第四章 幸せ勝負

     1

「なんじゃこりゃあぁ」

 

 問題文を見たやまゆうは、思わずシャープペンを持つ手にぎゅっと力を込めていた。

 アルミ製だというのに、いまにもへし折れてしまいそうだ。


 なにを呻いているのかというと、英文を和訳する問題なのだが、文法的にもさっぱり分からない上に、しかも見たこともないような単語が二つも混じっているのだ。


 ここは教室。

 他に誰もおらず、しんと静まり返っている。


 裕子は窓際の自席に、一人ぽつんと座っている。


 いまは放課後。居残りで、英語の勉強をさせられているのだ。


 こんなことばかりさせられているものだから、部の長という身でありながらフットサルの練習には遅刻ばかりだ。


 これはいじめかと思わずにはいられない難解英語の数々に、裕子の顔は青くなったり赤くなったり。普段ろくに勉強をしていないのが悪いのだが。


 とはいえ、バカと分かってる生徒にここまで難しい問題を出すんじゃねえよ。

 だんだん、イライラしてきた……


「というか、既に人類の、我慢の限界を超えている」


 ぷるぷる手を震わせていた裕子であったが、力抜けたように机に伏せると、腕の中に顔を埋めた。


 なんであたしって、こんなバカなの……

 なんなの、この脳味噌。

 早くフットサルしたあい。

 したいよううう。


「おう、じゃあまた後でなあ」


 廊下から、男子生徒の楽しそうな声が聞こえて来た。

 裕子はがばっと突然身を起こすと、勢いよく立ち上がった。


 椅子が後ろに倒れるのも気にせず、うおおお、と雄叫びを上げながらドアへと走り寄り、開き、廊下へと飛び出した。


 やはりえんどうこういち


 裕子は背後から走り寄り、彼のジャージのズボンに両手をかけると、なんの躊躇いもなく足元まで引きずり下ろしていた。

 一緒にパンツまで脱げてしまい、お尻がぷるんと丸出しになった。


「なにすんだ、てめえええ!」


 遠藤孝一は声を裏返らせて叫んだ。

 屈み腰になり、ズボンを上げながら裕子の顔を睨みつけた。


「あたしが居残りでこんな苦労してんのに、楽しそうにしやがって。あたしと同じくらいバカのくせに」

「じゃあお前の方がよりバカってことだ。さっさと教室に戻れや、くそザルが。教科書熟読して脳細胞崩壊して死ね!」

「やかましいわい、きったねーケツ見せやがって!」

「お前がやったんだろうが! もうこいつ、やだあ!」


 遠藤孝一はお尻を見られた恥ずかしさか、ちょっと涙目になって、逃げるようにそそくさと去って行った。


「あたしの方がちょっとだけ悪かったような、気がしないでもない、かも知れない」


 裕子は腕組みして、走り去る遠藤孝一の悲しい後ろ姿をじっと眺めている。


 いやいや、敵に同情している暇などはない。

 早く問題を解いて、先生に見て貰って、KO、じゃなくてOK貰って、部活に行かないと。

 フットサルボールがあたしを呼んでいるぜ。

 、あたしいなくて大丈夫かなあ。

 ナオやカナがちゃんと面倒見ててくれてるとは思うけど。

 しかしあきらの奴、人の苦労も知らないで、遅刻するな遅刻するなって文句ばっかりで頭来るよな。だったらお前もテストでクラス最低点取って居残ってみろっての。


「バッカから始めるう、人生ですかああ♪」


 などとくだらん変え歌を歌っている場合じゃない。

 はやく問題を進めないと。


 教室に入り、自分の席へと戻った。

 倒れた椅子を直し、腰を下ろす。

 ふう。

 と、一息。


 よし、勉強再開だ。


 シャープペンを握りしめる。

 目を見開き、問題文を凝視する。

 その瞬間、額にどどっと汗が吹き出した。


 拒否反応にうぎゃーと絶叫すると、問題用紙をぐちゃぐちゃに丸めてしまった。

 一瞬の後に我に返った裕子は、今度は大慌てで問題用紙を広げ始めた。


 筆箱を押し当ててアイロンのように水平に動かし、紙のシワを伸ばした。


 今度こそ、真面目にやるぞ!


 シャープペンの先端を、答案用紙に押し当てた。


「一球入魂!」


 丸めて伸ばして紙が弱くなっていたためか、ペン先で突き刺して、その勢いでびりびりと破ってしまった。


「わおおおおおお!」


 シャープペンを投げ捨てると、なにを思ったか両手で机をばんばんと叩き始めた。


「うるさいぞ! なにがわおおおじゃバカ」


 教室の前のドアが開いて、英語担当のたきざわ先生が入って来た。


「だって、難しいんだもの」


 泣きべそをかいた。

 たけなおと違って、嘘バレバレの猿芝居であった。


「難しいから、勉強するんだろ」

「難しすぎるから勉強出来ないんですよ。もっと簡単にしてくれないと」

「分かった分かった、今度は問題を全部ひらがなで書いてやるから」

「そういう問題じゃないでしょ! それで難しい問題でもなんでも解けるってんなら、あたし天才とバカの混じった奇跡の生命体ですよ」


 そんなので社会や英語や数学や古文の問題がすらすら解けるなら、世話はない。


「おう、じゃあ奇跡を起こしてくれや。お前な、真面目な話、このままふざけた成績取り続けてると、本当に卒業出来んぞ」

「分かってますよ」


 そんなこと。いわれなくたって。


「あと十分したらまた来るからな」

「はーい」


 滝沢先生は教室を出て行った。


 裕子は気をとりなおして、改めて真っすぐ机に向き直った。


 しかし、どうにも集中出来ず、気持ちは完全に上の空。

 窓に頬杖をついて、ぼんやりと校庭などを眺めてしまう。その向こうにある、山の下に広がっている田んぼや利根川などの眺めにも目をやってしまう。

 もう見飽きた風景だが、英文なんか見ているよりよほどましだ。


 と、校庭に、西にしむらの姿を発見した。


 まだ、部活に行っていないのか。

 なにしてんだよ。


 花壇のそばでしゃがんで、地面を覗き込んでいる。


 また、蟻の行列を見ているのだろうか。

 あれ、あいつら……


 黒いスーツを着た男が二人、建物の陰に隠れてコソコソと奈々の様子を伺っている。

 いや、本当に隠れてコソコソ奈々を見ているのかは分からないが、裕子にはそう思えた。


 この前、体育館で窓から覗いていた二人だ。

 あの時はあきらに頭をゴリゴリやられてて痛くてそれどころじゃなくて、あまり注意して見ていなかったけど、でも、間違いない。あの時の二人組だ。

 なんなんだ、あいつら。

 そもそも、部外者が入り込んだりして、不法侵入じゃないのか。


 裕子は立ち上がった。

 あの男たちに、何者なのか尋ねないと。

 居残り勉強どころじゃない。


 だが男たちは、誰かの接近に気付いたようで、足早に立ち去ってしまった。


 それからすぐ、反対方向から、たけなおかなめの二人が姿を見せた。

 奈々のところへと近付いて行く。


 直子は奈々のそばにしゃがんで、しばらく二人で地面を眺め続けていた。おそらくは、蟻の観察だろう。

 二、三分ほどすると、直子と奈々は立ち上がった。


 久慈要と三人、校庭から姿を消した。

 部活に行ったのだろう。


「蟻が好きだなあ、奈々は」


 裕子はぼそりと呟いた。


 それにしても、さっきの黒スーツ二人組、なんなんだ、あいつら。

 気味が悪い。

 というよりも……面白くない。

 なんだか分からないけど、こそこそ探りやがって。


     2

 信じられないものを見た時、誰もがこのような顔になるのではないだろうか。

 肯定と否定、常識と非常識、様々なものがごっちゃになった、まさにそのような表情で、いくやまさとは呆然と立ち尽くし、西にしむらの背中を見つめていた。


「ね、いまの、いまのいい感じ?」


 西村奈々は振り返り、右足でボールを踏み付けながら尋ねた。


 二人は、ボールキープの練習を行なっているところである。

 里子は、もう練習どころではないといった表情であったが。


 よく王子先輩は、「奈々は、結構いいもの持ってるよ」、そういっていた。でも里子は信じていなかった。

 仮に素質があろうとも、始めたばかりだ。


 それに、奈々は……


 それなのに……


     3

 ウォーミングアップ代わりに、軽く面倒を見てやるくらいのつもりだった。

 初めのうちは、確かにそうだった。

 実際のところ、どう手加減してあげればいいのか悩んでしまうほどに、技術力の差があった。


 手加減はしても、負けてあげるつもりなどは里子には毛頭なかったが。

 その思いの通りに、事実、里子の動きは奈々を翻弄し続けた。


 奈々は予測をせず、見てから動く。

 つまりフェイントに簡単に引っかかるのだ。


 そう分かっていて、手加減をすることのいかに難しいことか。

 ところが、どれほど経った頃だろうか、里子の油断したほんの一瞬の隙を突いて、奈々は見るも簡単にボールを奪ってしまったのである。


 里子は、取り戻そうと奈々へと詰め寄った。

 奈々は、爪先を器用に使ってボールを背後へと転がすと、自身も反転させてボールを守った。


 里子の頭に、一瞬にして血が上っていた。

 相手が誰なのかなど、完全に頭から消し飛んでいた。

 本気で、襲いかかっていた。

 だが、奈々も身体を巧みに利用して、簡単には渡さない。

 「奈々は、先の行動を考えるのは苦手だけど、なにかに対してのリアクションはとても素早く的確。使い方によっては相当いけるかもよ。ま、まずはボールに慣れて貰わなきゃだけど」と、裕子がいっていたことがある。里子はその話を真面目に聞いてなどいなかったが、その通りなのかも知れない。

 しかし素人は素人。バカにされてたまるか。


 果たしてまた、里子の、悪い虫が出てしまった。

 勝手に相手をみくびっておいて、そのみくびっていた相手にやり返されると、バカにされたと我を失ってしまうところがあるのだ。


 奈々の楽しげな顔が、ますます里子の怒りに拍車をかける。

 本来ならば里子の方が、遥かに実力が上のはずなのに、奈々から全くボールを奪うことが出来なかった。里子は余計に焦り、悪循環に陥っていた。

 「能力をどう戦力として伸ばしてくのか。部長の腕の見せ所でもあんだから、まあ、頑張って奈々を鍛えてみな。自称次期部長さん」分かってんだよ、いわれなくてもそんなこと。でもあたしまだ部長じゃない。とにかく誰にも、負けたくないんだ!


 里子は奈々に強く体を当てて、ボールを奪おうとした。

 試合中ならば間違いなくファールを取られるプレーだ。


 奈々は体当たりを受け止めつつ、身体をねじって勢いを逃がした。


 負荷が突然消失したことに、里子はバランスを崩して、前へ大きく片足をついた。


 信じられないものを見た時に、誰もがこのような顔になるのではないだろうか。

 肯定と否定、常識と非常識、様々なものがごっちゃになった、まさにそんな表情で、生山里子は西村奈々の背中を見ていた。


「ね、いまの、いまのいい感じ?」


 西村奈々は振り返り、右足でボールを踏み付けながら、尋ねた。


「んで、ここでシュウト!」


 やっぱりルールを理解していなかったか、遠くへと蹴飛ばしてしまった。

 ボールがなくなってしまったことで勝負が中断され、第二沸点に達しかけていた里子の温度は、急速に冷めることになった。


     4

 二人は、しばし見つめ合った。


 は、いつも通りニコニコした顔で。

 さとは、怒ったような、気まずいような、そんな複雑な表情で。


「さとちん、すっごい真剣だなあ。王子いってた。好きで楽しいと真剣になるって。さとちん、フトサル、好きなんだね」

「まあね」


 里子は、二回ほど、小さく深呼吸をした。

 そして、小さく口を開き、くぐもったような声を出した。


「……あの、ごめん」


 うつむきながら謝ると、唇をきゅっと結んだ。


「にゃにがごめんなの?」


 奈々がニコニコ顔で尋ねる。


「なんでもない。……だいたい、そもそもなんだよ、さとちんて。先輩に向かって」


 自分も王子先輩にぞんざいな口のききかたしているくせに、勝手ないい草の里子であった。


「まあまあ、大人気ないぞ」


 かじはながいつの間にか里子の後ろに立っていて、柔らかく肩を揉んだ。


「大人気ないのがあたしのキャラだもん」


 などと軽口を叩く里子であるが、その鋭い眼光は別の方向、体育館の窓の方へと向けられていた。

 窓から、二人の男がこっそりとこちらを覗いているのだ。


「誰だ、あいつら」


 里子はぼそっと小声を出して、花香に目配せをした。

 花香も、身体の向きはそのままで、目だけを動かして窓の方を見た。


「分からない。多分、こないだ王子先輩がいっていた、怪しい人達だよ」

「だよね。隠れて探ってるようで、気持ち悪いな」


 里子は、男たちのいる窓に近い出入口に向かって、ゆっくりと歩き出した。


 それに気付いたのか、男たちの姿がふっと消えた。


 里子は、持ち前の瞬発力を発揮し、全速力で走った。

 出入口から通路へと飛び出した。


 しかし、すでに通路には、誰もいなかった。

 いや……一人、いた。


「お、里子じゃん。いやあ、参った参った。この間、英語で最低点を取ったせいで居残り勉強させられてさあ」


 やまゆう部長であった。

 今日も相変わらず、遅刻の弁明をしている。


 ほんとだらしないんだからな。っと、いまそれどこじゃない。


「王子先輩、あたし、見ましたよ」


 里子は、ぎらりとした鋭い眼光を裕子へと投げた。


「え、え? 見てた? いや、ちがうんだ! あれは、ズボンだけのつもりだったんだけど」

「なにいってんですか?」

えんどうこういちのパンツおろしたことじゃないの?」

「バカなことばかりやってんだから! そうじゃなくて、前に先輩のいっていた怪しい二人組の男を見たっていってんですよ!」


     5

「ねえ、知ってます? 回転寿司のあなって本当は穴子じゃないんですよ」


 全員車座になっての戦術ミーティング真っ最中。

 ちょっと空気の緩んで来た時間帯に、一年生のふかやまほのかが唐突にそんな話題を持ち出してきた。


「え? 穴子じゃなかったらなんなのさ」


 三年生のしのが、深山ほのかの話に乗っかった。


「うん、えっとね、百円寿司みたいな安いのは、大抵の場合がアンギャーだかアンゴラだか怪獣みたいな名前のうみへびなんだって。穴子じゃないのに何故か日本名ではなんとかアナゴって名前になっていて、だからそういう意味ではアナゴといっていても間違いじゃあなくて、だからお寿司屋さんもアナゴとして出すんですって。本当は海蛇というよりウナギの仲間らしいんですけど、その見た目がね、昨日テレビでやっていて、まあグロテスクなこと。お父さんが出張から帰って来て、たまたま穴子寿司買って来てくれたんですけど、多分それは本物の穴子に間違いないというのに、あたし鳥肌立っちゃって、吐き気もしてきて、食べられませんでした。テレビで真実を知るまでは、回転寿司って、大好きな穴子があんなに安くて人生の幸せだあ、って思っていたのに……」

「海蛇だろうがアンギラスだろうが、安くて美味いなら食えばいいじゃん。いままで気付いてなかったんだろ。じゃ、美味しいんだよ」


 なにをくだらないこといってんだ、という顔のやまゆう

 彼女なら海蛇どころか怪獣も食べてしまいそうであるが。


「でも、本当に凄く気持ち悪いんだから。顔がぐちょぐちょーっとしててね、ぐおーっと、うぎゃーって感じで」


 伝わりようもない妙な擬音の連発で、ほのかは力説する。


「王子に説明したって無駄だよ。蝉が鳴いてるの聞いてて、食べたら美味いのかな、なんていってたことあるんだから」


 たけあきらが、ぼそりといった。


「うわ、王子先輩変態!」

「うるさいな! 実際に食べたわけじゃないし。だいたい、穴子が安くて人生の幸せなんて、どんだけ小さいんだよ」

「じゃあ、先輩の幸せとか夢ってなんですか?」


 ささやかな幸せを否定されたと思ったか、ほのかは不満げに唇を尖らせた。


「お嫁さん」


 なんの迷いもなく即答する裕子。

 それを聞いたほのかは、ぷっと吹き出した。


「素敵なお嫁さんになることの、なにがおかしいんだよ。純白のドレス着てさ、乙女の夢だろうが! 普通だろうが!」

「だってえ」


 返答に困りつつも、ほのかは口を隠して、笑いを抑えようとするのに必死だ。


「そもそも『素敵な』にはなれないでしょ。夢見るのは自由だけど」


 いくやまさとが、的確な横槍をぶすりと裕子の心臓に突き刺した。


「くそー。好き勝手抜かしやがって。ならば、お前の幸せはなんじゃーい!」


 人差し指を、ぴっと里子に突き付けた。


「あたしは、そうだなあ。知ってると思うけど、自分をステップアップさせて誰かを抜いて行くこと。ステップアップを実感している時が、幸せだな。だから、いまは王子先輩以上の部長になることが目標。まあ、部長になりさえすれば『王子先輩以上の』ってのは勝手にくっついて来ますけど。ハナは?」


 隣の、かじはなに尋ねた。


「なにが?」

「だから、なにが幸せかって話だよ。中学に入った時からの仲なのに、こうした話を一度もしたことがなかったから、良い機会だ」


 そうふられた花香は、ちょっと考え込んだ後、おもむろに口を開いた。


「中学生の頃ね、駅のホームで向こうから来る男の人を避けようとしてお互い同じ方向に動いちゃって、ぶつかりそうになって、そしたらその人がチッって舌打ちしてきたのね。それだけなんだけど、でも、なんか、知らない人にいきなり怒鳴られて罵倒されたかのような、ショックというか、胸がどきどきする感じで、落ち込んだ気持ちになっちゃって。アパート帰っても、まだおさまらなくて。頭も痛くなってきちゃって。そしたら、お隣りの夫婦、仲が悪いんだけど、その日も、壁の向こうからいつものように激しい夫婦喧嘩が聞こえて来て、物を投げ合う音が聞こえて来て。それであたし、ああ、あんな程度のことで辛い気持ちになって落ち込んでて、それって、幸せだからなんだなあ、って思った。そんだけです」

「優等生な発言しやがって」


 里子は花香の背中をひっぱたいた。


「そんなんじゃないって。……でも、里子がまたなんていうか分からないけど、一番の幸せは、可愛い弟たちがいるってことかなあ」


 花香にはけいりようたけるという、小学中学年から幼稚園までの三人の弟たちがいる。

 父親はおらず、母親と安アパートに五人暮らしだ。

 母親は仕事に忙しいため、子供たちの世話はすべて花香がやっている。

 だから花香にとって弟たちは、我が子のようでもあり、とても可愛いのだ。


「さすがに、喉が枯れちゃうから、あたしもうなーんにもいわない」

 と、里子。

 いっているようなものだが。


「あたしは、仲のよさそうなカップルを見ているのが幸せ~」


 ほしいくが、割り込んできた。

 ごつい顔に、ちょっぴり乙女な笑みを浮かべている。


「アゴ、柄にもないこといってっと顎が加熱するぞ。幸せっつーか、単に羨ましくて妬ましいだけじゃないの?」


 育美の乙女心を完全否定するような台詞を、ずけずけという裕子のこの無神経さよ。


「別に、全然羨ましくなんかないですよ。だって、あたしなんかが、普通のカップルみたくしててもきっと傍から見ておかしいだけですもの。だから、こうなりたいなんて興味もわかない。誰かと付き合いたいなんて、これっぽっちも思わない。もしあたしがもっと小さくて可愛かったら別でしょうけど、現実としてこんなバカでかくて顎も異様に長い顔してますからね。そんなことより、他人の幸せを見ているだけの方が自分も幸せです」

「なんか歪んでいるような純真なような。あたしなんかは、幸せそうなカップル見てるとぶち壊したくなるけどなあ。あたし今いないのに畜生って」


 裕子は腕組みをした。


「今もなにも、いたことないだろ」


 晶がさりげなく突っ込みを入れた。

 真砂まさごしげの隣に座っていた篠亜由美は、勢いよく立ち上がったかと思うと、茂美の前に立って、裕子からの視界を塞いだ。


「茂美の恋は、壊させやしないよ」


 恋路を守る紅の騎士、その名は篠亜由美。


「べっつに、もう興味ないしい」


 裕子は頭をかいた。


「そもそも何君だっけ、茂美の彼氏。くそ無口な茂美になんと彼氏が、って最初聞いたときはなんだかショックだったけどさあ。自分に彼氏が出来なかろうとも茂美がいるから大丈夫だ、って思っていたのに、その最後の塞を崩されたようで。でも、もうどうでもいい」

「あたしは、美味しいカレーのお店を見つけた時かなあ」


 なつ。星田育美の隣にいたことから、なんとなく、彼女が語る番になったのだ。

 エスニックな雰囲気の顔立ちを突っ込んで欲しくて自虐ネタに走ったつもりなのかも知れないが、誰も突っ込んでくれなかった。


「タモリは?」


 夏樹は、隣のきしもりに振った。


「なにタモリって? 勝手にあだ名つけないでよ! そうだな、あたしは、買い物が安かった時ですかねえ」

「ほんっと、感覚がおばさんだな」


 裕子は、声には出さずに、口の動きだけでぼそり。


「買い物っていってもしもきたの古着なんかですよ! 王子先輩、勝手にスーパーでお肉が特売とか想像したでしょ」

「読唇術が使えるのかお前は! そりゃスーパーの買い物だと思うだろ。お一人一点の品物を何度もレジに並び直したり、って思うだろ。だってお前だもん。……はい、じゃあ次、づき


 いつの間に強制制度になっていたのか。

 づきは、いきなり自分に振られて、びっくりしたように顔を上げた。


「特には……。一日、何事もなく過ぎた日は幸せです。……この間、お店番していて、お客さんからここのお菓子美味しいっていって貰えた時、とても嬉しかった」

「ささやかだなあ。お父さんはきっと、駄洒落が大受けした時が幸せ、ってなって欲しいと思ってるぞ」

「あたしにただ友達が出来るだけでなく、王子先輩みたいに明るく元気になって欲しいんですよ。それがお父さんにとって幸せなんです」


 だから、今のお父さんは不幸なんです。

 そう思ったかは分からないが、とにかく葉月はいつも以上に沈んだ表情になった。


「大丈夫、おじさん今でも充分に幸せそうだから」


 という裕子のフォローも虚しく、葉月はまた膝に顔を埋めてしまった。


「お姉ちゃんがねえ」


 ちょっと淋しくなりかけた場の空気を、たけなおの抜けるような元気な声が吹き飛ばした。


「またあたしのことかよ」


 たけあきらが、うんざりした表情を浮かべている。

 普段の顔と比べて、ほんの微かな表情筋の変化でしかないが。


「お姉ちゃんが小六の頃、クラスメートから暗いといわれたのを気にしていたらしく、漫才やろうと誘われたことがあるんです」

「そんな古い話。だいたいそれ、いまみんなで話していることと関係ないじゃんか」


 武田晶が、また表情筋を微かに変化させた。


「晶先輩が、漫才?」


 食いついて来たのは、やはりというべきかなしもとさきであった。


「はい」


 直子は頷いた。

 ぷっと吹き出す咲の脇腹を、晶は肘で小突いた。

 しかし咲は全く構う様子もなく、


「どうせ小学生なんかじゃさあ、それは何とかやがな、ってレベルの低い駄洒落とツッコミひたすら繰り返すだけだろ。こってこての言葉遣いで、しかもなにいってるのかよく分からないような内容で。王子先輩がいまでも一人でよくやってるようなさあ」

「はい。まったくその通りです」


 直子の言葉を聞いて、しょげてしまったのは裕子である。


「晶ごときと、同じレベルになっちまったとは」

「なっちまったじゃなくて、高三のいま現在、小六の頃のあたしと同じレベルなんだろ」


 裕子は、ぷんぷんぷーんなどといいながらむくれ顔になった。


 直子は続ける。


「とにかく、お姉ちゃんの考えたその漫才、センスが最悪で、さっき咲先輩がいっていた通り、いやもうそれ以上で、もう練習が嫌で嫌でたまらなかったけれど、でも、いま考えてみると、とってもぽかぽかとした、幸せな時間だったのかなあ、って。結局、発表することなく終わちゃったんですけどね」

「はあ、うまくまとめやがって。ますますお姉ちゃん、妹のことが可愛くなっちゃうよ。ねー」


 裕子は、晶に身体を擦り寄せた。


「まあ……確かに」


 晶は小さい声で、珍しく裕子の発言を肯定すると、照れ隠しなのか自分の膝小僧をこつこつと叩いている。


「晶はさあ、台所の粘着シートにゴキブリがかかっていると幸せだってさ」

「思ったことないよ、そんなこと! 勝手に人の幸せを決めるな、バカ王子」

「じゃ、なんだよ」

「考えたことないなあ。フットサルは好きだけど、でも、それだけで人生幸せってわけじゃあないし。あたし、ナオと違って友達も少ないし(正確には、いない)。王子ほどじゃあないけど勉強も出来ないし、だから、将来仕事で成功するなんて無理だろうし。ま、十代のうちにそんなこと悩んでもしょうがない。ゆっくり見つけるよ」

「あたしはさあ」


 と、しのが、口を開いた。


「はい、分かった分かった。次、は?」


 裕子は強制キャンセルで、次へ進めてしまう。茂美のことを延々と何時間も語られても面倒だから。


「にゃにが?」


 語る機会を奪われてもやもや憮然とした表情の亜由美の隣で、奈々は楽しげな、でもきょとんとしたような表情を浮かべている。


「奈々は、何が幸せ?」


 裕子は再度、問う。


「シャーセって、嬉しいこと?」

「そうそう。どうなったら嬉しい?」

「いっぱいあるよ。カレーのお肉にちょっとぶよっとしたとこあると、やったーって思う。歯磨きした後、お母さんに見て貰って磨き残しがなかった時。パイナップルの缶をちょっとずつちょっとずつ開けて、ほとんどギザギザにならなかった時。筆箱に指を入れて、黄色い鉛筆取れって思って本当に黄色い鉛筆取った時。あとね、ここでこんなふうに喋ってる時」

「なんでもかんでも幸せじゃんか。じゃ、逆に、幸せじゃないことって?」

「ない」


 奈々はきっぱりといい切った。


「一つも?」

「あるかも知えないけど、でも、そうでないことがあるとしても、こして生きてて嬉しいから、そうでない時に、そうでないって思うわけだから」


 不幸を感じるのも幸福の証である、ということか。


 その考え方に、裕子はなんだか心地のよい衝撃と、どことない寂しさとが、自分の全身を包むのを感じていた。


「奈々は、えらいよなあ。そういう考え」


 裕子に褒められ、奈々は破顔した。


 戦術ミーティングの内容をもとに紅白戦をする予定だったのだが、この後も順繰りに幸せトークが続き、気付けばもう部活の終了時間になっていた。


 結局、この幸せ勝負に、勝者は存在しなかった。


 陳腐な表現をするならば、誰もが勝者であるということか。

 だって幸せは、本人が自分に対して決めるものなのだから。


     6

 いやいや、あたし敗者じゃない? 強いて決めるなら。

 その、幸せ勝負の。


 と、これは武田晶の心の声である。


 だってあんな話題になるまで、あたし全然そんなこと考えてなくて、でもみんなは、しっかりと、ささやかながらも生きている意義を見付けててさあ。


 バカ王子に、ゴキブリの粘着シートがあ、とかくだらないこといわれるのも、あたしがしっかりと幸せを認識していないから付け入られるわけで。


 幸せ、幸せ、か……

 なんだろう。改めて考えると。


 なおがいること。そう、それでいいや、それで。

 いや、ダメだ、だって恥ずかしくて、誰にもいえないよ。


 あたし、自分のことなのに自分のことを普段全然考えていないんだな。


 ため息もでないよ。


 まだくよくよ気にしてしまっている晶。

 一時間も前の、部活でのことを。


 彼女が現在いるのは、セカンドキッチンというファーストフード店である。


 部活練習後、山野裕子と一緒に学校を出て、西にしむらを自宅に送り届け、そのまま駅南口にある雑居ビルにあるこの店を訪れたのである。


 客のほとんどは、晶や裕子たちと同じく中高生。

 夕方はいつも混雑しており、賑やかを通り越して非常に騒々しい。


 わらみなみ高校女子フットサル部は、来月に行なわれるフットサル大会に参加予定。

 ようやく予選リーグの対戦相手が分かったので、その対策を練ろうということで、二人は相談事のためここに来たのだ。


 このような騒々しい場所よりも、いくらでも話し合いに適した場所がありそうなものだが(そもそも学校ならお金もかからないのだし)佐原南フットサル部は何故か代々、男子女子問わず、大事な話し合いの場所としてこの店を利用するのが慣習になっているのである。


 なお、女子フットサル部顧問であるゴリ先生が、その対策会議に自分も参加させろといっていたのだが、裕子が「奢ってくれるなら来てもいいよ」というと、彼は即答で参加辞退した。


「少しくらい、スポンサーになってくれてもいいのにねえ」


 ぼやく裕子。


「意味不明。なんのスポンサーだよ」


 晶は、ささやかな突っ込みを入れた。


 ドアが開いて、制服を着た男女が入ってきた。

 仲良さそうに手を繋いでいるところから、考えるまでもなくカップルであろう。


「あいつらさあ、やっぱりさあ」


 裕子は、カップルの方をちらりと見た。


「ん?」


 烏龍茶をストローで飲んでいる晶。


「やってんのかな?」


 裕子のその言葉に、晶は口に含んでいた烏龍茶を全てジェット気流に乗せて吹き出してしまった。

 なおも激しくむせ込み続けた。


「知ら、ないよ、そんなの!」


 なんなんだよ、こいつはいきなり。

 バカじゃないの?

 いや、バカなのは知ってたけど。


 晶はハンカチを取り出すと、テーブルの上を拭いた。


しげもさあ、やっぱりさあ、中学からの彼氏とさあ、やってんのかなあ。つうか、うちの部って、経験者どれだけいるんだろ。意外とさ、ほのかみたいの、経験人数多い気がしない? あとさ、カナみたいなのも、経験年齢だけはやたら異常に早そう。で、それきり興味なくすタイプ」

「だから、知らないって。というか、具体的な名前を出すな!」

「なんだよ、いい子ぶって。ほんとはすっげースケベなくせに!」

「なんで決め付けるんだよ。そんなの、全然興味ないよ」

「ほんとだな? それ、ほんとだな?」

「まぁ、人並みくらいにしか……」

「ほらみろー。夜な夜な想像してんだろ、男の子のあれのこととかさあ」

「うん。……あ、いや、夜な夜ななんて、想像してないよ! 一緒にするな!」

「射○のこととかさあ」

「わーーーーー!」


 晶は大声を張り上げて、裕子の声を掻き消そうとした。


「なんなんだお前は。そんなこと、楽しそうに語るな!」


 まあ……想像したことないわけじゃ……ないけど。わたしだって、その、なんだ、一応、年頃の、女子だ。

 しかしこいつ、よく恥ずかしげもなく堂々とそんな話が出来るよ。隣のテーブルにも客いるんだぞ。

 ひょっとして烏龍茶で酔う体質か。それとも、聞いただけで照れるわたしの方がおかしいのだろうか。

 それよりなにより、わたしが全然そういう経験がないなどと、なんで勝手に決め付けるかなあ。

 まあ、事実その通りなのだけど。


 そもそも、興味もなにも、お前、付いてるだろ、絶対。


 一瞬そんな冗談の台詞が脳裏に浮かんだ晶であるが、恥ずかしくてとてもいえなかった。


「晶、今日ここに来た目的を忘れてないか? びしっとしろよ、びしっと!」


 裕子は、手元のノートを開いた。


「どの口がいってんだよ……」


 晶は、長い長いため息をついた。


 くっだらない雑談も終了。作戦会議再開だ。

 会議の主旨自体は簡単で、対戦相手の、注目選手の特徴やチームの特徴から、佐原南としてどう挑むのかを考える。それだけだ。


 誰に誰を当てるか。

 どんなフォーメーションにするか。

 守備的にいくのか攻撃的にいくのか。

 予想外のことが起きた場合に、どう対処するのか。


 それをまとめ、決め事として練習で部員たちに落とし込んでいくのだ。


 このようなちょっと知的な話し合いには、きぬがさはるを交えることが多いのだが、今日はちょっと用事があるとのことで、部活が終わったら急いで帰宅してしまった。なので今日はこの二人なのである。

 二人で話だけまとめて、後でチェックしてもらう予定だ。


 ノートに記述されている内容をもとに、二人は対策を固めていく。


 部長と副部長だからというより、アラとゴレイロだからというべきか、根本的な性格が異なるためか、なかなか決まらず、二人は熱い激論を戦わせ続ける。


 そうこうしているうちに、お店に新しい客。

 制服姿のたけなおであった。


「やっぱりここにいたか。あ、お姉ちゃん、ポークスティックフライ残してる。冷えちゃってんじゃん」


 と、席に着くや、晶の皿からつまんで食べてしまった。


「それ最後に残しておいたのに!」

「え、そうだったんだ、ごめんね」

「いや……いいんだよ、気にしないで」


 晶の脳裏には、先日のシャロン鈴木堂お菓子事件のことが浮かんでいたのであった。


「楽しみにしてたポークスティック食われちゃって、きっとショックでやる気なくして大会はヘマばっかりだな。一発レッドで退場すんじゃないの?」


 裕子がからかう。


「どんだけいやしんぼだよ。そんなことくらいでやる気なくすわけないだろ。バカ王子」

「そうか? この前だって、咲とガーリックグリルサンド賭けたもんだから圧勝してたじゃんか」

「別に食べ物を賭けたから勝ったわけじゃないよ」

「まあどうでもいいけど。あ、そうだナオ、おしっこちびりのやま君の妹と、最近どう?」


 裕子は、話題を変えた。

 彼女曰く、何日か前に同じ中学出身の山田君と高校の廊下でばったり出くわし、言葉をかわしたものだから、直子の顔を見てちょっと彼の妹のことが気になったのだそうな。


「はい。あたしもこの間、偶然に、そのお兄さんの方を見かけたんですが、王子先輩のいう通り、なんか気の弱そうな普通の人ですねえ。山田さんは、お兄さんが学校では強い、というかもの凄い不良だと本気で思っていたみたいで、その反動なのか、お兄さん並みに小さくなっちゃいましたよ。でもやっぱり、あたしや奈々が近くを通るとじろりと睨んでくるので、ちょっと怖いですけどね。そうだ、あたしもなんか食べよーっと。お姉ちゃんにも、さっきの分、一口あげるよ」


 直子は席を立つと、行列の出来ている注文カウンターへと小走りで向かった。


 晶は手にしていた烏龍茶の紙コップを置くと、裕子に視線を向けた。


「その、なんとかちびりの山田君ってさあ」

「おしっこちびり!」

「でかい声でいうなよバカ! わざと伏せてんのに気づけ。恥ずかしいな!」

「恥ずかしいのは、ジャガイモみたいな顔してるくせにムッツリ根暗な顔で自分をクールと思ってカッコつけてるお前の方だ。そういう顔は、せめて愛嬌がなきゃあ、かわいくないんだよ」

「カッコなんかつけてないし、かわいいなんて一度も思われたいと思ったことない。あたしの顔のことなんか、どうでもいいだろ」

「はいはい。ほんっとどうでもいい。で、山田がなんだよ」

「あったまくんな、もう。……でさ、彼、中学の頃は、本当に不良生徒だったんだよね?」


 晶にとって本来どうでもいい話題だが、妹が被害にあっているので関心を持たざるをえないのだ。


「ポーズを取っていただけ。虚言癖があってさ、逮捕されたことがあるだの、ヤクザがバックに付いてるだの、女を三百人食っただの。一目おかれて、気持ちよかったんだろうな。そしたら本当の不良グループに目をつけられちゃって、学校の裏に呼び出されて土下座させられて、おしっこ漏らして平謝りしているところをあたしが助けてやったんだけど、それからキャラが変わってしまったみたいで」

「え、ちょっと、不良グループから助けたって簡単にいうけど、どんな助け方したんだよ」

「それは企業秘密」

「なんだそりゃ」


 吹けば飛ぶ零細企業には違いないだろうけど、それにしても不気味な企業だな。


     7

 薄暗くて狭い空間に、汗とカビの臭いが充満している。


 ここは、女子フットサル部の部室である。

 十年ほど前までは男子サッカー部の部室だったらしいので、その頃の汗の臭いなのかも知れない。


 若干香水の香りも漂っている。

 代々女子たちが頑張って対策をしてきた証であるが、しかし汗臭さを中和するどころか絡み合って妙な香りになってしまっている。


 端にはロッカー。

 真ん中には小さな机が二つ。

 それと幾つかの椅子が散乱している。


 小さな窓から差し込む淡い陽光。その照らす道筋に、舞い踊る大量の埃が浮かび上がって見えている。


 やまゆうは、机の上に乗っかってあぐらをかいている。

 椅子は、ところどころ皮が破れてスポンジが剥き出してしまっており、座り心地が悪いのためだ。


 その座り心地の悪い椅子に、後輩のむらかみふみを平気で座らせているわけだが。


 村上史子は、酷い椅子であろうとも非常にが姿勢が良い。

 裕子と違って、育ちが良いのであろう。


 彼女が何故このように部室で山野裕子と向かい合っているのか、であるが、苦情を申し出るためであった。


 部員の一人である西にしむらの、様々なことに対して。


「せっかく試合内容に惚れて、この高校、この部に入ったというのに、あんなたびたび邪魔されるんじゃ練習もまともに出来ないですよ。あたしたち一年生でまだまだだから、余計に頑張らなきゃならないのに。……人間として、酷いこといっているのは、良く分かってますけど」


 史子は新入部員挨拶でもいっていたが、中学生時代に近所の体育館で行なわれた大会でわらみなみの試合を見て、このフットサル部に入りたくて、この高校を受験したのである。

 そういう意味では、部への思い入れは新入部員の中で一番強いのかも知れない。


「いやまあ、酷いこととも思わないけどね」


 裕子は、鼻の頭を人差し指でかいた。


「あたしね、佐原南の試合を見て入りたいと思った、っていいましたけど、正直にいうと……王子先輩の姿を見て、その、惚れたというか」


 意を決して顔を赤らめながらも口にしたはいいが、途中でためらってしどろもどろになってしまった。


「そんな趣味は……」


 机から降りた裕子は、村上史子の前に立つと彼女の額にフットサル四号球を押し当てた。


「ねえ!」


 そのボールに思い切り頭突きをかました。

 どう、と鈍い音がして、史子はのけぞった。


「あいた! 分かってますよ、そんなこと。かっこいいなって、憧れたってことですよ。先輩、いまと違って髪も短くて男の子みたいだったし。……佐原南に入学したくなったものの、でもあの人がもし三年生だったら、あたしと入れ違いに卒業だよな、って思いつつも一か八かで受験して、運良くせっかく一緒になったというのに、王子先輩は奈々にかかりっきりで、ろくに自分の練習が出来てないじゃないですか」

「ちょっと、なにいってんのか、よく分からないんだけど、あたしのこと気遣ってくれてんの?」

「憧れの先輩が、どんどんレベル落ちていって、そうでなくなっちゃうのが嫌なんですよ」

「あたしは大丈夫。こうしている間にも、どんどんパワーアップしているんだから。史子は、自分のことだけ考えていればいい。奈々のことは、みんなから不満が出ないようにちゃんと考えるよ」

「お願いします。それじゃ、あたしは練習に戻りますから」


 村上史子は立ち上がり、裕子に一礼した。


「服にサイン書いてやろか?」

「だから、そういうのと違うんですってば!」


 史子は顔を赤らめた。本当は、違っていないのかも知れない。


 彼女は、ノブを掴み、部室のドアを開ける。


 と、そこにはつじが立っていた。


「あたしもさ、部長にいいたいことがあって」

「奈々のことでしょ」


 史子の問いに、美香菜は頷いた。


 史子は出ていき、入れ違いに美香菜が部室に入った。

 美香菜は、裕子があぐらをかいている机に、自分もお尻を乗せた。古い机は、二人の重みでぎしぎしと悲鳴を上げた。


「なんだよ、デン。お前も奈々のことって」


 デン、というのは辻美香菜のあだ名である。


「あのですね」


 と、美香菜が話したのは、奈々の練習態度、後片付けについてなど、基本的に村上史子と同じであった。

 史子と違って、裕子個人でなく部全体を考えてのことだが。


「……それとですね、この間、用具室に行ったら、またバレーボールがたくさん転がっていて。カゴへ近付いたら、中から奈々ちゃんが、ばーってボール吹き上げながら立ち上がって飛び出してきて。本人は楽しいからやってるというだけなんでしょうけど、あたしもう血の気が引いちゃって。じゃじゃーん、じゃないよ! って怒っちゃいました。すぐに奈々ちゃんをどかして、ボールを片付けたんですよ」

「そうなんだ。ありがとうね」

「いえ。こういっては奈々ちゃんに申し訳ない気もするんですけど、あの子、ここにいるには無理があるんじゃないでしょうか。練習でも、いうことは聞かないし、ルールは覚えてくれないし」

「でも、だいぶ覚えてきたろ?」

「それは、確かにそうですけど。でも相変わらず酷いですよ」

「練習でのことは、史子にもいわれた。考えとくよ。用具のことは、奈々だけ免除にはしたくないから、あたしか晶が一緒に行動するようにするから。……あとね、あたしは、奈々がここにいるべきじゃないとは思っていない」

「えー、最後のそれ、ズルイですよ。なんだか、あたしが悪者みたいじゃないですか。あたしだって、色々考えて発言しているのに。奈々ちゃんのこと、嫌いじゃないんですよ」

「いやいや、デンのそういう気持ちは分かるんだよ。全然間違ってないし、悪者でもなんでもない。でもさ、部活って部活のためだけの部活じゃないじゃん。こういう色々な経験が奈々にとってだけでなく、みんなにとっても大切なものになると思うな」


 偉そうなことをとりあえずいってみたけど、自分もバスケでのプレーを見て興味でフットサルやらせたいと思っただけなんだよな。


 裕子は心の中で苦笑した。


「王子、そろそろ紅白戦やるぞ! って、お姉ちゃんからの伝言です」


 ドアの向こうから、たけなおの声が聞こえて来た。


 低い声で姉の真似をしているようであるが、


「似てないよ、全然」


 晶の声って別に低くもないのに、物真似するとみんな決まって低い声出すんだよな。根暗っぽさが出るから。


 などと物真似寸評しながら、とん、と机から降りる裕子。

 部室のドアを開け、美香菜と一緒に外へ出た。


     8

「コネやらなにやら色気やら、色々と駆使して、予選リーグ対戦相手のデータを集めた。一日一回づつ、相手との対戦を考えた練習試合していくから。身体に叩き込むように」


 部員全員を自分の前に集め、向き合いながら、やまゆうは手にしていたノートを開いた。


 裕子が部長ノートと呼んでいる、部長としての様々なことを書き込んでいるメモ帳だ。


 なおそのノートは、裕子にしか読むことが出来ない。

 いつも部室の机に放り投げてあり、誰でも手に取ることは可能で、別に暗号文で書かれているわけでもないのだが、字があまりに下手で汚く、書き込んだ本人以外の誰も読むことが出来ないのだ。


 まさに部長ノートの名に相応しい、そして情報保護時代に相応しい、セキュリティ対策万全な代物といえよう。


「まず今日は、どうしようかな、しらはま高校、ひがし高校、かしわふなぼり女子。……じゃ、柏船堀で行くか。私立柏船堀女子高等学校、通称柏女かしじよ。ここが、一番勝つの簡単そう。とかいってると足元すくわれるよな。創設三年目なんだけど、まだまだ弱小。まだまだもなにも、この近辺に住んでるフットサルやりたいって子はお隣の我孫子東に行っちゃうらしいから、優秀なのが集まらないんだ。柏女と我孫子東って、学力レベルもアクセスもそんな変わらないらしいからね、とはいえ私立と公立だけど」

「なんか、特徴はあるんですか?」


 二年生の、かじはなが尋ねた。


「うん。なんかね、弱小は弱小なんだけど、ムクドリだかなんだかいうのが五月になってから遅れて入部したらしくて、これがまた一年生だというのに相当に上手らしい。予選はリーグ形式だけどたった三試合しかないから、絶対に取りこぼせない相手。それには、このムクドリをどう抑えるかが大事になってくる。ムクドリの個人技で運悪く先制でもされたら、死に物狂いで守り切られてしまうかも知れないし」

「すみません先輩、それもしかして、ムクドリじゃなくて、むくしまじゃないですか?」


 かなめが右手を上げながら、尋ねた。


「ああ、そうかも。なんだか、そんな気もしてきた。ムクは絶対、いや多分間違いないんだけど」

「そうですか。分かりました」

「なに、カナ、有名人なの? ムクって」

「いえ。聞いたことがある気がしただけで。話の腰を折ってすみませんでした、続けて下さい」


 軽く頭を下げる久慈要。


 彼女の表情の微妙な変化を、裕子は見逃さなかった。

 もともと彼女は陽気な方ではないが、淡々としているように見えるだけで暗いというわけでもない。

 それがなんだかいまの彼女は、胸をきゅうっと締め付けられているような、どんよりとした雲の中にいるかのような、そんな表情になっていた。

 わずかな変化であるとはいえ。


     9

 大声を上げて走り回る男子たち。


 アイドルの話題や、おしゃれなお店、憧れの先輩などの話に花を咲かせている女子たち。


 もちろん寡黙なまま輪に加わらない生徒もいるが、全体として、教室はそんな喧騒の中に包まれている。


 四時限を目前とした、休み時間中である。


 後ろのドアから、たけなおが入って来た。

 中学からの友達である隣のクラスのなかように、貸していたノートを返して貰い、戻ってきたところだ。


 やまひでと仲間たちが群がって喋っていたが、直子が近付いて来るのに気が付くと、みないきなり口を閉ざし、静かになった。


 直子は、ちょっと身を縮こまらせて、彼女らの横を通り過ぎる。


 だん、と山田秀美は机を叩いた。


 直子は、びくりと肩を震わせた。

 そーっと、通り過ぎた。


 そんなに根に持たなくてもいいのになあ。


 直子は心の中で文句をいう。

 自席に戻り、返してもらったノートを机の下にしまうと、すぐに立ち上がり、西にしむらの席へと向かった。


 この高校に入り、このクラスになり、もう三ヶ月。

 教室内には、大小様々な仲良しグループが出来ている。


 奈々にも、好意的に接してくれる何人かのクラスメートが出来た。彼女らは他の子とも交流があるので、常にべったりというわけではないが、それでもよく休み時間などに奈々を囲んで話をしている。

 ちょうどいまもそうであった。


「なあに、なんの話してんの?」


 直子は輪の中に入った。


HRホームルームの宿題のこと。あたし、すっかり忘れてて、さっきの英語の時間に慌てて書いたから、支離滅裂な感じになっちゃってさあ」


 たかが答えた。


「ね、オシリメツレツってなに?」


 そういうと、奈々は首を傾げながら、どういう思考回路によるものか餌をたっぷり詰め込んだハムスターのようにほっぺたを限界まで膨らませた。


「オシリじゃない。シリメツレツ。オはつかない。それだけで意味全く違う。支離滅裂ってのは、目茶苦茶ってこと」


 高田佐智子が答えた。目茶苦茶、の意味は通じるだろうか、といった顔で。


「それあたしだあ。バカだから」


 と、奈々は大声で笑い出した。

 通じたようだ。


「思う通り正直に書けばいいだけなんだから、目茶苦茶もなにもないって」


 フォローする直子。もともと奈々は、なにも気にしていないというのに。


 チャイムが鳴って、四時限目の開始時刻になった。

 五秒も経たないうちに、前のドアから、クラス担任のもりおか先生が入って来た。


 HRの時間が始まった。

 四月から先週まではこの時間を用いて、主に学校生活についての話し合いをしてきたのだが、本日と来週は特別授業で、内容は「夢を語る」である。

 宿題として書かせた、夢について語った作文を、生徒一人一人に読んで貰うのだ。


 廊下側一番前の席、とうよしひろからスタートだ。


「僕の夢。一年四組、佐藤吉弘。僕の夢は、ラーメン屋さんになることです。なぜなら僕は、ラーメンを食べることが大好きだからです。朝からラーメンでも平気です」


 どっと笑いが起きた。

 世界に自分のラーメンを広めたい、生きてるうちに宇宙旅行が出来る時代が来たならば宇宙で最初のラーメン屋さんになりたい、宇宙人にも食べさせたい、と壮大な夢を語り終えると、次は後ろの席のまつざきなおの番になった。


「僕の夢。小松崎直也」


 一人、また一人、順々に夢を語っていき、やがて山田秀美の番になった。


 しかし、彼女は宿題をやってきていなかった。

 それどころか、来週も続きをやるからそれまでに書いてこいという先生の命令も拒否。「夢ないから」、というのが理由だそうだ。「夢がないことはないだろう」「趣味はないのか」「将来どうするつもりなんだ」など、作文を読むかわりに、先生からの質問に答えることだけで彼女の番は終ってしまった。答えるもなにも「別に」と「ない」しか口にしなかったのだが。


 さらに順番が進んで、武田直子の番が来た。

 立ち上がり、両手に原稿用紙を広げ、読みはじめた。


「わたしの夢。一年四組。武田直子。夢を語るというと、なりたい職業をいうことが多いと思うけれど、わたしには、特になりたい職業というのはない。大人になって、どんな職につくか分からないけど、または社会に出る前に結婚してしまって職にはつかないかも知れないけど、どんな場合であれ必ずなにかしらの出会いというものはあるわけで、友達やら、なにかしらの付き合いは必ずあるわけで、そうして、人生で付き合っていくことになる人たちとの出会いを大切に、一年、一日、一分、一秒を生きていられたらいいと思う。そんな一生を送りたいということが、わたしの夢です。なんか、他の人よりずっと短くなってしまいましたけど、以上です」


 直子は腰を下ろした。


 さらに順番は進み、そして、西村奈々の番になった。

 奈々は原稿用紙を広げた。


「わたしの夢! 一年四組、にしむあなな!」


 隣の教室にも聞こえそうな、大きな声を出した。


「立って読みなさい」


 先生の注意を受け、奈々は立ち上がった。


「どこまで読んだっけ。そうだ、名前を読んだとこだ。ええと、夢についてということなので、わたしはさいしょ、夜みる夢のことかと思い、なんてかいたらいいのか分からず、お母さんに聞いちゃいました。お母さんは、その学校の宿題の夢というのは夜の夢のことじゃないよといいました。わたしは、じゃあどういう夢なのさと聞きました。ぷんぷーんといいました。昼みる夢のことなのか朝みる夢のことなのか分からなかったからです。お母さんはいうのです。奈々がこうなれたらいいなと思って頑張りたくなるゆうな、それが夢だよと。それが夢なら夜みていたのはなんなのかと思いましたが、むずかしいこと考えるのやめました。むずかしいこと考えて気お失ってしまったこともあるからです。頭の中の、なんとかちゅうすうやがおかしいんだそうです。だから、なんになりたいかだけ考えるのが簡単なのです。でも、わたしは、なんになりたいというのがありません。バカだからだと思います。普通のことすゆのもできなくて変なことぶっかりしてしまうので、なにになりたいというのはわたしに関係ないことなのです。お母さんにそう話したら、そんなことゆってはいけないといわれました。なにになりたいか考えてごらんといわれました。でも考えるしつようないです。なんにもあるわけないです。施設の卒業生たちみたく、きっと工場で働くだけです。そう思いましたが、でもそおゆうとお母さんはとっても悲しそうな顔をするに決まっているので、ゆいませんでした。なにになりたいかだけしか夢はないの、わたひは聞きました。お母さんは、それじゃあ、なにが幸せか考えてみなさいといいました。幸せっていう言葉はむずかしいことなんですけど、この前、ブトサル部で幸せの話をしていて、どうなったら嬉しいことなのか、ということなんだと知りました。なら、夢というのは、わたしがどうなら嬉しいかということなんだです。わたしは思いました。ブトサルでわたしがいったのは、『カレーのお肉にちょっとぶよっとしたとこあると、やったーって思う。歯磨きした後、お母さんに見て貰って磨き残しがなかった時。パイナップルの缶をちょっとずつちょっとずつ開けて、ほとんどギザギザにならなかった時。筆箱に指を入れて、黄色い鉛筆取れって思って本当に黄色い鉛筆取った時。あとね、ここでこんなふうに喋ってる時』。とゆうことなので、カレーにぶよっと肉入ってて欲しいのが夢です、お母さんに迷惑かけず歯磨きするの夢です、ブトサルでしゃべったりボル蹴ったりしていたいのも夢です。こうなりたいというのが夢とゆうなら、わたしの夢はありません。全部がもう、そうなっているからです。全部がシャーセで、だからわたしは嬉しいからです。こわでおしまりです」


 普段からニコニコとしている奈々であるが、読み終えた後、普段以上に唇の両端をつり上げて、実に満足気な、にんまりとした表情を作った。

 こんなに一杯の文章を自分で書いて自分で読み上げたのが、初めてだったからだろう。


 と、廊下の窓が突然、勢いよく開いた。


「奈々、いい内容じゃん。凄い凄い」


 拍手の音。

 体操着姿のやまゆうであった。

 体育の帰りにたまたま通りかかり、奈々の声が聞こえてきたのでつい耳を傾けて聞き入ってしまった、というところだろう。


「おい山野、お前三年生だろ、一年生の授業に割り込んでくるなよ」


 森岡先生は、去年は裕子の担任だったので、よく知った仲なのである。


「先生、人類にね、一年も三年もないんですよ」


 裕子はチッチっと立てた人差し指を左右に振りながら、悟ったようなことをいった。


「というかお前、生涯一年生だよな。小学生の」


 どっと笑いが起きた。


「笑うな一年ども!」


 からかわれた裕子は、顔を真っ赤にし声を裏返らせて叫ぶと、ぴしゃりと窓を閉めた。

 結局のところ、人類には一年も三年もあるようである。


 ほどなくして、授業終了を告げるチャイムが鳴った。

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