第五章 雨ざーざー

     1

、ふにゃふにゃしないの!」


 たけあきらの怒声が飛んだ。


「じゃあさじゃあさカチコチ走りゃいいのかな」


 いうが早いか西にしむらは、ふにゃふにゃとふざけたような走り方を固い動きでやり始めた。


 わらみなみ高校女子フットサル部の練習風景である。まだ開始したばかりで、ウオーミングアップで体育館の中を壁沿いにジョギングしているところだ。


 普段は、ジョギングだけは屋外、学校を出て公道を走るのだが、今日は雨天のため室内だ。おそらくは、明日も。

 季節はすっかり梅雨であり、週間天気予報もそれにふさわしく、しばらく傘マークが続いているためである。


「あたし梅雨きらーい」


 かじはなが唐突にぼやき始めた。

 副部長様の雷を浴びないようにジョギングの姿勢自体はしっかりととっているが、顔だけみると、見るからに不快そうな、ちょっとだらけた表情だ。


「そう? あたしは嫌いじゃあないな。相手をイラつかせるには最適だし」


 花香と並走しているいくやまさとの言葉だ。


「そんなこといって、いつも自分が相手にイライラさせられているくせに」

「いつあたしがイライラさせられたよ!」

「いま」

「あ……」


 二人は顔を見合わせ、笑った。


「でもまあ、室内競技でよかった。こんな天気の時はさ」

「そうだね」


 里子は頷いた。


 ほどなくしてジョギングは終了、続いてはストレッチだ。

 しっかりと身体を中から温めて、筋肉をほぐすと、いよいよボールを使った練習の開始だ。


 全体の指揮をとっているのは、武田晶である。

 本来は、部長であるやまゆうの役割なのだが、今日はというべきか今日もというべきか、おそらくこれからもというべきか、とにかくこの時間にまだ来ていないのだから副部長がやるしかない。


 なんでも今日は、教室に残されて、忘れてきた宿題をやらされているとの話だ。

 明日はテストの点数で呼び出されるのか、はたまた生活態度で小言を受けるのか。


「グラビティボンバぁ」

「ギャラクティカパンチぃ。おりゃあ」


 なつつじが、小突き合いをしている。爆弾戦士ゲキの必殺技の名前だ。

 入部からまだ数ヶ月しか経っていないというのに、裕子イズムのこの浸透ぶり。


 本人来てないってのにさあ、と小さな声で、晶はため息をついた。


「夏樹、デン、ふざけてないでちゃんとやりな!」

「はいっ! すんません!」


 佐奈夏樹は背筋をぴんと伸ばし、謝った。


 演技でもとりあえずしっかり謝っておけばあのジャガイモ顔はなにもいってこないから、という某先輩からの入れ知恵か。


「いたっ!」


 鋭い悲鳴の声が上がった。

 かなめの顔面に、至近距離からのボールが直撃したのだ。


「大丈夫? ごめんね」


 頭を下げて謝るづき。別に彼女が当てたわけではないのだが。


「はい。大丈夫です」


 久慈要は、ほっぺたをさすった。

 ちょっと赤くなっている。


「ごめんねカナちん」


 西にしむらも謝った。も、というか、彼女が張本人であるが。


「気にしないで。なんでもないから。あたしこそ悪かった」


 久慈要が、「もう少し強く」といったところ、バチンときてしまったのだ。


 そのいいかただと、奈々は強く蹴ればいいのか弱く蹴ればいいのかが分からない。結果、本人に気持ちの良い方を選ぶ。つまり全力で、強く蹴ってしまう。

 それが久慈要の顔面を直撃したというわけである。


「奈々、分からなかったら弱く蹴って。弱すぎて相手に届かなくても、自分で追いかけてもう一度弱く蹴ればいいんだから。何回でも。試しに、やってみようか」


 九頭葉月はそう提案すると、奈々と弱くボールを蹴る練習を始めた。


 なかなか上手なドリブルを見せる奈々。

 奈々にとっては、それはドリブルではなく弱いパスなのだが。


「ぱすぱすぱすぱす」


 と、楽しげにボールを追う。


「さすが、葉月先輩だ」


 久慈要は、あらためて葉月の指導力に感心していた。


「ほんと、凄いよね」


 いつの間にか、そばに武田直子が立っていた。


「凄いね。あたしも、短気ではないけど、根気があるって方ではないんだけど、葉月先輩はとにかく根気があるし、自分の感情で怒ったりイライラを見せること絶対にないものね」


 久慈要、葉月をベタ褒めである。

 王子先輩もよくいっている。技術力は他の部員と比べて秀でているわけではないが、周囲を生かす、周囲に溶け込む能力は一番かも、と。


「ほんと葉月先輩が好きだね、カナちんは」

「みんなが先生だけど、特に葉月先輩はね。あたしがいたクラブではさ、自己を主張することばかり教わってきたんだけど、そういうの、あたし苦手だったんだよね。ナオと出会ってこの部に入って、自己主張しないことでチームに貢献する選手もいるんだということを知って、なんともいえない嬉しさを感じて、それからついつい注目しちゃうんだよね」

「じゃ、カナちんはこの部に入って正解だったんだ」

「まあ、そういうこと、なのかな」


 などと二人が話していると、


「奈々、危ない!」


 武田晶の、悲鳴にも似た叫び声。

 葉月らが見上げると、天井から、ボールがすーっと落下してくる。


 ゴレイロ練習で、投げたボールがすっぽ抜けたか、はたまた蹴り損ねたのか、高く遠く飛ばしてしまったようだ。


 久慈要は、西村奈々を守るようにボール落下の軌道上に身体を入れると、胸でトラップ、落ちたところを足の甲で一度浮かすと、逆の足で強く蹴った。


 孤を描いて、来た時とほとんど同じような弾道で戻っていくボール。


 ゴレイロ練習をしているながが、両腕を上げてキャッチした。


「うお、すっげー」


 三水の隣で、なしもとさきが感嘆の声を上げた。


「さっきからミミ、全然動いてなかったよな。凄い精度だな、カナのキック」

「すっげーじゃないですよ。そもそも、あんなとこへボール蹴っ飛ばさないでくださいよ、咲先輩。コントロールミスどこの話じゃないですよ」


 などと文句をいいながら、三水は受け取ったボールでリフティングを始めていた。

 足の甲で右、左、右、と落とさず上手に蹴り上げている。


「いいんだよ。ゴレイロなんて、要は失点しなきゃいいんだから。手を使っていいんだし」


 足元の苦手な咲の、自己暗示の言葉だろうか。しかし、


「なんでお前、暇さえあればリフティングすんだよ。ゴレイロのくせにさ!」


 自己暗示の効果もなく、イライラしてしまう咲であった。


「蹴るのがちょっと上手だからって、いちいちいちいち見せつけやがって」

「咲、つべこべうるさい! お前がその分練習しろ! なんださっきのキックは!」

「へいへい、どうせあたしは蹴るのがヘタクソですよ」


 武田晶に怒鳴られて、不貞腐れる咲であった。


「王子がくるまであたし全体指揮だから、頼むよ咲。……はい、じゃあ次のメニューに進んで!」


 晶はFPたちの方に戻りながら、手を打ち叫んだ。


「それじゃあ奈々は……里子が見てやってくれるかな」

「了解」


 生山里子は、西村奈々、それとむらかみふみほしいくと、四人組を作った。


 と、ここで余談であるが、ここ最近、奈々と仲良くなってきたのが村上史子である。


 以前の史子は色々と不満を抱え、部長に苦情をいったこともある。

 だが、奈々が奈々なりに部に慣れてきたのと、史子自身の慣れ、奈々がいてもほとんど問題のない練習メニューを部長が構築したこと、などにより奈々へのわだかまりがだいぶほぐれ、一度ほぐれさえすれば、元来史子は優しい性格なので奈々と打ち解けるのにそれほど時間はかからなかった。


 四人組の練習であるが、まずは単純な、みんなで四角を作ってのパス回し。


 続いて、一人がボールの奪い役になって、残る三人は、奪われないようにパスを出す練習。


「カナ、しっかり見てパスしな!」

「はい」


 久慈要は抜群に上手な技術を持った一年生であるが、生山里子はこのように、まったく構わうことなく思うところがあれば注意する。


 技術的な部分についてとうとうと、経験からの持論を並べたてて指導したこともあるくらいだ。


 そうした知識は久慈要の方が遥かにあり、経験も久慈要の方が遥かに長いのだが、そんなことは里子の知ったことではない。自分は年上だから、なにをいっても構わないのだ。


 なお、里子がヘマした時は、それは相手のせいである。相手が受け損ね蹴り損ねするのが悪いのだ。異論は受けない。


 来年に本当に部長になったら、山野裕子の比ではない暴君になるのではないか。

 と思われている里子であるが、西村奈々の前ではどうも調子を狂わされてしまう。


「と、強い!」


 みんなでゆっくり転がしていたのに、奈々が突然、とんでもない速さで足を振り抜いたのだ。


 里子の頭上を抜けようとするボールであったが、里子は素晴らしい反射神経を見せ、両手でキャッチした。


「強く蹴るなっていったろ、もう」


 説教すべきかどうか迷う里子であったが、次の瞬間、里子の意識は奈々ではなく、その向こうへと向けられていた。


 また、来てる……

 あいつら。


 窓から、黒服の男が二人、こちらを覗き見ていたのである。

 以前、追い掛けようとした里子に気付かれて、逃げられてしまったことがあり、そのためか、今日はより目立たないようにそっと小さく顔を覗かせている。


「ちょっと、三人で練習してて」


 村上史子たちに小声でいうと里子は、男たちのいる通路側ではなく反対側の壁へと向かい、剣道部、バスケットボール部の練習している中を壁伝いに進んでいく。

 遠い側のドアから、通路に出ようという算段だ。


 しかし、里子の目論見は気付かれてしまったようだ。

 横目で彼らに注意を向けていたところ、その姿が、窓からすっと消えたのだ。


 結局、以前のようにまた慌てて全力で走り出す里子。

 男子たちがバスケットボールのゲームをしているコートのど真ん中を、苦情もものともせずに突き抜けた。


 出入り口から、通路へと飛び出した。


 左を向くと、男らが、走って角を曲がるのが見えた。


 舌打ちし、すぐ後を追って走った。

 角を曲がった。


 しかし、男たちの姿はなかった。


 弱い雨の降る中、里子は室内履きのまま通路を外れて地面へと降り、しばらく周辺を探したが、男たちの姿はどこにも見当たらなかった。


「また逃げられたか……畜生!」


 足元の小石を蹴飛ばした。

 清掃用具のロッカーが開いており、石はガンと音を立ててその開いた扉の内側に当たった。


 雨の中、いつまでもこうしていても仕方ない。

 里子は諦め、体育館に戻っていった。


     2

 ロッカーの扉が、ぎいと音を立て、動いた。

 開いた扉と体育館の壁の間に、先ほどの二人の男が立っていた。


 逃げる方向は見られていたのだ。

 ロッカーに隠れたならば絶対に怪しまれ、開けられる。

 そう考えて、わざと扉を開けてその裏に隠れたのであろう。


 二人とも、息を切らせ、肩を大きく上下させている。


「乱暴だな、あの女の子。石なんか蹴って。頭に当たるとこだったよ」

「なんでこんなことしなきゃならないのか。ねえはなおかさん、ばかばかしいねえ」


 大きな呼吸の合間に、そんな愚痴をこぼしている。

 ロッカーの扉を閉め、服の埃を払い、二人は歩き出そうとした。


 彼らの前に、やまゆうが立っていた。


「あのさあ、なんなの、おっさんたち?」


     3

 つい先ほどまでしとしとと降っていた雨が、いつの間にか梅雨とは思えないほどの大粒になっていた。


 やまゆうは、職員用玄関の前で立ち尽くしている。

 あとほんの十歩で屋根の下だというのに、雨に打たれるがままになっている。


 すっかり伸びて女の子らしくなっている前髪だが、額にびっちりと張り付いてしまっている。

 目が片方完全に覆われてしまっているのに、かきあげようともしない。


 雨粒を避けようと思うことも、視界を塞ぐ前髪をどけようと思うことも、なんの思考すらも働かない、そんな精神状態なのだ。


 どれくらいの時間、立っていただろうか。

 ガラス戸が開き、二人の黒スーツの男が出てきた。


「報告、してきたんだ」


 裕子は、小さく口を開き、力ない声を出した。


「それが、仕事だからね」


 ひとりが、手にした傘を広げながら、答えた。


 彼らは、文部科学省から派遣されている、いわゆる監査係だ。


 わらみなみ高校は試験的に知的障害者の受け入れを行なっている。

 彼らは、教育機関に受け入れられた障害者を観察し、報告するのが仕事だ。


 佐原南に受け入れられた障害者の一人というのが、西にしむらである。

 対象者の本来の様子を知るために、隠れるように調査をしていたのだ。

 絶対そうしなければならないということはないが、おおっぴらにやらないほうが望ましいだろう、と彼らの上司の判断で。


 学校側への報告内容がある程度まとまったため、校長へ話をしてきたのである。


 なんのための観察なのか、単純に説明するならば、その受け入れ先で学ぶのが適切か否かということである。

 監査員の調査による採点、教師による採点、テストの結果などを基にした文部科学省による採点、主にこの三点により決定される。


 そのような話を、裕子は先ほど、彼らから聞いた。

 しかし、どんな饒舌に正当性を語られようとも裕子にとって納得出来るものではなかった。


 ずぶ濡れの裕子は、一人に歩み寄ると、肩を掴んだ。


「ふざけんなよ。なにが、採点だよ。色々なのがいるから、人間なんだろ」

「痛いよ、離しなさい」


 振りほどこうとするが、裕子が細い腕によらず怪力なのかそれとも男が非力なのか分からないが、なかなか振りほどくことが出来ない。


 だが、横から伸びてきた大きな手が、裕子の腕を掴み、男の肩から引き離した。

 それはゴリ先生こと、フットサル部顧問のたかむらこうだい先生の手であった。


 黒スーツの男たちは、小さく頭を下げると、足早に去っていった。


「先生も、知ってんだよね。あいつら、奈々のこと調べて、学校を辞めさせようとしているって」


 裕子の問いに、ゴリ先生は頷いた。


「酷いよ、そんなの」


 裕子はきっと睨みつけた。


「学校に簡単に入れておいて、辞めさせるための調査をこそこそとするなんて」

「辞めさせる調査というわけじゃない。辞めると決まったわけじゃない」

「でも結局、そういうことじゃんか。色んな点数つけでダメならポイなんだろ。あたしだって勉強ついてけなくて卒業出来るかどうか分からないんだ。奈々は近くだからとりあえずここに入っただけだし、学力で考えるなら厳しいでしょ」

「知的障害というハンデを考えれば、普通科のどんな学校だって厳しいだろ。それに、お前のいう通りだとしてもだ、試験的にこういうことを行なっていくのは、今後、知的障害を持つ多くの人が幸せになるために、役立つことなんだ」

「奈々を、ひとりを、幸せに出来ないくせに」

「ひとりを幸せにするためだ。それに、西村が幸か不幸かを決めるのは、お前じゃない。何様だ、お前は」

「分かってるよ、そんなこと。でも、あたしには我慢出来ない。だって奈々、どんな時だって幸せだって思うよ。どんな辛い目にあっても、幸せだって笑ってるよ。それ凄い、偉いと思う。この前だってさ、幸せじゃないって感じるのも生きていて幸せだからそう感じることが出来るんだから、だから幸せじゃないことなんかない。そんなこと、いったんだよ。でもさあ、なんで高校生の女の子がさ、そんな自分を押し殺すような思考して幸せを感じなきゃならないんだよ。そんなの、おかしいじゃんか。見ていて辛いじゃんか」


     4

「話があります」


 ゆうはノックもなしに校長室のドアを勢いよく開いた。


 校長は、自分の席で書類に目を通しているところだった。

 バケツの水を何杯もかぶったかのような、裕子のずぶ濡れ具合に、校長は唖然としてしまってなにもいえないでいる。


 裕子は許可も得ず、中に入った。


「三年二組、山野裕子です。西にしむらのいるフットサル部の、部長です」

「ああ、よく知ってるよ」


 校長は、気を持ち直して、低い声で威厳を取り繕った。

 山野裕子は、この学校の教員ならば誰でも知っている。不良生徒ではないのだが、成績のことや遅刻のこと、うるさいくらいに元気なことから、非常に目立つ存在であるから。

 ましてや、裕子本人がいった通り西村奈々の所属している部活の部長ともなれば、なおのこと校長が知らないはずがない。


「奈々、ここを辞めさせるんですか?」


 回り道をせず、直接的に疑問を口にした。


「現状では、そうなる。別の学校のほうが、相応しいとの判断が出た」


 校長は、隠さなかった。


「どういう判断だよ」


 校長相手に、タメ口になっていた。


「成績だけではない。いろいろな面を検討した上での、学校生活を送れるかどうかの総合的な判断だ」

「あのさ、転校、辞めさせたいんだけど。どうすればいいかな」

「わたしの一存では、どうしようもない」


 いさせ続けることで学校の平均学力下がるのが嫌なだけだろ。

 ただ面倒なだけだろ。


 裕子は、心の中でそう吐き捨てた。


「本当に、どうしようもないの?」

「一介の校長などに、ああいった特殊な生徒をどうこうする権利なんかあるわけないだろう」


 よく分からないが、おそらくその通りなのだろう。

 裕子は、少し沈黙した。

 数秒後、また口を開いた。


「転校って、いつ?」

「今月いっぱいまでここにいて、七月からだ」

「ほんと奈々のこと考えてないよな。バカじゃねーの? 友達できる前に夏休みになってリセットされちまう」

「わたしにいわれても困る」

「せめて、もう少し転校を待ってもらうこと、出来ないかな? 来月にね、フットサルの大会があるんだよ。そこで、思い出を作ってあげたいんだ」


 学校に入りました辞めましたでは、そもそもなんのために入ったのか。先生たちは試験的になどとかっこつけたことをいうけど、生徒側には関係のない話だ。


「入学したからにはなにか残したい、残させてあげたい、とそういう気持ちは分かるよ。しかし、君個人の要望としては、聞くことは出来ない。保護者がそう考えているのであれば、委員会にかけあってみることは可能だが」


 その最後の言葉に裕子は反応し、校長の胸元につかみ掛かった。


「ほんと? 絶対だな? 絶対、かけあえよ! 嘘付いたらぶっ飛ばすかんな」


 裕子は怒鳴るように声を張り上げた。


「あくまで、かけあうだけだ。結果は知らん。苦しいよ」

「いいよ、それでも。ありがとね、先生」


 裕子は胸倉を掴んだ手を離し、踵を返すと、校長室を飛び出した。


 床一面、浸水したかのような酷い有様に、校長は、またも唖然とするしかなかった。

 校長室だけではない。玄関まで続く廊下、まるで台風が大暴れしたかのように水浸しであった。


 その小さな台風は北々西へ進路を変え、フットサル部の練習している、奈々の待っている体育館へと向かっていった。

 しかし、部活ももう終了時間を過ぎてしまっている。もう、誰もいないかも知れない。


 奈々は、もう晶か直子と一緒に帰ってしまったかな。

 それならそれで、こちらから奈々の家に行くだけだ。

 奈々のお母さんに、転校のこと、相談しないと。


 裕子は水飛沫を撒き散らしながら、走り始めた。


「久々に、部活休んじゃったな」


 一年生の頃に、O157にやられて寝込んで以来だ。

 部のみんなに、迷惑かけちゃったな。

 無断で、みんな心配したかな。

 それとも、居残りが長引いてとうとう来なかったかくらいにしか思ってないかな。


 などと心の中に呟く裕子であるが、フットサル部、いや奈々たちに、それどころではない危機が迫っていること。

 神ならぬ身で知るはずもなかった。


 雨は降り続く。


     5

「王子先輩、結局最後まで来なかったね」


 たけなおは、北校舎の裏玄関そばの煉瓦の花壇に腰を下ろしている。膝の上に肘を乗せ、両の手のひらの上にあごを乗せている。


 制服姿だ。

 もう部活練習の後片付けもとっくに終わり、解散している。


 直子の隣には、西にしむらが座っている。


 ここにいるのは、この二人だけだ。

 少し離れたところにプレハブがあり、その中にあるフットサル部の部室には、まだ直子の姉、たけあきらが残って何か作業をしているはずだが。


 時折奈々がふらりと立ち上がっては、地面の蟻の巣を探し始める。

 ふらふらと、屋根のないところに進んでしまうため、その都度直子が引き戻している。


「雨に濡れちゃうでしょ。こんな時に、外に蟻さんなんかいないよ」


 何度目かの、同じ台詞。


「でも、逃げ遅れちゃってたらかわいそう。雨であっぷあっぷしちゃう」


 奈々も、その都度同じ言葉を返す。


 普段は、山野裕子が奈々を連れて一緒に帰っている。

 今日は直子が送っていってあげてもいいのだが、先輩の行方が分からないので、勝手なことをしていいのか決断しかねているところだ。


 いつまでも現れないようなら、王子先輩は放っておいて姉と一緒に奈々を連れて帰ってしまうつもりだが。


「なにやってんだろうねえ、先輩」


 先生に尋ねたところ、居残り勉強はとっくに終わったって話だし。いくら先輩でも、まさかカバン置いて帰っちゃうこともないだろうし。


「にゃにやってんだろねえ、先輩」


 奈々は額にシワを寄せながら、直子の言葉を真似した。


「え、あたしそんなシワの寄った渋い顔してる? やだ、やっぱりなんか化粧品塗った方がいいのかな。まだ高校生なんていってられない」


 一、二、と顔面体操を始める直子。

 面白がって奈々も真似をする。


「こんなとこにいやがったよ」


 聞き覚えのある声に、直子は振り向いた。


 やまひで。それと、いでけいあんどうまさの姿があった。

 それだけでなく、見たことのない他校の制服を着た、知らない顔の男子が二人。


 直子と奈々は、その五人に囲まれていた。


「ちょっとさ、来てくんない?」


 山田秀美は、顔を直子の眼前へと近付けた。


 直子はただならぬものを感じ、ごくりと唾を飲んだ。

 小出恵子の手元から、なにかカチカチという音が聞こえる。多分、カッターナイフを伸び縮みさせている音だ。


「人、待ってるんで」


 直子は、胸の奥から、なんとか言葉を絞り出した。


「うん。それそっちの事情でしょ。あたしらにはさあ、そんなことどうでもいいことだからさ。ちょっとさ、来なよ。話したいことがあるんだ。大丈夫。そんな、たいしたことじゃないからさ」


 山田秀美が、直子へより顔を近づけた。

 おでこがぶつかりそうなくらいに。


「たいしたことないのなら、ここで聞きます」

「お前ふざけたこといってると殺すぞ。秀美が話があるっていってるだけなんだから、来りゃいいだろ!」


 男子の一人が、山田秀美を押しのけて、直子の胸倉を掴んだ。


「でも……」

「でもじゃねえんだよ」


 直子は、恐怖のあまり、それ以上なにをいうことも出来なかった。


「いいか、叫んだら殺すぞ」


 男子に掴まれたまま、直子は引きずられるように歩き出した。


「お前も来い」


 小出恵子に手招きされ、後を追うように歩き出す奈々。

 奈々の顔にはまったく恐怖の色はなく、むしろなにが起こるのか興味しんしんといった様子であった。


     6

 二人が連れて来られたのは、運動部の用具室だ。


「話って、なんですか」


 直子の口調は、すっかり敬語になってしまっている。

 同じクラス同士だというのに。


「うん。簡単なことなんだけどね。……お前さ、あれからずっと、調子に乗ってたろ」


 あれから、というのは、二ヶ月前、直子と奈々が、山田秀美らに追い掛けられた時のことだろう。

 それから、全く会話をしていないから、おそらく間違いない。

 でも……


「そんな、調子になんて、乗ってない」


 直子は、誤魔化すような曖昧な笑みを浮かべようとした。

 これまで嫌なこと、大変なこと、すべてそうしてうやむやにしてきた。逃げてきた。

 今回も、それでなんとかなる。


 しかし、容赦のない平手打ちが、すべてを吹き飛ばした。


 直子は、打たれた自分の頬を押さえた。


 反対側の頬に、もう一発、受けた。


 山田秀美は殴りつけた姿勢のままで、にっと笑った。


「あたしさあ、お前みたいなの、大嫌いなんだよね」


 その言葉を受けて、直子はなにもいえなくなってしまっていた。

 演技で微笑むことすら、場を誤魔化そうと試みることすら出来なくなっていた。


「ねえ、ねえ、なんで殴るの? なんで殴るの? バカといってくれるのうれしいけどナオちん殴ったらダメだよ!」


 西村奈々が、山田秀美に詰め寄った。


「うるせえんだよ、脳なしの激バカ! 死ね!」


 山田秀美はそう叫ぶと、西村奈々の頬も張り、さらには胸を激しく突き飛ばした。

 奈々は後ろによろけて、壁に背中を強打した。


 と、その時であった。

 ぱん、と音が鳴り響いた。


 静寂の中で、山田秀美は呆然とした顔で、自分の頬を押さえている。


 直子は、震える瞳で、自分自身の手のひらを見つめていた。


 生まれて初めてであった。

 人を、殴ってしまったこと。


 殴ろうと思って殴ったわけじゃない。

 奈々が殴られたのを見て、反射的に手が動いてしまったのだ。


 直子は、ゆっくりと手を下ろし、ゆっくりと顔を上げると、山田秀美の顔を見た。


 山田秀美の顔が、呆然とした表情から、喜悦の笑みへと変わっていくところであった。


「調子に、乗っちゃったねえ」

「だって、そっちが」


 弁解しようとする直子。

 山田秀美は、奇声を上げて素早く踏み込むと、なんの躊躇も見せず直子の顔面を正面から拳で殴りつけていた。

 次の瞬間には、直子の腹に山田秀美の膝がめり込んでいた。

 瞬時に込み上げる嘔吐感に前のめりになったところ、再び顔面を殴られた。

 床に膝をつく直子を、山田秀美はなおも執拗に蹴り続けた。


 直子は床に転がった。

 抵抗する力もなくして、ただ倒れている直子を、山田秀美はなおも蹴り続けた。胸を、脇腹を、顔を、腿を、蹴り続けた。


 直子がぐったりとした完全に抵抗出来ない状態になっていることを確認すると、山田秀美は嬉しそうに叫んだ。


「お待たせしました! レイプショーの始まりでーす!」


 その声を合図に、男子がひとり、倒れている直子の上に馬乗りになった。


「お前、下から脱がせ」


 もうひとりの男子に命令する。

 いわれた方は、早速スカートの中に手を入れようとする。


 もぞもぞという不快な感触に、朦朧とした意識から覚めた直子は、自分がなにをされようとしているか気付き、甲高い悲鳴を上げ、必死に暴れた。


「うるせえんだよ、バカ」


 馬乗りになった男子が、直子の顔を拳で殴りつけた。


 直子は、なおも暴れ続ける。

 当たり前だ。殴られたからって、おとなしく出来るわけがない。


 小出恵子と安東正江も、直子の両足をそれぞれ押さえ付けた。そして、それぞれ横から引っ張って、広げようとする。げらげらと、楽しげに笑いながら。


 男子はもう一度直子の顔面を殴ると、手で口をふさいだ。


「おい、足を開かせんのは後だ! パンツ下ろせねえだろ。考えろ、バカ! いてっ!」


 男子が顔をしかめた。直子が、自分の口をふさごうとしているその手の、指を思い切り噛んだのだ。


「ふざけんな、てめえ!」


 男子は、直子の顔に拳を振り下ろした。

 二発、三発と、容赦なく。


「はーい、脱がしちゃうよー」


 もう一人の男子が、あらためて直子のスカートに手を入れ、下着に手をかけた。


「やだっ!」


 殴られようともなお身をよじらせて必死の抵抗を続ける直子であったが、四対一、しかも二人は男子、限界があった。


 ゆっくりと、下着がおろされていく。

 一気に剥ぎ取ってしまわないのは、獲物がじわじわと絶望感を味わうのを楽しんでいるのであろう。


 うわわああああん、と奈々が泣き出した。

 鼓膜をばりばりと震わせる大きな声が、用具室内を反響した。


「うるせえな! 秀美、そいつの口おさえとけ! こいつの後で、そいつもやってやっから」

「分かった」


 山田秀美は、西村奈々の身体を押さえ付け、片手で口をふさごうとする。


「いてっ」


 奈々が、先ほどの直子のように、山田秀美の指に噛み付いたのである。


 山田秀美は、奈々の身体を激しく押して、壁に叩きつけた。平手打ちで、頬を殴った。


「てめえ、黙ってろ!」


 しかし、奈々は黙らなかった。より、狂ったような大きな声で叫び出した。


「殺すぞてめえ!」


 と、山田秀美が奈々の胸倉を掴んで引き寄せた、その時である。

 扉を、どんどんと叩く音が聞こえた。


「奈々! ナオ! どうした?」


 やまゆうの声であった。

 外から扉を激しく叩き、ノブを回している。


 しかし、扉は開かない。

 内側から鍵をかけられる扉ではないが、その代わりにしんばり棒をしてあるのだ。


「続けなよ、もり。つうか、とっととぶち込んじまいな」


 山田秀美は、すぐに落ち着きを取り戻していた。


「あいつが扉をぶち破って入ってきたって構わないよ。こいつが、大好きな先輩に恥ずかしいところ見られるだけのことなんだから。まあ、これからぶち破られんのはドアじゃなくて別んとこだけどさ。絶対処女だよ、こいつ」


 山田秀美が下品な笑みを浮かべたその瞬間、窓ガラスが割れた。


 くだけちった破片が、室内にばらばらと落ちた。


 細い腕が、割れたガラスの穴からすっと伸びて、素早く鍵を開けた。


 窓が開いた。

 そこには、山野裕子の顔があった。

 どれだけ雨に打たれていたのか、全身はずぶ濡れ、髪の毛も頭皮にぴっちり張り付いている状態だ。


 男に馬乗りになられている直子、山田秀美に押さえ付けられている奈々。

 裕子は、一瞬で状況を理解したようであった。


「ブッ殺すぞ、てめえら!」

 

 叫ぶと同時に、窓枠に手をかけ、驚くべき身軽さで、一瞬のうちに室内へと入り込んでいた。

 裕子は着地と同時に足をぶんと振り、直子に馬乗りになっている男子、森田の頭を渾身の力で蹴飛ばした。フットサルで鍛えた脚力、森田はぎゃっと悲鳴をあげて、直子の上から転がり落ちた。


「秀美! このバカたれ!」


 窓枠から、裕子に続いてこの高校の制服姿、坊主頭の大柄な男子が入ってきた。

 山田秀美の兄、のりである。


あきら、誰か先生呼んできて!」


 裕子は窓の外を見て叫んだ。


「分かった」


 たけあきらの声。

 走り去る足音。


「ナオ、奈々、大丈夫?」


 裕子は呼びかけるが、しかし、返事はない。


 奈々は相変わらず狂ったように叫び続けている。

 直子は、完全に放心状態。呆然と天井を見上げているが、視線がうつろであった。


「あたしの可愛い後輩たちに、よくもやってくれたな」


 裕子は両手を組み、指を鳴らした。


「うるせえバカ!」


 森田でない方の男子が、立ち上がると、裕子に殴りかかった。

 裕子はその拳を紙一重で避けると、左ジャブ、右ストレート。兄から教えてもらったボクシングのコンビネーションをお見舞いした。


 顔面に強烈な打撃を受けてぐらりとよろける男子の、首根っこを掴むと軽々と持ち上げた。

 じたばたともがこうとする男子であるが、非力なのか、それとも裕子が細い腕によらず怪力なのか。男子は、まったく抵抗することが出来なかった。


「この、ヘナチン野郎!」


 あっさり投げ飛ばされて、先に倒れていた森田の上に崩れた。


「てめえは、ひとりでエロビデオでも見て粗末なもんぶっかいて処理してりゃいいんだよ!」


 下品な台詞を叫びながら、裕子は、陸上競技用のハードルを蹴飛ばした。

 幾つにも重なったうちの、一番先頭のハードルが、べきりと音がして板が割れてしまった。


 二人の男子は、「ひっ」と声を喉に詰まらせて、大慌てで起き上がると、扉のしんばりを外し、ほうほうの体で逃げ出してしまったのであった。


「なにやってんだよ、お前は!」


 山田則夫は妹を睨みつけ、怒鳴った。

 妹は、まったくひるむことなく、兄を睨み返した。


「お前がダサイから、あたしが舐められて恥かかされたんだよ!」


 兄は、学校中が震え上がる不良である。

 山田秀美は、入学して少し経つまでそう信じ、なにかにつけて吹聴していたのである。


「くっだらねええ!」


 裕子は絶叫した。

 すぐ横にある、カゴに入っているハンドボールを手に取り、床に叩きつけた。


 ばん、と音がして、ボールが破裂した。

 もともと脆くなっていたのかも知れないが、とにかく化け物じみた怪力に、山田秀美は唾を飲んだ。

 小出恵子はカッターナイフを落とし、安東正江はひっと呻いて腰を抜かしてしまった。


 裕子はさらに、ハンドボールの入っているカゴを蹴飛ばした。

 ガン、という音とともに、たったひと蹴りで金属製のカゴは大きく歪んでしまっていた。


「だせえのは、てめえの方だ!」


 裕子は、山田秀美を睨みつけた。

 しばし呆然とする山田秀美であったが、やがて気を取り直すと舌打ちし、睨み返した。


「関係ないだろ! お前には」


 それは単なる捨て台詞になった。

 山田秀美たちは、結局なにも出来ず、逃げ出すしかなかった。


 用具室内に残っているのは四人。

 山野裕子、山田則夫、武田直子、西村奈々。

 加害者の一人もいなくなった空間には、簡単にぬぐい切れるはずのないどんよりとした空気だけが残っていた。

 それは冷たく、粘液質な。


 直子はまだ、仰向けになったまま、うつろな視線で天井を眺めている。

 その目には、何も映っていないようにも見える。

 脳が自己防衛のために、己の意識を心の奥へと封じ込めているのだろう。


 奈々は直立不動のまま、硬直したままで、叫び声を張り上げ続けている。


 この異様な状況の中、やがて晶がゴリ先生を連れて戻ってきた。


「ナオ、大丈夫?」


 用具室に入るなり、晶は真っ先に妹へと近寄った。

 乱れたスカートを直してやる。

 男の力で顔を何度も何度も殴られたため、直子の顔は、頬や目の周りが赤黒くなっている。

 晶は、ぎゅっと唇を噛んだ。


「……ナオ」


 妹の名を呼んだ。

 反応がない。


 それでも晶は、何度も、何度も呼びかけ続けた。


 どれくらい呼び続けたろうか。

 直子の目に、少しづつ光が戻ってきた。


「お姉ちゃん」


 震える、小さな声で、姉の顔を見た。

 その目に、どんどん涙が溢れていた。


「ナオ……」


 晶の声もまた、震えていた。

 直子はゆっくりと上体を起こすと、不意に激しい勢いで姉へと強く抱きついた。


「お姉ちゃあん、怖かったよう」


 ぼろぼろと、涙がこぼれていた。


「大丈夫だから」


 晶は、改めて妹の顔を見た。


「どんだけ、殴られたんだ。かわいそうに。……どうして、ナオがこんな目にあわないとならないんだ。……でも、でももう、大丈夫、だから」


 晶は、理不尽な目にあっている妹に対して、そんな言葉をかけてやるくらいしかできなかった。あとはただ、ぎゅっと抱きしめてあげることしかできなかった。

 そんな自分の無力さがはがゆい、といったような、そんな晶の悔しそうな表情であった。


 西村奈々は、まだ、叫び続けている。

 身体をぴんと真っ直ぐに硬直させたまま、意味の分からない言葉を叫び続けている。

 脳がパニックを起こして、わけが分からない状態になっているのだろう 。


 裕子は、奈々の正面に立って、ゆっくり、背中に両腕を回した。

 ぎゅっと、抱きしめた。


「ごめん。奈々、ごめん。……山田の妹には、注意していたつもりだったのに。ほんと、ごめんな」


 震えるその声はだんだんと小さくなって、やがて奈々も泣き止んで、外の激しい雨の音以外、なにも聞こえなくなった。


     7

 体育用具室に閉じ込められたなおを、ゆうたちが間一髪で助けに入ったわけだが、これには次のような経緯があった。


 奈々の転校の件で校長室から出て、走っていた裕子は、やまのりと廊下で出会った。

 偶然ではない。

 山田則夫が、裕子を探していたのだ。


 妹のひでがよからぬことを計画しているらしい。先ほど、他の学校の男友達らしいのと一緒にいるのを目撃した者がいる。則夫には思い当たる節というのがあった。先日の家での発言、「兄貴、あたし、この学校辞めっからさあ。つうか、退学になる。絶対」


 そんな話を聞いて、胸騒ぎどころの話ではなく、裕子は、フットサル部の部室へと急いだが、そこにいるのはたけあきらひとりだけだった。


 直子たちは、北校舎裏口で裕子を待っているはず、とのことで、すぐにそこに向かったが、しかし、そこにも誰もいなかった。


 ただ、地面にハンカチが落ちていた。

 雨に濡れ、泥まみれになって汚れているが、晶曰く、これは間違いなく直子の物とのこと。


 これがただならぬ事態を表しているものかどうかは分からない。

 だが、裕子は、ぞくりとする不快感に鳥肌が立った。

 山田則夫に、事前に不吉なことを吹き込まれていたから、ただそれだけのことかも知れないが。


 とにかく急いで、直子と奈々を探さなければならない。

 なにもないなら、それはそれでいいのだから。


 裕子と晶、そして山田則夫、三人で手分けして直子と奈々を探しているうち、裕子は用具室の方から、西村奈々の叫び声を聞いたのである。


     8

 なおを救出した後、ゆうたちは職員室に呼ばれ、ゴリ先生と、直子たちのクラス担任であるもりおか先生、そして校長の三人に囲まれて、ことの詳細を尋ねられることになった。


 発端から話すとなると、先々月に、やまひでらがトイレでタバコを吸っていたことから説明する必要がある。

 不良行為の逐一までをも報告する必要があるものか否か、と、直子は、このような目にあってもまだ、先生へ全てを話すことをためらっていたが、裕子は構わず、知っている限りのあらゆることをぶちまけた。

 それほど、山田秀美という人物に対して怒り心頭に達していたのだ。


 会議を開いた上で、山田秀美らにはしかるべき処分を下すことになる。そう伝えられ、裕子たちは解放された。


 もしもあの場にハンカチが落ちてなかったら、もしも奈々が恐怖から叫び声を上げることも出来なかったら、などと想像するだけで恐ろしい。

 想像するだけで、裕子には山田秀美への激しい怒りが込み上げてくる。


 この手で顔面を、整形しようのないほどぼこぼこに殴ってやりたいところだ。

 直子たちが味わった苦痛を、千倍にして返してやりたいところだ。


 だが、学校がしかるべき処分をするといっているのだから、任せるしなかった。


 どんなに酷い処罰だとしても、残念ながら八つ裂きにしたり蒸し殺したりすることなどはないのだろうが。


     9

 やまゆうたけあきらたけなお西にしむら、すっかり暗くなった道路の歩道を、足取りも重く歩いている。


 ひとりだけ元気なのが奈々だ。

 鼻歌を歌っている。


 一番元気がないのが直子である。

 それはそうだろう。

 未遂に終わったとはいえ、監禁され、顔面を何度も殴られ、全身を蹴られ、強姦されかけたことに変わりなく、痛みも恐怖もそれは耐え難い凄まじいものであっただろうから。


 帰り道の途中で、裕子と奈々の二人は、晶たちと別れて道を折れた。

 裕子が奈々を、自宅まで送るためだ。

 通学路を折れて少し進んだところに、奈々の家があるのだ。


 やまひでらに用具室に閉じ込められて殴られた時には狂ったように喚き続けていた奈々であるが、現在はすっかり回復しており、普段通りの元気な笑顔に戻っている。

 事実の記憶はしっかりと残っているようだが、嫌な感情の記憶はすっかり忘却したように思える。


 もしかしたら内面では辛い気持ちと戦っているのかも知れないが、それは裕子には分からない。


 現在の、楽しそうに笑っている奈々を、不幸と思うのは、それは余計なことなのだろうか。


 裕子は、考えた。

 幸せは自分の脳が決める。当たり前のことと思っていたけど、ならば、なにが起きても幸せだと本人が思い込んでいたとしたら?

 殴られても幸せと本人が思っていたら?

 それで幸せなんだから放っておけばいいのか?

 いや、そんなわけがない。奈々は、本人だけでなく、他人から見ても幸せになるべきではないのか。


 当事者でない赤の他人がそんなことまで考えるのは、

 楽しそうに笑っている奈々を不幸と思うのは、

 それは、余計なことなのだろうか。


 県道から折れた狭い道を少し歩いたところに小さな住宅街があり、奈々の家はその住宅街の中にある。

 自宅に到着すると、奈々は門を開け、玄関のドアを開け、飛び込むように中へ消えていった。


 さほどたたないうち、ドアが開き、奈々の母親が顔を出した。

 裕子はまず遅くなったことを謝った。そして、二言三言、言葉をかわした。


 奈々のお母さん、明るくて、とてもいい人だよな。裕子は思った。

 色々と、大変なこともあるだろうに。


 今日の学校での出来事、本当は、話さないといけないのだろう。

 直子ほどではないにせよ顔を殴られたのだし、やはり危うく強姦されるところだったのだから。


 でも、どうしても切り出すことが出来なかった。

 何度も、口に出そうとしたが、どうしても話すことが出来なかった。


 どうせ、今日明日のうちに学校か警察から連絡がいき、知ることになるというのに。

 裕子は、当たり障りない言葉を喋るだけで、本当にいわなければならない大事なことを、どうしても口に出すことが出来なかった。


 自分だけそれではずるいから、今日の帰りに奈々のお母さんに聞こうと思っていたことも、聞かなかった。


 校長と話した、転校延期の件だ。

 これも、どうせ学校から話が行くのだろうから。

 転校の話を、自分から切り出すのも辛かったし。


 自分が辛いから黙っている。相手が辛いだろうから、と自分に思い込ませて黙っている。結局、自分には勇気がなくて、逃げているだけなんだ。

 以前直子に、勇気についてあんな偉そうなことを語っていたくせに。


     10

「じゃあさ、ウナギでもいい!」


 ゆうは指を二本立てた。


 その「二」ってどういう意味だ? と思ったかどうかは分からないが、なおが口にしたのは別の言葉。


「そんな、本当にいらないですってば。だいたい、でもいい、ってソフトクリームよりウナギの方がよっぽど高いじゃないですか。あたし、本当に大丈夫ですから」


 わら駅北口近くの、川沿いの狭い道を、やまゆう西にしむらたけなおが並んで歩いている。

 体操着姿に、スポーツバッグ。土曜練習の帰りである。


 先日の件のお詫びと、元気が出るようにという目的で、裕子が二人にソフトクリームを奢るといいだしたのが、この会話が始まったきっかけだ。


 直子は頑なに拒み続けていたが。

 出来たばかりのジェラートショップのソフトクリームなので、直子としても興味がなくはないようだったが、奢られる理由が理由なので、と申し出を突っぱねたのだ。


 この辺にはウナギ屋が多く、看板がちらほらと見えるため、ならば、とつい口をついて出て来たのがそのことなのである。


「だいたいね、この件で王子先輩が責任を感じているというのが気に入らないんですよ。山田さんとの一件は、自分のクラスで起きたことであって、フットサル部はなにも関係ないのに」


 確かに、部活終了後の遅い時間に起きた事件とはいえ、相手がその気ならばどのような時間にだって、どのような場所でだって狙えるだろう。


「そんなあたしを元気付けたいなら、王子先輩が元気でいて下さい。それだけでいいです。というか、あたしはもうとっくに元気ですから」

「そういわれても、その姿を見ているとなあ」


 裕子は、弱った表情を浮かべた。

 両手で頭をがりがりと掻いた。


 直子は、右目に眼帯をしている。

 拳で何度も殴られたことで、後から腫れ上がってしまったのだ。

 目の周りだけではない。顔中、青黒くなっていたり、黄色くなっていたり、と痣だらけである。


「じゃ、奢らない。奢らないから、みんなでソフトクリーム食べにいこか」

「それなら……実はあのお店、ちょっと興味あったんですよね。先輩から、美味しいよって聞かされてて」


 直子は痛々しいそうな顔で、ちょっと照れたように笑った。


「なんだ亜由美、もう行ってんのか。でも、まあウナギでもいいよ」

「いえ、ソフトクリームで」


 なんでウナギにこだわるかな、この先輩は。と、直子は小声でぼそり。


「わーい、ソフトクリーム!」


 奈々が嬉しそうに、両腕を上げて叫んだ。

 と、その時であった。


 川沿いにある小さな居酒屋から、一人の男が出てきた。

 一般的なグレーのスーツを着てはいるものの、見るからにガラの悪そうな顔の、身体の大きな中年の男だ。

 真っ昼間だというのに相当に酔っ払っているようだ。


「あれ、あいつ」


 裕子は小さく声に出した。


 奈々の世話になっている障害者施設の門の前で、出合ったことのある男だ。

 男の方も裕子らに気付いたようで、千鳥足で近寄ってきた。


「おめえんとこのくそ園長、なにが不服なんだよ。金はたんまり出すっていってんだからよ。足りねえってんじゃ、どこまでごうつくなんだよ。ババアめ」


 挨拶もなにもなく、呂律の回らない口調でいきなりまくし立てた。


「はあ、おっさん、地上げ屋か」


 そういうことだったのか。

 ガラの悪いのも納得だ。


「人聞きの悪いこといってんじゃねえよ。ビジネスだよ、普通の。あんな好条件だってのにだんまりしやがって、ババアめ。おめえみたいなキチガイどもを相手に、あんな施設を経営してると自分もキチガイになっちまうみてえだな」


 男は、奈々を見て侮蔑の笑みを浮かべた。

 友人を貶められ、一瞬で沸点に達しかけた裕子の理性であったが、自分の身体になんとかブレーキをかけた。

 どれだけブレーキパッドが磨り減ってしまったか分からないが。


 果たして自制出来ずに激怒してしまったのは、男の方であった。

 奈々が、


「しああせなのかな」


 と何気なく呟いたことに、からかわれたと思ったのか、憤怒の表情になり、地面を激しく踏み付けたのだ。


 後から奈々に聞いたところでは、以前に園長から聞いたこの男の職が、面白いのかどうかという純粋な疑問を口にしただけであったというのに。


「ふざけんなよ、このクソガキ!」


 男は、千鳥足ながら素早く奈々に歩み寄り、掴みかかった。


「やめろよ!」


 裕子は男の手を奈々から引きはがすと、そのまま二人の間に入った。

 以前にこの男に会った時、奈々から逆らってはいけないといわれたが、その理由が分かった。

 この男はきっとその筋の人間で、迂闊な真似をしようものなら、どのような難癖をつけられるか分かったものではないからだ。

 下手をすれば、施設の存続にもかかわるというものであろう。


 裕子は、奈々の代わりに胸倉を掴まれ、揺さぶられた。

 屈辱に、耐えるしかなかった。


 売られた喧嘩、個人的には別に買ってやったっていいのだ。

 男は酔っているとはいえ大柄で強そうで、勝てるとは思わないが、だが、ぐっと堪えるくらいなら殴り合って何発もやられる方がずっといい。


 そうしないのは、奈々のいた施設に迷惑をかけたくないということと、フットサル部員の不祥事ということで部員に迷惑をかけたくないということ。その二つが理由であった。


 先日の山田秀美たちによる事件の際にも、裕子は相手の男子を蹴飛ばしたり顔面にパンチを浴びせたりしているが、運良く正当防衛が認められただけで、あれだって処分を受けていてもおかしくなかったのだから。

 しかし、


 無抵抗なのを良いことに、男の行動がどんどんエスカレートしていく。


 裕子はこづかれ、髪の毛を引っ張られ、殴られ、すねや腿を思い切り蹴飛ばされた。

 何度も、蹴られた。

 激痛に思わずしゃがみこんだところを押し倒され、馬乗りされ、殴られた。


「てめえ、いい加減にしないと怒るぞ!」


 下から、裕子は睨み付けたが、男は不気味な笑みを浮かべただけだった。


「ああ、怒れ怒れ。殴ってこいってんだよ」


 笑みを浮かべながら、裕子を挑発している。


「そういうことしちゃダメだよ」


 奈々が、裕子の上に乗った男をどかそうとするが、大柄な身体はびくともしない。


「うるせえな」


 奈々は、突き飛ばされ、後ろに転がった。


 武田直子の甲高い悲鳴が、空気を引き裂いた。

 直子は、両手で頭を抱えると、再び、金切り声のような凄まじい絶叫を上げた。


 馬乗りされ顔を殴られている裕子の姿が、先日の、自分自身の記憶と同調してしまったようであった。


 押し倒され、殴られる裕子であるが、その姿が直子の脳内では、自分が馬乗りされ、殴られ、蹴飛ばされ、制服を引きちぎられ、剥ぎ取られ、そして……


「ああああああああ!」


 発狂したように叫んでいた。

 ガリガリと、自分の髪の毛をかきむしった。


「なんだ、こっちの女もキチガイかよ」


 男は鼻で笑った。


「どけ!」


 裕子は身体を捻って男を振り落として自由になると、素早く立ち上がった。


「ナオ!」


 直子に近寄ろうとするが、しかし、


「いてえじゃねえか、おい!」


 男は、裕子の服の襟を掴んだ。


「しつこいな!」


 さすがに裕子も切れてしまい、どんと男の胸を突き飛ばした。


 男は酔っていたこともあり、足をもつれさせて簡単に地面へと転がった。


 罵詈雑言を叫びながら、よろよろと立ち上がると、怒りの形相で裕子に殴りかかってきた。

 酔ってはいるが、大柄ゆえの重い拳であった。おそらく、格闘技の経験があるか、ないとしても相当な喧嘩の場数を踏んでいるのだろう


 裕子は紙一重で避けたが、男はなおも右、左と拳を突き出してくる。


 兄からボクシングを教えて貰っているし、なにより相手は酔っ払い、そう簡単には当たることはない。

 しかし、こちらから攻撃は出来ないし、奈々ら二人を見捨ててこの場から逃げてしまうわけにもいかない。

 そうである以上、避けて回ることにも限界があり、結局、また男に胸倉を掴まれてしまった。


 酔っているとはいえ、大きな身体をしているだけあって、凄い腕力だ。

 裕子は、容赦ない平手打ちを受けた。

 何度も、何度も、殴られた。


 裕子は歯を食いしばり、男を睨みつけた。


 また、直子が絶叫した。


 そして、奈々までもが泣き出してしまった。


 殴られ続ける裕子の心の中に、だんだんと、いままでに感じたことのない凄まじい怒りがこみあげてきていた。

 自分のことではない。

 なんで、ナオや、奈々が、こんな目にあわないとならないんだ。という怒りであった。


 地上げだかなんだか知らないけど、それって、まだ十代の女の子を泣かせなけりゃいけないものなのか。

 純粋で何も知らない奈々を、泣かせる必要があるのか。

 学校だって、奈々のことを……

 おもちゃじゃ、ねえんだよ。

 ふざけやがって。

 どいつもこいつも……


「ふざけんなよ、畜生……」


 裕子は、男の腕を掴むと、少女と思えぬ恐ろしい力で締め上げた。


 男はたまらず、裕子を掴んでいた手を離した。

 裕子は立ち上がると、男の顔を目掛け、ぶんと真っ直ぐ拳を突き出した。

 男の鼻先数ミリというところで、拳はとまった。


「ひっ」


 男は悲鳴を上げた。

 逃げようとして、足をもつれさせ、転んだ。


「いてえ!」


 酔っているためか、受け身に失敗したようで、どこか打ち付けてしまったようだ。

 男は立ち上がった。

 左腕を押さえている。


「訴えてやる! くそ、いてえ! お前、訴えてやるからな!」


 引きつった笑みを浮かべながら、泣き喚き始めた。


「なにいってんだあ、てめええ!」


 逃げ去る男の背中に、裕子は全身から出る怒気をぶつけ、怒鳴り声を上げた。


 奈々の泣き声が、ますます大きくなった。


 直子は、いつの間にか地面に座り込み、膝の間に頭を埋め、まるで幼子のように、嗚咽の声を漏らしていた。


 裕子は舌打ちし、激しく足を踏み鳴らした。


 脱力。

 裕子も、座り込んだ。

 長い、息を吐いた。

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