第十章 こっち見てよ、カナちゃん ―― 対柏船堀女子高校戦 ――

     1

 圧倒的。

 現在の戦況、わらみなみの状況を示すのに、これ以上に単純かつ適切な表現はないだろう。


 先ほどのひがし戦とは、全く逆のスタートを切っていた。


 ボールが回る。

 人が動く。

 連動感に溢れている。


 勝負事の強弱というのは相手のある相対的なものである。だから相手次第では優勢にもなれば劣勢にもなる。早い話が、相手があまり強くないために普段の練習通りのパス回しが出来ている、ということである。


 それは当然といえば当然で、かしわふなぼり女子高校フットサル部は、好きな者同士の集まった、いわば同好会的なものだからだ。

 正式な部に昇格してからの歴史が浅い。


 しかも本年度の部員数が十名で、しかもこの大会には一人が怪我で欠場している。

 これでは、選手選択の幅がない。


 他校ならば到底試合に出られないようなレベルの者であっても、出てもらわざるを得ない。適材適所や戦術的組み合わせで悩めるなどどれほど贅沢なことか、という次元なのである。


 仮にそこそこ上手な選手ばかりだとしても、連戦連戦といった本大会では疲労の蓄積も切実な問題だ。

 なんといっても交代可能な選手が、他校より三人も少ないのだから。


 なお、肝腎な選手の技術レベルであるが、ほとんど並より劣っている者ばかりである。どの程度劣っているかは似たりよったりで、どんぐりの背比べだ。


 例外は二人。

 まず、主将のやまもとさくら

 小学生から男子に混じってサッカーをやっていただけあって、なかなか器用にボールを扱う。


 そして、もう一人がむくしまよしだ。

 一年生で、今年の五月に転校し、入部したばかりであるが、フットサル経験は非常に長い。

 それどころか、彼女は日本代表候補にも選ばれた逸材であり、どうしてこのような同好会的なチームにいるのか、観客席にて首を傾げている関係者も少なからずいるかも知れない。


 百七十センチ近い大柄な体躯の見た目通りに強靭で、大柄な体躯の割には非常に動作が俊敏だ。判断力も、パスの感覚も技術も、実に非凡なものがある。


 ただし、見てすぐに分かるが、味方を信用していない。

 囲まれて、ボールの出しどころに困って味方にパスすることはあるが、だいたいは一人で抜こうとする。


 信用していないくせに、パスを受けた味方が簡単にボールを失うと、対戦相手である佐原南の選手も不快に思うような痛烈な罵声を飛ばす。


 チームの舵取り、さらには、チームと椋島佳美との橋渡しをしているのは、主将の山本桜である。

 彼女は、椋島佳美と比べれば決して上手とはいえないが、足元の技術は並以上にしっかりとしているし、なによりフットサルをよく知っている。


 しかし有能な選手が二人だけではどうしようもなく、さらには人数の少ないことによるこれまでの疲労の蓄積も影響して、柏船堀女子はこの第三試合目においても圧倒的な劣勢で戦うことを余儀なくされていた。


 集団対集団としては、この通りではあるが、しかし純然たる個人能力だけを比較するのであれば、現在ピッチに立っているFP八人の中では、椋島佳美が群を抜いて格の違いを見せ付けていた。


 いざボールを持った彼女を、佐原南の選手は一人では止めることが出来ず、やまゆうきぬがさはるの二人掛かりでかろうじて対応しており、それにより相手に使われてしまうスペースを、真砂まさごしげが懸命に駆け回ってカバーをしていた。


 その椋島佳美であるが、あからさまに不機嫌そうな顔を隠しもせず、プレーをしていた。


 自分と同等レベルの味方が一人もいないことを嘆いて、であればまだ理解も出来るというものであるが、どうやらそういうわけではないようである。プレーの切れるたび、ことあるごとに彼女は佐原南ベンチにいるかなめを睨み付けているからだ。


 そして時折、山野裕子に対しても、そのぎらぎらとした視線を向ける。


 早く久慈要を出せ、という無言の圧力だろう。


 ほしいくは、柏船堀女子の《に》むらようからボールを奪うと、ドリブルで少し進んで、まだ距離はあるが右足でシュートを打った。

 惜しくもクロスバーを叩く。


 跳ね返って床に落ちたボールに、ゴレイロのばたあきが飛びついて、抱きかかえるようにしてゴールを守った。


「アゴ、いいよ。その調子その調子」


 山野裕子は手を叩きながら、ちらと椋島佳美の方を見た。

 視線が合った。


 すかさずバチバチと散らして来た火花を、鬱陶しそうに手で払いのけると、裕子は、小さくため息をついた。


「カナ、入るよ。アゴと交代」


 面倒くさそうに、指示を出した。


「はい」


 久慈要はアップをやめ、交代ゾーンへ向かった。


 前半四分。

 星田育美と入れ代わり、久慈要がピッチへと入った。


     2

 入るなり、真砂まさごしげからのパスを受けた。かなめの、ファーストタッチだ。


 しかし、油断したつもりはないのに、いつの間にかボールが足元から消失していた。


 むくしまよしが、長い足を伸ばして奪っていたのだ。


 そのままドリブルなりパスなりすればいいのに、彼女はわざわざ振り返って、久慈要を一瞥した。


 また反転し、前を向くと、パスを出した。

 わらみなみが守備に戻る時間を与えておきながら、無能ぶり鈍足ぶりをあざ笑うかのように、やまゆう真砂まさごしげの間を、するするとボールが抜けていた。

 椋島佳美の、それは絶妙のスルーパスであった。


 するりと抜け出したやまもとさくらが、上手にタイミングを合わせ、躊躇なく右足を振り抜いた。


 ぐんと真っ直ぐ伸びる、腰のしっかり入った素晴らしいシュートであったが、ゴレイロのたけあきらは、横へ半歩動いて両手でキャッチした。


 かしわふなぼり女子の初シュートは、楽々処理されてしまったようにも見えるが、相手が武田晶だというだけのことであり、ゴレイロ次第では決まってもおかしくない、質の高いものであった。


 山本桜の技術がしっかりしているというのもあるが、そのチャンスは椋島佳美が生み出したものである。


 久慈要がピッチに入ってから、椋島佳美の動きが、明らかに軽く、良くなっていた。


 反対に久慈要は、出たばかりだというのに足取り重そうである。


 武田晶は、短く助走をして、ボールを投げた。


 きぬがさはるが、右足を軽く上げて、丁寧に受けた。


 柏船堀女子、しのはらこずえが足を出して奪おうとするが、春奈は相手の動き出しをよく見て冷静にかわした。

 パス。


 裕子へと渡った。

 仁村洋子がすっと身体を寄せてきたが、裕子は素早く前線へと送っていた。


 小さく弾み、転がるボールを、足の裏でトラップする久慈要。

 瞬時に、反転シュートを狙い、身体を回転させた。


 しかし、視界が予期せぬ方へと反転していた。

 全身を、床に打ち付けていた。

 がつんと来る痛みというよりも重い衝撃に、思わず呻き声が洩れた。


 椋島佳美が激しく身体をぶつけて、ボールを奪い取ったのだ。


 笛が鳴った。

 椋島佳美にイエローカードが出された。


「相変わらず弱いなあ。それでなんであたしがイエローなの?」


 彼女はそういうと、ニヤリと笑みを浮かべた。


 カード出ること承知で、挨拶をしてきたくせに……


 手を差し伸べられたが、久慈要は自力で立ち上がった。

 どうせパシンと払いのけられるのだから。

 そうされると分かっているくせに、そうした行為の一つ一つに、自分は傷つくのだから。

 そんなんでどうするの? って、分かってはいるけど、じゃあどうすればいいの?


 二人は、正面から向き合った。

 身長差二十センチ。椋島佳美は、完全に見下ろす格好であった。物理的にも、そして精神的にも。


 椋島佳美のきつい表情は、どことなく演技めいているところがある。元々からのものではなく、そういう表情を作っているかのように見える。


 それはその通りであることを知っているのは、この中では久慈要だけだろう。


 久慈要は、幼稚園年長の頃から数ヶ月前に辞めるまでの間、ずっとなり市にあるスポーツクラブでフットサルをやっていた。


 始めるきっかけは、心身軟弱であったことを心配した父親に、強制されて。


 最初は嫌々ではあったが、半年も経たないうちにすっかりのめり込んでいた。

 どんどん、実力を付けていった。

 もともとの才能も多分にあったのであろう。


 去年の夏、そのスポーツクラブからの紹介で、群馬県で行なわれる関東規模の強化合宿に参加したことがある。


 ミラクル少女発掘プロジェクト。

 辟易するようなネーミングセンスの合宿であったが、協会からすれば将来のフットサル日本代表を見つけるための大きな意味のある企画であったらしい。


 その合宿には、椋島佳美も紹介されて参加をした。


 次期合宿に呼ぶかどうかの選考が、最終日に行なわれた。

 久慈要は、落選した。


 椋島佳美は、次期合宿への切符を手にいれた。それにより、日本代表の候補になったのだ。


 悔しい。

 それが、久慈要の正直な気持ちだった。だが同時に、椋島佳美への敬意や純粋な憧れ、親友として応援する気持ちも、矛盾なく存在していた。

 凄い、と素直に思っていた。


 だから、合宿から帰ってからというもの、より必死になって練習をした。

 彼女の邪魔にならないように。

 負けないように。

 自分は、自分のよいところを伸ばしていこう。

 それが、このチームのためにもなるし、佳美ちゃんのためにもなり、自分のためにもなる。


 そう信じて、頑張ってきたのに……

 それなのに……


 久慈要は、またボールを奪われていた。


     3

 むくしまよしは、小さく鼻で笑うと、悠々と前線のもりながあきへとパスを出した。


「あれからまったく練習してなかったんじゃないの?」


 そういうともう一度、小さく笑った。


 かなめは、ぎゅっと唇に力を入れた。


 全身全霊、戦う気持ちは、込めているつもりだ。

 ただ、それ以上に相手の気迫が凄まじい。

 ただでさえ代表に選ばれるほどの逸材だというのに、それに気迫が乗っているものだから手に負えない。


 向こうがああまでこちらを意識しているのなら、反対に、こちらは向こうを特別視はしないことだ。意識したら相手の思う壺。単なる対戦相手、敵として、全力で当たるだけだ。


 そう自分にいい聞かせて、この試合に臨んだはずなのに……

 やっぱり、特別に意識してしまっているのだろうか。


 でも、当たり前だよな。

 意識するななんて、無理だよ。


 久慈要の脳裏に、椋島佳美の笑顔が浮かんでいた。

 いまピッチで見せているようなどことなく歪んだようなものではなく、それは無邪気な、屈託のない笑顔が。


 自分は、そんな笑顔をたくさん見てきた。

 いまの、変わってしまった佳美ちゃんなんかよりも、本当の佳美ちゃんの笑顔を一杯一杯見てきた。


「おい!」


 たけあきらの叫び声に、久慈要は我に返った。

 そして、その声が自分に向けられたものであることと、自分がなにをしてしまったのかを、一瞬で理解した。


 ボールを持ったまま、ぼーっと突っ立っていたところを、やまもとさくらに掻っさらわれたのだ。


 山野裕子の脇を抜けて、椋島佳美が裏へと飛び出した。

 飛び出した次の瞬間には、山本桜からのスルーパスを受けていた。

 受けたその瞬間には、既にシュート体勢に入っていた。


 ほんの一瞬にして大ピンチを向かえた佐原南であったが、しかしゴレイロの武田晶は瞬時に状況判断し、飛び出していた。


 スライディングでボールを弾き飛ばした。

 ……いや、ボールはまるで風を受けたゴム風船のように、逃げるようにふわり横へと転がった。

 椋島佳美が足の外側を軽く当てて、弾いていたのだ。


 晶は、突っ込んで来る椋島佳美の足を引っ掛けてしまわぬよう、素早く膝を折り曲げ足を引っ込めた。


 だというのに、椋島佳美の身体は、まるで引っ掛けられたかのように勢いよく回転して肩から落ちていた。


 彼女は苦痛に顔を歪ませ、ばたばたともがき、転げ回った。


 審判の笛が鳴り響いた。

 右手を高く掲げた。

 その手にあるのは、レッドカードであった。


 床に座り込んだまま、呆然とした表情の武田晶。


 久慈要も、同じように無言で突っ立っていた。


 佳美ちゃん……

 きっと、蹴り損ねたふりをして、わざとボールを横に転がしたんだ。

 ゴレイロはPAペナルテイエリア内に限りスライディングタックルが認められているけど、それは当然ボールに対してでなければならない。だから、ボールと無関係な状況を作ってスライディングを受けたんだ。

 晶先輩は咄嗟に足を引っ込めたのに……

 角度が悪くて審判が見てくれなかったのではなく、佳美ちゃんが角度を計算して、上手に転んだんだ。


「蹴ってないだろ! 演技演技!」


 裕子が、久慈要の思っていたことを代弁するかのように抗議をした。

 だが、努力は実らなかった。

 第一第二、二人の審判がピッチ中央で話し合い、やはりゴレイロのプレーは著しく危険なもので、出したカードは妥当であるという結論に到った。


 つまり、武田晶、退場である。


「やっちゃったねえ」


 いつの間にか立ち上がっていた、椋島佳美の第一声であった。


 早く出ていけ、といわんばかりに、武田晶の背中をどんと押した。

 床に倒れ肩を打ちつけて、あれだけ痛がっていたというのに、もうそんな素振りは微塵も見られなかった。


「ねえ、カナちゃん、見た? 退場しちゃったね。カナちゃんのミスからさあ、味方が退場しちゃったね」


 明らかに作ったような、にんまりとした笑みであった。


 久慈要は拳を握り突っ立ったまま、椋島佳美へと顔を向けている。寂しそうな、悔しそうな、顔を。

 なにに寂しいのか、なにに悔しいのか、自分でもはっきりとは分かっていなかったが。


 確実なのは、チームに迷惑をかけて申し訳ないという気持ち。

 PAペナルテイエリア内で佐原南の選手がファールを犯した、という判定のため、一人退場したばかりか相手にPKを与えることになったからである。


「どうも、すみません」


 久慈要は、山野裕子、そして武田晶に深く頭を下げた。


「気にすんなって」


 裕子は、久慈要の肩をぽんと叩く。


「そ。あんな子供騙しの手を見抜けなかった、あたしの想定が甘かったよ」


 続いて晶も、肩を叩く。そして、ピッチの外へ。


 晶が退場処分になり、佐原南は一人少なくなるが、ゴレイロ不在で試合は出来ないので、代わってなしもとさきがゴールを守ることになった。


「咲、変なとこで出てもらうことになっちゃったね。ごめん」


 入れ代わる際に、晶は謝った。


「出番があるんなら、変なとこでもなんでもいいです。こんなことでもなきゃあ、出られなかっただろうし。まあ、頑張ってきますよ」

「PKなんだから失点は運。結果がどうであれ、絶対に落ち込むなよ」

「はいはい。くどいな先輩は」


 くどくなるのも当然だろう。

 仲良く喋る仲ではないとはいえ、二人は同じゴレイロとして一年以上一緒に練習しているのだ。


 晶は、咲がどのような性格か、よく分かっているはずだから。晶と同様に普段から不機嫌そうに見える顔のため、胆の据わった性格に思われているが、実はかなり華奢な内面であるということを。

 それをそう見せないための、普段からの態度なのであるということを。


 ゴレイロ仲間に限らず周知の事実で、認めぬのは本人ばかりであるが。


 咲は、佐原南ゴール前へと大股で向かっていく。

 右肩を、軽く回した。

 ちょっくらPKでも止めて肩慣らしといきますか、と、そんな様子で。


「おい、咲! グローブ忘れてる、グローブ!」


 晶の言葉に、咲はくるり反転、慌てて戻ってきた。


「忘れてません。ちょっと床の具合を確かめただけです」


 意味不明ないいい訳をしながら、晶からキーパーグローブをひったくると、あらためて咲はゴールへと向かった。


 ゴレイロが退場したためFPが一人減ることになるが、抜けたのはきぬがさはるである。


 これで佐原南は現在、山野裕子、真砂茂美、久慈要、梨本咲の四人になった。


 二分持ちこたえる、もしくは失点することにより、抜けた人員の補填が出来る。人数の少ない集団競技でよく採用されるルールだ。


 なお、ハンドボールなどとは違い、退場した当人は入ることは出来ない。つまりこの試合、武田晶はもう出られない。


 柏船堀女子のPKキッカーは、やはりというべきか椋島佳美のようである。

 ゆっくりとペナルティマークに近寄り、ねじ込むかのようにボールをぎゅっぎゅっと回し、セットした。

 立ち上がると、前方、ゴレイロを見る。


 ゴレイロ、梨本咲は両手を広げてキッカーを威嚇した。


「咲、頼んだよ!」


 裕子は叫んだ。

 咲は、全く見向きもせず、ぴくりともしない。

 緊張しているのか、それとも集中しているのか、裕子の声が全く耳に入っていないようだ。


 そうであるとしても無理はない。

 まだ前半戦であり、実力差を考えれば、仮にこのPKが決まったとしても、佐原南は充分に逆転が可能だろう。

 だが、虎の子の一点を柏船堀女子が死に物狂いで守ってくる可能性がある。


 逆転可能ではあるだろうが、逆転出来ないという可能性もまた、充分にあるのだ。


 なによりも怖いのが、椋島佳美の存在だろうか。

 彼女は久慈要に対して異常な憎しみを持っているようで、なにをしてくるかが想像出来ないからだ。


 つまり、試合を楽に進めるためには、ここで失点をしたくない。

 PKは、先ほど晶がいっていた通り運かも知れないが、しかし決められれば一点は一点であり、一点の重みはいま語った通り。


 となれば、咲が重圧のあまり裕子の声が届かなかろうと、仕方がないことなのだ。


 審判が、短く笛を吹いた。

 椋島佳美は、ボールまでの近距離を小さくゆっくりと助走すると、蹴り足を上げた。


 その足の動きに、梨本咲は反射的に右へ重心移動していた。

 完全に逆をつかれていた。というよりも、駆け引きにそう誘導されてしまったのだろう。


 するすると転がるボール。

 咲の眼には、はっきりと追えているのだろう。伊達に厳しいゴレイロ練習で動体視力を鍛えていない。


 だが、重心をかけた身体を瞬間的に反対方向へもっていくことなど、物理的に不可能であった。


 完全にしてやられた、咲の悔しそうな表情。


 だが、思いもよらぬことが起きた。

 ボールはポストに当たり、跳ね返ったのだ。


 どうやら狙い過ぎたようであった。

 山本桜が押し込もうと猛然と迫るが、間一髪、咲はボールへと飛びついて抱き込んだ。


 椋島佳美は舌打ちした。


     4

 あきらはベンチから、さきに大きな拍手を送った。


「咲、いいよ!」


 本当は、ちっともよくない。

 これが練習なら、罵声を浴びせているところだ。


 別に咲が防いだわけではなく相手が勝手に失敗しただけだし、それよりなにより相手のゆっくりとした助走に我慢出来ずに自ら重心を崩してしまうなんて。


 ただ、いきなりの本番で、しかもPKの場面からの投入、咲でなくても誰だって緊張する。


 しかもPKの原因は自分にあるのだ。文句をいうわけにもいかない。

 とりあえず、結果オーライだ。


     5

 むくしまよしのPK失敗により、絶対的な危機を脱したわらみなみであるが、しかしまだこれからまるまる二分、人数の少ない状況を耐え凌がなければならない。


 当然であるが、かしわふなぼり女子の猛攻が始まった。


 退場前まで佐原南は、二人掛かりで椋島佳美に当たっていたが、一人少ない状態ではその作戦は使えない。


 かなめが、一人で対応するようにしている。

 だが、異常な殺意を持って二百パーセントの力で挑んでくる日本代表候補を、簡単に食い止められるはずもなく、久慈要は何度も突破され、佐原南は何度も決定機を作られた。


 柏船堀女子の他の選手たちも、この人数有利な状況に、勝てるかも知れないという興奮状態になっているようで、実力以上の力を発揮し出していた。


 パス回し、ドリブル突破、シュート、例え失敗しようとも、みなどんどんチャレンジしてくる。どんどん攻め上がってくる。


さと、あたしと交代!」


 足の違和感を気にしてか、やまゆうは守備に走り回されているこの状況に、自ら引くことを決めた。

 交代ゾーンで、裕子と里子の二人は向き合った。


「あとよろしくな」

「分かりました。でも、王子先輩よりもカナを引っ込めた方がよくないですか? 酷いですよ、あれ。相手が日本代表だとか関係なく」

「いや、まだ代えない」

「温情采配ってやつですか? まあ、いいけど。じゃ、行ってきます」


 里子は、ピッチへと入った。


 柏船堀女子のむらようは、真砂まさごしげをかわすと、ゴール前へとボールを転がした。ゴレイロが飛び出すかどうかの判断に迷う、絶妙なところへ。


 椋島佳美が、久慈要を簡単に振り切って、ボールへと走り込んだ。拾えば決定的チャンス、佐原南にとっての絶対的ピンチである。


 受け、すぐさまシュートを放つ椋島佳美。

 だが、それは空振りに終わった。


 ほんの一瞬の差で、里子が真横から疾風のように走り抜けてボールを奪い取っていたのだ。


 フリーの久慈要へとパスを出した里子は、自らも前線へと上がり始めた。


「里子、サンキュ!」


 なしもとさきが、里子の背中に礼の言葉を掛けた。


 ドリブルする久慈要。

 柏船堀女子のやまもとさくらが、久慈要の前に立ち塞がり、突破を阻もう、遅らせようとする。


 そして、久慈要は簡単にボールを奪われてしまうのだが、奪ったのは山本桜ではなく、椋島佳美であった。「後ろ! 来てる!」という里子の声かけもむなしく、後ろから足を出され奪われてしまったのだ。


     6

 ったくもう!


 里子は足の回転フル回転。

 ドリブルに入ったむくしまよしの、ちょこっとタッチが大きくなったところを、後ろから回り込んで蹴り出した。


「カナ、ぼけっとしてんな! 集中しろ! こっちは人数が少ないんだよ、ふざけんな! バカ!」


 怒鳴りつける。

 こんな程度で済ますなんて、ほんと優しい先輩だよ、わたしは。


「すみません」


 頭を下げ謝るかなめであるが、しかし、またやらかしてしまう。

 なかしずのキックインを、受け手であるやまもとさくらの前に上手に身体を入れて奪ったはいいが、一瞬にして取り返されてしまったのだ。またもやむくしまよしに。


 人数少なくて大変なのに。

 カナがこんなんじゃあ、FPが二人しかいないようなもんだよ。

 ほんと、王子はバカなんだから。

 なんだよ、この采配は。

 修正っつーか、選手代えるだけでいいじゃん。

 なに平気な顔で見てんだよ。

 直感だけで生きてる単細胞の原始生物なんだから。


 と、里子は、どうしようもない苛立ちを自分の中で抑えながら、久慈要のフォローで走り回っていた。


 短気な彼女が、ぐっと我慢することが出来ていたのは、その苛立ちを上回るほどに山野裕子への信頼があったからであった。恥ずかしくて、とても他人にはいえないが。


 去年、自分勝手なプレーで迷惑ばかりかけていた里子が、ひょんなことからチームに溶け込めるようになった。


 きっかけを作ったのは、山野裕子。

 彼女のを信頼するようになったことにより、みんなの中に飛び込んでみてもいいかなという気になったのだ。


 だから今回も王子先輩は、あのクソ甘っちょろさで、カナのことを考えており、そのためにこうして出し続けているはずなのだ。


 そう分かっていながら、さっきカナを激しく怒鳴りつけてしまったけど、まあ、あれは愛情だ。


 などと里子が、裕子の人間性を褒めようとも信頼しようとも、佐原南が押されまくっているという現在のこの状況に、なんの変化があるわけでもなかった。


 救いなのは、晶に代わって入ったゴレイロのなしもとさきが好調ということだ。


 最初のPKは、緊張のあまりあわや失点というところであったが、その後は雰囲気に慣れたか開き直れたか好セーブを連発し、危なげなくゴールを守り続けている。


 非常に安定感があるし、後ろからのコーチングもなかなかに立派なものがあった。


 柏船堀女子が人数有利に攻め続けるという構図に変わりはないが、しかし一秒また一秒と時は流れ、その状態も終わりが来つつあった。


 そうなれば、柏船堀女子の選手たちは、がっくり肩を落とすことになるだろう。


 となれば、焦り、攻め急ぐのも当然の成り行き。

 なんとか佐原南のゴールをこじ開けようと、柏船堀女子はどんどんパスを回し、攻め続けた。


 椋島佳美にボールが渡った。

 久慈要が正面に立ち塞がる。

 対峙は、ほんの一瞬であった。


 椋島佳美は、久慈要が足を出すタイミングを完全に読んでおり、ボールを巧みに足裏でコントロールし、横から小さく回りこむようにして抜いたのだ。


 佐原南ゴールまで、七メートル。距離はあるが、思い切ってシュートを打っていた。


 素早く小さく振り抜いた割りに威力のあるボールであったが、しかしゴール真正面、梨本咲が身を低くして、胸で抱え込んだ。


 椋島佳美は、舌打ちし、踵を返した。


 どん。

 と、生山里子は激しく床を踏み付けると、久慈要の方へと近づいていった。


「あたしの方がましだ。カナ、マーク交代」


 久慈要の腕を掴むと、背中を突き飛ばすように押した。


 生山里子が勝手にポジションを入れ代えたことにより、椋島佳美を抑えるのは里子の役割になった。

 もちろんポジションなど流動的に変わるものではあるが、しかし里子は椋島佳美へマンマークでぴったりとくっ付いていく。


「邪魔しないでよ」


 眼中になかった者にぴたり密着される不快感からか、椋島佳美は声を荒らげた。


「試合なんだよ、これは。そういう幼稚なことは、ピッチの外でやれ」


 抗議というよりは、単にぎすぎすした空気を受け流す意味で、里子は応じた。


 諦めたのか、もう椋島佳美は里子に向けて口を開くことはなくなった。

 ただし、椋島佳美は、より本気を出した。

 お前程度に止められるのか、ということだろう。

 本気を出した彼女は暴風雨のように凄まじく、里子はファールすれすれの激しいプレーでなんとか食らいつき、攻撃を食い止めるだけで精一杯になっていた。


 こいつ、これくらい本気を出していれば、ひがしはともかくしらはま高校からなら一人で何点でも取れていたんじゃないか。

 カナとの対戦に備えて、体力を温存していたんじゃないか。全力でカナを潰すためだけに。


 相手のとんでもない馬力に、里子は心の中で舌打ちした。

 だが、久慈要にかっこうをつけた手前、ここで簡単に抜かれるわけにはいかない。と、意地を見せるが、それでも何度も抜かれ、何度も決定機を作られた。


 決定機を作るのは椋島佳美だけではない。

 人数の多さを生かせず攻めあぐねていた柏船堀女子が、このチャンスを生かそうと、さらに攻撃が活性化し、どんどん攻め上がった。


 佐原南は、真砂茂美の身体を張ったプレーに梨本咲の好セーブ、そして運にも恵まれて、なんとか失点せずに持ちこたえていた。


「どうする、王子。カナを代える?」


 ベンチで、作戦参謀のきぬがさはるが、裕子に尋ねた。


「いや、カナはこのままで。……ナオ、準備しな」


 裕子は、ストレッチしている武田直子に声を掛けた。


「分かりました」


 直子は、交代ゾーンへ向かった。

 誰と交代するわけでもない。もうすぐ二分。退場した選手の人員補填が出来るのだ。


「別に、温情采配じゃねえからな」


 小声で呟く裕子。

 先ほど里子にいわれたことを気にしているのであろう。

 罪悪感を抱いていればこそ、

 これが、試合に勝つために必要なことなのだ。

 次の試合、さらにその次の試合に勝つために必要なことなのだ。

 と、自分の気持ちをごまかしているのかも知れない。


 佐原南は、なんとか二分間、柏船堀女子の攻撃を乗り切った。


「やれること、頑張ってきます!」


 武田直子が、笑顔でピッチに入った。


     7

 がっくりと肩を落とし、疲労の色を隠せないでいるのは、かしわふなぼり女子の選手たちだ。


 この、役立たずども。

 と、むくしまよしは味方を睨みつけている。


 せっかく、得点出来るところだったのに。

 せっかく、カナちゃんを潰してやれるところだったのに。


 そんな椋島佳美の気持ちなど知らず、柏船堀女子の選手たちははあはあ息を切らせて辛そうにしている。


 相手の人数が少なくなったいまが得点出来るチャンス、そう全力で攻め立てていたのだから、精神肉体どちらの疲労も相当なものであるだろう。


 椋島佳美も、ずっと出続けているため、さすがに息が荒くなってきていたが、しかしその目付きは相変わらず、異常なまでにぎらぎらと不気味な光を宿している。


 そしてその光は、たけなおがピッチに入ったことで、より暗い輝きを増した。


「中学での、カナちゃんの相棒の子だっけ?」


 直子に近づくと、その表情を和らげるどころかますます激しくさせて、睨むように尋ねた。


 一瞬の躊躇の後、直子は頷いた。

 かなめは、子供の頃よりずっとスポーツクラブでフットサルをやっていたが、中学生の頃は、学校のフットサル部にも所属していた。その、中学校のフットサル部で攻撃の相方を務めていたというのが直子なのである。

 二人のペアはナオカナと呼ばれて、チームの中心として活躍していたこと、前述した通りである。


「カナちん、クラブの方には凄い子がいるって、よくいってた。憧れているって」


 それだけいうと、直子は自分のポジションについた。


 その態度が、椋島佳美の心にたっぷりと存在する黒い油に火を注いでいた。


「最後まではっきり続けなさいよ! それがこの程度か、って思ったって!」


 激昂し、武田直子の背中に怒声を飛ばしていた。


 武田直子がどのような態度であれ、こうなっていたかも知れないが。

 そんなこと、自分でも分からない。


「椋島、そんなことばっかりいってると、引っ込めるよ」


 やまもとさくら先輩が、静かな声で叱った。


 佳美は、我が部の主将にちらりと視線を向けると、ふんと鼻を鳴らし、口を閉ざした。


 我が部、かしわふなぼり女子は、とことん勝利を追及する部ではなく、同好会的な要素の多分にあるクラブだ。

 現在試合は同点でどう転ぶか分からない展開である以上、自分の力が必要なはずではあるが、いざとなれば本当に自分を外すであろう。


 自分にとってはこの試合、勝ち負けなどはどうでもいい。そもそもこんな無能な連中が味方じゃあ、勝てるはずがない。


 最後まで試合に出続け、カナちゃんに自分の力を認めさせる。それだけがこの試合、この大会に出る目的であり、また、わざわざ転校し、この部に入った目的だ。


 ちょっと嫌なことがあったか知らないけれど、自分勝手にクラブを見捨てて逃げていったことを後悔させてやらなければ気がすまない。


 わたしを見下し続けて、まるでわたしが悪いかのような態度のまま、簡単にクラブから逃げ出して。


 残されたわたしがどんな気分だったかなんて、きっと想像も出来ないのだろう。


 だから、身体に叩き込んでやる。

 一生、忘れられなくしてやる。

 見下したような態度を取っていたことを、土下座させて、謝らせてやる。


 ボールが、弧を描いて飛んできた。

 佳美は久慈要を睨み付けつつ、横目でボールを視認し、落下地点へ立ち位置調整し、楽々と胸でトラップした。


 だが、

 床へ落ちる寸前、横から素早く走り寄ってきた佐原南の武田直子が、奪い、走り抜けていた。


 武田直子はブレーキを掛けて、前線へと蹴った。


 ボールを追い、久慈要がゴール前へと走り出す。

 柏船堀女子のよこやまその子と競り合いになる。


 タッチの差で先にボールに辿り着いた久慈要は、ボールをまたぐように飛び越えると、すぐさまヒールで後ろへと転がした。


 上がってきていた佐原南のいくやまさととかいう二年生が、シュートを打ったが、しかしゴール正面でありゴレイロのばたあきが胸に抱え込むようにキャッチ。


「ああもう、里子先輩、決めてくれなきゃあ」


 武田直子は、がっくり肩を落としながらも、その顔はとても楽しそうに笑っている。


 ……なにが、面白いんだよ……


 椋島佳美の眼には、先ほどからずっと黒い光が宿っていたが、さらになんともいえない狂気が加わりつつあった。


 早速、その狂気をプレーで具現化してみせた。

 してみせたというより、身体が無意識に動いてしまったのだが。


 ボールを持った武田直子に挑みかかり、武田直子の身体を巻き込み、そうしておきながらまるで自らが犠牲者かのごとく、倒れてみせたのだ。


 もつれ合うように一緒に倒れながら、顔面を床に叩きつけてやったばかりでなく、肘まで入れてやった。

 絶対に審判から分からない角度だ。


 佳美は、いまのバキッという激しい音の被害者が自分であるかのように、呻き声を上げ、顔を歪めてバタンバタンと床を転がった。


 笛が鳴った。

 審判は、武田直子がふらふらと起き上がるのを待ってから、彼女へとイエローカードを出した。


「おい、違うよ、向こうのファールだって!」


 佐原南の主将、やまゆうが抗議するが、判定は覆らず。


 呻き転げ回っていた佳美は、けろりとした表情で起き上がった。


 武田直子は、右腕を押さえて痛がっている。

 佳美は心の中で、残虐な笑みを浮かべた。

 痛いのも当たり前。

 腕をねじり引っ張った状態のまま押さえ込んで、一緒に倒れたんだから。


 なにがどうであれ、どんな感情であれ、これでカナちゃんはよりわたしを見るだろう。


 と、ちらり久慈要へと視線を向けて、確かめる。

 久慈要が、こちらへと歩いて来る。

 佳美は、迎え撃とうと残虐な笑みの仮面をあらためてかぶり、そして久慈要へと身体を向けた。


「ナオ、大丈夫?」


 久慈要が、佳美のすぐ前へと立ったが、しかしその瞳に佳美の顔は映っていなかった。


 こちらへ来たのは、感情の爆発をわたしにぶつけるためでなく、ただそばに武田直子がいるからにすぎなかったのだ。


 どうして、こっちを見ない?

 また、ここでもなの?


 佳美は、まぶたを震わせ、手を、身体を震わせ、久慈要の顔を見つめている。


 無意識に、祈っていた。

 こっちを、見てくれるように。

 こっちだけを、見てくれるように。


「ナオ、どう? 腕? 大丈夫?」


 久慈要は、武田直子の顔を、心配そうに覗き込んだ。


「うん。大丈夫大丈夫」


 武田直子は、少し顔をしかめながらも楽しげな笑みを浮べた。


「なら、よかった」

「ごめん。でも心配してくれて、ありがとう」


 そんな二人のやりとりに、椋島佳美の顔が、見る見るうちに青ざめていった。


     8

 こっち、見てよ、カナちゃん……


     9

 本当は、大丈夫でないことなど分かっていた。

 笑顔のぎこちなさに、ナオが懸命に痛みをこらえていることなど分かっていた。佳美ちゃんに、ひねられたまま倒れたのだから当たり前だ。

 分からないのは、なんでそんなに頑張るのかということ。

 あ……


「ナオ……もしかして、あたしのために……」


 わざと、明るく振舞ってくれているの?


 みなまではいわず、かなめは言葉を飲み込んだ。


 しかしたけなおには、全て分かっているようだった。


「さっきの試合では、あたし、カナちんや、お姉ちゃんに勇気をたっくさん貰った。だから今度は、あたしが元気をあげる番。こんなことくらいしか出来ないからこそ、出来ることは精一杯やりたいんだ」


 照れくさそうに、直子は笑った。

 

 そう。

 こういう子なんだ。ナオは。

 凄いよな。

 真似、出来ないよ。わたしには、とても。

 名前の通り、真っ直ぐで。

 誰よりも、他人への思いやりがあって。

 ほんと、凄いよな。

 こんな子が親友にいるだなんて、わたし、どれだけ恵まれているんだ。


「ありがとう、ナオ」


 久慈要は、小さく、確かめるように言葉を出した。

 もともと感情豊かな方ではないし、先ほどからも、ほとんど表情は変わっていない。そのはずなのだが、どこか、澄んだような、すがすがしさを感じさせる、そんな顔つきになっていた。


 どん、と激しく床を踏み鳴らす音。


「早く、始めたいんだけど」


 むくしまよしが、二人を睨みつけていた。

 武田直子が痛んでいたため、試合が止まっていたのだ。


「あ、ごめんなさい」


 直子は屈託のない笑顔で、椋島佳美に軽い会釈をした。


 ファールを受けて腕まで捻られ、顔には肘鉄、なのにファールをした側に仕立て上げられ、本来ならば演技でも笑顔の難しいようなところを、本心からこのような笑顔が出来てしまう。

 これが武田直子なのである。


「すみません、もう大丈夫ですから」


 審判に対しても、試合を中断させたことを謝ると、小走りでセットプレーの守備についた。


 直子がファールを犯した、という判定を受けて、柏船堀女子にFKが与えられたのだ。


 キッカーは主将のやまもとさくらだ。


 椋島佳美はどこかというと、ゴール前の敵味方密集した中である。

 ギラギラとした戦意、といえば聞こえは良いが、彼女の場合、完全にスポーツのそれとは異質であった。

 挨拶の時から、久慈要への個人的な怨恨を公言しているくらいなのだから。


 審判の笛とともに、山本桜は助走をつけ、ボールを蹴った。

 ふわりと浮いて、ゴール前の密集の中に落ちて行く。


 真砂まさごしげを押しのけるように、椋島佳美は高く跳躍した。ボールに恨みでもあるか、というくらい激しく頭を叩きつけていた。


 雲間からの稲妻にも似た、急角度からの猛烈なシュートであったが、なしもとさきが腰を低く落としながら、なんとか右手を当てて弾いた。


 床に落ちたボールを、柏船堀女子のむらようが拾う。

 シュートを打つかパスを出すか、という迷いでも生じたのだろうか。彼女が見せたほんの一瞬の隙に、久慈要がボールを奪い取っていた。


 椋島佳美の大きな身体が、津波のように迫る。


 しかし久慈要は、すすっと細かなステップを見せて、いとも簡単にかわしていた。


 いま、久慈要は本気になっていた。

 いや、本気は最初から出していた。そのつもりであったが、精神が縛られて、肉体が思うように動かなかったのだ。


 でも、その呪縛を、ナオが優しい心で解き放ってくれたのだ。


「カナ!」


 自分を呼ぶ声。

 武田直子が、走り出していた。

 久慈要は、そちらへと、ぽーんと浮き球を送った。


 直子は胸トラップでボールを受け、柏船堀女子のベッキ仁村洋子を背負うと、くるんとルーレットでかわし、距離はあったがシュートを打った。


 柏船堀女子のゴレイロ、ばたあきががっちりとキャッチした。


「やっぱり、遠かったかあ」


 直子は楽しげな表情で、腕を振り下ろし、悔しがった。


 その屈託のない笑顔がもたらすなにかが、久慈要の心の中に、じわじわと染み込んできていた。それは決して不快なものではなく、むしろ、気持ちの良いものであった。


 いつしか久慈要自身も柔らかく、小さな笑みを浮かべて、楽しげに直子を見つめていた。

 いつしかその表情、柔らかな笑みを椋島佳美に対しても向けていた。


 そんな自分に気付き、久慈要ははっと我に返った。そして、ぎゅっと拳を握りしめた。


 わたし、なにをやってたんだろう。

 ぎすぎすとした感情で戦争をするのではなく、フットサルは楽しいものだのだということを、佳美ちゃんにも感じて欲しい、そう思っていたはずなのに。


 確かに、逃げてばかりいたのかも知れない。

 でも……


 まだ、遅くはない!


 久慈要は心の中で叫ぶと、走り出していた。

 柏船堀女子のゴールクリアランスをしのはらこずえがトラップにもたつく一瞬の隙に、駆け抜けざまに奪い取っていた。


 ドリブルで上がろうとするが、すぐに椋島佳美が身体を寄せてくる。


 向かい合ったのは、ほんの一瞬。

 久慈要は仕掛けずに、並走する武田直子へとパスを出した。


「逃げるの?」


 椋島佳美は、一対一の勝負を避けた久慈要に対し、怒気満面の恐ろしい顔のまま、唇を釣り上げ鼻で笑った。

 久慈要はまるで気にすることなく、その横を走り抜ける。


「カナちん!」


 直子が、柏船堀女子のよこやまその子をかわして、ゴール前へと浮き球を上げた。


 ゴレイロの江畑暁子はゴール前に張り付いたまま、出てこられない。


 久慈要は全力疾走でボールの軌道上に入り込むと、大きく跳躍し、空中で右足を一閃させた。


 いきなりのジャンピングボレーに、ゴレイロの江畑暁子は全く反応出来なかった。


 だが、無茶な体勢のシュートであるため精度が低く、ボールはポストに当たって跳ね返った。


 柏船堀女子のベッキ、しのはらこずえが大きくクリアした。


 ボールを拾ったのは佐原南、真砂茂美である。すぐさま最前線の久慈要へと長いパスを出すが、山本桜がなんとか軌道上に走り込み、足の先で触れ、かろうじてキックインに逃れた。


「茂美! アゴと交代!」


 佐原南のキックインというタイミングで、山野裕子は選手交代を指示した。


 真砂茂美から、ほしいくへ。二人は交代ゾーンで入れ代わった。


 守備力の低下は間違いないが、先ほどだって退場で人数少ない中を耐えたのだし、せっかく攻撃面でいい流れが来ているのだから、いまのうちに是非とも得点が欲しい。

 というのが、投入の意図であろう。久慈要でなくとも、誰でも分かる。


 前線の選手としてはその期待はちょっぴり重荷ではあるけれど、でも、久慈要自身もそろそろ得点が欲しかったところなので、育美が入って来てくれたのは有り難かった。


 自分とナオ、自分とアゴ、攻めのバリエーションで揺さぶれる。

 守備では、里子先輩に大きな負担を掛けてしまうけど。


 キックインは、久慈要が蹴った。

 ぽーんと浮き球を直子へと送った。


 直子は器用に、右足の甲で跳ね上げ育美へとワンタッチパス。


 受けた育美は、その瞬間くるりと反転し、重戦車のような迫力あるドリブルで突き進む。

 だがしかし、ゴールまであと少しというところで、柏船堀女子主将の山本桜に上手く足を入れられ、カットされた。


 山本桜は、すぐさま大きくクリア。


 ボールの落下点に駆け込んだ久慈要と椋島佳美とが、火花を散らし、競り合いを見せる。


 身長差では圧倒的に椋島佳美が有利なはずであるが、しかし素早く正確な落下地点目測による位置取りと、全身のバネによる跳躍力とで、久慈要が競り勝ち、頭で受けた。


 椋島佳美はボールの落ちる瞬間を狙うが、しかし久慈要は自身がまだ空中にあるうちに、爪先、腿、とボールを蹴り上げて守ると、着地ざま里子へとパスを出した。


 里子、直子、とパスがワンツースリーとテンポよく繋がり、前へと駆け込んだ久慈要が再びボールを受けた。


 しかし、シュート体勢に入ったところ、柏船堀女子なかしずにが必死のクリアを見せ、ボールはまた戻されてしまう。


 生山里子と椋島佳美が、ハイボールを競る。

 競り勝ったのは長身にものをいわせた椋島佳美であったが、所有権は一瞬にして佐原南に移った。

 床に落ちたところを、駆け戻った久慈要が奪い取ったのだ。


 対峙する、久慈要と椋島佳美。

 久慈要は、ちょん、と軽くボールを前へ出した。


 そして、椋島佳美の脇を抜けた。

 単純にいえば、ただそれだけのことであったが、しかしその動作の中に、どれだけの技術や判断力、経験といった要素が凝縮されているのか。日本代表候補を簡単に股抜きでかわしてしまったことからも、分かるというものだろう。


 椋島佳美は振り返ると、ドリブルする久慈要の背中を睨み付けた。


 歯軋り。

 彼女自身の、先ほどまでの言動を考えれば、この歯軋りにどれほどの莫大な感情が含まれていることか、想像は容易であろう。


 久慈要が真っ向勝負を挑んできたという予期せぬことへの驚き、そして、股抜きされてコケにされたという怒り。


 全身が、ぷるぷると震えていた。

 どん、と床に穴が空きそうなくらいに激しく、足を踏み鳴らした。


 久慈要は、椋島佳美の感情の高まりを、背後から聞こえるその激しい足音に感じたが、だからといって立ち止まることなく、ドリブルで進み続けた。


 見る者を魅了するような、無駄のない上手なドリブルであった。

 まるで足にボールが吸い付いているかのように、よこやまその子を軽くかわし、さらにしのはらこずえをも抜いて、速い浮き球をゴール前へ上げた。


 ゴレイロの江畑暁子が慌てて飛び出すが、既に遅かった。


 ゴール前に走り込んだ星田育美が、百七十六センチの巨体を高く高く跳躍させ、ボールに頭を叩きつけた。


 走りながら江畑暁子が振り上げた両手の、遥か上空から稲妻のごと

く急降下、ボールはゴールネットに突き刺さった。


 前半十四分。

 佐原南が、ようやくにして先制点をあげた瞬間であった。


「うしゃああああ!」


 両手を高く上げ、その巨体にふさわしい野太い声で、育美は豪快に雄叫びをあげた。


「アゴ、ナイスゴール!」


 久慈要は、育美へと駆け寄った。


「カナこそナイスアシスト! 完璧だったっすー」


 二人は、ハイタッチ。

 身長差、二十六センチ。大人と子供である。


 さらに久慈要は余計なことをした。

 育美の顎を、ぺちんぺちんと叩いたのだ。


 そんなことをする自分がなんだかおかしくなって、ちょっと恥ずかしそうに、にんまりとした笑みを浮かべた。


「カナがそんなことするなんて、カナがそんな笑い顔を見せるなんて、あたしにアシストしたのがそんな嬉しかったか、そんなあたしのこと好きかー! 根暗キャラを崩しちまうくらいに好きかーっ!」


 育美は、脳内で勝手な想像を働かせて、久慈要の小さな身体をぎゅっと抱きしめた。巨体の中に、小柄な身体は完全に隠れてしまった。


「ちが……」


 あたしはただ、真剣にフットサルを楽しんでいるだけなんだ。久慈要はそういおうとしたが、大蛇に巻き付かれているかのごとく全身を締められており、声を出すどころではなかった。

 声出すどころか、そろそろ、肺の、空気、なくなってきた……意識が……


 味方に負傷退場というか窒息退場させられる直前、久慈要はようやく解放してもらい、げほげほむせているうちに、柏船堀女子ボールで試合が再開した。


 だが、佐原南が奪い取ったところを柏船堀女子がなんとかキックインに逃れた、というところで前半終了の笛が鳴った。


 佐原南は、一点のリードでハーフタイムを迎えることになった。


「アゴ、でかした。エロい。じゃなくてエラい。伊達にデカくないな。今度チョコ奢ってあげる」


 ピッチから豪快な足取りで戻ってくる星田育美を、山野裕子が両手を上げて待ち構えている。


「へーい」


 と育美は両手を小さく上げてタッチしようとする。が、裕子の手はするりと抜けて、育美の長い顎をぺちんぺちんと叩いた。


「二度もぶった!」

「手にタッチしようとしたら、顎が邪魔でそっちにタッチしちゃったよ」

「あたし手を前に出してたんだから、それでも当たっちゃう顎ってどんな顎ですかあ?」

「そんな顎だよ。よおし、そんじゃあ後半への作戦会議! みんな集合!」


     10

「基本はナオカナで。前線で掻き回してもらって、その相手の乱れをついて、後ろからもどんどん上がってこう。変な奪われ方だけはしないように。こっちはリードしてんだから、やることを徹底して失点しないよう攻め続けていれば相手は自滅する。……カナ、聞いてる?」


 かなめは、びくりと肩を震わせながら、やまゆうへと視線を向けた。


「すみません」


 小さく頭を下げた。


「別に謝んなくてもいいけどさ」


 裕子はちらりと、いままで久慈要が見ていた方を見た。


 まあ、見ずともじりじりと熱いものが届いていたので予想はついていたが、案の定、むくしまよしが久慈要を凄まじい表情で睨み付けていた。


「カナ、あいつのさ、あの表情、よく覚えておきな。意識するななんて、いわない。あんなずっと睨まれてて、意識して当たり前だ。でも、その上で、自分に何が出来るのか、それを考えておくくらい出来るだろ」

「はい。ありがとうございます。でももう大丈夫です。ナオが、教えてくれましたから」


 とはいえやはりとても緊張していたし、とても辛かったのだろう。意識していいんだ、という裕子の言葉を受けて、久慈要の表情は明らかに少なからずの重荷が下りたようであった。


「そう? ならよかった。それじゃあ続いては、はる先生に狙いどころを解説してもらいましょう。相手がどうであろうと、手は抜かないからね。攻めるとこ、しっかり攻めるよ。じゃ、春奈、よろしく」

「分かった。ええとね、まずは6番のむらよう。彼女は……」


 振られることに弱く、慌てる。


 よこやまその子は、ボールを持つと考える癖がある。中途半端に実力が付いているためだろう。


 もりながあきの右からのシュートはなかなかいいものがある、打たせるな。


 きぬがさはるは、前半戦でスカウティングしたかしわふなぼり女子の個人個人への対策を次々と述べていく。


 だが、むくしまよしに対しては、頑張って守備しようとしかいえなかった。

 対策というより根性論である。


「これといった欠陥というか、狙いどころが全然見つからなかったんだよね。カナ、なんかある?」

「あればとっくに、そこを狙ってます」


 久慈要は、振られて即答した。


「しいていうなら……あの、ちょっとカナには重たいこというよ。しいていうなら、カナを意識しすぎていることかな。そこを、どう上手に利用するか」

「あたしは、利用とか、そういうことは考えず、正面から佳美ちゃんと当たりたいと考えています」

「うん。それはそれで、いいんだよ」裕子が口を挟んだ。「それがさっきいっていた、カナが見つけたことなんだろうし、冷たい話、引き付けておいてくれれば、うちらは楽に戦える。でも、油断は出来ないけどね。まだ一点差、試合はどちらに転ぶか分からない。とりあえず、みんなは集中を切らさずに頑張ろう、と、あとあたしからいえるのはこのくらい。じゃ、今日の最後の試合、しっかり締めて、明日の決勝ラウンドに臨もう」


     11

 間もなくハーフタイムが終了する。


 選手たちが一人また一人と、ピッチへと戻っていく。


 その流れに乗りそびれて、なしもとさきはぼーっと突っ立っていると、いきなり後ろから肩を叩かれ、びくりとしながら振り返った。


「咲、残り十五分、任せたからね」


 たけあきらであった。


 晶はこの試合で退場処分を受け、この試合と明日の第一試合目に出場することが出来ないのだ。


「はい。なんか、あの七番の子が異常に怖いですけど、ま、頑張りますよ」


 七番、むくしまよしだ。


 でもそれは単なる冗談で、本心は、七番がどうこうよりも、そもそも試合に出ることそのものが……怖い。


 まだ、緊張している。


 前半戦で晶が退場し、PKのピンチに突然かり出されることになり、PKを阻止し、その後も人数の少ない中を耐え切った。だというのに、まだ、緊張している。


 当然といえば当然かも知れないが、一般的にFPと比べてゴレイロには凄まじいまでの失点に対しての精神的重圧がある。


 サッカーのキーパーと比べて、フットサルの方がその重圧は大きい。

 何故なら、フットサルのゴールはそれほど大きくないからだ。


 どんなに守備陣が崩されていたとしても、決してゴレイロの手の届きようがないような、そんなシュートはあまりない。


 傍から見ている分には、あれはゴレイロがしっかりしていれば防げたのではないか、とそんな失点ばかり。それがフットサルのゴレイロなのだ。


 でも、そんな泣き言はいっていられない。例え心の中であろうとも。

 だって、そのゴレイロというポジションを選んだのは、自分なのだから。


 咲は、歩きながら両手にグローブをはめた。


 この試合に勝利すれば、予選リーグ全勝。グループ首位突破で、決勝トーナメントに進出することになる。


 強豪校ばかり出場しているこの大会、正ゴレイロである武田晶が退場したため、次の試合も自分が出なければならない。


 決勝トーナメントは一発勝負。

 負けたらおしまいだ。


 だから、この試合に勝つというだけでなく、この試合で、しっかりと試合の感覚を掴まなければ。


 晶先輩が出ていれば勝てた。そう思われるのは、悔しいもんな。

 晶先輩だって、安心して引退出来ないもんな。


 ピッチ上では、全選手がそれぞれの位置についた。


 第一審判が、笛をくわえ、ゆっくりと右手を上げた。


 笛の音が響いた。

 佐原南ボールで後半のキックオフだ。


     12

 かなめは、開始早々にシュートを狙った。たけなおからのパスを受けるなり、寄せられるより前に思い切り右足を振り抜いたのだ。


 ぐんと伸びて、ゴールへと襲い掛かった。


 かしわふなぼり女子ゴレイロのばたあきは、完全に油断していたようで、はっと目を見開いた瞬間には、ボールが頭上を飛び越えていた。


 ガッ、と音がし、シュートはクロスバーを叩いた。


 江畑暁子は、落ちて跳ねるボールへ近寄り、やまもとさくらへと蹴った。

 だが、届かなかった。


 久慈要が、軌道上に素早く身体を入れて、奪い取ったのだ。

 すぐさま直子へとパスを出す。


 直子は走りながら上手に受けたが、ボールタッチが少し大きくなってしまい、よこやまその子にそこを突かれて奪い返されてしまった。


 横山その子から、山本桜へ。

 山本桜は、フェイントでどうにかいくやまさとをかわし、むくしまよしへパス。


 椋島佳美は受けた瞬間に急加速、ドリブルでPAペナルテイエリア内に切り込むと、シュートを放つ。


 ゴレイロの梨本咲が、冷静なポジション取りでしっかり身体に当て、落ちて転がるボールに飛びついて、がっちりと胸の中に抱え込んだ。


 椋島佳美は舌打ちした。


 咲は起き上がるとすぐにボールを投げた。

 真砂茂美へ。


 さらに武田直子へ。しかし、仁村洋子に身体を当てられて、奪われてしまう。


 ボールが行ったり来たりの展開が続いているが、拮抗とはいいがたい状態であった。


 佐原南は無理をせず、リードしているという状況を武器に、相手の様子を探りながらボールを回す。


 対して、追いつかねばならない柏船堀女子は、山本桜と椋島佳美を先頭に、どんどん、がむしゃらに攻め続けた。


 ただし佐原南の方がチーム力があり、奪えるものだから攻める機会も多く、だから一見すると拮抗した試合に見えていたのである。


 柏船堀女子は、がむしゃらとはいっても、前半の佐原南が一人少なかった時に見せた猛攻とは違って、自分らの疲労を考えて無駄走りはせずに考えて攻めているようではあったが。


 攻守の切り替えなども、前半よりも良くなっていた。

 ハーフタイムに色々と話し合ったのだろう。


 とはいえ、椋島佳美はチームの約束事は免除されているようであるし、残る選手たちも実力は足らず、佐原南の守備陣を脅かすようなチームワークを見せるには、まるで至ってはいなかったが。


 現在のところ佐原南が手を焼いているのは、椋島佳美が見せる個人技のみであった。


 ただ、その部分の対応に、佐原南としては労力を割かねばならず、結果、柏船堀女子もある程度はボールを回し、攻めることが出来てはいるが、しかし、堅守が持ち前の守備陣は全く動ずることなく、冷静に対応し続けていた。


 その安定した守備が、久慈要と武田直子の躍動を生み、そして、追加点へと繋がった。


 後半三分。

 佐原南の、攻にも守にもなり得る素早いパス回しに、すっかりちぐはぐになってマークも疎かになった柏船堀女子の、真ん中に出来た大きなスペースに久慈要がパスを出し、走り込んだ直子が受けてそのままドリブルで突き抜け、難なくゴールを決めたのだ。


 直子は嬉しそうに両腕を上げて、アシストしてくれた相棒へとその笑顔を向けた。


「あれえ、カナちん、ナイスシュートって抱きしめてくんないのお? アゴの時みたくさあ」

「あれはつい。そもそも、勢いでやっちゃうもんであって、いわれてやるものじゃないでしょ」


 と、相棒はちょっと照れた表情で鼻の頭を掻いた。


「やって欲しいなあ」

「子供だよな、ナオは」


 久慈要は、そっと直子の身体を抱きしめてやった。

 そんな子供っぽい直子の無邪気な表情や笑い声につられて、久慈要もなんだかおかしくなって、笑い出してしまっていた。


 殺気を感じたのだろうか。久慈要と武田直子は、同じタイミングで、同じ方へとゆっくり顔を向けた。


 もしも足元にナイフがあったなら、迷わず手に掴み、こちらに向かって振り上げて挑み掛かってきたのではないだろうか。そう思われても不思議のない、椋島佳美の憎悪に満ちた表情で。


 直子たち二人を焼き貫いていたのは、そんな視線の矢であった。


「気を落とさない! この時間まで二失点なんて上等。もっと、気楽に、楽しんでやろうよ!」


 柏船堀女子の主将である山本桜が手を叩きながら、明るく、声を張り上げた。疲労で汗だくの顔には、爽やかな笑みすら浮かんでいた。


「そうそう。桜のいう通り。あたしらがこんな大会に出ているというだけで、もう凄いことなんだから」


 篠原梢が続いた。


「勝負なんですよ。楽しんでどうすんの!」


 椋島佳美は、怒鳴り声を張り上げた。


「うちらのやり方に文句があるなら、無理にここにいなくてもいいから。この試合だけはどうしても出たいっていっていたから、なるべくそうしてあげたいとは思っているけど」


 佐原南の部員たちと会ってから始終笑顔の山本桜であったが、今回ばかりは努めて、ということか厳しい表情を作った。


 椋島佳美は、きつく唇を結んだ。

 不満や、屈辱に耐えているのであろうか。

 ぴくり、ぴくりと、痙攣しているかのように震えていた。

 顔も。手も。足も。

 だん。と、床を踏み鳴らした。


「分かりましたよ!」


 表情そのままに、吐き捨てた。


     13

 試合が再開された。


 かしわふなぼり女子は、個人個人が開き直ることによって、チーム全体としても持ち直しに成功したが、元々がわらみなみと比べて個々の能力やチーム力に差がありすぎた。


 そして、唯一対抗出来る存在であったはずのむくしまよしは、かなめを思うように屈服させられないことと、いつピッチから去っても構わないと宣言されたことによる完全孤立の状況に、完全に逆上しており、まともなプレーも出来ない状態になってしまっていた。


 圧倒的なわらみなみペースの中で、たけなおがさらに突き放す三点目を決めた。


 そして、真砂まさごしげに代わって入ったやまゆうが、入る早々お尻で決めるという気持ちの悪いシュートで四点目。


 三十秒後、また山野裕子が今度は倒れ込みながらのヘディングで五点目。


 もう、柏船堀女子に為す術はなかった。

 戦術的な対策を取ろうにも、そこまでフットサルを知っている人間がいない。いや、一人いるにはいるが、彼女はとても物事を冷静に考えられる状態ではなくなっている。


 個々の能力で頑張ろうにも、既に何度も述べている通り、椋島佳美を除外すれば佐原南の方が圧倒的に格上なのだ。


 柏船堀女子にとって、問題点はそこだけではない。

 選手数の少なさもまた、この現状を招く要因であった。


 ただでさえ技術の無さを走り回ることでカバーしている状態だというのに、柏船堀女子はベンチに交代要員が四人しかいないのだ。

 他校と比べて、交代による体力消耗の回避という点で明らかな不利である。


 一試合だけならば、それでもいいだろう。

 だがもう、本日三試合目なのだ。

 体力的な限界がきていた。


 苦境も含めて楽しもう、こんな経験は出来ない、と、彼女らの表情は辛そうながらも明るいが、だが、こと勝つか負けるかということであれば、どう自らの精神を叱咤しようとも、柏船堀女子は絶望的に不利な状況であるということに違いはなかった。


 佐原南の加点はまだ続く。

 冷静さを完全に失った椋島佳美からボールを掻っ攫ったしのが、六点目をあげた。


「リセット、リセット!」


 柏船堀女子は先ほどから、失点の都度この言葉を掛け合っている。

 大量点差を気にせず、常に0-0の気分でやろう。そういうことだろう。


 手を抜くのは相手に失礼、とばかりに山野裕子率いる佐原南の選手たちは、柏船堀女子の守備をチームワークでかいくぐり、攻め続けた。


     14

 そんな、圧倒的に試合を支配するわらみなみに、


 やまゆうに、


 たけあきらの退場に次ぐ、いや、後から考えればそれ以上、遥かに重たい、そんな悲劇が襲い掛かることになるとは。


 この時点で、誰が予想しえたであろうか。


     15

 流れるようにボールが回る。


 いくやまさとから、しのへ。


 篠亜由美は、疲労困憊のやまもとさくらを楽々と抜き去り、ゴール前へとハイボールを上げた。


 よし、追加点もらった!

 山野裕子が駆け込み、頭を叩きつけてようとした瞬間であった。


 無重力。

 視界がふわんと反転していた。


 心地の良いものではなく、むしろ逆だった。


 足を巨人に掴まれて、筋を容赦なくねじ切られるような、そんな凄まじい激痛に、思わず悲鳴をあげていた。


 普段、苦痛に声を上げるような裕子ではない。

 だから一瞬、誰が叫んでいるのか、自分でも分からなかった。


 天井の、無数の照明が見えた。

 笛が鳴った。


 裕子は、うつ伏せに倒れ、激痛に呻いている。


 くそ、やっちゃったか? でも、なにが。


 自分の身体に、なにかが絡み付いていることに気が付いた。

 かしわふなぼり女子のゴレイロ、ばたあきであった。

 裕子と四肢を絡ませながら、倒れていたようである。


「すみません、大丈夫ですか?」


 江畑暁子はすぐさま起き上がり、裕子を引っ張り起こそうとする。


「ありがと」


 裕子は苦痛をなんとか笑顔の奥へと押し込みながら、ゆっくりと、引っ張られるまま立ち上がった。

 右足の爪先で、床をとんとんと叩いた。

 難しい顔になった。

 もう一度、強めにとん。再び襲い掛かる激痛に、再び呻いた。

 顔から汗が、どっと吹き出していた。

 ぎこちない笑顔で、その汗を袖で拭った。


 審判が、イエローカードを持った右手を高く掲げた。

 江畑暁子に対して出されたものだ。


 ゴール前に放り込まれたハイボールを跳ね返そうとPAペナルテイエリアを飛び出したはいいが、無我夢中でボールしか見えておらず、裕子に体当たりをしてしまい、後は、既に語った通りである。


 徐々に痛みがひいてきたので、裕子はこのままピッチに残ることを選んだ。


 柏船堀女子のファールによって、佐原南には第二PKが与えられた。

 キッカーは、ファールを受けた山野裕子自身だ。


 第二ペナルティマークにゆっくりと歩み寄り、静かにボールをセットした。


 ゆっくりと、後ろへ距離を取る。


 笛の音。

 た、た、と小さく助走しボールへ迫ると、右足を思い切り振り抜いた。


 すっと夜空を疾る流れ星のように、ボールは瞬きする暇もなく江畑暁子の脇を抜けてゴールネットに突き刺さっていた。


 ゴール。

 後半八分、佐原南の七点目である。


 後半三分からの五分間で、六点を取ったことになる。

 まさに怒涛の攻撃、柏船堀女子からすればまさに大虐殺であった。


 選手交代。

 裕子に代わって、きぬがさはるが入った。


 PKを蹴った瞬間に再びとんでもない激痛が神経を引き裂き、やはり一度ベンチに戻ろうと思ったのだ。


 戻った裕子は、椅子に座るなり右足の靴下を下ろした。

 ふくらはぎを、確かめるように両手で丁寧に触る。

 指で軽く押して行くと、特定箇所だけ筋肉が陥没したようになっており、凄まじく痛んだ。


 ふくらはぎだけじゃない。

 足首も、傷んで、痺れて、うまく動かない。痺れているはずのに、触るとむしろ過敏なほどの激痛が襲う。


 やっぱり、気のせいなんかじゃあ、なかったんだ……

 さっき転ばされたせいもあるかも知れないけど、試合に出続け、走り続けていたら、どのみちこうなっていただろうな。


 以前に、わら駅の近くでよしざきじゆんぺいという地上げ屋の男と取っ組み合いになり、倒され、足を何度も何度も蹴られたということがあった。


 その時の痛みは、自宅謹慎していた一週間ほどで引いたが、微かな違和感がずっと残っていた。

 その違和感は錯覚などではなかったのだ。

 一種の爆弾で、裕子は試合を頑張り過ぎるあまりその爆弾を、知らず大きくしてしまっていたのだ。

 鈍感な自分は、小さな爆発が起きて、ようやく気付いたのだ。


「ね、王子。足、大丈夫? なんかしきりに気にしてるみたいだけど」


 たけあきらが尋ねた。

 いつも鉄仮面みたいな表情をしているから、心配しているのかどうか分からないけど、まあ、心配してくれているのだろう。


「ん。大丈夫大丈夫。ちょっと転ばされて、痛かっただけ」

「ならいいけど」


 少し釈然としないような、武田晶の声。


「大丈夫だって。お、カナすげえええ! ゴラッソおお!」


 ピッチの外でこのような話をしている間に、たけなおのヘディングによる折り返しからかなめのボレーシュートがネットを突き刺し、佐原南が八点目をあげたのだ。


 足の痛みなんか、気にしてる場合じゃない。

 明日のために、やれることをやらないと。

 ……点差もここまで広がったことだし、そろそろ、いいか。


 裕子は、ピッチ脇でウォーミングアップをしているづき西にしむらへ、顔を向けた。


「葉月、奈々、出るよ。ナオカナと交代!」

「はい」


 九頭葉月は返事をすると、西村奈々の手を引いて交代ゾーンへ。

 そこへピッチから、走り回って汗だくになった久慈要と武田直子が小走りで向かう。


「お疲れ」

「あとお願いします」


 葉月と久慈要は、タッチしながら素早く入れ代わった。


「奈々、練習通りに気楽にやればいいからね。時と練習は裏切らない、自信持って張り切ってこー!」


 裕子のうるさい声の中、続いて直子と奈々がタッチして入れ代わる。


「ムズカシイ言葉分からんちん」


 西村奈々は、顔をしかめつつニコニコ笑顔という器用な表情で、とにかくピッチへと入った。


 佐原南のピッチ上の選手は、

 なしもとさき

 真砂まさごしげ

 しの

 づき

 西にしむら、の五人になった。


 さあ、これでどうなるか。

 葉月と奈々が練習通りのパフォーマンスを発揮してくれるか。


 茂美たちの守備さえしっかりしていれば、練習の時ほど上手くいかなくても、なんとかなるとは思うけど……


 不安と期待で手に汗を握る裕子。


 そんな裕子を激しく脱力させる出来事が起きたのは、ほんの数秒後のことであった。


 奈々のファーストタッチは手。

 入るや否、ボールを掴み取って放り投げてしまい、イエローカードを貰ってしまった。


 しかも、PAペナルテイエリアの中で。

 当然、PKである。


「ほー、これブトサルだった、ごめんなさあい」


 状況をほとんど理解していないくせに、奈々は責任を感じ取ったか泣き出してしまった。

 しかし泣こうがPKの判定が覆るはずもなかった。


 柏船堀女子のキッカーは、山本桜だ。

 ボールをセットし、距離を取った。


 あとは審判の笛を待つばかりであったが、だが、椋島佳美が半ば狂乱したように懇願をするという、実質脅しているのと変わりのないような態度で、キッカーの権利を奪い取ってしまった。


 確かに本来ならば、一番技術力のある椋島佳美が蹴るべきでなのではあろうが、しかし彼女は、すっかり頭に血が上っている。

 だからこそ山本桜は自分で蹴ろうとしたのだろうが、結局、この試合で二本目のPKも、椋島佳美が蹴ることになった。


 キッカー椋島佳美とゴレイロ梨本咲の、二度目のPK対決である。

 二人は、睨むような激しい視線をぶつけ合った。


 笛が鳴った。

 椋島佳美は短く助走し、右足でボールを蹴った。


 駆け引きとしては、先のPKと同じであった。相手のタイミングをずらして、逆を突く。


 失敗したやり方を立て続けにはすまい。という梨本咲の意表を突いたものであろう。


 その狙い通り、ゴレイロ梨本咲が重心をかけるのと反対方向の隅を目掛けて、ボールは一直線に飛んだ。


 決まった。

 と、椋島佳美は蹴った瞬間に確信を抱いていたのだろう。


 それほどに、驚愕した感情になっていたのである。


 またも決まらなかったことに。

 梨本咲が、パンチングでボールを大きく弾いたのだ。

 重心を掛けるふりをして、椋島佳美を騙して狙い通りのところへ蹴らせたのだろう。


「咲ちゃーーーん!」


 山野裕子の叫び声とともに、佐原南ベンチはどっと沸いた。


 よっぽど嬉しかったのだろう。咲は思わず、大きく腕を振ってガッツポーズを作っていた。


 咲が弾いたボールを、篠亜由美が追う。

 柏船堀女子のしのはらこずえも懸命に走り肩を並べるが、競り勝ったのは亜由美。冷静に、こんと頭を当てて、づきの前へと落とした。


 葉月は走りながら受けた。

 並走する奈々へ、横パス。


 よこやまその子が奈々へと迫るが、間一髪、葉月へと戻した。


「うまいワンツー! 練習通りやれてんじゃん!」


 山野裕子は、喜び大声を張り上げた。


 しかし……

 またまた裕子が予期せぬことが。


 葉月の浮き球クロスを、奈々はよいしょと背伸びして両手で掴んでいたのである。

 そしてゴレイロの方へ突進すると、大きくジャンプ。

 手にしていたボールを、ゴールネットの中へと投げ込んでしまった。


「それは……ハンドボールやねん……」


 裕子は、両手で頭を抱えて、うずくまってしまった。


 これまでもバスケと間違うことはたまにあったけど、何故いきなりハンドボールが……

 でも……

 まあ、いいか。

 別に葉月との練習が無駄だったわけじゃいもんな。

 とっても楽しそうに、毎日遅くまではしゃいでいたし。

 この試合だって、楽しそうだった。ワンツーで抜けたりして。

 だから、いいんだ。

 これで。

 奈々のためになったんならさ。

 いい思い出になったんならさ。

 でも、欲をいえば、もうちょっとはフットサルをしてくれると良かったなあ。


 笑顔で頭を掻く裕子。

 当然だが、奈々にはイエローカードが出された。ボールを掴んでネットに投げ込んでしまったのだから。レッドカードでもおかしくないくらいだ。


 しかし、この警告はこの試合で二回目。

 つまり、結局のところ奈々にはレッドカードが掲げられた。


 退場である。


     16

、こっちおいで」


 ゆうは、奈々へと手招きした。

 子犬のようなちょこまかした足取りで、奈々が走ってくる。


「楽しかったか?」

「全然やってないのに楽しいもにゃにもない! でも赤いの出たら、外に出ないといけないんだよね」

「そりゃあね。でもまあ、いつかまた出られるよ」


 今回みたいに、大量得点を取れればね。


「やったあああ! 奈々、頑張るううぜええええっと!」


 やばい、飛び上がって喜んじゃってるよ。


「あのさあ、あのさ、奈々」


 試合に出してあげられないかも知れないことを、どうやって説明したものか困っている裕子の顔面に、突然、閃光のような凄まじい速度で何かが向かってきた。


 風を感じた裕子は、間一髪、両手を出して眼前数センチというところでそれをキャッチしていた。

 フットサルの、ボールであった。


「ちょっと、バカにするのもいい加減にしてよね」


 むくしまよしが、ピッチを飛び出してベンチの裕子へと近づいてくる。

 彼女はわざと、裕子の顔面を目掛けてボールを蹴ったのだろう。


「そんな、変なの出したりして。あたしらにはそんなので充分だなんて、ふざけないでよ!」


 椋島佳美は、西村奈々を指さした。


「はあ? なにいってんだ、てめえ!」


 裕子の忍耐は一瞬にして気化し、ブチ切れた。


「だって障害者でしょ、その子。なんでこんなとこにいるの。冗談じゃないよ」

「てめえの方がよっぽど重症の障害者だ。病院に行け!」


 裕子は自分の座っていたパイプ椅子を両手で頭上高く持ち上げると、椋島佳美の足元に、叩きつけるように投げ落とした。


 ピーピーピーピー、審判が細かく激しく笛を鳴らしながら近寄ってきた。


「きみ、退席ね」


 取り出したレッドカードを、裕子の眼前に突きつけた。


「なんだよ、あいつにも出せよ! あの女が、障害者だのっていい出したんだぞ!」


 ぐいと押しのけられるレッドカード。不満と怒りに溢れた裕子の顔が現れた。


「王子、落ち着いて! 気持ちは分かるよ。でも、試合が台無しになっちゃうよ!」


 いまにも審判に殴りかかりそうな裕子を、武田晶が後ろから羽交い絞めにして押さえつけた。


「王子! 落ち着けってば!」

「分かってるよ! 落ち着いてブチ切れてんだよ。放せよ!」


 実は全然分かっちゃいない裕子であったが、でも確かに晶のいう通り、ここで部長が暴れてしまったとあっては、佐原南の出場が取り消されてしまうかも知れない。


 晶のおかげで少しだけ冷静になることが出来た裕子は、納得はしていないが、おとなしく二階観客席との階段へ向かった。


 不穏な空気のまま、試合が再開された。


     17

 西にしむらの退場によってこの試合、またもやわらみなみは一人少ない状況になった。


 先ほどの人数有利時には、果敢な攻めや気迫を見せたかしわふなぼり女子であったが、既に疲労困憊。相手の少ないのに乗じる体力も残ってはいないようであった。


 パスを繋ぎ、なんとか敵陣深くへの侵入を図ろうとするが、佐原南の個人技により簡単に奪われて、反撃を受ける始末。


 人数の少ない相手に対して、防戦を余儀なくされていた。


 そしてほどなくして、一人少ない佐原南の側にゴールが生まれた。


 しのが突破から単身ドリブルシュート、ゴレイロばたあきがブロックして前に落としたボールを、づきが詰めてねじ込んだのだ。


 試合終盤での大量リードに勝利を確信して油断をした、というわけではないのだろうが、その直後、ついに佐原南も失点をしてしまった。


 むくしまよしのドリブルを、真砂まさごしげと篠亜由美の二人は、ずるずると下がりながら対応しようとしたものの、タイミングを逸してしまい、結局最後まで持ち込まれ、シュートを決められてしまったのだ。


「退場で人数が少ないからって、あたしら相手に失点って。バカにして、手を抜かないでよ!」


 椋島佳美がゴレイロのなしもとさきを睨んで、怒鳴りつけた。


「抜いてねえよ、バカ!」


 と怒鳴り返すと、さらに聞こえるような声で独り言をいっている。


「なんつー自分勝手な思考の持ち主だ。だからカナも嫌気がさてクラブを辞めちゃうんだよ。絶対に無失点に抑えてやると思っていたのに、こんな奴に決められるなんて、明日からの決勝トーナメント、ちょっと不安になってきたよ。ったくもう」


 ゲン担ぎのつもりなのか、咲はグローブを脱いでくるくる宙に放り投げると、はめ直した。


「それじゃカナ、入って」


 きぬがさはるが、かなめの背中をぽんと叩いた。


 監督兼任部長のやまゆうが退席、副部長のたけあきらが退場、ということで二人とも試合に携わる権利がないため、必然的に作戦参謀たる春奈が指揮をとっているというわけだ。


 西村奈々の退場から、まだ一分半しか経過していない。しかし失点をしてしまったため、二分を待たず選手人数の補填が出来るのだ。


「はい。ありがとうございます」


 久慈要は、春奈に頭を下げた。

 本当はほしいくが投入されるはずだったのだが、久慈要は、この試合にもう一度出して欲しいと頭を下げて頼み込んだのだ。


 現在、後半十二分。

 残り時間あと三分というところで、久慈要が再びピッチに入った。


 入るなり、九頭葉月からのパスを受けた。


 やはり久慈要がボールを持ったことにいち早く反応し、猛然たる勢いで迫ってきたのは椋島佳美であった。

 砕けろとばかりに、久慈要へと大柄な身体を突っ込ませてきた。


 久慈要としては、フィジカル勝負に付き合わねばならない義務はなく、風に舞う木の葉のように突進をひらりとかわすと、ドリブルし、すぐにゴール前にいる葉月へとパスを出した。


 葉月は斜め後方からの速度あるパスに上手くタイミングを合わせ、シュートを打った。


 だが、真横から飛び込んできた柏船堀女子ベッキのしのはらこずえによって、シュートはブロックされた。


 ボールは大きく跳ね上がり、タッチラインを割った。

 佐原南ボール。キックインである。

 蹴るのは、しのだ。


 浮き球を、葉月が下がりながら上手く足元に収めた。

 くるり前を向いたところ、正面から柏船堀女子のやまもとさくらが迫ってくるのに気付き、ヒールパスで久慈要に渡した。


 また、久慈要と椋島佳美が対峙することになる。

 椋島佳美は、目の前の相手ごと蹴り砕くかのような勢いで、躊躇なく足を突き出した。


 奪った! と、感じたか椋島佳美は、一矢むくいたてやったとばかりニヤリと笑った。

 次の瞬間、その笑みは凍り付いていた。


 椋島佳美の足元にボールはなく、おそるおそる振り返った彼女は驚きに目を見開いた。

 遥か向こうを、ドリブルで駆け上がっている久慈要の後ろ姿に。


 会場全体に轟くような、それは凄まじい大声で、椋島佳美は絶叫していた。

 喉の奥から、まるで、獣のような声で、絶叫していた。

 抑え切れない、閉じ込めておけない、感情を、苛立ちを、寂しさを、恐怖を、爆発させていた。


 柏船堀女子の、ゴールネットが揺れた。

 久慈要のシュートが決まったところで、試合終了を告げる長い笛が鳴った。


 佐原南 10-1 柏船堀女子


     18

「ありがとうございました!」


 かしわふなぼり女子の主将、やまもとさくらが深く頭を下げた。


「こちらこそ、ありがっしたー!」


 やまゆうも負けじと深くと頭を下げる。


「ありがとうございました!」


 残る両校の部員たちが続く。

 退席処分を命じられた裕子であるが、もう試合は終了している。部員同士の挨拶をすることには、何ら問題ない。

 裕子は、相手の主将と握手をかわした。


「色々と不快な思いさせちゃったかも知れないですけど」


 山本桜は、やや申し訳なさそうに、愛嬌のある笑みを浮かべた。


「いや、そんなこと」


 つーかさ、させちゃった、って過去形でいってるけどさ、多分これからだぞ、カナにとっては。


 裕子は、ちらりと久慈要の方を見た。


 列が動き出して、両校の選手同士は次々と握手をかわしていく。

 その流れが、いきなり停止した。


 柏船堀女子のむくしまよしが、かなめの腕を強く掴んで引き止めたのだ。


「あいたっ」


 たけなおの悲鳴だ。

 急に立ち止まった久慈要の後頭部に鼻をぶつけたのだ。

 直子は鼻を押さえながら、ちょっと不安そうな表情で、相対する二人の顔を見た。


 椋島佳美は、また、そしてまだ、久慈要を睨み付けていた。

 もう、先ほどまで見せていたような、あの作ったような笑みは浮かんでいない。ただただ、憎悪に満ちた表情で元チームメイトを睨み付けている。

 久慈要は、少し寂しげな表情で、その視線を受け止めている。


「なんとか、いいなさいよ」


 双方とも無言であったが、沈黙をやぶったのは椋島佳美。睨みながら、ぼそり、と低い声を出した。

 久慈要は、口を閉ざしたままである。


 周囲はいつしか、唾を飲み込む音が離れていても聞こえそうなほどに、静まり返っていた。


「黙ってないで、なんとかいいなさいよ! なんかいえ!」


 椋島佳美は、声を裏返して怒鳴っていた。

 不穏であった場の空気が、さらに張り詰めたような異常な状態になっていた。


「でかい口ばかりでたいしたことなかった。そう思ってんでしょ。じゃあ、そういいなよ! 早く! 勝ったなら喜べば? ザマアミロっていえば? そう思ってんでしょ! ねえ!」


 興奮し、怒鳴り声を張り上げながら、何度も足を踏み鳴らしている。

 久慈要はそんな彼女を見つめ、寂しげなその表情のまま、おもむろに、口を開いた。


「代表の選考に受かったことが、人間をそんなに変えてしまうのなら、あたし、受からなくってよかった」


 久慈要は、前に立つ相手の目をじっと見つめた。


     19

 気付いて、よしちゃん……

 なにが本当に大切なものなのか。


 強く願いながら、かなめむくしまよしをじっと見つめ続けた。


「調子いいことばかりいって!」


 怒鳴り声を張り上げる椋島佳美。


「いつもいつも、黙々と、いい子してて、いつもいつも、いいところばかり持っていってたくせに! 実力だって、本当は、カナちゃんの方があって、だからあたし、死に物狂いで、努力したんだ。努力したから、選考にだって受かったんだよ!」


 彼女は、自らの足も砕けよとばかり床を蹴った。


「それなのに、褒めてくれないどころか、そんな人間になるなら受からなくてよかったなんて、あんまりだよ。カナちゃんこそ、変わっちゃったんだよ! そんなカナちゃん、あたしは知らない! 戻ってよ。元の、元のさあ、あたしの知ってるカナちゃんに戻ってよお!」


 大勢がいるというのに、椋島佳美はこれまでにないほどの絶叫で感情を吐き出しきると、声を上げて泣き出してしまった。


 床に伏せ、号泣する彼女の姿に、久慈要は掛ける言葉を知らなかった。泣き続ける元チームメイトを、黙ってみていることしか出来なかった。


「カナちん、この子に相当に好かれていたんだね」


 たけなおが、しんみりしたようにぼそり呟いた。


「さあ、あたしの影響でフットサルを始めたとはいっていたけど」


 久慈要は、あえて興味なさそうにそういって、止めてしまったことを謝ると対戦相手との握手を続けた。


 そうか……変わったの、わたしの方だったのか。

 いわれてみれば、確かにそうなのかも知れない。

 事の発端は、単なるすれ違いだったんだな。

 わたしだって、佳美ちゃんに劣等感覚えて死に物狂いで練習したんだから。


 いつの間にか、目にうっすらと涙が浮かんでいた。

 右手の人差し指で拭った。

 軽く、鼻をすすった。


「解決したのか?」


 と尋ねるのは、列から外れて待っていたやまゆうだ。


「王子先輩、勝手いって申し訳ないんですが……」

「ん?」

「あたし、この大会が終わったら、フットサル部、辞めます」


 小さな声ではあるが、決意を持った表情で、きっぱりといい切った。

 それを受けた裕子の表情は、特に変わらなかった。


「そうか。残念だけど、でも入部する時にいっていたことだもんな。……居場所、見つかったんだ」

「はい。あたしのいるべき場所、やっぱりここじゃないんです。久しぶりにナオと一緒にプレー出来て、とても楽しかったし、王子先輩たちから教えて貰うこともたくさんあって、感謝しきれないくらいなんですが、でもやっぱり、ここじゃなかったんです。あたしの、いるべきところは。……多分ですけど」

「カナがそう感じてるんなら、多分じゃなくてそうなんだよ」


 裕子はゆっくり右手を伸ばすと、久慈要の肩をぽんと叩いた。


「ありがとうございます」


 久慈要は、俯き加減だった顔を持ち上げた。

 迷いの吹っ切れた、実にすがすがしい表情であった。


「……置き土産に、というわけじゃありませんが、この大会、このまま全勝で、優勝しちゃいましょう」


 久慈要は、自分のいった台詞の大胆さ、恥ずかしさに、口元をほころばせた。

 それは、すぐに顔全体に広がっていた。

 そして、破顔といってもいい無邪気な子供のような顔で、声を上げて笑いはじめたのである。


 いつもの謙虚さから信じられないほどの大言に、そして見慣れぬ笑顔に、聞き慣れぬ笑い声に、一瞬面食らってばちばちと瞬きをした裕子であるが、すぐに一緒になって大きな声で笑い出した。

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