第16話

 その日の夜、眠りにつく前に、涼真は過去の出来事をようやく話しはじめた。

「卓球部のコーチ助手、覚えてる?」

「うん」

 うとうとしかけていた私は、涼真の声を聞き漏らすまいと、体を起こしてベッドに座り直した。

 数日前、長い話になると言いながら、涼真は何も話さなかった。だから心の準備が必要なのかと思い、私からは何も聞かないで待っていた。

「事件の後、あいつは俺らのことコーチに告げ口しようとして失敗しただろ? それで出禁にされて、部員にも近付くなって」

 あの時、告げ口の手紙が届く前に、私たちはコーチに電話して会いに行った。自分たちが目撃したことや、助手に口止めされたこと、脅されたこと……真実だけを話したわけではなかったけれど、コーチは全面的に言い分を認めてくれた。もちろん叱られはしたものの、それで最悪の事態は避けられた。

「あいつ、逆恨みしてたらしくて、外で何人かの部員に会って嘘の噂を吹き込んだんだ。先輩が卒業した後、その噂が広まってさ」

「え……噂ってどんな?」

「知らなかった?」

 私はうなづいた。

「うちの学年も色々あって、嫌な思いしたから、卒業で人間関係リセットしちゃったんだよね」

「そうだったんだ……」

 迷いの表情を見せて、涼真は口を閉じた。代わりに私が口を開くことにした。

「あの妊娠した子、期待されてる選手だったし、他の強い子たちとも仲良かったし、三年の中では賛否くっきり分かれてさ」

 このことを誰かに話すのは初めてだった。

「もう部活は引退してたけど、仲間割れみたいになって、そのうち、彼女はコーチにだまされた被害者だっていう意見が主流みたいになった。私は関わりたくないから当たり障りなくしてたけど、いい加減バカバカしくなって、もう本人いないのに関係ない私らが喧嘩するのおかしいよって言ったの。そしたら、孤立しちゃって」


 前の日まで普通に友だちだった子たちが、その日をさかいに冷たい目を向けはじめ、挨拶も無視されるようになった。中三の終わり、あの数ヶ月間のことは、思い出したくもない。様々な悪意をぶつけられ、学校が苦痛で仕方なかった。

 受験を前にした彼らは狡猾こうかつで、事情を知らない周囲や教師らにバレないよう団結して気を配り、陰湿なやり方で私を傷付けた。

 不登校にでもなろうかと思ったけれど、親は親で離婚裁判と不倫の恋に熱中していて、家にいるのも嫌だった。

 行き場のない怒りや悔しさや、失望、孤独、恨み……誰にもぶつけられずドロドロ渦巻うずまいた感情のすべてを、パワーに変えて勉強に注ぎ込み、元友人たちが入れないレベルの、県でトップクラスの私立高校に合格したのだ。学区が違うこともあっただろうが、同じ中学から今の高校に進学したのは私一人だった。


「知らなかった」

 ぽつりと涼真がつぶやく。

「あの頃は家でも学校でも、嫌なことばっかりで」

 彼の肩にもたれかかり、目を閉じた。そうしないと涙が出そうで、ぎゅっとまぶたに力をこめる。

「何も考えないで、頭からっぽでいられたのは、涼真といる時だけだった……」


 思い出した。

 涼真との時間に依存していた自分を。

 学校で見せる彼の冷ややかな態度に、人知れず泣いたことを。


「誤解してた、俺」

 涼真の手が頬に触れるのを感じ、薄目を開けると、すきまから涙がこぼれてしまった。

「帰りたくない日の暇つぶしに俺と寝てるだけだって……だから連絡つかなくなった時、いらなくなって捨てられたんだなって」

「そう思われたってしょうがないよ。私、何も言わなかったから」

「けど、先輩のこと、もっとちゃんと……よく見てたら気が付いたかもしれないのに」

 涼真は唇をきつく噛んで、つらそうに表情をゆがめ、ごめんと言った。

「ねえ」

 私は人差し指で涼真の唇をこじ開け、噛むのをやめさせた。

「先輩じゃなくて、琴里って、名前で呼んで」

「えっ……」

 唐突な申し出に、彼は戸惑ったようだ。

 私は別に、涼真を苦しめようと思って話したわけではない。私たちの過去は重なっていて、だけど見えるものまで同じではなかったはずだ。涼真が言いづらい話をするなら、私も話さなければフェアじゃない気がしたのだ。たまたま、会話の流れで私の方が先になっただけにすぎない。

「涼真は悪くないよ。私は自分で黙って消えることを選んだ。全部リセットしたの。だから、涼真は逆に怒ってもいいぐらいなんだよ?」

 涙はもう止まっていたけれど、両手でゴシゴシまぶたをぬぐって、私は涼真の顔を見上げた。

「私の話はここまで。高校入ってからのことは、もし聞きたいなら話すけど……」

「言わなくていい!」

 涼真は思いがけず強い口調を返してきた。

「俺、ずっと先輩に会いたくて……」

「こ、と、り」

 意地でも名前を呼ばせたくて、私は涼真の顔を両手ではさんだ。

「呼んでみて?」

 涼真はうっすら赤くなった顔で口ごもり、それから意を決したように私の目を見つめ返してきた。

「琴里」

「涼真」

 私の口から、自分でもびっくりするほど甘い声が出てきた。

「私、うれしい」

 ますます赤くなった涼真の表情は、かなり初々しいものだった。あんなことやこんなことを、私と経験した男が見せる顔とは思えない。

「ずっと、琴里に会いたかった。会いたくて会いたくて、おかしくなりそうだった」

 涼真はそう言うと、私を引き寄せ、骨がきしむほど強く抱き締めた。

「琴里、琴里……」

 こんな乱暴な抱擁は珍しい。でも、私の胸はドキドキと甘い鼓動をとどろかせ、激しくときめいていた。

「涼真、キスしたい」

 言葉が終わらないうちに、涼真の舌が私の口内に入ってきた。むさぼるようなキスに恍惚となる。

 他の誰も、これほど私の心の深いところに届くキスはできないだろう。

「もう離れられない。私、ずっと涼真と一緒にいたい」

 彼の腕の中で、愉悦の海を漂いながら、うわごとのようにそう繰り返した。

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