第9話 過去-5

過去-5

 

 

2014/11/19

 

 夕と付き合ってから一ヶ月。

 普段の学校生活において、これといって変わったことは無かった。

 考えてみれば、授業中以外はほとんど夕と一緒にいたんだ。そもそも変わりようが無い。

 周りの人間関係だと、夕と付き合ってることを告げた数少ない人達からの反応は、大きく別れて三つだった。

 一つ目は、杉原のように『ゔるあぁぁ……』と言うタイプ。まぁ、これは杉原のようにというか、杉原だけだが。

 二つ目は、『へぇ。まぁ、上手く行けよー』とか『羨ましい。早く別れろ』とか、普通にコメントを残すタイプ。

 三つ目の、これが一番多かったのだが、キョトンと不思議そうな顔をしてから、何かを言うタイプ。

 理由がわからず、そのうちの一人であった眼鏡坊主の田原に理由を聞いたら、『お前ら、とっくに付き合っているのかと思ってた』と返ってきた。

 ……そんな風に見えてたのか、俺と夕は。

 まぁ、周りからそう思われていたぐらいなんだ、当の本人達の生活に変化など無い。

 だから、今日もいつも通り、屋上で一緒に飯を食べる。

 そのはずだった。

 

「優夜、どうした。そんなショゲくれた顔をして」

 

「……今日、結構寒いだろ?」

 

「?ああ、今日は結構冷え込むな」

 

「だから、朝っぱらから登校する前に、昼飯用にアイスを買ってきたんだ」

 

「いくら寒いとはいえ、無謀だろ、それ……」

 

「行けると思ったんだよ……暖房さえなければ」

 

「……ということは、つまり」

 

「完全に液体になりました、はい」

 

 包装袋の上から触った時点でグニャングニャンだった。

 

「それは本当に残念だが、元々は君が」

 

「みなまで言わないでくれ、穴に籠りたくなる」

 

 俺の頭が残念なのはもう十分自覚した。

 俺は寄りかかっていた柵から離れ、校舎内に続く扉へ向かう。

 

「ん?優夜、どこに行くんだ?」

 

「どこって、食堂」

 

 俺の昼飯は全て激甘ジュースに変化した。

 

「ああ。そうか」

 

 夕は納得する。

 

「……私も一緒に行っていいか?」

 

「一緒って、今から食堂に行って飯を食べるの、結構時間遅くなるぞ?」

 

 食堂は場所的に、ここの真反対だ。

 

「それでも、だ。今日は優夜と一緒に食べるつもりで来たのに、一人で食べるのはイヤだ」

 

「……そんなもんか」

 

「そんなもんだ」

 

「……じゃ、一緒に行こうか」

 

「うん」


 ……実は、俺も今日は夕と一緒じゃなくて、一人での昼食になってしまうことに落胆していたから、夕のセリフは少し嬉しかった。

 

「夕」

 

「ん、なんだ?」

 

「ありがとう」

 

「なんのことだ?」

 

 夕は首をかしげる。

 

「なんでもない」

 

 俺は小さく笑いながら、食堂に向かって歩みを進めた。

 夕と一緒に。

 

 

 放課後の帰り道にて。

 

「なぁ、明日、優夜の分の弁当を作ってきても良いか?」

 

 夕がいきなりそんな事を言い出した。

 俺は少々フリーズする。

 

「……マジで言ってる?」

 

「マジだ。一人分だろうと二人分だろうと、そんなに手間は変わらないしな。優夜の分も作りたいと思ったのだが……ダメか?」

 

 夕が不安そうな目で俺に問いかける。

 

「ダメなんてことない。めちゃくちゃ嬉しい」

 

「……本当か?」

 

「好きな人が、俺のために弁当作ってくれるって言ってるのに、嬉しくないわけがない」

 

「……そうか。良かった」

 

 夕の顔が少し赤くなる。

 好きと言われることにまだ慣れてないみたいだった。

 ……

 

「夕、ありがとう」

 

 俺は夕にキスをした。

 

「……いきなりでビックリした」

 

 夕が顔を更に赤くしながらそう言う。

 

「そうか?俺としては順当な流れだったと思うが」

 

「……心臓がドキドキする」

 

「そうか。俺と一緒だな」

 

「自分からキスをしておいて何を言っているんだ君は」

 

「好きな人とキスをしたんだから、当然だろう」

 

「ふふ。そうだな」

 

 夕は嬉しそうに、楽しそうに笑う。

 

「優夜」

 

「なんだ」

 

「好きだぞ」

 

「……ああ」

 

 俺は夕の言葉で口ごもってしまう。

 俺もまだ好きと言われることに慣れていなかった。

 

 

 2014/11/20

 

「おう」

 

 先に屋上にいた夕に声をかける。

 

「あ、やっと来たか、優夜」

 

「やっとって、俺結構早く来たと思うぞ?」

 

「そうだな。ちょっと気持ちが焦ってた」

 

 夕ははにかむように笑う。

 

「今日は約束通り優夜の分のお弁当を作ってきた」

 

 夕は二つあるうち弁当箱のうち、大きめの方を渡してくる。

 

「……本当に作ってきてくれたんだ」

 

 俺は受け取りながらボソリと呟く。

 

「約束したんだから、当然だろう」

 

「……ああ。そうだよな」

 

 俺は弁当箱をジッと見つめる。

 

「開けて良いか?」

 

「ああ」

 

 弁当箱を開ける。

 そこには色とりどりのおかずが詰められていた。

 とりの唐揚げ、ミニサラダ、卵焼き、野菜の煮物など、色々なものがあった。

 ……

 

「どうした?何か苦手なものでもあったか?」

 

「……いや、ちょっと感動してただけ」

 

「そんな大袈裟な」

 

「昨日も言ったが、好きな人が自分ために料理を作ってくれるのって、中々クるものがあるぞ?」

 

「そうなのか?まぁ、そう思ってもらえるのは嬉しいが、とりあえず食べてくれ」

 

「あ、ああ」

 

 すっかり見入ってしまっていて、折角の弁当に手を付けていなかった。

 

「じゃ、いただきます」

 

 短く合唱したあと、唐揚げを一つ口に入れ、咀嚼する。

 

「……」

 

「……どうだ?」

 

「……美味い」

 

 卵焼きを口に入れる。

 これもまた美味かった。

 

「夕、お前本当に料理上手いんだな……」

 

 全体的に薄味だったが、それでもしっかりと味、旨味自体は感じれるから不思議だ。

 

「そうか?口に合ったようで良かった」

 

 夕は安堵と嬉しさを混ぜた表情を浮かべる。

 というか、

 

「夕、お前も食べなよ」

 

 夕はこっちをニコニコと見てるばかりで、自分の弁当を開いてすらしてない。

 

「あ、そうだな。すっかり忘れてた」

 

「おい」

 

 俺はつい苦笑してしまう。

 

「いただきます」

 

 夕も弁当箱を開き、食べ始める。

 ……

 

「そうだ、優夜。この中で一番好きなのはどれだ?」

 

「この唐揚げかなぁ」

 

「そうか。じゃ」

 

 夕は自分の弁当箱にある唐揚げを一つつまむ。

 

「はい、あーん」

 

 ニッコリ笑顔でその唐揚げを俺の方に向けてきた。

 ……マジか?

 

「あーん」

 

 俺が中々口を開かないもんだから、催促してきた。

 めちゃくちゃ恥ずかしいんだが……

 ……ま、周りに人なんか居ないし、いっか…………

 俺は口を開く。

 その中に夕は唐揚げを入れる。

 ……

 

「美味しいか?」

 

 夕は笑顔を浮かべながら問いかけてくる。

 

「ああ、美味い。美味いけど、めちゃくちゃ恥ずかしい」

 

 顔がものすごく熱い。

 

「私も恥ずかしかったが、それ以上にとても楽しかった」

 

 そう言う夕は本当楽しそうで、満面の笑みだ。

 ……

 

「夕、この中で好きなのはどれだ?」

 

 先程夕がしてきた質問と、全く同じ質問を返す。

 

「……卵焼き、かな」

 

「そうか」

 

 俺は卵焼きを一つ摘む。

 そして

 

「はい。あーん」

 

 その卵焼きを夕に向けて差し出した。

 

「……」

 

 夕は顔を少し赤くして、固まる。

 俺ももう一回「あーん」って言って急かそうか、と思ったのと同時に夕は口を開ける。

 ……歯並び、綺麗だなこいつ。

 そんな事を考えながら、夕の口に卵焼きを入れた。

 夕は顔を赤くしたまま、咀嚼する。

 ……

 これは……

 

「確かに、やってみると結構、いやかなり楽しいな」

 

「……そして、食べる方はかなり恥ずかしい…………」

 

 夕の顔は真っ赤だ。

 

「はは。やっぱりそうだよな」

 

 俺はその様子を見て笑う。

 夕と付き合うことになって一ヶ月。

 生活に特に変化は無かった。

 ただ、敢えて変化を挙げるとするなら、夕とのやり取りが少しバカップルっぽくなったような気がする。

 しょっちゅうキスしたりされたりしてるし。

 ……まぁ、付き合ってまだ一ヶ月なんだ、許してくれるだろう。

 誰が許すのかは知らないけど。

 

 

「ご馳走さまでした」

 

 俺は弁当箱を閉じながら、頭を下げる。

 

「お粗末さまでした」

 

 夕も俺に合わせて、頭を下げる。

 

「ホント美味しかった。またいつか食べたい」

 

「そうか。気に入ってくれたようで良かった。そう言ってくれるなら、また今度作っても良いか?」

 

「全然良い。というか、作ってくれたらかなり嬉しい」

 

 ……いや。

 

「というか、俺もやりたいな、料理」

 

「料理って、優夜が?」

 

「ああ。俺は料理したことないから、結構先になるだろうけど、いつか夕の弁当のお礼がしたい」

 

「お礼って、そんなもの求めていないぞ?それに、今、優夜が美味しそうに食べてくれただけで、充分以上だ」

 

「うーん……。正確には礼じゃないかも」

 

「どういうことだ?」

 

「夕が俺のために弁当作ってくれたのがすげぇ嬉しかったから、同じことすれば夕も喜んでくれるかな、って思ってさ」

 

「ふーん……」

 

 夕はティッシュで口を拭く。

 

「優夜、ちょっとこっち向いてくれ」

 

「なんだ?」

 

 俺は適当な方向に向けていた顔を、夕の方にしっかりと向ける。

 そしたら、夕がキスをしてきた。

 ……

 

「……いきなりだな」

 

 口が離れたタイミングで、俺はそう言う。

 

「今日、初めてのキスだから、別に良いだろ?」

 

 夕は悪戯めいた笑みを浮かべている。

 

「それに、昨日は君がいきなりキスしてきたからな。そのお返しだ」

 

「そうかよ……」

 

 俺は照れてしまって、顔を横に逸らした。

 

「というか、今俺にキスしたら弁当の味になったんじゃないのか?」

 

「私もそうなるかもと思ったんだけどな。実際キスしてみたら、いつもの優夜の味だった」

 

「……!」

 

 前から発言が大胆な奴だと思ってはいたが、付き合ってからは更に大胆になったと思う。

 どういう顔をしたらいいのか、わからなくなる。

 ……まぁ、そういうとこも好きなんだが。

 というか、あれ

 

「お前、キスする前に口拭いてただろ。なんかズルくねぇか、それ」

 

「バレたか。だからって、汚れてもない君に、口を拭くように促すのも不自然な気がしてな。サプライズが大事だろ、こういうのって」

 

「そうかもしれないけどさぁ……」

 

 俺はぶちぶち言う。

 ……話を戻そう。

 

「夕、もし暇だったらで良いが、俺に料理教えてくれないか?」

 

 夕に喜んでもらうための料理習得だ。それを夕本人に教えてもらうのは変な感じがしたが、他に料理ができる人など思い付かなかった。

 ただ、それを言われた夕は神妙な顔をしている。

 やはり夕本人に習うのは変だったか。

 俺はそう思ったが、夕が神妙な顔をした理由は別にあった。

 

「……それは、君の家でか?」

 

「……ああ。そうだ」

 

 何にも考えずに頼んだが、考えてみれば、場所の選択肢はかなり限られていた。

 今まで、夕を家に招いたことはない。

 完璧に偶然だが、これが初めてのおうちデートとやらになる。

 

「……わかった」

 

 夕は緊張した顔で頷いた。

 

「……そうか、良かった」

 

 俺も固くなっていただろう。

 

「あと、日にちはどうする?今月末は中間テストあるし、来月の頭でいいか?」

 

「うん。そうしよう」

 

 夕は笑顔を浮かべ頷く。

 

「少しビックリしたけど、その日が楽しみだ」

 

 いつもの楽しそうで、明るい笑顔。

 

「……ああ。そうだな」

 

 俺もそれに笑顔で返した。

 

 

2015/04/06

 

 今は四月。

 今日は、学年が一つ上がる日だ。

 二年生に上がるからといって、部活とかをやっていない俺にとって、特に環境が変わるとは思えない。

 そう思っていたが、

 

「……」

 

「……」

 

 俺と夕は並んで、クラス替えを掲示板で見ている。

 ……

 見つけた。

 俺のクラスは二年B組。

 そして、夕のクラスは二年C組だった。

 

「……」

 

「……」

 

 俺は口には出さないが、内心落胆する。

 そりゃ、一緒にならない可能性の方が高いのはわかってはいたが、それでも気落ちはしてしまう。

 それは夕も同じようで

 

「……一緒になれなかったな」

 

 声が暗い。

 

「……ああ」

 

 俺も暗い声で返事をする。

 新学年。

 やはり身の回りの環境に変化は無いようだった。

 

 

「ふぁぁ……」

 

 HRが終わり、俺は欠伸をしながら席を立つ。

 新しいクラスは、知らない連中の方が多かった。

 元々一年の頃だって、クラスメイトを全員覚えていなかったほど非社交的な俺だ。そんなのは当然だった。

 ただ、隣の席の奴は知ってる奴だった。

 

「上谷、じゃあな」

 

 菅野翔平。

 いつもニヤニヤ笑いを浮かべている奴。

 

「おう」

 

 こいつと一緒のクラスになったのは僥倖か不幸か、悩ましいところだ。

 俺はそのまま歩いて、教室を出る。

 そこには

 

「あ、優夜」

 

 夕が待っていた。

 

「もし、教室間違えてたらどうしようって思っていたが、合っていたようで良かった」

 

「もうクラス違うからなぁ……」

 

 俺は自分の教室の方を見る。

 一年の頃と同じ形の教室なのに、その場所が少し違うだけで、新鮮に感じた。

 俺はそんな感慨を余所に、視線を夕に戻す。

 

「じゃ、帰ろうか」

 

「うん」

 

 

「桜、綺麗だな」

 

 夕は学校内にある桜を見上げながら、そう呟いた。

 その言葉で俺は視線をやや上の方に移す。

 

「……そうだな」

 

 ピンク色の花びらがヒラヒラ舞う様は、確かに綺麗だった。

 ……思い付いたことがあったが、それは再来年に取っておこう。

 そう考えた自分に俺自身驚く。

 俺は再来年も夕の隣にいると思っているのだ。

 ……俺は夕とずっと一緒にいたい。

 夕と過ごしているこの日常を捨てたくない。

 そして、夕も同じように思ってくれていると、嬉しい。

 

「そういえば、近くに桜並木があったよな」

 

 夕の言葉で俺の意識が現実に引き戻される。

 

「ああ、有ったな、そういえば」

 

 近いと言っても歩いて数十分の距離だし、わざわざ行ったことはない。

 

「今度の週末、二人で花見に行かないか?」

 

「良いな、行こう」

 

 花見自体への興味はそんなにない。

 でも、夕と一緒だと、どんなことでも楽しいことのように思えた。

 

「でも、花見ってかなり朝早く行かなきゃ場所取れないんじゃないか?」

 

「確かにそうだな」

 

 俺の言葉を、夕は肯定する。

 

「じゃ、花見は日曜にやる事にして、土曜はうちに泊まっていくか?」

 

 ……今の提案するとき、実は少し緊張したのだが、夕はもう既に俺の家に数度泊まったことがあるし、今更だろう。

 父親が家に帰ってこない人で助かった。

 

「うん。じゃ、そうしようかな」

 

 夕は少し照れくさそうな笑顔で頷いた。

 

 

2015/04/12

 

 ジリリリリ!!

 

「うーん……」

 

 目覚ましがうるさい。

 それに手の平を叩きつけ、音を止める。

 

「ふぁぁ……」

 

 ベッドの上で欠伸をしながら、上体を起こし、伸びをする。

 そして、寝惚け眼で隣を見る。

 

「すぅ……」

 

 そこに、目覚ましなど一切気付かず、可愛らしい寝息を立ててる夕がいた。

 

「……」

 

 夕はいつも俺より早く起きる。

 だが、今日は普段より早い時間だ。

 規則正しい生活をしている夕は、いつもより早い時間に起きるのが苦手なのかもしれない。

 

「……」

 

 俺は目をこすり、夕の寝顔をジッと見る。

 夕の寝顔を見るのは、意外とこれが初めてかもしれない。

 元々夕は綺麗な顔立ちをしていて、コロコロ表情が変わる様は可愛らしいが、なんというか、こういう無防備で、気持ち良さそうな顔もまた可愛かった。

 

「……はっ」

 

 見惚れてる場合じゃない。起こさなければ。

 

「夕。朝だぞ、夕」

 

 夕の肩を掴み、軽く揺する。

 

「んあ……」

 

 夕が寝言だか欠伸だかよくわからない声を出す。

 

「……おはよう、優夜ー」

 

 夕は眠そうな半目状態で挨拶をしてくる。

 

「おはよう、夕」

 

 俺も挨拶を返す。

 俺はベッドからそのまま出るが、夕はまだ眠いらしく、中々ベッドから出てこない。

 ……

 

「夕」

 

「なんだ……?」

 

 不明瞭な声を出しながら、夕の顔がこちらに向く。

 その唇に軽くキスをした。

 

「……何するんだ、君」

 

 夕はベッドの中で非難めいた声を出す。

 ただ、声は先程までと違ってはっきり聞こえた。

 

「何ってお目覚めのキス?」

 

「……バカ」

 

 夕は顔を赤くしながら、小さく可愛らしい罵倒をしてくる。

 ……というか、目覚めのキスって、夕が前回うちに泊まったときに、夕から俺にやってきたことなのだが、今それを言うのは屁理屈っぽいし、藪蛇だろう。

 夕は上体を起こし、ベッドの上に座る。

 

「そういえば、今、何時だ?」

 

「5:40ぐらいかな」

 

「もうそんな時間か。早く準備しないと…」

 

 夕は急いで立とうとするが、寝起きだからか、バランスを崩し倒れそうになる。

 だから、俺は夕の手を掴み支える。

 

「ありがとう」

 

「おう」

 

 俺はそのまま夕を引っ張り、中途半端な姿勢だった夕を立たせる。

 さて。

 

「着替えて、弁当の準備、やろうか」

 

「ああ」

 

 

「早めに来たつもりだけど、結構混んでるな」

 

 時間はまだ8時前だか、早い人は凄まじく早いようで、そこそこ人がいた。

 でも

 

「あの辺で良いんじゃないか?」

 

 まだ空いてるスペースは結構ある。

 その中で、夕は見晴らしが良い場所を見つけたようだ。

 

「そうだな。そうしよう」

 

 夕が指した場所に、俺と夕はレジャーシートを広げ、その上に座る。

 辺り一面、桜だらけ。

 これは結構

 

「綺麗なもんだな」

 

 俺は顔を上に向けたまま、ボソリと呟く。

 

「うん」

 

 夕も顔を上に向けている。

 ……

 そうだ。

 

「夕、ちょっとそこで立ってみてくれ」

 

 俺は綺麗に桜が咲いている場所を指さす。

 

「うん?わかった」

 

 夕は立ち上がり、俺が指した場所まで移動する。

 そこで俺は携帯を構える。

 

「優夜、写真でも撮るのか?」

 

「ああ。お前と桜を一緒に撮ったら、なんか絵になると思ってな」

 

「そうかな」

 

「実際、今絵になってるから安心しろ。写真、撮るぞ?」

 

「ああ」

 

「はい、チーズ」

 

 パシャ。

 ……

 うん、綺麗に撮れて良かった。

 俺はそれを夕に見せる。

 

「ほら、ちゃんと綺麗だ」

 

「……」

 

 夕は俺が撮った写真を無言でジーっと見る。

 

「なんかまずかったか?」

 

 本人的に気に入らないところがあったのだろうか。

 

「ううん、上手く撮れてる。ありがとう」

 

 夕は満足そうに笑っている。

 少し不思議に思ったが、夕の言葉に嘘や誤魔化しの気配は一切感じなかった。

 

「じゃ、次は優夜の番だな」

 

 夕も自分の携帯を取り出す。

 

「俺?俺はいいよ、別に」

 

「そう照れるな。ほら、さっき私がいたところに行け」

 

「照れてるわけじゃ……」

 

 夕がなんかノリノリだし、俺は言われた通りに移動する。

 

「じゃ、写真撮るぞ」

 

「おう」

 

「はい、チーズ」

 

 パシャ。

 ……

 

「うん。綺麗に撮れた」

 

 夕は写真を見て、満足げだ。

 

「こんな感じだ」

 

 夕はその写真を俺に見せてくる。

 そこには、照れくさそうだけど、どこか楽しそうに笑っている俺が写っていた。

 ……

 俺って、こんな風に楽しそうに笑うんだな。

 自分の顔を見ることなんて滅多にないが、一年前は、どんなときだろうが絶対にこんな表情をしていなかっただろう。

 こんな風に笑うようになったのは、間違いなく――

 

「どうした、優夜?」

 

 黙りこくった俺を不思議に思ったのか、夕は俺の顔を覗き込む。

 

「いや、俺ってこんな顔してるんだと思ってさ」

 

「ああ、自分の顔って、そんなに見れないもんな。中々の男前だろ?君」

 

「そうか……?」

 

 自分ではそう思わないが、夕に言われると少し嬉しい。

 

「そうだ、さっき撮った写真、交換しよう」

 

 夕がそう提案する。

 

「ああ、そうするか」

 

 俺は夕の写真を夕に送り、夕は俺の写真を俺に送る。

 写真のフォルダを見ると、夕と俺の写真が二枚並ぶことになる。

 ……

 

「なあ、誰かに頼んで、ツーショットの写真撮らないか?」

 

 夕は携帯の写真を見ながら、そう提案してくる。

 

「ああ。そうしよう」

 

 俺も同じことを思っていた。

 適当な人が居ないか、周囲を見る。

 ……あそこの暇そうなおっさんで良いかな。

 

「ちょっと、あそこにいる人に頼んでくる」

 

 夕にそう一言残し、おっさんに近付く。

 

「あの、すみません」

 

「ん?」

 

「あそこで写真、撮ってくれませんか?」

 

 夕がいる方を指さしながら、携帯をおっさんの方に差し出す。

 

「ああ、良いよ。彼女さんと一緒かい?」

 

「はい。お願いします」

 

 俺はおっさんを連れて、夕の元に戻る。

 

「じゃ、二人並んで」

 

 俺と夕は言われた通り、桜の木の前に並ぶ。

 

「手、繋がないの?」

 

 おっさんが余計な口出しをしてきた。

 だが、嬉しい提案でもあった。

 俺と夕は目を合わせる。

 

「手、繋ぐか?」

 

 俺は夕に聞く。

 

「うん」

 

 夕が頷くとすぐにどちらともなく手を繋いだ。

 

「じゃ写真撮るよー」

 

「はい」

 

「はい、チーズ」

 

 パシャ。

 ……

 

「こんな感じでどうかな」

 

 おっさんは俺に携帯の画面を向ける。

 そこに、幸せそうに笑っている恋人二人が写っていた。

 ……

 

「これ、良いよな?」

 

 夕に一応尋ねる。

 

「うん。良い」

 

 夕は頷きながら答える。

 

「これで良いです。ありがとうございました」

 

 俺と夕はおっさんに頭を下げる。

 

「どういたしまして〜」

 

 おっさんはのんびりとした声を出して、去って行った。

 ……

 

「写真、送るな」

 

「うん」

 

 俺と夕のツーショット写真を送信する。

 夕はその受け取った写真を開くと

 

「ふふ」

 

 まるで大切なものができたかのように微笑んだ。

 

 

 2015/06/04

 

 夕の様子がおかしい。

 夕がさっきからほとんど口を開いていない。

 元々俺と夕は毎日のように会って話しているからか、ときどきは会話しないで二人でぼんやりと穏やかに過ごすことも結構ある。

 だが、今の夕の様子は、穏やかとは程遠く、重苦しい雰囲気を纏っている。

 心当たりが無い……わけではない。

 今日は6月4日。

 俺と夕が初めて会った日で、そして――

 

「……なぁ、優夜」

 

 夕がようやく口を開いた。

 

「今日の5時限目、サボらないか?」

 

「良いぞ」

 

 ここの所、俺は授業をサボっていなかったが、俺は悩まずにそう答えた。

 そういえば、あの日も夕は優等生のくせにサボっていたんだっけ……

 

「……」

 

「……」

 

 再び沈黙が流れる。

 

「そういえば、優夜。君は結局、聞かなかったな」

 

「……なんのことだ」

 

 俺は大体答えを察しつつも、夕に尋ねる。

 

「私がここで泣いていたこと」

 

「それは俺の見間違いだろ?」

 

「……」

 

 夕は目をパチクリとさせ、

 

「……ふふ」

 

 そして、笑った。

 

「もしかして、優夜はあのときのことを忘れたんじゃないかと思ってたけど、まさかそんなことまで覚えてくれてるとはな」

 

「……忘れないよ、あの日のことは」

 

「ああ。私もあの日のことは、ずっと忘れない」

 

 ……

 

「優夜。一つお願いがある」

 

「なんだ」

 

「私の話を、聞いてくれるか?」

 

「良いよ」

 

「……面白くない話でもか?」

 

「ああ」

 

 俺はわざとらしささえ感じるほど、力強く肯定する。

 

「好きな女が真剣な顔で『聞いて欲しい』って言ってるんだ。なら、俺は聞きたいと思う」

 

「……ありがとう」

 

 夕は儚げな笑みを浮かべる。

 

「私は――」

 

 

 あの日君に見られたが、泣いていた。

 理由は察していると思うが、家族のことだ。私達、色々お喋りしたけど、家族の話は避けていたからな。

 え……?男に振られたとかの可能性も考えていた?

 ははは。

 今からあまり明るくない話をしようとしているのに、笑わせないでくれ。

 今まで男の話をしなかったのは、単純に過去に好きな男が居なかったからだ。

 君に対する恋が、私の初恋だ。

 そのことは君も、身をもって知っていると思っていたぞ?

 ……話が思いっきりズレたな。しかも私らしくないセリフ言ってしまった。

 話を戻す。

 私には弟がいた。

 名前は輝明(てるあき)って言って、一丁前に強がるくせに、甘えてくる弟だったよ。

『お姉ちゃん、お姉ちゃん』って。

 私はその弟が可愛くてな。目一杯甘やかした。

 そのことで両親によく小言言われていたな……

 でも、愛してる家族の、弟の世話をしたくなるのは姉として当然だろ?

 ……そうだ。

 死んだよ、輝明は。四年前に。

 交通事故だった。

 飲酒運転だったらしい。

 その日から、私は荒んだ。

 ……いや、荒んだとは少し違うかな。

 私は心を閉ざした。

 耐えられなかったんだ、輝明が居ない世界が。

 ずっと、家に引きこもっていた。

 輝明を感じていたくて、輝明の部屋にこもった。

 そこにいたら、何か安心できたんだ。

 でも、ふとしたキッカケで現実に引き戻されるんだ。

 いつも寝坊する輝明を起こす時間になったのに、ベッドに誰も居ないのを意識したときとかに。

 ああ、もう輝明は居ないんだな、って。

 そうなると私は、今度は自分の部屋に引きこもって、泥のように、死んだように、眠る。

 何にも感じたくなかったから。

 そのくせ、自殺は考えなかったな。

 何にもやりたくない、無気力の状態だったからだと思う。

 自殺するというのは、結構気力がいるものらしいな。

 ……

 ……そんな生活を繰り返して、二ヶ月経った頃ぐらいかな、輝明の夢を見たんだ。

 別にそれまで輝明の夢を見ていなかったわけじゃない。

 何度も輝明との想い出を思い返していた。

 ただその時の夢は私にとって衝撃的だった。

 それはどうでも良いけど、幸せなひと時の記憶だった。

 

 

『お姉ちゃんはさ、なんでも得意だよね』

 

『どうした急に。それに苦手なことだって結構あるぞ』

 

『お姉ちゃん本人はそう考えているのかもしれないけど、周りから、少なくとも俺からはそう見えるんだって』

 

『褒めても何も出ないぞ』

 

『俺の自慢のお姉ちゃんだ。いつもカッコイイと思ってるよ』

 

『そこはせめて可愛いとか綺麗って言うとこだろ』

 

『その口調で言う?』

 

『良いだろ、別に。それと何が言いたいんだ輝明は』

 

『えっと、宿題を手伝って貰いたいなーなんて……』

 

『なるほどな、それでおべっかを使ってたのか』

 

『おべっかじゃないよ、理想のお姉ちゃんだからこそ頼めるんだよ!』

 

『はいはい』

 

 

 ……ただの冗談の言い合いだ。

 だけど、それで思い出したことがある。

 輝明にとって、私は自慢の姉でいたことを。

 輝明は事あるごとにそう言っていて、一番に私に頼ってくれた。

 特に小さい頃なんかは、私はその頼みをこなすと、輝明は目を輝かせて『お姉ちゃん、すごい!』って言う。

 そして、一度はこう言っていた。

『お姉ちゃんみたいになんでもできるようになりたい』って。

 そこまで思い出していって、やっと気付いた。

『今のこの殻に閉じこもっている私が、輝明がなりたかったものなのか?』って。

 違う。絶対違う。

 輝明はこんなのに憧れたんじゃない。

 輝明はこんなのを自慢の姉にしてたんじゃない。

 私は、例え輝明がこの世にいなかったとしても、愛する弟の立派な姉であり続けたい。

 そう思ったら、もう次の瞬間には中学校の自分のクラスにいた。

 家から学校までの記憶は無かった。

 ほとんど無意識で行ったのだろう。

 周りの人から、友達から、久し振りに登校した私を案ずる声が聞こえた。

 それに私は笑顔で『大丈夫』って答えた。

 完璧な笑み。誰も私を疑ったりはしなかった。

 ……私は輝明が居ない世界を受け入る事ができないことには変わりはなかった。

 だから、人との関係なんて、本当はもう煩わしいだけだった。

 でも、いきなり人との関係を絶つのは、『悪い事』だろう。

 そして、『悪い事』をする人は憧れられない。

 だから周りとの関係をいきなり絶たず、ゆっくりと終わらせて行った。

 怒りという関係さえ、成り立たぬように。

 そして、私は周りに、世界に完璧に心を閉ざしながら、生活を送り続けた。

 誰とも関わりたくなかった。

 一人になりたかった。

 そう思って、でも弟に誇れるように生きてきた。

 

 

「……一気に喋ってしまったな」

 

「そうだな」

 

「ダラダラ語るばかりで、大したオチが無くて悪いな」

 

「別にお前の心のままの言葉が聞ければそれでいい」

 

 ……

 

「……今日が輝明の命日なんだ」

 

「……」

 

 話を聞いているうちに、そんな気はしていた。

 

「だから、私はここで泣いていた」

 

 夕は屋上の床を指さす。

 

「……今も泣いても良いんだぞ」

 

「今は泣かないさ。優夜の前だしな。人前で泣くのは立派じゃない」

 

「……悪いな」

 

「いや、最早これは私の習性みたいなものだ。気にするな」

 

 夕は淡く微笑む。

 

「優夜。ありがとう」

 

「俺は何もしていない」

 

「したさ。私の話を聞いてくれた。それだけで十分嬉しい」

 

「……」

 

「この話は、私にとって、大切な話だ。だから、優夜に知って欲しかった」

 

「そうか」

 

 夕は明るい笑顔を浮かべている。

 暗さが無いわけではない。

 だけど、重苦しい気配は無くなっていた。

 

 

「そういえば、一つ聞いて良いか?」

 

「ん?なんだ?」

 

「前から思ってたんだが、なんでお前はあの日俺を手招きしたんだ?」

 

 今の俺達の状態は別にいい。

 この一年、俺と夕が時間を重ねていった結果だ。

 だが、俺達が関わるようになったキッカケのあの夕の手招き。

 あのときの夕の行動は、人と関わりたくないって言葉に矛盾してる気がする。

 

「……えっと」

 

 夕が目を逸らす。

 

「それは、秘密だ」

 

「あれ、なんかちゃんとした理由があるのか?」

 

 何か些細な、どうでもいい気まぐれに近いものかと思っていたけど、違ったのか。

 

「……それも秘密だ」

 

「おい」

 

「いつか言うが、今はいやだ」

 

 ……なんか、夕の顔が少し赤い。

 怒ってるのか、照れてるのかイマイチわからない。

 ……まぁ、言葉的には怒っていそうだな、これは。

 

「わかった、いつかな」

 

 これ以上しつこく聞くのはやめておこう。

 ……

 ……?

 夕が俺の目をジッと見ている。

 何かまだ言いたい事があるのだろうか。

 そう思ったら

 

「優夜、私に何か言いたい話は無いか?」

 

 なぜか夕の方からそう言われた。

 

「……どういうことだ?」

 

「言葉通りの意味だ」

 

「じゃあ、特に無いぞ」

 

「そういう意味じゃない」

 

 ……意味がわからない。

 一体夕は……

 ……ああ。そういうことか。

 

「優夜、もし、何か一人で抱えきれない事があるのなら、私に話して欲しい」

 

「……なんで」

 

「『好きな人にされて嬉しかったことは、好きな人にしてあげたい』っていうヤツだ」

 

 それは、俺が料理を夕に作ると約束したときに言った言葉だ。

 

「私は君に私の心の叫びを、聞いてもらえて嬉しかった。だから、私も君の叫びを聞きたいと思った」

 

 ……叫び、か。

 大声こそ出してないが、確かにあれは叫びだった。

 

「今でも、今じゃなくても良い。言いたくなかったら、ずっと言わなくてもいい。でも、私はちゃんと聞くし、君の言葉を聞きたいから、いつか言いたくなったら、言って欲しい」

 

 夕は真剣な目で俺を見てくる。

 そして、俺も同じ目で夕を見返した。

 

「……そうか。じゃあ」

 

 俺は夕が好きだ。

 夕はもう俺にとってかけがえのない、大切な人だ。

 だから

 

「夕、話を聞いてくれるか?」

 

 俺の心の大事な部分をくれたくなった。

 

 

 俺は母に育てられた。

 父親も存在こそしたが、会社だか愛人だかのとこにばかりで、会った記憶など数えるほどしかない。

 だからと言って不満は無かった。

 よくテレビでやっているような理想の家庭とは違ってはいたが、俺と母の二人の家族で幸せだった。

 俺は小学生の頃、よく喧嘩するガキで、母から『バカバカしいからやめなさい』ってよく怒られていた気がする。

 それで、『勉強一杯して、立派な人になりなさい』ってよく言ってくれていたっけ。

 四年前、その母が病気で死んだ。

 まぁ、そのあとの俺はかなり荒れた。

 最初は悲しんでないように取り繕ってたんだ。

 周りには愛想笑いをガンガン振りまいて。

 でも、俺は心が弱かったから、そんなのは一ヶ月しかできなかった。

 そして、荒れた。

 元々荒れ気味だったけど、更に振り切って荒れた。

 大切な人が誰もいないこの世の全てが鬱陶しくて、敵に見えていた。

 思いっきり不良になった俺は、毎日喧嘩に明け暮れていた。

 人を殴ることで、心の中の澱が無くなっていく感覚がした。

 俺は相手が動けなくなるまで殴り続けた。

 俺自身、怪我を負うことはしょっちゅうだったけど、俺はそんなことなど構いませずに殴った。

 ……自分を大切に思ってくれる、愛してくれる……そして、愛する人が居ないっていうのは、自分の存在意義が無いっていうことだ。

 だから俺は、失うものが何もなく、自分の身体も相手の身体にも容赦が一切無かった俺は、喧嘩で強かった。

 ……去年の文化祭のときに紛れ込んだ不良、覚えてるか?

 あの不良は多分その時期に喧嘩した相手なのだろう。

 そんな生活が五ヶ月ぐらい続いたときかな、いつもの通り人を殴り倒していた。

 その時は五人と喧嘩をしたため、俺は少し疲れていた。

 ちょっと暑くてな、ほんの気まぐれで、近くにあった自販機でアイスを買った。

 アイスなんて、久し振りだった。

 そのアイスの包装紙を破り、一口食べたとき、まず最初に冷たさで驚き、その次には『アイスってこんなに美味かったっけ』って思ったのを覚えている。

 少し感動したレベルだ。

 そこで俺は思った。

『喧嘩なんかするより、アイス食ってる方が全然良いな、これ』って。

 ……アイスが美味いなんて、どうでもいい、取り立てて主張する事でもない。

 でも、当時俺がやっていた事なんて、そのどうでもいい事以下だった。

 人を殴って心の澱が消えようと、代わりに虚無感が増えるだけ。

 100円のアイスを食べている方が全然マシだった。

 ……そう気付くと、途端に喧嘩をするのが馬鹿らしくなった。

 喧嘩をパタリとやめた。

 ただ、最早人と殴り合うことしかしていなかった俺には、やることが何にもなかった。

 だがそんなとき、ふと、母さんが言ったことを思い出した。

『勉強一杯して、立派な人になりなさい』って言葉を。

 

『……ああ』

 

『どうせ、暇なんだし、母さんの言うことでも聞いておくか――』

 

 そして、俺は行くのをやめていた中学に行くようになった。

 もう、周りを敵とは思わないようになった。

 でも、やっぱり、大切なものはどこにもなくて。

 世の中の全てが鬱陶しいままで。

 だから、俺は誰とも関わらないようになった。

 

 

 一気に話したら、少し疲れた。

 ペットボトルのスポーツ飲料を一気に呷る。

 疲れたけど、何かが少し楽になった。

 

「聞いてくれて、ありがとう。夕」

 

「私も君の話が聞けて良かった」

 

 ……

 

「ただ、それにしても、君本当に不良だったんだな」

 

「黒歴史だけどな」

 

 俺は苦笑いを浮かべる。

 

「失望したか?」

 

「そんなわけないだろう」

 

 夕はちょっとムスっとする。

 

「そうか」

 

 俺は視線を青空に向ける。

 ……口には出さないが、夕のムスっとした顔は可愛かったし、そしてなにより、嬉しかった。

 俺を好きでいることを当然としているのが、伝わって来たから。

 ……

 

「これで俺と夕は互いの過去を交換したわけだ」

 

「まるでメアド交換みたいだな」

 

「はは。確かに」

 

 俺は夕の言い草がおかしくて、笑ってしまう。

 

「なぁ、優夜」

 

 夕は笑ってる。

 優しくて、柔らかい笑み。

 

「なんだ」

 

「私は君のこと、好きだぞ」

 

「ああ。俺もお前のことが好きだ」

 

 俺はそう言って、夕の口にキスをした。

 

「……私からキスしようとしてたのに、なんかズルい」

 

 夕の口から離れるのと同時に、夕は拗ねる。

 

「早い者勝ちだ」

 

「そんなわけあるか。もっと落ち着いてやりたい」

 

「はは。そりゃそうだ」

 

「優夜」

 

「ん?」

 

「愛してる」

 

 そう言って、夕は俺にキスしてきた。

 深く混ざり合うように。一つになるかのように。

 ……俺と夕はあの日まで孤独だった。

 世界に何にも期待していなかった。

 でも、俺達はここで出会った。

 色々なことがあった。

 その数多くがどうでもよくて、だけど大切な想い出だ。

 夕との想い出だ。

 愛している人との。愛してくれる人との。

 ああ。ありがとう。

 一緒にいてくれて、好きになってくれて、本当に泣きたくなるほど嬉しい。

 それで、俺も夕のことが好きで。

 愛してて。

 今がバカみたいに幸せで。

 本当にありがとう。

 夕。

 

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