だったんだ」

「またまたくっだらない冗談……」


 ゴリ先生の口は「を」をいおうとする形のまま硬直していた。


 それは、裕子があまりにも寂しげに、遠い目をしていたからであろうか。


 ごくり唾を飲むと、しばらく呆然としたまま言葉の出ないゴリ先生であったが、


「そそれと、西村と、なんの関係が」


 生徒に飲まれまいと、言葉を探り探りし始める。

 と、その時であった。


「あ、王子先輩、ゴリ先生!」


 天へと突き抜けるような明るい声。

 フットサル部員の、たけなおの声だ。

 噂をすればなんとやら。前方から歩いて来るのは武田直子と、いま話をしていた西村奈々本人であった。


 直子は、裕子たちを見ながらぱちぱちと瞬きをし、あらためて二人の姿をじろじろと見ると、いきなり、ふにゃーとなんとも柔らかな笑みを浮かべた。


「まああ、お二人ともお。そんな関係だったんですかあ? うーん、似合ってなさそうで、微妙に似合ってるかなあ。いやあ、こんなとこで目撃しちゃうとは参ったなあ。じゃ、とりあえず記念の一枚。笑って笑ってえ」


 直子はカメラで撮影するようなポーズをとって、二人をからかった。奈々も、よく分からないまま仕草を真似する。


「バーカ、ゴリ先生は新婚だぞ」

「えー、そうなんですかあ」


 驚きの声を上げる直子。


「山野、お前いちいちいうなよ、そんなこと」

「別にいいじゃないですか。で、家では奥さんの尻にしかれてるんですよねー」

「そうそう。嫁の奴、家ん中では強くて強くて、って、誰にもそんな話したことないのに、なんで知ってんだよ!」


 ぎゅーっと両手で裕子の首をしめるゴリ先生であった。


     4

「シンコンておいしいの?」


 西にしむらは、腕組みして唸っていたかと思うと、そんな疑問を口にした。ひょっとして、レンコンやお新香を連想させたのだろうか。


 たけなおと西村奈々は、たったいまやまゆうらと分かれたばかりである。

 二人だけで夜の散歩を続けていたが、もうそろそろホテルに戻るつもりだ。


「新婚というのは、結婚したばっかりってことだよ。……まあ……おいしいといえば、おいしいのかもねえ」


 直子は恥ずかしそうな笑みを浮かべ、ほんのり桜色になった頬っぺたに両手を当てた。


 奈々はさっぱり理解出来ていない顔だ。

 顔だけでなく、理解不能という思いがそのまま言葉に出ていた。


「おいしいといえば、舌に感じる味のことだろう、じゃあやっぱりシンコンって食べるものなのかあ。でも結婚のことだって、ナオちんいってたし。結婚くらい自分だって知ってるぞ。食べることなんて出来ないはずだぞ。よっぽどよっぽど大きな口があれば、食べちゃえるかも知れないけど。うーん、分からん。もしかしたらもしかしてお医者さんがよくいっていた、あたしの頭が理解できないチューショー表現ってのかも。あれ、チャーシューだっけ? チューショー?」


 可愛いなあ、奈々。

 などと直子は微笑ましく感じていたのであるが、しかし、


「そんなことより結婚結婚。シンコン結婚。そう、あたひ知ってるぞ。結婚というのは、子供が出来るのだあ!」


 唐突に、奈々は大声で叫んだ。


 ひゃああああ、と直子も心の中で叫んでいた。

 まばらとはいえ通行人もいるのにい。


「そ、そうだね」


 ちょっとびっくり冷や汗たらり。


 顔、真っ赤になってるかも知れない。わたし。


 どうして結婚すると子供が出来るの? などと質問されたらどうしようかと思ったからだ。もしくは、大きな声で説明されたらどうしようと思ったからだ。

 運よくというべきか聞かれることも語られることもなかった。

 既に奈々の興味は、他へ移っていたからである。


 前方の、パトライトの灯りを。

 奈々の見ているものに直子も気付き、疑問の声を発した。


「なんだろ、あれ」


 道路の端に、パトカーが二台、停車している。

 乗用車と軽トラックがぶつかりあったようで、お互い正面がへこんでしまっている。特に乗用車は酷い。グチャグチャだ。


「ああ、交通事故か」

「車さんと車さんがごっつんこ?」

「そう」

「蟻さんと蟻さんだったら、ごっつんこしても謝るだけでいいのにね」

「うん。蟻さんと違って、大きくて硬くて速いから」


 直子は、歩きながら立ち位置を変えて、大破した自動車が奈々から見えにくくなるよう視界を遮った。


「……そうなんだよな。ああ、乗用車の男の方が意識不明で。こりゃ植物になるかもなあ」


 警官の一人が、パトカーの無線でそのような話をしている。

 救急車が近づいてきているようで、サイレンの音が、だんだんと大きくなってきた。


「かわいそうだな。……奈々、行こうか」


 その意識不明だという人は、パトカーの向こう側に横たえられているようで、こちらからだと姿は見えない。

 おそらく血まみれで、何箇所も骨折しているような、酷い状態なのだろう。

 直子は、そんな凄惨な光景を、なるべく奈々には見せたくなかった。


「植物って? お花なんかの植物?」


 ちょっと歩いて現場から離れたところで、奈々が質問をした。

 直子は少し躊躇したが、仕方なく答えることにした。


「そうだよ」

「人が、お花になっちゃうの?」


 間髪入れずにまた奈々が尋ねる。


「お花と同じように、動けなくなってしまって、ただ息をしているだけだから、植物人間っていうんだよ」

「なんで動けなくなっちゃうの?」


 幼少期のエジソンよろしく、質問が矢継ぎ早だ。


「脳味噌が死んじゃってるからね。動けないというより、そういうことを考えることが出来ない」


 こんなことを答えて、奈々に理解出来るのだろうか。

 そもそも、こんな話を軽々しくしてしまってよいものだろうか。奈々に悪い影響を与えることはないのだろうか。


「あたしみたいなもんか」


 奈々は、にいと歯を出して笑った。


 反射的に、直子は大声を出していた。


「奈々は脳味噌死んでないでしょ!」


 別に怒鳴ったわけではない。

 大きな声にはなったが、語気を荒らげたつもりもない。

 だが奈々は、直子の何に驚いたのか、びくりと肩を震わせた。


「ごめん。……びっくりした?」

「んにゃ」


 奈々は首を横に振った。


「この前テレビでみた。脳味噌ほんとに死んじゃうと、心臓とか身体の中のものが、他の人に使われちゃうんだよね」


 どうやら、奈々は臓器提供のことをいっているようだ。


「そうなる人もいるよね」


 本人が事前に希望しているか、事後に家族が了承すれば。


「あのね、もしもね、あたしがそうなってね、たまたまナオちんがそういうの必要だったら、使っていいよ。あれ、ちょっといいたいこと違う、えっとね、あたしがね、そうならないとしてもね、使っていいよ。ナオちんも、王子もサトちんも、いるよっていうなら、みんなで持ってちっていいよ」


 奈々は、いいたいこと言葉に出来た、と満足そうな笑みを浮かべた。

 反対に、顔面蒼白、緊迫した面持ちになっていたのは直子であった。


「なに……いってんの。……ねえ」


 直子は足を止めた。

 声が、震えている。

 奈々も足を止め、振り向いた。


「だって、あたし、せっかく身体が元気なのに、頭がこんなバカで、お脳が死んじゃってるから、身体がかわいそうだから。ナオちんや、王子の身体と、一つになって、走ったり飛んだり笑ったり歌ったりバスケしたりご飯食べたりお仕事してシンコンして。その方が、身体もきっとよろこぶと思うから、だから」

「そんなこといっちゃダメだよ! 奈々はそれでいいんだから! 奈々は、いまのままでいいん……」


 直子は、大きな声で奈々の言葉を遮ろうとした。

 しかし奈々がそれ以上の大声で、直子の声を掻き消した。


「ナオちんには分かんないんだよ! 色んなこと思いたいと思っているのに思えないのが!」


 怒鳴り声をがんとぶつけられた直子は、予期せぬ出来事にうろたえてしまい、なにも言葉が出なくなってしまっていた。


 黙ったまま、奈々の顔を見ている。

 こんなに語気を荒くする奈々、初めて見た。

 だが直子は、奈々のそうした態度よりも、その言葉の内容に対して、驚きを隠せなかった。


 奈々はとにかく幸せで、悲しいことや辛いことなどなにもない。単純にいうと、直子は奈々に対してそのような印象を抱いていた。


 そんなことはない。奈々にだってたくさんの辛いことがあり、それを隠して生きているのだ。

 思いたいのに思えない。どんなに辛いことか、確かに想像もつかない。


 自分は、上辺だけで奈々に接していて、本当に、奈々の立場になって考えたことなどなかったのかも知れない。


 親切にしてやっていた。

 どこかに、そんな傲慢な気持ちはなかったか。


 奈々はいまのままがいいなど、なんて失礼な言葉を投げてしまったのだろう。

 でも……


「奈々、ごめん。確かに奈々の立場にはなれないよ。どんな気持ちでいるのか、分からないことはたくさんある。でもね、奈々は、誰よりも素敵な子だと思っている、それは本当だから。絶対に、嘘なんかじゃないから。奈々は、充分に素敵な子だから。だからさっきみたいな、悲しくなるようなこと、いわないで」


 二人は、しばし見つめ合った。

 奈々は真下を向いて、ちょこちょこ小さな歩幅で一歩二歩と直子に近寄ると、どんと胸に頭突きをした。


 いったん距離をとると、もう一度。

 ぐっと直子の胸に頭を押し付けたまま、奈々はいった。


「あたしがこんなだから、こんなことになって、王子と出会い、ナオちんとも出会ったりして、誰にもいったこともない、こんなこともガジャーーっとグジャグジャーーっといえるようになれて、だから、あたひは、とってもシャーセなんだと思う」


 奈々は顔を上げた。

 満天の星空のように、全てを包み込んでしまいそうな魅力のある、笑顔。直子には、そう思えた。


 口を開きかける直子であったが、なにも声が出てこない。言葉を完全に失い、ただ、そこに立ち尽くしているしかなかった。

 でもそれは、決して辛い時間ではなかった。


     5

 目覚まし時計の電子音が鳴った。

 七時。起床時間だ。


 電子音に反応して、一同もぞもぞとうごめき始める。

 部屋が狭いなりに布団をびっちりしっかりとならべて寝たというのに、朝になってみれば布団も人も、位置も方向もバラバラであった。


 目覚ましの音に、真っ先に覚醒したのはたけあきらである。


「朝だよ! 起きて!」


 電子音だけでは音が柔らかすぎて、大部屋の反対までは効果が薄い。晶は、その反対側から、手を叩きながら部員たちを起こしていく。さすがは副部長である。


「オキロ! オキロ! オキロ! 朝ダ! 二十円! 奥サン安イヨ! 二十円! 二十円! 奥サン!」


 少し遅れて、もう一つの目覚まし時計が鳴った。

 鳴ったというより、やまゆうの声で叫び出した。


 きぬがさはるが持参した、声を録音出来るタイプの目覚まし時計である。


「ああイラつく! 春奈、それ止めて! 王子のバカ、なにわけの分かんない台詞を吹き込んでんだか」


 吹き込んだ本人は、まだ熟睡中であった。


 昨夜は人の耳元で蚊の羽音を真似て安眠妨害しておいて、自分はこの時間まで気持ちよさそうにぐっすりかよ。


 晶は、裕子の枕元に立って見下ろしながら、思わず蹴飛ばしたくなる衝動と戦っていた。


「あれえ、せっかく昨日の電車の中で、と録音しといたのに、いつの間に上書きされたんだろ。えー、亜由美とばっちりハモって完璧だったのにい」


 寝ぼけ眼の春奈は、目覚ましを掴むとスイッチを切った。

 けたたましい音声のリピートが、晶にとっての殺人音波が、ようやく収まった。


 晶は今日の宿泊が決定した時から予想していたことだが、

 みんなが起きたあとも一人目覚める気配が皆無なのは、そう、山野裕子であった。


 去年の春に合宿を行なった時も、怒鳴ろうがひっぱたこうが、フライパンをガンガン叩き鳴らそうが、なにをやっても起きなかったのだから。


 あの時は、漂ってくる食事の匂いに勝手に目覚めたが、今回もどうせそうなるのだろう。


 とはいうものの、


「王子! 起きる時間だよ! 王子!」


 周囲への示しというものがあるし、起こさないわけにはいかなかった。


 でもやっぱり、ぴくりともしない。


 一体なんなんだ、こいつは。実はとっくに目覚めていて、一生懸命に起こそうとする自分のことをからかっているのではないだろうか。

 まあ、どっちだっていい。

 起きないつもりならば、こっちにだって考えがあるぞ。


 晶は、王子の身体を押して敷布団の外へごろんと転がすと、布団を部屋の隅っこへと片付けてしまった。

 畳の上なら寝心地悪くてすぐに起きるだろう。


 甘かった。

 考えてみれば、蹴られてもひっぱたかれても起きない者が、この程度で起きるはずがない。

 相変わらず、すーすーと気持ちよさそうな寝息を立てている。


「ほっとくか」


 結局、行きついた先は去年の春と同様の結論であった。


「んにゃあ、全然寝足りな~い」


 ふかやまほのかが、口を押さえて片手で伸びして大あくびだ。

 それを見ていた生山里子が、ちょっと厳しい顔で、


「時間は充分にあったんだから、寝足りないのは自分の責任。十時には消灯時間にしたんだから。試合の登録メンバーじゃなくても、ピッチ上の選手を応援するっていう大事な仕事があるんだからね」


 きつい口調で注意をした。


「はーい」

「って、いまの注意の仕方、なかなかいい感じでしょ。部長っぽくなかった? 王子先輩なんかより、よほどぴしっとしててさ」

「はあ。そういうのは、叱った相手本人にいわないで下さい」


 ほのかは、もう一度、大きな大きなあくびをした。


 消灯時間が何時だろうと、そもそもの目的が部活の試合であろうと、みんなでお泊りとなればそう簡単に眠れるわけがない。ほのかは、仲良し同士で枕をくっつけあって、ひそひそと、恋の話やらなにやらで、すっかり寝るのが遅くなってしまったのだ。


 里子のいった通り、自由時間は充分にあったはずなのだが。

 本来ならば、昨夜は遅くまで戦術ミーティングを行ないたいところであったが、対戦の組み合わせが発表されるのが当日なので、対策の立てようもない。

 だから最低限の反省会だけ実施すると、あとは完全自由時間にして、体力の回復とリラックスにつとめさせることにしたのだ。


 昨夜、一番早く睡眠についたのは山野裕子だ。

 夜に少し外出したが、ドラッグストアの包み紙を片手に帰ってくるなり、驚くべきことに枕投げにも参加せずに、そそくさと布団に入って寝てしまった。


 それなのに、まだ目覚めないところからすると、夜更かしだから朝が苦手なのでなく、単に朝に起きられない体質なのだろうか。

 それとも、それほどに疲れているのだろうか。

 体力の化け物みたいな王子が。

 それとも、たっぷり寝ないとならない事情でも、あるのだろうか。


 晶は、ちょっと不安になった。

 思い当たるふしが、あるといえばあるからだ。


 まさか、とは思うけど。

 いや、大丈夫。なにも気にすることなどない。


 しかし寝ぼすけだな、こいつは。


 もうみんな目覚めているというのに、相変わらず裕子だけがただ一人、大部屋のど真ん中、畳の上で、浴衣姿のままハムスターのように身体を小さく丸めて眠っている。


「お食事でございます」


 襖が開き、仲居さんが、顔をのぞかせた。


「ご飯だ!」


 突然、裕子の目がぱっちり開き、叫び、立ち上がった。


 ほうら、なんにも心配することなんかなかった。


 裕子は両拳を、なんだかボクシングのファイティングポーズみたいにして構えている。

 構えながら、ゆっくりと、左右を見た。


「まだ朝か」


 裕子は、頭をふらふらとさせながら、目をこすった。


「あのさあ王子、ひょっとして、夢の中でご飯と戦うつもりだったの? あと、まだ朝かって日本語おかしいだろ、ぐっすりで全然起きなかったくせに」


 晶が矢継ぎ早につっついた。


「ジャガイモ、黙んな」


 裕子はハードボイルドな仕草で、晶の肩をぽんぽんと叩いた。


 なんだよ、この他人を小バカにした態度は。

 ああもう、ほんと心配して損した。

 トラックにひかれたって死なないんだ、こいつは。

 まあ、食事前に起きたんだから、よしとするか。

 これから試合なんだからな。

 もしも王子が寝坊して、朝ご飯を片付けられてしまって食べられなかったなんてことになったら困るからな。

 王子には、大暴れしてもらわないとならないんだから。

 とはいえ、初めの一試合は出停で出られないけど。


 昨日の予選では、第三戦目がかなり荒れた展開になった。

 かしわふなぼり女子というよりもむくしまよし一人にペースを乱され、晶は危険行為による一発退場で二試合出場停止、裕子も試合中の乱暴な言動により一試合出場停止の処分が下されたのである。


 裕子が一試合で済んだのは、ある意味で奇跡的だ。

 対戦相手に、パイプ椅子を投げつけたのだから。残り全試合出場停止でもおかしくない。


 椋島佳美による、西村奈々の知的障害についての誹謗中傷、それが発端であると判明したため、特別に処分を軽くしてくれたらしい。


 仲居さんによって布団が片付けられ、畳の上には座布団と膳がどんどんと綺麗に並べられていく。

 これから、朝食である。


 ご飯に卵、煮物、豚の角煮、魚介の入った汁、等など。昨日と同様、和食中心だ。

 二人の仲居さんが、汁の下の固形燃料に、次々と着火していく。


「火、消えたら丁度良い頃なんで」


 お辞儀をすると、大部屋から出ていった。


 待つこと四分、五分、火力が弱まってきた。

 裕子部長の号令のもと、食事開始だ。


「こういうとこで食べるご飯ってさあ、同じようなメニューでも、なぜか朝より夜の方がおいしいんだよねえ」


 しのが、箸の先でご飯を突付く。良い炊き具合だ。


「確かにそうかも。これから泊まるって時の方がテンション高いからおいしいんだよ。朝はもう出ていくだけだし」


 衣笠春奈。煮物から大豆をすくって、亜由美の器にこっそり放り込んでいる。大豆自体は好きだけど、煮物になると何故だか食べられないらしい。


「そうだね。でも、朝からテンション高いのもいるけどね」

「いまのいままで、ぐーぐー寝てたのにねえ」


 亜由美と春奈、二人の視線は、同じ人物に集中していた。


「食ったああ! ごっそさん。つうか食い足りねえ。お、ズッキーナ、卵焼きいらないの? 栄養あんだからちゃんと食べなきゃあ、でもしょうがない、嫌いなら貰ってあげる~、いただきまーす。美味うまし! あんがとね、ズッキーナ。里子ちゃーん、魚の煮付け全然手をつけてないねえ、好き嫌いしちゃダメだよおお。性格改善には、まず食生活。でも食べないなら仕方ない、貰ってあげようかあ?」


 名を出すまでもないが、山野裕子である。


「最後の方に残してあるだけですよ。というか、まだ食事の時間、始まって何分も経ってないじゃないですか。ほんの数分前まで寝てたくせに、どんな胃袋してんですか。気持ち悪いな」


 里子は裕子の攻撃に備えて、魚の煮つけをしっかり左手でガードしている。


「ケチ」

「そういう問題じゃないでしょ。そんな足りないんだったら、お釜にまだご飯残ってんじゃないですか?」

「うおお、そっか、その手があるか。おかわりしてきましょっと」


 ほっそりとした身体付きに似合わず、朝から異常なまでに食欲旺盛な裕子であった。


「お、まだ結構ある。ねえ、おかわりする人、他にいない? 食べちゃうよー」

「はーい、あたしおかわりしまーす」


 ほしいくが手を上げた。


「やっぱりお前か、アゴ。名乗り出ると思った。しょうがない、二人で山分けだ」


 独り占め出来なかったことに、裕子はあからさまに不満そうな表情を浮かべている。


「まだ食事の時間始まったばかりなんだから、おかわりしたくなるかなんて分からないだろ。みんなが食べ終わるのを待ちなよ」


 武田晶が、子供のような二人を注意した。


 ぐっと感情を押さえたつもりだが、かなり出てしまったかも。だってほんとこいつら、常識がなくてイライラするんだもの。


「真面目ぶって。学級委員長かよ」


 裕子、親指を下に向けてブーイングだ。


「ほんとはお前の役目だろ、バカ王子!」


 ついに晶は声を荒らげた、がしかし、


「お、やったねえ。運気最高だって、あたし」


 ぜんぜん聞いてないし……


 隅っこに置かれたテレビで今日の星座占いをやっており、裕子の注意と視線は不快なジャガイモ顔よりも完全にそっちに向けられていたのである。

 晶はため息をつきかけ、ぐっと堪えた。こんな奴のためにため息一つつくのすらも、労力が勿体無い。


「続いて、てーんびん座ぁ~」


 テレビからの声。

 自分の星座が呼ばれたことに、晶もそちらに視線を向けた。


「あたし……最悪だ」


 体調運、恋愛運、金運、総合運、どれもワーストだ。音声も、「今日は最低な一日、ぐっと我慢しましょう」と、なんのフォローもない。頼む、せめてラッキーアイテムくらい教えてくれ。


「ふざけた日に生まれてんじゃねーよ、なに考えてんだ! 大事な大会だってのに!」


 裕子が大声を張り上げ、晶を糾弾する。


「しかたないだろ!」


 というか、なんでこいつ、自分だらしないくせに他人のことになると嬉々として攻撃してくるんだよ。

 でも、当たっているのかも知れないな。

 この占い。運気最悪って。

 決定したのは昨日のこととはいえ、今日は二試合、出場停止なのだから。

 でも、咲がきっと頑張ってくれるはずだ。最近成長著しいし。

 賭けよう。咲と、その星座に。


「咲、運勢どうだった?」


 晶はすがるような目で、梨本咲に尋ねた。


「あ、見てませんでした。てんびん座ですけど」


 なんてふざけた日に生まれてきたんだよ、咲。

 晶はがっくりと肩を落とした。


     6

「お姉ちゃん、どうしたの?」


 たけなおは、慌てて奥へ戻ろうとしている姉に気付き、声をかけた。


 ここは、ホテルのロビーである。

 もうみんな、着替えを済ませ、それぞれの足元には大きな荷物。

 これからチェックアウト、鍵を持った部長が来るのを待っている。


「うん、ちょっと忘れ物」


 あきらは答え、ロビーから通路へ。

 昨夜、財布などの入ったポシェットをバッグから出したまま、しまい忘れてしてしまったようなのだ。

 バッグは部屋の一番隅に置いたから、ポシェットもその辺りに落ちているかも知れない。


 大部屋の鍵は部長であるやまゆうが所持しており、もしかしたら、もう施錠してロビーに向かっている最中かも知れない。

 通り道が幾つもあるから、行き違いにならなければいいけど。


 この道順が一番近いはずだし、行き違いはないとは思うけど、王子、地図も読めない方向音痴だからな。

 そのわりに、紛らわしい地図と取り替えたり、しょうもないいたずらだけは天才的だけど。


 果たして部屋に辿り着いてみれば、まだ施錠はされていなかった。

 下駄箱には、裕子の物と思われる靴がある。


 襖を開けると、やはり裕子はまだそこにいた。

 がらんとなった大きな部屋の真ん中で、一人、座り込んでいる。


 体操着姿。すぐ横には大きなバッグが一つ。出掛ける準備はもう済んでいるようだが……


 右手で、自分の右足、ふくらはぎの辺りをさすっている。


 まだ、晶の存在に気付いていないようだ。

 その表情に、晶は、声をかけることが出来なかった。


 絶望的な状況に身を置かれた時、ひとはそんな顔になるのではないか。

 僅かな希望を打ち砕かれた時、ひとはそんな表情になるのではないか。


 裕子は、自分の膝の間に顔をうずめると、大きな、長いため息をついた。


 晶は、音を立てないように、そっと襖を閉めた。


 ふーー、

 と、静かに息を吐き、そして、吸った。


「おーい、王子! まだいる?」


 大きな声を出し、襖を手のひらでばんばんと叩くと、勢いよく開いた。

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