第15話

 涼真の部屋に閉じ込められて七日目の朝。

「買い物行くけど、どうする?」

 何でもないことのように、彼が言った。

「一緒に行く?」

 返事をする前に、涼真の顔を見てみる。いつもと変わらない表情を作ってはいるけれど、緊張を隠しきれずにいるようだ。

「行かない。待ってる」

 首を振ると、涼真はちょっと笑って、何十回めかのキスをした。どこか、ほっとしたような様子だ。

「何か欲しいものある? 食べたいものとか」

 聞かれてすぐ浮かんだのがサラダだった。ここに来てから生野菜やフルーツを口にしていないせいか、思い出したら無性むしょうに食べたくなった。ほぼレトルトとインスタントだったから、ちゃんとした食事もしたい。

「私が作るから料理の材料買ってきて」

「え、料理できるの?」

 涼真は驚いたような顔で私を見つめた。

「簡単なものなら」

「ほんとに作ってくれるの?」

 母親の意向で小さい頃から家事を手伝ってきた私にとって、料理は難しいものではない。手の込んだものはレシピを見ないと無理だけれど、一般的なメニューならだいたい作れると思う。

「うん。でも、味の保証はしないよ?」

 半信半疑といった感じの涼真の反応が、何だか可愛くて、指先で彼の唇をつついてみた。上唇の方が厚みのある、ふっくらした淡紅色のきれいな唇。横長で、ひよこみたいな口だなと、ずっと前にも思った気がする。

「リクエストある?」

「パスタがいい」

 涼真はそう言って、にこっと笑った。


 買い物リストを持たせて送り出すと、私は涼真のベッドに戻って寝転がった。 枕に顔をうずめ、涼真の残り香を嗅ぐ。

「早く帰って来ないかな」

 つぶやいて、それから、自分はいったい何をしているのかと思った。今のうちに逃げればいいのに、ごろごろしながら涼真の帰りを楽しみに待つなんて。

「涼真……」

 いないことが寂しい。ほんの少し前に出て行ったばかりで、すぐ帰ってくるとわかっているのに、どうしてなんだろう。 今まで誰に対しても、こんな切ない気持ちをいだいたことはない。

 逃げることなんか、できそうになかった。

 私はのろのろと起き上がり、キッチンへ向かう。

 まともに使っていなかったせいか、シンクまわりはホコリが目立ち少し汚れている。涼真が帰って来るまでに、掃除しておこうと思ったのだ。

 シンク下の棚を開けてみると、いくつかの洗剤と漂白剤が未使用のまま立ててあった。ガス台の下の棚には、フライパンや鍋がほぼ新品のまま入っていた。菜箸さいばしもお玉も使った形跡がない。

 涼真がここで、どんな生活をしていたか、想像したら悲しくなってきた。友達も恋人も誰も呼ばず、たった一人で、何を思って日々過ごしていたのだろう。

 私は泣きそうになるのをこらえ、掃除をはじめた。ピカピカにしてあげようと思った。


 涼真の顔は父親似なのだという。そして地黒な肌の色は母親譲りらしい。どこから見ても二人の合作である涼真は、両親の仲が良かった頃、とても可愛がられた。なのに、険悪になったら二人とも、涼真を見るのが嫌になったらしく、存在を無視されたり、雑な扱いを受けるようになったそうだ。

 そんな彼の事情は、中学生の頃、初めて不適切な関係を結んだ日に知った。涼真の自宅は新しめの一軒家なのに荒れた状態で、どちらの親にも家ごと放置されていたのだ。

 都合の良い時だけ可愛がり、嫌になったら捨ててしまうなんて、親のすることじゃない。勝手に作って勝手に産んだくせに、どうしてそんなことができるんだろう。

 私の両親も離婚しているけれど、うちの場合は二人とも私の親権を欲しがった。裁判にまでなった挙げ句、母が勝ち取って、私は不本意ながら母とその恋人と暮らすことになったのだ。

 父とは月一ぐらいで会い、食事したりドライブしたりと交流が続いている。普通に仲の良い父娘関係だと思う。

 ただ、私には両親が仲良くしていた記憶はない。喧嘩が多いわけではなく、関わりを避けるような冷めた関係だった。私が親と過ごす時は必ずどちらか片方だけで、三人そろって食事することもほとんどなかった。

 だから、その程度のきずなしか築けないのなら、私なんか産まなければよかったのに、という思いが心のどこかにいつもある。

 涼真の場合、もし同じ思いがあるとしたら、それは私より何倍も大きなものだろう。

 本来なら世界の誰よりも味方になってくれ、愛し慈しんでくれるはずの存在に、涼真は酷く傷つけられた。そのことを思うと、たまらなくなる。

 本人は同情なんてされたくないかもしれないけれど、私は今も昔も、彼をとても可哀想に思うのだ。可能な限り優しくしてあげたくなる。

「だから帰れないのかな」

 私は一人つぶやいて、少し考え、首を振った。

 違う。

 それだけが理由じゃない。

 切ない気持ちがこみあげてくる。

 その時、玄関の鍵をガチャガチャいう音が聞こえた。私はパッと身をひるがえし、キッチンから飛び出した。短い廊下の先で、ドアが開く。外の光を背にして、大きなレジ袋を両手に持った細身のシルエットが現れる。

「涼真」

 名を呼ぶのがやっとだった。彼の顔を見ただけで胸がいっぱいになる。目が潤んで視界がぼやけた。

 涼真は荷物を床に置き、靴を脱ぎ捨てて私に駆け寄ってきた。

「なんで泣いてるの? どうしたの?」

 心配そうに顔をのぞき込まれる。

 私は首を振り、笑って見せた。

「おかえり」

 両手を伸ばして抱きつき、自分からキスをする。涼真は驚いたように目を丸くしたけれど、柔らかく私を受け止めて、優しく笑った。

「ただいま」



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