第三章 いや、基本は不真面目なんですけど

     1

「ルビふっとけ畜生!」


 ゆうは、本を放り投げた。背後、ベッドの上にどさりどさりと落ちた。


 脳の障害について、知的障害者との付き合いかたについて、わら駅北口の本屋でそのような書籍を二冊ばかり購入したはいいが、普通の人にも難しいような専門用語漢字にしかルビがふられておらず、当然ながら裕子がおいそれと読める代物ではなかった。


 漢字の辞書を片手に何時間もかけて、なんとか十ページほども読み進めてきたが、ここで裕子の脳は疲労困憊にギブアップ。思わず放り投げてしまったというわけだ。


 いまになって思えば、なんで自分に読めるかどうかを事前にしっかりチェックしなかったのかと思う。


 とりあえず買う前にぱらぱらとめくる程度の確認はしたが、本屋で難しい本を手にすると自分が賢くなったような気がするの法則で、余裕で読めると思ってしまったのだ。

 少し難しい漢字があったって、辞書引けばいいだろう、と。少しどころではなかったのだが。


 あきらに読んでもらうかな。

 でもあいつもバカだからな。

 それに、あのふてぶてしい声にムカムカきて、聞くどころじゃないかも。


 そうだ、づきにお願いして、ルビふっといて貰おう。

 なんでもいいから難癖つけて、罰ゲームのコマネチ免除のかわりに、って。喜んでやるべ。

 ……葉月がかわいそうな気がしてきたな。ちょっとだけ。


「葉月ってば、すぐ涙目になるからな。だったら我慢してないで、嫌なら嫌って最初からはっきりいやいいんだ。はあ、仕方ない、もうちょっと自分で頑張ってみるか」


 ぶつぶつといいながら、ベッドの上に落ちた本と辞書を拾……おうとし、重なっていたちょっとエッチな雑誌を手に取り、広げた。


「……やっぱり初めてって、痛いのかなあ……って、バカかあたしは! こっちはあと! 夜! いまは真面目な本!」


 改めて、今日買った書籍を拾うと、机に戻った。

 裕子が――結局読めなかったにせよ――そのような本を買ったのは、もちろんフットサル部に入部した知的障害者、西にしむらとの交流を考えてのものである。


 難しい話や理屈は分からないが、とにかく裕子は、自分自身には知的障害者に対する偏見の気持ちはないと考えている。

 あくまで自分では、であり、専門家からすれば、自分も他の人も同じかも知れないけど。


 フットサル部内での奈々の扱い難さにしたって、扱い上手な子もいれば下手な子もいる、と、その程度にしか思っていない。


 しかし、奈々と接するみんなのことを見ているうちに、それではいけないのかも知れない、と考えるようになったのだ。

 かも知れないではない。

 そうなのだ。

 「自分は知的障害者でも気にしないから」ではいけないのだ。

 むしろ気にして、改善をしていかなければならないのだ。


 もし奈々になにかあったらどうする?

 もし奈々のために、他の者がどうにかなってしまったらどうする?


 やまひでのヤニクサイ事件、あのようなことが、フットサル部全体を巻き込んで起こらないとも限らない。


 なにがよくて、なにが悪いのか、感覚的なものではなく、理屈で、言葉で、説明出来るようにならなければならない。


 それと実際問題として自分たちや周囲の人間に、物理的具体的なこととして、なにが出来てなにが出来ないのか。それを探していかなければならない。それにはまず障害のことを知らなければならない。


 そのために、なけなしのお小遣い全部使って、専門書を買ったのだから。

 アイスも漫画も我慢して。


 だというのに……


「なんで、あたしは、こんなに、バカ、なんだ! ほんとに、この頭ん中に、脳みそ、入ってんのか!」


 裕子は机に伏せて、自分の頭を両側からポカポカと何回も殴った。

 音からして、とりあえず何らか詰まっているようではあるが。


 気分転換にと、自室を出た。


     2


 居間で、兄のたかしがソファに座ってテレビを見てくつろいでいる。


「なんの悩みもない大学生は気楽だよな。どうせ、彼女出来ねえなんて、そんなことくらいが悩みなんだろうな。一生出来ないと決まっているんだから悩むだけ無駄だってのに」


 裕子は冷たい眼差しを孝に送った。


「人の顔見るなり、いきなりなんだよ!」

「兄貴にゃ、頭ん中に脳みそが入ってないかも知れない乙女の気持ちなんて分からんのじゃい」

「わけ分かんね」

「ふーんだ」


 裕子は、何故か大股カニ歩きで横移動しながら冷蔵庫の方へと移動した。


 冷蔵庫の扉に手をかけ、開け、手を突っ込み、顔まで突っ込み、探す。

 顔を突っ込んだまま、ぐりぐり首を動かして、そして、叫んだ。


「極上たまごのふるふるプリンがない!」


 冷蔵庫から頭を抜くと、ばっと孝の方を向いた。


「あ、おれ食っちゃった。お前のだったの? なかなか美味いね、あれ」


 裕子は身体をぴんと硬直させたまま、ぎゃああああと三回叫んだ。


「なんて恨めしいことをしでかしてくれた我が兄貴……もう手に入らないかも知れないのに。あたしまだ、食べたことないのに」


 裕子は俯いたまま、孝を睨みつけた。

 以前のスポーツ刈りみたいな頭と違い、髪の毛伸びてきているので、このように睨むと目が隠れてちょっと怖い。

 ホラー映画さながらの不気味な摺り足で、ず、ず、と孝へと近付いて行く。


「なんだよ、気持ちの悪い歩き方して。おれ、そんな悪いことしちゃった? そうだ、なんか悩んでんだろ。かわりにさ、相談に乗ってやっから」

「そんなの当たり前だよ。そのためにここに来たんだから」


 裕子はソファに近づくと、孝のすぐ隣に腰を下ろした。


「あのさあ」

「密着してくんなよ」

「いいじゃん。それでね」


 裕子は、語り始めた。


 珍しく真面目な話そうだと思ったか、孝はリモコンを手に取り、テレビのスイッチを切った。


 裕子の考えている悩みの内容自体は、伝えるのに難しいものではなかった。

 西村奈々という発達障害のある子を部に招き入れたはいいが、ふと、その重責に気付き、どうすればよいのか悩んでいる。ということだ。


「なんで考えなしに、そういうことするかなあ。個人で友達になるならまだしも、集団というのは色々だから好意的なのばかりじゃないぞ」

「だってえ、バスケのプレー見てて、ひょっとしてこの子凄いかもって思ったんだもの。……大活躍してくれなんていわないけど、とにかく部に馴染んで、楽しいと思って貰いたくて。そのためには、他の部員が奈々に馴染んで、一緒に練習して楽しいって思えなきゃならないわけで。それには、まずあたしが奈々を理解するとこから始めないと」

「はいはい。それじゃあ、裕子に聞くけど、そもそも、障害って、なんだろうな」


 兄の問いに、裕子は十秒ほど考え込み、そして口を開いた。


「障害は、障害物っていうくらいだから、邪魔なもの、余計なもの」

「そうだな。通常ではない、行動を困難にさせる余計な重荷だから、障害なわけだ」

「そうだね」

「ということは、ここでいう障害というのは、ちょっと劣っているということ? なら裕子は、勉強障害?」


 裕子は、また十秒ほど難しい顔で考え込んでいたかと思うと、唐突に叫んだ。


「そう! あたし、勉強障害だ! 障害者だ。重度の。それ、間違いない」

「真面目な回路のすっかりぶっ壊れた真面目障害、上品に出来ない上品障害。なんでも障害になっちゃう。で、裕子は幾つの障害を抱えてるんだろうか」

「なんかカチンとくるな。人のプリン食っといて畜生。どうせあたしはバカだし不真面目だし下品だよ。でもまあ、あたしは、それって個性だと思ってそんなに気にしてないけどね。……あ、そっか……全部が個性か。障害であっても」


 偏見はない、という漠然とした思いのあるだけだった裕子だが、ようやくここで一つ、具体的な言葉が生まれた。


「まあ、実際そう簡単なものじゃあないんだろうけど。一人で社会生活を送れるのかどうか、など色々とあるわけだから」

「そうだけど、でもそれは、ちょっと一人で生活障害だ。いいトシしてヒモになってる男だの、なんにも出来ない女だの、そんなの世の中にいくらでもいる。あたしもそうかも」

「裕子はそれどころじゃないよ。非野蛮障害。几帳面障害。約束守る障害。トイレ独占しない障害。いきなり叫ばない障害」


 孝は指を折って数え始めた。


「絶対やり返さないでくれるなら、兄貴のことぼこぼこに殴りたいんですけどお」

「どうだろう。かわいい妹を殴りたくはないけど、反射的に動いちゃうからなあ」


 大学でボクシングをやっている兄貴なのである。


 さて、この話し合いだが、結局、結論は出なかった。

 出なかったけれど、でも、焦る必要はないのかなとも思った。


 少しだけパスが上手に出来るようになって、今日の奈々の顔、とても楽しそうだったから。

 とりあえず、それでいいのではないか。


 もちろん、買った本での勉強は続けるつもりだけど。

 葉月にルビふってもらって。


 それと、いずれ奈々が世話になっていた障害者施設にも行ってみたいな。

 まあ、じっくりと、やっていこうか。


     3

「すみません、遅れましたあ!」


 体育館の中を、たけなおの抜けるような高い声が反響した。


「遅れっしたああああ!」


 直子に手を引っ張られて入って来た西にしむらが、張り裂けんばかりの元気のよさで叫んだ。


「……遅れました。ナオ、これなんかの儀式?」


 奈々に手を引っ張られているかなめ

 幼児の電車ごっこみたいとでも思ったか、なんだか恥ずかしそうだ。


「到着う」


 フットサル部員のみんなのところへたどり着くと、奈々は小さくジャンプして着地。

 両手にそれぞれ二人の手を握りしめたまま、ぶんぶんと振り回した。


「カナちん、ありがとね、付き合ってくれて」


 直子は、奈々に腕をぶるんぶるん振り回されたまま、久慈要へと視線をやった。


「いいよ、このくらい」


 久慈要も同様に、激しくぶるんぶるんされている。


 授業終了の十分後に北校舎裏出口に集合。のはずだったのだが、奈々が来ず。二人で探していたため、練習開始時間に遅れてしまったのだ。

 結局奈々はどこにいたのかというと、校庭の花壇。

 間違って別の出入り口に行ってしまっていたならまだしも、そもそもフットサルのことなどすっかり忘れ、花壇の脇にしゃがみ込んで、ずっと蟻の行列を眺めていたのだ。


「お疲れさん。じゃ、すぐ練習に入って。落ち着いたら、あたしが奈々を見るから、それまでよろしく」


 裕子は、直子の肩を叩いた。


「分かりました。奈々、いこ」

「おほー」


 喉の奥から呻いているような妙な声を出す奈々。


 直子は奈々の手を引いて、みんなの中へ入って行こうとする。


「ナオさあ」


 裕子に背後から声をかけられ、直子は振り向いた。


「なんか、嬉しそうだね」


 直子は、二秒ほどきょとんとした表情を浮かべていたが、すぐその顔に、にんまりとした笑みが浮かんだ。


「そりゃあ。カナちん、ええとかなめ、中学の時にずっと一緒にやっていた要と、また一緒になれたんですもん」


 直子は思う。


 カナちん、この部にいつまでもいないかもなんていっていたけど、でも、この部活が面白ければ、いてくれるだろう。

 雰囲気が良ければ、クラブで味わったような嫌なことというのがなければ、きっといつまでもいてくれるだろう。

 わたしが笑っていれば、きっとカナちんも楽しくなる。

 楽しくなって、ここにいてくれれば、わたしも楽しくてもっと笑顔になる。


 幸せ無限ループだ。

 よし、今日も頑張るぞお。


 と、張り切って練習に加わった直子。


 みんながいま行なっているのは、三人一組でのパス練習だ。

 直子たちはいま遅れてきた三人で三角を作ると、


「いくよ!」


 さっそく直子は、こんと小さくボールを蹴った。

 久慈要が受け、奈々へとパス。

 奈々は思い切り蹴り上げ、ホームラン。

 いや、どちらかといえばファールフライであろうか。


 レフトなしもとさき、予期せず飛んで来たボールに咄嗟に手が出たのはゴレイロとしてさすがであったが、受け損ねて頭部強打。首を思い切りやってしまったようで、両手で頭を抱えてうずくまってしまった。


 咲は、たけあきらに肩を叩かれて、慰められていたが、しばらくして、よろよろと立ち上がったと思うと、直子たちへと仁王立ち、


「ナオ! ぼけっとしてんな! しっかり見てろって王子先輩からいわれてんだろ!」


 そんなこといわれたって……

 普段からなんだか怖そうな咲先輩の顔だけど、やば、本当に怒ってるみたいだ。遠目からだけど、少なくとも間違いなく激怒しているよ。


 自己防衛反応なのか、直子は無意識に叫んでいた。


「お姉ちゃん、花柄の乙女な日記帳に丸文字でメルヘンな日記書いてたことある! 一週間で自分には無理だと諦めて捨ててたけど、あたしこっそり拾って持ってる!」


 それを聞いた咲は、指を丸めて伸ばしてでOKサインを作った。沸点に達しかけていた温度が、一瞬にして常温に戻ったようだ。「後で詳しく聞かせてね」というと、ながらとゴレイロの練習に戻った。


「ういい、セェーフ」


 直子、胸をおさえて安堵の一声。


「セーフじゃない! ナオ、なんで日記のこと知ってんだよ。だいたい、拾うなよ! 帰ったら捨てろ! いや、燃やせ! 咲なんかに絶対に見せるなよな!」


 今度は晶が沸点に達してしまったようで、ボールとグローブを床に叩き付けたかと思うと、足を激しく踏み鳴らしながら直子の方へとずんずん一直線に近付いて来る。


「お姉ちゃあん、すぐ怒るう」


 泣きべそをかく直子。


「あ、いや、別に怒ったわけじゃ……ちょっと注意というか、咲なんかに見せないように念を押しただけだろ。怒らないから、帰ったら姉ちゃんに渡せよ、日記」


 晶は、釈然としない口調ではあるものの、それ以上直子にきつくいうことが出来ず、元の場所へと戻って行った。


     4

 練習メニューは進み、続いては、ゴレイロも一緒になって全員でのパス練習だ。


 これはちょっとしたゲーム形式で、みんなで大きな輪を作り、三人だけ輪の中に入る。

 その三人は鬼役で、輪の中を走り回ってパス交換を阻止するのだ。


 パスはグラウンダーのみ。

 鬼がボールカットに成功したら、その鬼とパスの出し手とが入れ代わる。


 去年までならば、まだこの時期の一年生は出来ない練習だ。

 新入部員は入部後しばらくの間は体力作りの基礎トレーニングのみで、ボールを使ったプレーは一切禁止だったからだ。


 触ることが許可されているのは、準備や後片付け、練習中のボール拾いといった雑用のみ。であったのだが、裕子の独断により今年からそのルールは廃止したのだ。


 前部長と同様に、そのような無意味なしきたりに疑問を持っていたし、それに今年は、フットサル経験のある者がたくさん入って来たためだ。


 経験者ならば基礎的なスキル、スタミナや筋力も問題ないだろうし、むしろボールに触らないことで感覚の鈍ってしまうことの方がよほど問題だから。


 このことは事後ながら前部長にも伝えてあり、いいんじゃないのといわれている。


 新入部員の中では、つじむらかみふみが、なかなか上手にパスを出す。あと、なががゴレイロにしてはとても上手だ。


 そして、どんな練習であろうとも、やはり周囲に迷惑をかけまくってしまっているのが西にしむらであった。


「もっと奈々にもパス出して!」


 と、部長がいうものだから、とりあえず出し手は奈々へとパスを出す。

 しかし奈々は、この練習のルールを全く理解しておらず、思い切り打ち上げてしまったり、ドリブルで輪の中に入って来てしまったりしてしまう。


 反則をしたわけだから当然、奈々が新しい鬼になるわけだが、鬼のルールも全く理解してくれず、輪の外を走り回ったりするなどとんちんかんなことばかりしてしまっている。


 鬼が三人で連係を取るからなんとかボールを奪えるわけで、これではどれだけ時間をかけても奪えっこない。と、他の鬼からの苦情により、特例で奈々は鬼を免除されて輪に戻るものの、また同じことの繰り返し。


 みんなますます奈々にパスを出すのが嫌になってしまうという悪循環。


「山野先輩」


 新入部員の一人、村上史子がついに痺れを切らせ、抗議の声を上げた。

 ただ裕子の名を呼んだだけであるが、表情を見ればなにをいいたいのか考えるまでもなかった。


「ああ、ごめん。まだ、奈々には早いのかな。でも、だからこそ、こういうのをどんどんやらせたいんだけどなあ」


 裕子は呟いた。

 奈々だけは反則しても鬼にならないという特別ルールを設けてゲームを続けたが、それからそこそこで、裕子は、奈々だけを切り上げさせた。


     5

 ここから奈々は、裕子先生による個人レッスンの時間である。


 まずは基本中の基本。一対一での、パスの練習。

 これが出来なければフットサルは成り立たない。反対に、これさえ上手になればそこそこのことは出来る。


 しかし、

 相手からのパスを受け、相手にパスを出す。

 と、ただそれだけなのだが、奈々はそれもまともに出来なかった。


 そもそもの意思の疎通が、まるで上手くいっていないのだ。

 裕子が言葉で色々と伝えようとしても、感覚的なものをなかなか理解してもらえない。奈々はどうやら、抽象的な言葉が苦手なようなのだ。


 もう少し強く、といったら、とてつもなく強く蹴ってきた。


「そんな強くなくていいよ」


 裕子がそういうと、奈々は難しそうな顔で、


「『少し強く』って『少し』なの? 『強く』なの?」

「いや、どっちということじゃなくて」


 あれこれ説明するよりも、ただ黙々とボールを蹴らせるだけの方がいいのだろうか。

 バスケだって、そこそこやれていたんだ。

 黙ってさえいれば、経験し、学習し、ある程度は自分で加減を調整して蹴るようになってくれるかも知れない。

 そこに「もうちょっとだけ強く」などと余計な因子を挟み込もうとするものだから、わけが分からなくなって宇宙開発してしまうのかも知れない。


 とはいえ、言葉を全く使わないのでは、なにも出来ないからな。

 なにを喋り、なにを黙るのか、自分も少しずつ学習していかないとな。


 奈々は不意に両手でボールを掴み上げると、地面へと落とした。

 弾み上がるのを待ち構えて上から叩こうという仕草を取るが、しかしボールはほとんど弾まず、床を転がってしまった。


 フットサル用のボールはローバウンド球であり、当然であった。

 奈々はボールを拾い再度チャレンジするが、結果は変わらなかった。


「これ、ドリウル出来ないい!」


 憮然とする奈々であったが、しかし、名案を思い付いたとばかり明るい表情になった。


「こうすればいい」


 子犬を撫でるかのようにしゃがみ込むと、手を細かに上下させてボールを弾ませようとする。


「これでも難しいな」


 といいつつも、ほとんど弾まないボールで器用に鞠つきをしている。


 裕子も、奈々と向かい合うように、床に尻をつき、開脚して座った。


「奈々、チェストパス!」

「あいよ」


 奈々は、いわれるがままに、至近距離であるというのに全力を込めて、胸からボールを打ち出した。

 遠いと強く投げないと相手に届かない、近いと緩く投げないと相手が受け取れない、という基本的なことがよく理解出来ていないのだろう。自分がドリブルすることは出来るが、相手とのやりとりが出来ない。


 普通ならとても取れそうにない至近距離からの速球であるが、しかし裕子は持ち前の運動能力で、素早く両足を持ち上げて挟み込むようにキャッチしていた。


「お猿さんだ」


 奈々は、指をさして笑った。


「奈々もやってみる? お猿さん」

「やるー」


 奈々も、裕子のように床に尻をついて足を大きく広げた。


「はい、パス」


 裕子は、両足に挟んでいたボールを奈々へと投げるが、奈々はどう足を動かしていいのか分からず、思い切り蹴り飛ばしてしまった。

 何度かチャレンジするものの、何度やっても結果は同じ。


「お猿さん、なかなか難しいぞ」


 奈々は腕を組み、あうう、と喉の奥から唸り声をあげた。


「ま、最初から上手に出来るわけないよ。それじゃあ、こういうのからやってみようか」


 裕子は、座った姿勢のまま、右足でちょんとボールを蹴って転がした。


「足で受け取る」


 裕子の指示に、奈々はボールの軌道上に足を出してボールを止めた。


「そうそう、蹴るとボールどっか飛んで行っちゃうからさ。受け取る時は、そうやって足を止めてな。いまの、よかったよ」

「そう?」


 嬉しそうな顔で、ぐふふと笑った。

 それを見て、裕子も自然に微笑んでいた。

 教えるのは大変だけど、成功して、褒めて、喜ぶ奈々の顔、これを見るだけで、なんだか自分まで幸せな気持ちになる。

 慣れきって忘れてしまったことを、色々と思い出させてくれる。


 時間が経つにつれて、奈々もコツが掴めてきたのか、四回、五回とラリーが続くようになってきた。

 といっても最終的には、奈々がつい遠くどこかへ蹴飛ばしてしまうのだが。


「奈々、上手になってきたな」


 お世辞でなく、本心からそう思っていた。


「奈々、上手になってきたあ」


 ほとんどおうむ返しの奈々。


「あのさあ、奈々はバスケ、どのくらいやってたの?」

「一クオーター十分で、計四十分」

「そうじゃなくて……それじゃ、初めてバスケットボールに触ったのは?」

「小学三年生の八月二十四日。時計は見てなかったから時間は知らない。体育館に入る時は太陽さんすっごーく暑かったんだけど、体育館出たらでっかい雨がとってもとっても降ってて寒かった」

「よく覚えてんな、そんなことまで。あたしなんか昨日の天気も忘れちゃうよ」


 裕子は頭を掻いた。


 新学期早々のこと、裕子は、奈々が体育館でバスケットボール部の練習に参加しているのを目撃した。

 ルールはあまり理解していなかったようだけれど、でもそこそこ技術は身についているように思った。

 いまの質問で分かったが、それは小学生の頃から、何年も何年もかけて覚えたものだったのだ。


「フットサルよりバスケの方がよかった?」

「うん」


 奈々は、大きくはっきりと頷いた。


「でもね、えんちょ先生は学校のぶかつ入りなさいっていうんだ。だから入れてくださいっていったんだけど、でもね、ここの先生もぶっちょ先輩も嫌だよっていっていたから、学校のはもう行かないでねってしていたんだ」


 なにをいっているのか、さっぱり分からなかったので、何度か聞き直したところ、要するに次のようなことらしい。


 奈々が世話になっていた知的障害者の受け入れ施設には、教育の一環としてのバスケットボールチームがある。

 奈々は小学三年生の時から、そこでプレーをしていた。

 身内で練習をしたり、他の知的障害者または健常者のチームと対戦したり。


 受け入れ制度で普通の高校へ呼ばれたということもあり、校長や施設の園長からは、なるべく部活動を行なうようにすすめられた。


 いわれるままに、バスケットボール部に体験入部してみた。

 しかし顧問の先生や、先輩からは、障害者を歓迎していない旨を言葉ではっきりといわれたらしいのだ。


「ひでえなそれ。そんなんで部活にいるのも辛いもんなあ。でも、バスケが一番好きなんだよな。部活入らないで、施設でバスケやってるだけの方がよかった? フットサル部に誘っちゃって迷惑じゃなかった?」

「めえあくてえゆことないよ。いつもと違うこと出来て面白いし。って全然出来てないか。ブトッサル難ちい」


 わははと大口開けて笑う奈々。


「その、面白いってのが一番大切なんだよ。奈々に、そう思ってもらえてよかったよ」


 裕子は立ち上がった。


「そろそろ練習メニュー変えるか。はい、そんじゃ終了して! 次、四人一組でパス練習、続けてボール奪取! ナオとかなめはこっち来て!」


 指示に従い、部員たちは四人組になり四角形を作ると、パス練習を開始した。


 裕子も、武田直子、西村奈々、久慈要とで四人組を作り、ボールを蹴り始めた。


 パス練習は足の内側を使って柔らかく蹴るのが基本なのだが、奈々にはどうしてもそれが難しいようであった。

 何回やっても、何度説明しても、爪先で強く真っ直ぐに蹴飛ばしてしまう。


 しかしそれは、久慈要の提案によりある程度解消された。

 なにをしたかというと、なんのことはなく、奈々の背中を体育館の壁に密着させただけだ。


 無意識に助走してしまっていた奈々だが、背中が壁と密着したことにより、助走をつけることも蹴り足を上げることも出来なくなった。

 そのため、ボールを高く打ち上げてしまうことも、異常な強さで蹴ってしまうこともなくなったというわけだ。


 出し手側が的確に出しているから、というのもあるが、奈々の受け手としての技術は全く問題はなかった。問題は、ボールを持った後の処理の仕方だ。


 起きていることにある程度的確な対処は出来ても、自分からなにかするとなると、どうすればいいのかが分からないようなのだ。


 自分がどう動くかというのは出来ても、相手に対してどうすればいいのか、それを考えるのは苦手らしい。


 裕子は、ふと奈々がバスケのドリブルで二人をぶち抜いたときのことを思い出した。

 やれなくは、ないんだ。

 フットサルでも、きっと。

 ああいうプレーを出せるようにするには、やっぱり徹底的に反復練習するしかないよな。

 出来るまで、何度も何度も。


「奈々、上手い!」


 久慈要が、奈々のパスを拍手で褒めた。


「いまみたいに蹴ってくれると、あたしたちも受け取りやすいから。何度もやって、体に覚えさせよう」

「はーい」


 奈々は嬉しそうに笑った。


 さすがは久慈要、経験長いだけあるな。

 裕子は感心した。


 一見おとなしく控え目な性格の彼女であるが、このようにしっかりとリードすることも出来るようだ。


 なまじ能力のある選手ほど、教えるのは苦手だったりもするのに。

 ましてや相手が奈々ともなれば、能力ある者ほどイラついても不思議ではないというのに。


 つい先ほどまで奈々は、爪先で豪快に蹴ることしか出来ず、とてもパスとは呼べないものであったが、それが少しずつ変化してきていた。

 足の内側で蹴ることが、多少は出来るようになってきたのだ。

 少し勢いを殺したパスを、多少は出せるようになってきたのだ。

 それは単なる偶然でしかないのか、大半は、やっぱり爪先で強く蹴ってしまうのだが。


 それでも、前述したように壁効果でそれほど強くは蹴れないのと、そんな奈々のキックに三人の方が慣れてきたのとで、パスを受け損なうことはほとんどなくなってきた。


 傍から見れば、一人初心者がいるとは分からないくらいの、それは奇麗なパス回しに見えたことだろう。


     6

「目撃証言によると、はまたかゆきつじのぞみは悪びれることなく、交際を認めているかのように腕を組んで、笑いながら買い物を続けていたという。しかし、事務所は交際を完全否定。仲の良い友達の一人と聞いております。……うっそだあ、絶対付き合ってるよ。子供じゃないんだから、仲のいい異性の友達と腕組んで買い物なんて、するわけないじゃん」


 先程から、たけあきらの寝ている下から、このような大声小声が絶えることなく引っ切りなし、湯煙のごとく次々沸き上がっていた。


 二段ベッドの上には晶、下になお、それぞれ寝そべって読書をしているのだが、晶の黙読に対して、まあ直子のうるさいこと。


「ナオ、声に出さずに読めないのかよ」


 たぶん、これまでの人生でもう二千回くらいはこの台詞をいっているのではないか。


 でも、誰だって文句くらいいいたくなるのではないか。


 直子は女性週刊誌が好きなのだが、ほとんどといってもいいほど毎度のように記事を声に出して読み上げるし、それに対して自分で文句をつけたりして、とにかく鬱陶しいのだ。

 しかも、際どい記事であろうとも平気で読み上げるから、その都度、晶は恥ずかしくなってしまう。

 夜中に、わーっと大声を上げて掻き消そうとして、父に怒られたこともある。晶だけ。


「黙っても読めるけどお、でも、自分の部屋なんだからいいじゃん」

「あたしの部屋でもあるんだよ」

「ぷぷーんだ」


 直子はなんだかよく分からないことを口にした。

 そして、いわれた通りに口を閉じた。とりあえず。

 だが、その沈黙は一分と保たず、また声に出して記事を読み始めていた。


 いいや、もう。


 晶は諦めた。

 物心ついてから、かれこれもう二千回以上は、こんなことをしているだろうか。


「せっかくの日曜の昼だというのに、こんなんでカリカリしててもしょうがないならね」


 ごろり身体を横向きにして、改めて晶はページぺらぺらめくる。


 そう、今日は日曜日である。

 隔週の、朝練のない、完全な日曜日。完全な休日だ。


 二人で早朝ジョギングには出掛けたが、トレーニング強制なのとそうでないのとでは、気持ちのゆとりに大きな違いがあるというものだ。


 というわけで二人は、ゆとりたっぷり日曜日の昼を堪能しているというわけである。


 二人とも、長期に渡り愛用し続けてボロボロの部屋着を着ている。

 特に晶のスエットは酷い。色褪せていたり、油汚れがあったり、いたるところに継ぎ接ぎがあったり、ほつれたまま、穴だらけのままの箇所があったり。


 とても外になど出られない、近所のコンビニにすら行かれない、みすぼらしくだらしのない服装だ。


 でも、二人ともこれが一番リラックス出来る格好なのだ。

 この服で外に出なければいいだけのことだ。

 心から気持ちがリフレッシュ出来なければ、それこそ日曜の使い方として間違っているというものだ。


 相部屋の二段ベッドからはしばらく、晶の黙読に直子の朗読というか独り言というかが続いていたが、


「あ……」


 ふと机の上のデジタル時計を見た直子は、慌てたようにベッドから起き上がった。

 着ている物を素早く脱ぎ捨てたかと思うと、下着姿のままクローゼットを開いてがさごそとあさり始めた。


「どっか行くの?」


 晶はベッド上段に俯せのまま、少し首を持ち上げた。

 顔を上げたついでに、枕元に置いてある小さな固焼き煎餅をかじった。


「友達と遊ぶ約束しててさ」

「ふーん」


 晶は興味なさそうに、雑誌に視線を戻す。


 玄関のチャイムの音が聞こえて来た。


「やば。来たかな」


 直子は薄いピンクのブラウスを手に取ると、素早く袖を通す。ボタンをとめると、続いてかわいらしいスカートを穿いた。


 玄関の方から母親の声。直子を呼んでいる。


「こっちに上がってもらって!」


 直子はスカートをきゅきゅっと回しながら、ドアから顔を出して大きな声を出した。


 それを聞いて、びっくりして跳ね起きたのは晶である。

 ゴツ、と天井に頭をぶつけたが、構わず見下ろし、


「え、ちょっと、ここに入れるなんて聞いてない。あたしこんな格好だよ、せめて居間を使えよ居間、なんでこの部屋なんだよ」

「だって、もうすぐお母さんもお客さんが来るからって」

「それならそれで、早くいえよそういうことは、なにお前だけお洒落な服に着替えてんだよ! とりあえずあたしが他の部屋に逃げるから時間稼ぎしてよ。見ろよあたしのこのかっこ、あたしだけこんなダサイ……」


 晶は、継ぎ接ぎだらけのスエットの裾を広げ、そして、その姿勢のまま硬直していた。

 いつの間にか、母親によって部屋のドアが開けられていて、直子の友達らがその姿を見ていたのである。


 直子の友達が三人。

 晶もよく知った顔であった。

 かなめふかやまほのか、ほしいく

 全員、フットサル部の一年生だ。


「ナオ、こんちは~」


 深山ほのかが、ひらひらと自分の手のひらを振った。


「晶先輩、お邪魔します。久しぶりに、遊びに来ちゃいました」


 久慈要が、小さく頭を下げた


「ゆっくりしていってね」


 晶たちの母親はそういうと、部屋を出て行った。ドアを閉じた。ここで、まったくの余談を一つ。母親も、二人の娘同様に顔の輪郭が真ん丸である。以上。


「はい、ありがとうございまっす!」


 星田育美が、低く大きな声を張り上げた。まるで体育会系男子。


「お母さん、もういきなり開けないでよね!」


 ばつ悪そうに、晶が怒鳴った。


 こうして、つい先ほどまで二人だった部屋が、五人に増えた。

 狭いとも広いともいえない洋間に、晶、直子、ほのか、要、育美の五人。


 しかし晶は、そのような物理的な広狭よりも、精神的な領域において窮屈さを感じずにいられなかった。


 三人の客人は直子に促され、床のクッションに腰を下ろして、小さなガラステーブルを囲んだ。


「あの、あたし、邪魔ならどっか行ってようか?」


 ベッド二階から、ミイラみたいにすっぽり毛布をかぶった晶が、顔をちょこっとのぞかせた。


「いや、そんな、邪魔だなんて滅相もない。たくさんいた方が楽しいですし。むしろ、あたしらが邪魔だったらそういって下さい。あたし、この通り身体がバカでかいんで、物理的に凄く空間消費しますから」


 星田育美は、そういうと何故だか自分のお腹をばんと叩いた。

 細かいこと気にしないで豪快にやりましょうやという意思表示かも知れないが、晶には、腹減ったいくらでも入るぞという食事の催促に思えてならなかった。


「こっちこそ、邪魔だなんて思うわけないだろ」


 でも妹には、友達の来ることをもう少し早く教えてもらいたかったけど。


 たくさんいた方が楽しい、か。


 星田育美の言葉を、晶は心の中で反芻した。


 多分、本心からいっているのだろう。

 きっと、そういう性格の子が、直子の周囲には集まるんだろうな。

 自分は、といえば、やっぱり一人が気楽でいい。

 ずっと黙っててもいい気心知れた仲だとしても、やっぱり、たくさんの人間に囲まれていたら、もうそれだけで窮屈でしょうがない。

 しかし、ナオは遊び友達が多いよなあ。

 すぐに、誰とでも打ち解けるもんなあ。


 直子のそういう点に関しては、本心から凄いと思う。

 晶には、友達、親友の類はまったくいない。ほとんどではなく、皆無だ。

 学校で繋がりがある間は、必然的になんらかの交流はすることもあるが、それすら必要最低限、学校外で私的に会って遊ぶことなど決してないし、だからクラスや部活が変わってしまえば顔も見なくなる、口もきかなくなる

 たぶんこれからも、ずっとそうだ。

 人生通しての友人など、一人も作らずに一生を終えるのだ。

 誰に文句をいわれる筋合いもないだろう。それで誰も困らないし、それで自分が楽なんだから。

 直子の性格は間違いのない長所であり、素晴らしいことだと思うけども、でも見習うつもりは毛頭ない。


 ナオはナオ、姉ちゃんは姉ちゃんだ。

 ただそれだけだ。


 晶はまた、深く毛布をかぶった。


「あ、ナオ、なにそれ?」


 深山ほのかが、妙に甲高い声をあげた。

 まあ普段から甲高いのだが。


「食器棚の上に置いてあった。食べちゃお」


 悪戯でもしているかのような、直子の楽しげな声。


 ……食器棚の、上?

 ひょっとして……


「いいの?」

「ありがとー」

「いただきまーす」


 紙の包みを開ける、ぱりぱりとした音。


「美味しいね、これ」

「ほんとほんと」


 ベッドの上の仙人様は、下界から聞こえてくる村人どもの会話に、いぶかしげな表情を浮かべたかと思うと、慌てて毛布を跳ね上げて下をのぞきこんだ。


「あ! やっぱり……」


 シャロン鈴木堂のハニーマロンクッキー……ちょっとづつ食べていたのに……


「え、これお姉ちゃんのだったの? ごめん。前々からあそこに置いてあったし、お母さんこそこそして頭来ちゃうからこっそり食べちゃえなんて思ったんだけど。お母さんのじゃなかったんだ」

「あ……いや、いいんだよ、別に」


 一人で全部食べようとしてたのになんて、みっともなくてとてもいえない晶であった。

 そして、こそこそして頭来ちゃうという台詞にちょっと、いや、かなり傷ついた晶であった。


 胸にざっくり斬り込まれたダメージに耐えていると、深山ほのかがベッドの晶を見上げ笑顔で、


「先輩、これ美味しいですねえ。ごちそうさまでした。あたしも、お土産持って来たんですよ。お礼に先輩も是非どうぞ。じゃじゃーん! ハナキヤのケーキでーす」


 ……ハナキヤのって……超高級ケーキじゃんかよ。


「おおー」


 直子と育美が同時に声を上げた。


「晶先輩、あたしも手土産持ってきたのでどうぞ」


 星田育美がお菓子らしい箱を高く掲げた。

 むらこしふうねんどうわら駅近くのちょっと高級な和菓子店だ。


「あたしも持って来たので、よければ食べて下さい」


 久慈要も、なりのお店の洋風焼き菓子をバッグから取り出した。

 よく分からないが、なんだか高級そうな気がする。この流れからして。


 なんだか、元よりも、遥かに高級豪華になってしまった……


「ありがと」


 晶は、ちょこっと顔を出してお礼をいうと、また頭まですっぽりと毛布をかぶってしまった。


 だから人付き合いなんて面倒なんだよ!

 たかがお菓子で、こんな気分にさせられてさあ。

 なんだか、あたし一人、最低なやつになっちゃったじゃんかよ。


「お姉ちゃん、降りてきなよ」


 直子に促され、晶は毛布を剥いでベッド二階から下り、直子の横に腰を下ろした。

 一人だけボロボロの部屋着であるが、だからこそもう、わざわざ着替えたりせずにこのまま通すしかなかった。恥ずかしがって着替えようものならば、かえって服装のことが三人の記憶に強烈に残ってしまうから。


「そういえばあ、先輩とナオのお母さんって、すっごく顔が似てますよね。優しそうな感じで」


 深山ほのかが、唐突にそんな話題を持ち出した。


「別に優しくもないけどね。あたしが小学生の頃、授業参観の時に、クラスの男の子が『絶対あれがダンゴの親だ』なんて叫んでさ、お母さん、他人の子だってのに思い切り引っ叩いてんの。しかも往復ビンタ」


 なんら表情を変えず淡々と語る晶。


「ひゃあ、こっわー。そうしたとこは晶先輩に遺伝したのかな。そうそう、お父さんはどんな感じの顔なんですかあ」


 やたら顔にこだわる深山ほのかであるが、まあ母娘や姉妹でここまで輪郭が似ていれば、仕方のないところか。


「ホームベースみたいな顔」

「ええ、想像つかないなあ。……大工さんかなんかですか?」

「中学校の先生。確か、佐原南のすぐ近くにある中学だよ。顔の輪郭通りの、ガチガチの真面目人間」

「ふーん。そんな二人の子供が育つと、こんな感じの姉妹になるのかあ」


 ほのかは、腕組みをしてうんうんと頷いた。


「あの、なにに感心してんだか、さっぱり分からないんだけど」

「あ、いや、なににってわけじゃないんですけどね」


 ほのかは笑った。


「晶先輩! でもあたしはね、先輩のことかっこよくて素敵だと思いますよ」


 唐突に星田育美が大声を張り上げ、晶はびくり肩を震わせた。

 彼女にとっては単なる地声なのかも知れないが、急に喋られるとびっくりする。


「なんだよ、突然に」


 熱い紅茶のカップ落としそうになったじゃないか。


「そもそも、でもってなんだ、でもって」

「でもはでもです。だって、あたしたちがこの部屋に入ってきた時、切羽詰った顔で両手広げて、『あたしこんなにダサイ!』って叫んでたじゃないですか。ダサくなんてないですよ。そんな卑下せず、もっと自信を持ってかっこよく生きてください」

「え、違う、あれは……いいや、どうでも。うん。どうでもいい。もう」


 説明する気力も失せ、口を閉ざした。

 どう思われようとも、実際ダサイことに間違いはないし。


 服装も、性格も。

 お菓子ひとつで声荒らげたり畏縮したり。

 マロンハニークッキーがこの近辺では一番美味いと、なんの疑いも抱いていなかったし。


 井の中の蛙大海を知らず、

 空の青さを知ったことのみが収穫とは、いと悲し。


     7

「ちょっとこれ、どういうこと?」


 女子バレーボール部ののすぐ横には、キャスター付きの大きなボールカゴがある。たったいま彼女自身が押して転がしてきたものだ。


 彼女と相対するたけあきらだけでなく、フットサル部の全員が、動作をとめて事の様子を見守っている。


 どうもこうも一目瞭然、なにがなどと尋ねるまでもない。

 バレーボール用のカゴの中に、フットサルのボールが大量に混じっているのだ。


 サッカーのボールとフットサルのボールは非常に似ているが、しかしわらみなみにサッカー部は存在しないため、部外者が持ち込んだのでない限り、フットサル部の備品以外には有り得ない。


「ごめん。間違って入れちゃったみたいだ。片付けをした者には注意しておくから」


 晶は軽く頭を下げた。


「まさか注意で済む問題だと本気で思ってないよね? このサッカーボールだかなんだか入れるために、バレーボールが掻き出されて、用具室中に散らばってたんだよ。どうしたら、間違いでそんなことが起こるの? 常識的に考えて嫌がらせとしか受け取れないよね。そうじゃないというのなら、ちゃんと説明してくれなきゃ、うちの部員だって納得しない」

「といわれても……」

「別にあたし、話をおおごとにしたいわけじゃない。そうならもう顧問に相談してる。うちらの間でおさめたいからこそ、納得いく説明をして欲しいんだよ」

「分かった。それに関しては、そっちの部員が納得出来るよう、文書を作成して渡すようにするから」

「それならいいよ。じゃ、さっさと、このカゴから余計なボールを取り出してよ。本当は、用具室で散らばっているのも片付けてもらいたかったところだけど、もうみんなで持ち出して練習始めちゃってるから、そっちは許してあげるよ。わざわざ散らかしてもとの状態に戻してから片付けさせるなんて、こっちも面倒だから」

「そりゃどうも」


 晶はいくやまさとを手招きで呼んで、二人でフットサルのボールを取り分け始めた。


 腕組みして見物していた小野佐智子であるが、作業が終了するとようやく満足したのか、


「もうこんなことしないでよね。じゃ、書面もよろしく」


 と、カゴを押し押し去って行った。


 様子を見ていた一人である生山里子が、小野佐智子の背中を見ながら毒づいた。


「嫌な感じ。あたしより性格悪いんじゃないの。いちいち、もったりもったりとカゴを押してやって来たかと思ったらさあ。こんなこと、晶先輩一人を用具室に呼び出して、そこで苦情いうなり片付けさせればいいことなのに、わざわざ大勢いるところで」


 里子は、フットサルボールを投げ付ける仕草まで始めたが、他のバレー部員が見ているのに気付いてすぐに手を引っ込めた。


「まあ、いいじゃんか。こちらとしても、なくなったボールが出て来たんだし。あ、手伝ってくれて有り難うね」

「でも文書提出だなんて面倒ですね」

「まあね。でもあたしが咄嗟に独断で提案したことだし。王子の汚い字じゃ相手をますます怒らせるから、やっぱりあたしが書くしかない」

「別に王子先輩が汚い字で相手を激怒させたって、あたしはいっこうに構わないですけどね。むしろ面白い」

「そうはいくか」


 などと軽口を飛ばし合っている二人の耳に、一年生たちのいい争う声が飛び込んで来た。


「なんで確認しなかったの!」

「ここから持ち出すところまでは確認したけど……でも、バレーボールのカゴに入れてやしないかなんて、そんなのあたしの役目じゃないよ」

「でも、と組んで片付けてたんだから、だったら、そこまでチェックしなきゃ」

「なんでそんな余計なことしなけりゃならないの! 練習終わったんなら早く帰りたいよ。学校の宿題だってあるんだし」


 そう、ことの発端は西にしむら

 彼女が、先日の用具片付けの際に、バレーボールを掻き出してフットサルのボールを詰め込んでしまった張本人なのである。


 一年生のやりとりはなおも続き、ついには、奈々の擁護派と糾弾派とに分かれて、火花の散るような口論が勃発してしまった。


 と、その時であった。


「いや~、遅れてごめん。英語の時間にちょこっと居眠りしたくらいで、モアイのやつぐちぐちと説教してきやがってさあ。こんな遅くなっちゃったよ。……あれ、一年どもなにやってんだ?」


 部長のやまゆう

 小一時間ほど遅れて、ようやくのお出ましであった。


     8

「王子先輩、聞いてくださいよ!」

「先輩、いまバレー部の部長が!」

「奈々が用具片付けでえ」


 きしもりなつつじら一年生たちが、不満気な思いを訴えるべく我が部の部長を取り囲んだ。

 参加していない一年生は、当事者の西村奈々と、たけなおかなめの三人だけだ。


「うるせえ、順々にいえよ、あたしは小野おののいもじゃねえぞ!」


 鬱陶しさに山野裕子は怒鳴り、自分の耳を小指でほじくった。


「ひょっとして聖徳太子の間違いですか? どうでもいいや。それより、聞いてくださいよ」

「分かった。じゃ、夏樹からな」


 というわけで、不満を並べ立てるなつ


 しかし裕子は腕を組んで、小声でぼそぼそ。

 あれ、十人の声を聞くのって、小野妹子とかいう男だか女だかよく分からん名前の奴じゃなかったっけ?

 聖徳太子だったかなあ。いや、違うよ、小野妹子だよ。分かんないけど、多分。


「……い……先輩、聞いてますか?」

「ん? あ、聞いてる聞いてる。うん、練習すればいつか魔球蹴れるよ」

「全然聞いてない!」


 などと部員たちが騒いでいると、今度は、


 陸上部の部長であるふじひとみが、怒ったような顔で近付いて来た。


 ような、ではなく、彼女は本当に怒っていた。

 用具室の中で、高飛びのバーがへし折られて床に落ちていたというのである。


「昨日、片付けた時は、間違いなく折れてなんかいなかった。決め付けるつもりはないけど、違っていたら本当に申し訳ないとは思うけど、でも、昨日、まだ残っていたのはフットサル部だけ」


 藤田瞳のその言葉に、フットサル部員ほとんど全員の視線が、西村奈々に集中していた。

 だがしかし……


「やべ、それあたし」


 裕子はそういうと、頭をかいて、ごまかし笑いをその顔に浮かべた。


「ほら、この前までそこ椅子が置いてあったじゃん。よく見ずによいしょって座ろうとしたら、バキバキ音が鳴って、あたし転がっちゃって、気付いたら真っ二つに折れてた。いや、隠すつもりはなくて、ちゃんと伝えて、届けだって出そうと思っていたんだけど、まあなんだ、すっかり忘れちゃって」


 かわいらしく舌などちろっと出してみる。

 全然かわいくないが。


「早く届けなさいよ! あと、ちゃんと弁償してよね!」


 藤田瞳は、体育館を後にした。


 真犯人は判明したが、しかし、部員たちの間を既に流れてしまっているこの気まずい空気がどうなるものでもなかった。


 みんな、奈々と視線を合わせることが出来なくなってしまっていた。

 佐奈夏樹、村上史子、辻美香菜、岸田森、一年生たちは、ばつが悪そうにお互いの顔を見やっている。


 しんと静まり返った体育館に、突然、うおおお、という獣のような低い呻き声が聞こえた。

 ほしいくが、吼えているのだ。


「アゴ、どうしたんだよ? 」


 ったく、うるせえなこいつは。

 と思いながらも裕子は、育美の前に立って、その表情を確認しようとした。

 しかし育美は、自分のでっかい両手で顔を覆い隠してしまっている。


「おい」


 と、肩を掴もうとしたものの、しかしでけえなこいつ、強そう、と躊躇しているうち、反対に、その長身から巨大な手が落ちてきて、裕子の両肩をがっちりと掴んだ。


 星田育美の両目からは、涙が流れていた。


「おい、アゴ、なに泣いてんだよ。ぶっさいくな顔して」

「だって……だって、あたし、奈々のこと、疑っちゃって。陸上の方は、奈々じゃなかったのに」

「ごめん。それは、あたしが悪かった」

「違うんです! あたしが罪のない奈々を疑ってしまったことは事実なんです。あたし、心が醜いんです!」

「はあ、純情な奴だなあ。たまーにいるよ、こういうの。うざってえ。でっかい図体のくせに、良い人過ぎるというか、まあ、これで悪党だったら無敵過ぎるけどね。まあなんだ、悪いと思ってんだったらさ、奈々ちゃんに直接謝りゃいいだろ。奈々、おいで」

「はーい」


 奈々が裕子の手招に応じて、とてとてと近付いて来た。


「そんじゃあアゴ、心ゆくまで謝るるがよいぞよ」

「まずお前が奈々に謝るのが筋だろ!」


 武田晶が、裕子の背後から、後頭部をわし掴みにして強引に頭を下げさせた。


「あいてて、髪の毛痛い髪の毛痛い! こすれてるこすれてる!」


 涙目で本気で痛がり逃れようと暴れる裕子。


 その時である。

 不意に視界に飛び込んで来た、

 体育館の窓に立つ、黒いスーツを着た男。


 二人いる。

 色のついた眼鏡をかけているため、視力二・〇の裕子にも彼らの目元までは分からないが、こちらを見ていることは間違いないだろう。


 なんだろう、あの二人。

 と思ったのも一瞬、ごりごりと擦れる頭皮の激痛に、とても思考を働かせるどころではなかった。


「分かった。分かったから! 奈々、ごめんなさい!」


     8

 部活も終了し、ただいまは夜。

 下校中である。


 狭い割りに交通量の激しい道路の歩道を、ゆうは並んで歩いている。


 あきらなおとは、たまたまタイミングが合えば一緒に帰るという程度だが、奈々とだけは、いつも一緒に下校するようにしている。


 本当は、朝も一緒に登校してあげたいところだが、元々朝が苦手でただでさえ遅刻ばかりしている裕子、そこまで早起きは出来ない。反対に、奈々を遅刻に巻き込んでしまいそうだし。


 そもそも一緒に下校をしているその理由であるが、自分の中でもそれほど明確な理由があるわけではない。


 強いて挙げるなら、通学に使う道路がそれなりに交通量が多いから。

 それに、学校の外でどんな危険があるか分からないし。


 フットサルの練習によって遅くなるのだから、自分が責任を持って送ってあげた方がいいのかな。

 と、その程度のものでしかない。


 送ってあげるといっても、奈々の自宅は高校から徒歩圏内で、しかも駅に向かう途中にあるので、だから物理的にはなんの苦もない。


 奈々の受け入れ先としてわらみなみ高校が選ばれたのも、能力や障害のレベル云々ということでなく、単に近いからとりあえずではないかといわれている。

 本人や先生から直接聞いたわけではないが、生徒の間ではそういう噂だ。


 最近、裕子はバスの定期券を買うのを辞めた。

 前述の理由により帰りは確実に徒歩であるし、朝だけのために定期券を買うのもばかばかしい。

 回数券はなんとなく好きではないので買いたくないし、毎日あの混雑の中で小銭をじゃらじゃらさせるのも……と、そのようなわけで、登下校はどちらも徒歩だ。


 朝は一人きりだし、駅から登りの山道を走って学校まで行っている。


 そのため、一時期激減した遅刻の数が、去年なみに戻ってしまい、二日に一回はゴリ先生に怒られている始末である。


「今日はねー、テスト返ってきたんだー」


 奈々は、何故だか楽しそう。

 何故もなにも、いつもこういう表情だからなのだが。

 武田晶と対極である。


 一緒に帰ることになって何週間も経つが、二人が勉強や試験の話をするなど、初めてのことであった。


「そういえばさっき、ナオが落ち込んでたな。で、奈々は何点だったんだよ?」


 デリカシーもへったくれもなく平気で点数を尋ねる裕子。

 奈々は、むふふと楽しそうに笑うと、


「英語九点、世界史十二点、古文八点」


 奈々は答案を見もせずに、すらすらと答えた。


「うわあ、バカだあ」


 点数のあまりの酷さに、思わず大爆笑の裕子。

 健常者と同じテストなのだから、ハンデを考えれば当然のことなのに、だ。


 奈々も、怒ることも悲しむこともなく、まるで他人事のように、はしゃぐように笑っている。


「でもねぇ、奈々、まだまだ甘いよ~」


 裕子は自分のカバンに手を突っ込んでがさごそ漁ると、使用後の鼻紙のようにくしゃくしゃになった英語の答案用紙を取り出して、奈々の眼前に突き付けた。


「英語六点!」

「ぐあっ、あたひよかひろい」

「だろ。しかも、これでも前日に勉強してんだよな」


 自慢げに語る裕子。


「あたし昨日の夜はずっとブトサルボル蹴ってたあ」

「バカ最高!」


 裕子は叫び声をあげ、両腕を突き上げた。

 笑い合う二人。


 なんだか妙にテンションが高まって、奇声を発しながら抱き合った。

 道行く人が変な目で見ているが、二人とも全然気にせず、笑い続けた。


「王子あいがと」

「なにがよ?」

「バカっていってくれる。誰も黙っちゃって、思ってるのに黙っちゃって。王子とヤマダは、バカバカいってくれるから好き」


 普通、いえるわけがない。

 あきらかに知的障害者と分かっている者に、そんな言葉。


 裕子は、自分がおかしいだけという自覚は持っている。確かに、下手したら相手は傷つくかもな、という思いはある。


 でも、奈々にはこれでよかったんだな。

 奈々本人は、変に気をつかわず本音で接して欲しかったんだな。


 ヤマダって、オムツマン山田の妹のことかな。この間のヤニクサイ事件の。


 きっと悪意を込めてバカっていっただけだろうに。

 奈々は純真過ぎて悪意を見抜く力がないから、単に心地の好い言葉と受け取ってしまったのだろう。


「あのな、奈々、バカだからバカなんて、普通は、気遣っていえないものなんだよ。いわないのが、当たり前なの。そういわれて傷ついちゃう人もいるし、その人が傷つくタイプの人かどうかなんて、分からないんだから。あたしは、バカも個性だって思っているけどね。だからあたしは、自分もこんなバカなのに、自分のことが好きだったりするし」

「コセイって?」


 奈々は親指をしゃぶりながら、首を傾げた。


「勉強が出来る出来ない、上手に生活出来る出来ない、速く走れる、足が遅い、優しい、怒りっぽい、お喋り、無口、人って、こんなふうにたっくさんの人がいるよね」


 語る裕子。

 兄の受け売りだけど。


「うん。あ、そういうのコセイなのか。いろんな人いるよってこと」

「そうそう。奈々は奈々だから奈々なのだ、ってこと」

「あう。奈々は奈々にゃから奈々なななのか。あれ、奈々だから奈々で奈々が」


 そのいいまわしをたいそう気に入ったようで、何度も反芻する奈々。全然いえていないけど。


「奈々だから奈々。だから奈々のままでいいんだよってこと。奈々が奈々じゃなかったら、奈々じゃなくなっちゃうだろ」

「そっか、なにゃは奈々だから奈々なのだなのか。裕子はブスだからサルなのだ」

「ブスじゃねえよ! バカだけど断じてブスじゃねえよ!」


 これまでそんな単語、話のどこにも出てなかったのに、どこから引っ張って来た?

 誰に吹き込まれた。

 あきらか? さとか? さき

 それとも、まさか、づきが……


     9

「お皿洗いにお片付け、完了」


 西にしむらは、部活の王子先輩の真似をして、指をピッと立ててかっこつけようとしたが、思ったようにいかず、なんだかしまりのないふにゃふにゃしたポーズになってしまった。


「はい、ありがとう」


 奈々の母親、ふみは片付けられた皿を見て、苦笑する。


 全部、洗い直しだなあ。


 汚れや洗剤の泡が、ろくに落ちていないのだ。

 洗い物は汚れを落とすために行なうもの、と教えても、意味を完全には理解出来ていないのだから仕方がない。


 そもそも、汚れているのが嫌という気持ちが奈々にはまるでないのだから。


 身体中に油がたっぷりついていたら、さすがにぬるぬるして不快だろうが、泥で汚れている程度ならまるで平気なのだ。


「それじゃ、こんどは歯磨き。終わったら、お母さんに見せるのよ」


 こればかりはしっかりチェックしてあげないと、虫歯になってしまったら大変だからな。


 心は幼くても、歯はみんな大人の歯なんだから。


「うあい」


 また奈々は指を立てて、心にピッと実質ふにゃっ。


 今日は土曜日。

 奈々の父親は、仕事の都合で土曜にはほとんど家にいない。今日もそうだ。


 だから、奈々の土曜日の過ごし方というのは、母親と過ごすか、徒歩圏内に住む知的障害者の友達と遊ぶか、どちらかであることが多い。


 ただ最近、もう一つ選択肢が加わった。

 受け入れ先の高校で入った部活での、隔週休日練習だ。


 奈々は高校で初めて、学校の部活動というものに入ったのだが、それにより、生活にこれまでよりもいいリズムが生まれたようである。


 放課後や休日の練習を終えて帰ってきた奈々の表情はとてもいきいきとしており、それを見ている史恵は、自分までが嬉しくなってくる。


「はい、じゃ、あーん」

「あー」


 奈々は大口を開いて、史恵に口の中を見せる。


「ほらあ、ここ磨けてないぞ。下の奥歯の方。鏡見て自分で確認しなきゃ。ちょっと歯ブラシ貸して。……はい、いいよ、ゆすいできて。飲んじゃだめだよ。バナナ味だけど食べ物じゃないからね」

「そんなこといわれなくても分かってるよ! 奈々はなにゃなんだぞ!」


 バナナ味の飛沫が口から噴き出しまくっている。


 分かってないから、この前飲んじゃったんじゃないか。


「ごめんごめん」


 でも謝っていると、不意に玄関のチャイムが鳴った。


「王子だ!」


 奈々はいてもたってもいられぬ様子で、玄関へ向かって走り出した。


「お母さんが出るから、奈々は洗面所で口ゆすぐ!」

「はーい」


 両手を広げて飛行機旋回、奈々は洗面所へと向かった。


 史恵は玄関へ行き、ドアを開けた。


     10

「こんにちは! 、迎えに来ました」


 門の前で、やまゆうが元気よく大きな声で挨拶した。


「こんにちは、裕子ちゃん。ごめんね、奈々のこと色々とかまってもらっちゃって」


 ここ最近、裕子は毎日奈々を学校から自宅まで送り届けているので、二人はもう知った顔なのだ。


「いやあ、そんなこと気にしないでくださいよ、あたしの好きで、勝手にやってることなんだから」


 今日は、奈々が知的障害者の施設に行く日だ。

 以前は週に三回は行っていたが、現在は月に二回。

 前回、熱が出てしまって行かれなかったから、一ヶ月ぶりだ。


 今回は裕子も一緒だ。

 下校中の雑談で、施設に興味を持っていることを話したところ、奈々に誘われたのである。


「ほんとうに、迷惑かけるけど、ありがとうね」


 ふみは軽く頭を下げた。


「おばさん、そんなペコペコしないの! 奈々のなにがどう迷惑なの?」

「え、そういうつもりでいったわけじゃないんだけどなあ」


 でもまあ、つもりがなくても、誰でもそうなっちゃうのかな。

 と、裕子は思う。


 確かに、障害者の子がいたら、どこでなにをしてしまうか予想も出来ないところがあるし、はっきりいって誰かに迷惑かける可能性はおおいにあるわけで、だから親としても無意識に卑屈な態度になってしまうのかも知れない。


 でも、なんかそれ、違っている気がする。

 なにがどう違っているのか、ならばどういう態度を親は取ればいいのか、そんなこと分からないけど、とにかくなんか違う気がする。


「やっぱり王子だた! 来てくれてあいがと~」


 奈々が小さなカバン片手に、史恵の脇を抜け、外へと飛び出した。


「準備おーけー忘れものなし!」


 奈々は自分のお尻をぺしぺしと二回叩いた。意味不明。多分、いま目の前にいる先輩様の影響だ。


「それじゃ、気をつけて行って来るんだよ。裕子ちゃん、よろしくね」

「了解っす。行ってきます。それじゃあ、出発だーっ!」


 裕子は元気よく天へ右手を突き上げた。


「そえじゃ、出発だーっす!」


 奈々も、右手を突き上げる。


「そのまま真似すんなよ」

「じゃあどう真似ふりゃいいのさ」

「自分で考えな。つうかそもそも真似すんな」

「考えても分からん、教えてくれよー」

「やだー」


 二人は小突き合いをしながら、歩き出した。


 裕子は振り返ると、あらためて奈々の母、史恵に手を振った。


     11

 一分ほど歩くと、狭い割に車通りの激しい道路へと出た。

 わら駅とわらみなみ高校とを結ぶ県道だ。二人は、その端にある歩道を歩いて下り道、駅の方へ。


 バスケのことだの、施設のことだの、他愛のない雑談をしているうちに、いつしか坂を下り終えていた。


 平坦になった道をもう少し歩くと、町並みががらりと変化した。

 単なる田舎っぽいだけの風景から、江戸情緒を感じさせる時代劇のセットのような眺めになった。

 佐原を佐原たらしめる、町並みである。


「そこ、づきのうちがやってるお店なんだよねー」


 裕子は、「九頭和菓子」と書かれた看板の出ている明治大正を想像させる古びた建物を指差した。


「ふえ、そうなんだあ。あたしねえ、ここ、お父さんとお母さんと一緒に何回か来たことあるよ。おいしいよねー」

「毎度のごひいき、有り難うございます」


 葉月のお父さんが、少し開いたガラス戸の間から頭だけ突き出して来た。

 店の中側から、お辞儀をしているのだ。


「おじさん、こんにちは」


 裕子は片手を上げた。


「こんにちは。葉月どう?」


 お父さんはガラス戸を完全に開いて、外へ出て来た。

 恰幅のいい、頭髪の少し寂しい中年男性である。


「どうもこうも、毎日会ってるでしょうが」

「違うの! 学校の! 学校の、は づ き!」


 お父さんは身もだえするようにぐねぐねと腰をくねらせた。

 面白がって奈々が真似する。

 二人揃って、ここは昭和のゴーゴー喫茶か。


「相変わらず真面目だよ。この子、入り立ての一年生なんだけど、あたしなみに物覚えが悪くてさあ、でも全然焦れずに丁寧に教えてくれていて、ほんといい子だよ」

「ハヅキいい子いい子!」


 奈々が右腕突き上げて叫ぶ。


「よかった。で、いい子なのは分かったけど、というかそんなこととっくに分かっているけど、他は? いきなり駄洒落を叫んで一人で大笑いするようになったとか」

「たぶんねえ、そんな葉月になるには寿命が足りないね。あの堅苦しい真面目さは、百年やそこらじゃ、これっぽっちも変わりゃしないよ」


 そもそも娘になにを期待してんだか。

 まあ友達が出来るようにもう少し明るくなった方がいい、ってことなんだろうけど。


「電車に遅れちゃうから、もう行くね」

「今度お菓子買いに来てねー。後輩のお嬢ちゃんもね。おまけするよ」

「はーい」


 奈々は振り返り、ぶんぶんと手を振った。


「道草食っちゃった。あのおじさん話が面白いから、油断してると何時間でも過ぎちゃうんだよな。危なかった」


 駅へ、歩き続ける二人。


 電車に遅れてしまうといっても、まだまだ余裕はある。

 昼の成田線は一時間に一本しか来ないため、慎重に行動しているだけだ。


 というわけで、電車到着予定の十五分前には、佐原駅に到着した。

 白塗り壁の、これまた古臭い雰囲気の駅舎である。

 その前のロータリーには、昭和時代に主流だった円柱郵便ポストが置かれている。


 自動改札を抜けて、ホームのベンチで雑談をしていると、やがてことんことんと静かに電車が入って来た。

 青とベージュのツートンという国鉄色の、なんだか古臭さを感じさせる車両だ。


 ドアが開き、二人は乗り込んだ。

 同じ車両には、他に四人ほどしか乗っていない。


 ほどなくして発車ベル。ドアが閉まり、電車は動き出した。


 外から見ていた時の静かさと比べて、いたるところ隙間が空いているためかガタゴトとうるさい。


 奈々は電車移動が久しぶりらしく、窓に両手をつき顔を押し付けて、左から右へと流れて行く風景に夢中になっている。顔を離すとガラス窓がよだれでべったりだ。


 五分後、隣の駅であるおお駅に到着した。


     12

 降車したのはゆうたちだけのようだ。

 駅舎のない、ホームのみの淋しい無人駅を出て、外へ。


 裕子は中学生の頃に、とりからここまでサイクリングに来たことがあるが、その頃と全く変わらない風景だ。


 わら駅は、駅周辺は多少は栄えており少し離れるとなんにもなくなるのだけど、ここは駅のある所からして既になんにもない。


 でも、だからのどかで気持ちが良い。

 時間がのんびりと流れているようで。


 裕子は昨日調べておいた住所と地図を頭に思い浮かべながら、歩き出した。


 地図を見るのは苦手だけど、苦手苦手といつまでも逃げていても仕方ない。と、昨日は我慢してしっかりと地図を見て頭に叩き込んだから大丈夫なはずだ。


 しかし、五分、十分と歩いているうちに、なんだか、ちょっとだけ不安になってきた。


「奈々、道が違ってたら教えてね」

「うん。道、反対。駅の向こうだよ」


 裕子は大昔のギャグ漫画のように、前のめりに転びそうになった。いわゆるズッコケである。


「もっと先にいえや!」


 渋い顔で、踵を返し来た道を戻り始める。


「ユーターン!」


 ぶーん。飛行機旋回の奈々。いつも楽しそうだ。


 彼女たちは駅に戻り、線路の反対側へと渡った。

 それから十五分ほども歩くと、ようやく林の向こうに、あれが施設かなと思える建物が見えて来た。


「あれ、あのとんがり屋根のとこ!」


 奈々が指を差し、叫んだ。


 さらに五分も歩き、ようやくたどり着いた。

 駅からそれほどの距離ではないが、行ったり来たりでえらく時間がかかってしまった。


 田畑の中にぽつんと存在している狭い敷地、L字形の建物。

 庭には砂場もあり、なんだか幼稚園みたいな雰囲気だ。


 観音開きの門は、片方だけ開いている。

 「らぃらっく学園」と年期に薄汚れたような表札には書かれている。


 このちいさな「ぃ」ってどう発音すんだろ。


 などと裕子が思っていると、


「邪魔だバカ!」


 裕子はどんと胸を強く押され、突き飛ばされた。


 門を通って敷地から出て来た、グレーのスーツ姿、無精髭の大柄な中年男は、裕子には一瞥すらくれずに建物の方を振り返ると、


「おい、また来るかんな!」


 ドスのきいた声で叫ぶと、荒っぽい足取りで歩き出した。

 しばし呆然とする裕子であったが、はっとしたように、


「なんだよ、あいつ! 頭来た! 文句いってやる」

「ダメ!」


 奈々は、男を追おうとする裕子の、ズボンの腰に指を突っ込んで引っ張った。


「なんで? あいつ知ってんのか? つうかズボン引っ張んな、パンツ出ちゃうだろ!」

「よく知らない人だけど、何回も何回も来てる。えんちょおがよく、なにもしないでっていってた。ショウくんが殴ろうとするとダメだよって止めてた」


 やっぱりそういう、殴りたくなるような人種なのか。

 なんだろう。何回も来てるって。


「奈々、いらっしゃい」


 敷地の中に、柔和な微笑みを浮かべた女性が立っていた。

 顔は一見すると若そうなのだが、よく見ると随所に小ジワがあるし、頭髪の八割方が白髪だし、それなりの年齢の女性なのだろう。


「あう、えんちょお! あのね、お友達つれて来たんだ。えっとねえ、王子っ!」

「というあだ名の、山野裕子といいます。学校でおんなじ部活です。奈々がどんなとこでお世話になったのか、つい興味があって来ちゃいましたけど、迷惑なら帰りますから」

「迷惑だなんてとんでもない。歓迎します。さ、中に入って」


 園長の女性はそそくさと歩み寄ると、裕子の手を両手で包み込むように握り、続いて裕子の腰へ手を回し、中へ入るよう促した。


     13

「こっちだよ」


 今度はが、ゆうの腕を掴んで、ぐいぐいと引っ張り始めた。


 L字の建物の、内側は簡素な屋根の付いた通路で、外側には幾つかの大きな部屋がある。

 裕子は先ほど、ここを幼稚園の建物のようだと思ったが、本当に、ここは元々幼稚園で、壁をぶち抜いたり逆に仕切りを作ったりなどの改装をおこなったものらしい。


 奈々に引っ張られるままに、靴を脱ぎ、通路に上がり、大部屋へと入った。


 そこには、十人ほどの子供たちがいる。

 年齢層は様々で、小学低学年くらいから、大学生くらいにしか見えないような者までいる。女の子が三人いて、あとはみんな男の子だ。


 子供たちは長机で、絵を描いたりなどそれぞれの作業をしていたが、奈々に気がつくと、一斉に立ち上がり、飛び掛かるかのような猛烈な勢いで集まって来た。

 裕子たち二人は、ぐるりと取り囲まれてしまった。


 奈々と同年代と思われる男の子が「奈々、久しぶりだねえ」と、声をかけてきたが、他の子らは、黙って笑みを浮かべているだけだったり、頭を左右にせわしなく振っていたり、目を白黒回転させながら奈々の名を連呼していたり、様々な反応を見せている。


 脳の構造の、一体どういった理由でそういう反応になるのか、裕子にはよく分からない。

 分かるのは、奈々はこの子らにとても好かれているんだなということ。

 つまりは、表現方法って人それぞれ様々だな、ということ。


「今日はねえ、お友達連れて来たんだよ」


 いままでみんなの視線は完璧なまでに奈々にのみ集中していたのだが、その一言で、今度は一斉に裕子へと視線が移った。


「ともだち!」

「やったー!」

「ともだち!」


 半分ほどの子が、大声で叫び出した。

 残りの子は、黙ったままニコニコしていたり、むすっとしていたり、泣きそうに俯きながらも、でも、裕子の服の袖や裾を引っ張っていたり。


 みんな、友達の来訪、つまり自分が来たことを喜んでくれているようだ。

 それぞれ思い思いの表現方法で。


 これが本に書いてあった、プロトルコが狭いとか何とかいうやつか。あれ、プロトコロだっけ? トルコブロだっけ? ま、いいや。どうでも。


 みんなの視線を受けた裕子は、これは挨拶しなきゃってことだよな、と思い、咳払いすると、おもむろに口を開く。


「ええと……山野」

「王子!」


 奈々が、裕子の声を打ち消すような大きな声で叫んだ。


「王子です。よろしく」


 まあ、いいか。

 裕子は、にこりと笑みを浮かべた。


「おうじ!」

「おうじ様のおうじか?」

「おうじ! あそぼ!」


 七、八歳くらいに見える子から、大きな子まで、みんなで裕子を取り囲んで、腕や服の裾をぐいぐいと引っ張った。


「ちょっと、この子らに付き合ってみます?」


 園長が、出入口のガラス戸のところで笑みを浮かべている。


「はい」


 みんなで一緒に遊ぼう、ということになったのだが、遊ぶといっても内容は単純、トランプの神経衰弱や、ババ抜き、裕子もルールを知っているものばかりだ。


 最初は、ちょっと遊んでやりますか、という上から目線の裕子であったが、果たして過ぎてみれば、どのゲームもことごとく裕子がビリであった。


 みんな、判断がやたらと素早く、しかも的確なのだ。

 何人か、どうしてもルールの特定部分を理解出来ない子がいて、それに対する救済措置はとっていないためそこは完全なハンデになるわけだが、でも裕子はそうした子にすらも一度も勝つことが出来なかった。


「あのー、あたしバカなんで! 少しは手加減してくれないとお」


 しまいには、裕子は本音で泣き言をもらし始めたのである。


     14

 その後しばらくして、ゆうは園長に呼ばれて隣の事務室へ。

 一番奥の壁際に園長の席があり、そこで二人は向かい合った。


「どうでしたか? みんなは」


 園長は尋ねる。


「どうって……みんな楽しそう。頭の回転が早い子が多いですね。ゲームやったんですけど、あたし誰にも勝てなかった。ルールをどんなに説明しても同じところだけ取り違えちゃう子や、上手く言葉の出てこない子もいるけど……なんていやいいのかな、そう、慣れると単なる個性ですよね」


 障害も個性。

 兄との会話の中で発見した、自分とあの子らを結ぶ言葉。


 裕子のその言葉に、園長は優しく目を細めた。


「そう。町で擦れ違うだけでなく、同じ部屋で、輪に入ることでかなりの偏見はとけるんですよね。だからわたしは、なるべく色々な人にここの子らを見て貰いたくて、興味持った方をよく招待するんですよ。子供たちにも、知り合った人たちをどんどん呼んで貰うようにお願いしてるんですよ」

「はあ、それで奈々も、あたしのこと誘って来たのか」

「奈々は特にお利口さんだから、自分の気持ちとしても、仲良くしてくれる子に色々と見せたかったんでしょうね」

「でも本当に、いろんな子がいますね。あたし全然勉強できなくて、机にかじりついて頑張ろうとしたこともあったのだけど、どうしても頭に入って来なくて。机にいることが辛くて辛くて。この前、兄にいわれて、これも一種の脳の障害だよなあって思いましたよ」


 たけあきらにいわせれば、単なる勉強嫌いというところだろうが。


「実際は、そういうのとは違うんですけどね。あの子らはもっと先天的な脳の問題、医学的な問題だから。でもその考えは面白いですね。障害者との距離を縮めることが出来る貴重な考え方です」

「はあ」

「知的障害者といっても、障害の大小だけでなくタイプも色々とありましてね、他は完全に正常なのにどうしても漢字だけ読むことが出来ない者、数年前の記憶をそのまま絵に描けるくらい優れているのに一桁の足し算も出来ない者、情緒や能力の発達が著しく遅れている、またはこれ以上の成長の出来ない者。この施設にいるのは、主に知性面での発達の遅れている子たちです。要するに大人へと成長していく能力に異常のある子です」


 よく分かんないけど、ようするに幼稚園小学生のまま、ということかな。


「遅れている進んでいると、人間の身で判断するのはおこがましいかも知れないけれど、やっぱり遅れているんですよ。でもそれは、神様から授かった、そう、山野さんのいう個性というものだから仕方がないとして、実際に障害を持った身としてなにが出来るのか、難しいなりにも世の中からなにを学んでいかなければならないのか、そういうことをここであの子たちには学んで貰っているんです」

「こんなとこに、こんな施設があるなんて知りませんでした。まあ、あたしとりに住んでるんで、ここに来ることがほとんどないですけど」

「色々なところにありますよ。香取では、知り合いが、福祉施設『大人用の職業訓練場』を経営してます。よくわらなりで、園内で作ったきのこを売っていたりしていますよ」

「あ、それ、お祭りの時に見たことがある。お母さんがきのこ買ってて、袋にその名前が書いてあって、面白いなって思った記憶があります」

「面白い名前ですよね。本当は、あまり漢字は使わないものなんだけど。植物の名前をひらがなにしたり」

「そういえば、ここって、なんて発音するんですか? 小さい『い』が小さくなければ、らいらっく学園だけど」

「ああ、読む時はらいらっくです。見た目が綺麗な感じになると思って、わたしが考えたのだけど」

「ああ、ちょっとすっきりしました。気になってたんで。……あの、園長さんに聞きたいことがあるんですが。つうか実はここに来たのって、それが目的でして。奈々に誘われるまでもなく、一度ここに来てみたいと思ってたんです」


 裕子は、前々から疑問に思っていたことを、園長に尋ねた。


 知的障害者への学校での接し方。特に、部活といった狭い空間での接し方。

 障害者への接触を嫌がる者に対して、なんと説明すればいいのか。


 裕子自身は感覚として問題なく奈々と付き合えても、その感覚を正しく言葉に表せなければ、周囲に迷惑かけてしまうかも知れない。

 逆にいえば、説得力のある言葉さえ持っていれば、色々な障害を円滑に乗り越えられるのではないか。


 具体的にどうすればいいのか。

 気持ちをどのように持てばいいのか。

 どうすれば、そうした感性や感覚を説得力のある言葉に出来るのか。


 質問が少し漠然としているところはあるが、こういう仕事をしている人なら汲み取ってくれるのではないか、適切な答えをくれるのではないか、と裕子は思ったのだ。


「山野さんは真面目ですねえ」

「いや、基本は不真面目なんですけど」


 裕子は頭をかいた。

 エロ話、好きだし。

 付き合ってるカップル見ると、引き裂きたくなるし。


「こういえば良い、という言葉は、残念ながらわたしも持っていません」

「そうですか。やっぱり」


 裕子の表情から、ほんのちょっとであるが元気が失われた。


「接する人が背中で表現するしかないでしょうね。でも山野さん、わたしは、あなたはもう気付いているんじゃないかと思うんですよね。だから、あとは背中を見せるだけでいいんじゃないですか?」

「そういわれても、あたしの背中なんか見せてもなあ」


 子供の頃に木から落ちた時の傷が、僅かに残っているくらいだぞ。


「王子まだあ?」


 事務室のドアが勢いよく開き、奈々が顔をのぞかせた。


「あっち戻ってもいいですか?」


 裕子は立ち上がった。


     15

「で、最後にみんなで賛美歌を歌って、終わり」


 長々と昼間の出来事を話し終えると、ようやくゆうは口を休めた。

 ストローをくわえ、オレンジジュースを少し飲んだ。


「ふーん」


 自宅マンション。兄のたかしと肩を並べてソファーに座っている。


「とことん考えなきゃいけない問題のような気もするけど、でも、あの子らとあたしらと何がどう違うんだって思うと、考えること自体が失礼なことなのかな、とも思えてさあ。園長さんも、遅れてると人間が決めつけるのは本当はおこがましい、神の領分じゃないか、みたいなこといってたし。まあ、ああいう人たちは、仕事だから、そう決め付けないとやっていけないんだろうけど」

「いや、考えるのはいいんだよ。実際に、大多数の人が普通に送れるような生活を、上手に送ることが出来ない人がいて、だからそういう施設が存在しているんだから。おれだって、買い物出来ない、自分で食事も出来ない、計算もなにも出来ない、なんてなったら困るし、でも誰だってそうなって生まれてくる可能性ってのはあるんだから、じゃあ助け合わないと。一種、保険と同じ。こういう相互保険って、動物にはない人間社会の良いところじゃん。動物だったら、弱者はもう存在出来ないんだから。人間社会万歳。考えることおおいに結構だ」

「ふむ」

「誰しもが満足ってわけにはいかないけど、だからって考えなきゃなにも始まらない。で、そういう人たちが少しでも快適な社会生活を送れるようにするにはどうすればいいんだろう、ってことを単純に考えると、物理的な面での技術の発達や工夫、それと精神的な面つまり本人の心のケアと我々の理解、というものが必要なわけだ。理解の例としては、そうだな、裕子はさっき、考えることが失礼なんじゃないかといったけど、一種の障害者である裕子に対して、『遅刻ばっかりして!』って怒ることは失礼じゃないわけだよ。『裕子は勉強が全然出来ないからな』って救いの手をさしのべてやろうというのは失礼なことじゃない」


 孝は、スナック菓子を一つつまんで口に入れた。


「なんであたしをいちいち引き合いに出してくるのか、意味不明なんですけどお。……それにしても、兄貴、この前から思ってたけど、この話にやけに乗ってくるよね」

「前々から、介護士の資格取ろうかと思っててね。なりたいわけじゃないけど、まあ資格だけ。知的障害者の介護なんかもあるから、色々と勉強する機会や考える機会があるんだよ。我が家には勉強や上品さにおいて重度の障害患者さんがいるから、観察していて凄く参考になるんだよな」

「お兄ちゃあ~ん、絶対にい、殴り返さないでねえ」


 裕子は笑いながら、兄貴の足元に転がっているボクシンググローブを拾うと、ぎゅぎゅっと自分の手にはめた。

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