第8話

「じゃあ、夏期講習やめちゃうの?」

 長谷川湊斗は、ため息をつきながらうなずいた。

「父親の知り合いが東京で予備校やってて、けっこう進学成績いいらしいんだ。そこの強化合宿に申し込んどいたぞって、昨日いきなり言われてさ」

 本人の意思なら考え直して欲しいと言うことも出来るけど、親の意向なら私なんかが口をはさめることじゃない。

「そっか……もう高三だし、お父さんだって真剣になるよね」

 この夏休みは、塾の夏期講習に湊斗と一緒に通って勉強するつもりでいた。他に誰が申し込んでいるかなんて、まったくチェックしていないから、最悪、ひとりぼっちで通うはめになりそうだ。

「合宿って、どこでやるの? 期間は?」

「ええっと……どっか山の方? あんまりよく聞いてなかった。期間は八月初日から二週間だったかな」

 湊斗はちらっと私の方を見て、気まずそうな顔をした。

「わかんないけど、もしかするとオープンキャンパス、行けないかも」

「え、まさか合宿中ずっと抜けられないの? 第一志望の大学も見に行けないなんて、おかしくない?」

「まぁ、確かにそうだけどさ、帰ったら詳しく見てみるよ。昨日は父親にムカついて、渡されたパンフ開いてもいないんだ。もしかしたらって可能性の話だから。そんなに怒るなよ」

「だって……」

 湊斗と泊まりがけで神奈川に行くのを、どれだけ楽しみにしていたことか。ホテルだってもう予約してある。

「ごめんな」

 彼は私の肩を引き寄せ、頭を撫でながら言った。

「なるべく予定通り行けるように考えるから」

 ごつごつした太い指は無骨で、撫でられても心地好いとは言いがたい。恋人として好き合っているから、触れられると気持ちは満たされるけれど、行為そのものは残念ながら痛かったり苦しかったりすることが多い。

「今日って、湊斗のうち、お母さんいるんだよね?」

「うん、有給休暇だって。だから明日……」

「明日まで待てない」

 湊斗の目を見つめてそう言うと、一瞬困ったような顔になって、だけどすぐに口元をゆるませてニヤッと笑った。

「じゃ、久しぶりに……行く?」

「うん、行こ!」

 声をひそめて秘密の約束を交わす。彼の目はもうすでに期待に満ちている。いくら優秀でまじめな受験生でも、そういう欲求には勝てなくて、素直に本能に従ってしまうらしい。

「琴里のそういうとこ、好きだよ」

 耳元で囁くように、彼は言う。

「私もそんな湊斗が」

 口だけ動かしてスキと返す。

 ここが学校の廊下の隅で、まわりに他の生徒がこんなにいなかったら、彼に抱きついてキスするところだ。


 骨格のしっかりした大柄な湊斗は、この春までバスケ部の部長だった。そして我が校のバスケ部は弱小チームではない。ハードな部活をしながら勉強の成績を下げないというのは、まわりが思うよりずっと大変なことだ。

 そんな努力の痕跡も見せないで、湊斗は好きなバスケをやめずに優等生で居続けた。余裕たっぷりのマイペースな態度をつらぬき、それを鼻にかけることもない。同級生には一目置かれ、後輩には尊敬される。誰彼かまわず自慢したいほど良くできた彼氏だ。

 私は卓球をやめて久しい。高校に入学した時、卓球部なんか見学にも行かなかった。あんなに熱中していたのが嘘みたいに、未練も何もない。

 だからこそ、バスケに打ち込む湊斗に惹かれた。派手に目立ってシュートを放つポジションではなかったものの、ゴール前で冷静にディフェンスに徹する姿に心打たれた。

 同じクラスで隣の席になったのが、親しくなったきっかけだけど、多くの女の子たちから好意を寄せられていた彼が、どうして私を好きになってくれたのか、今もよくわかっていない。

 私のようにふしだらな女は、意識しておとなしくまじめにふるまっていないと、進学クラスでは浮いてしまう。だから付き合うまでは、湊斗に対して媚びを売ったり、思わせぶりな態度は取っていないはずだ。私程度の会話をする女子なら他にもいたし、取りつくろってまじめなフリをしていた私のどこに、彼の気を惹く要素があったのか、本当にわからない。

 湊斗はたぶん、私が初めてだと思う。

 私が処女じゃなかったことについて、彼は何も言わないけど、気がついていない訳ではないだろう。過去に誰と付き合っていたのかとか、そういう質問もされたことがないし、知りたくないんだなと思うから、私からも言わないようにしている。

 だから、瀧川涼真との関係について、湊斗に話すことは今後も一切ないだろう。


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