2:守るために

 暗黒の噴霧を抜けて、光線はカオルの肩口へ辿り着いた。

「ってぇ!」

 目くらましに使う魔術で光を大きく減衰させたものの、服が貫かれ肉が焼かれ、空を舞う身は大きく傾ぐ。

 息荒く汗を拭うカオルの体には、すでに幾つもの傷が刻まれている。

「ちくしょう、治療の暇もない……もう死にてぇな」

 右肩口と左腿が焦げ、腹が圧され、切り傷は数多だ。骨も、いくつかやられているだろう。堪えるには少々しんどい激痛だが、天使が相手ではいちいち魔術を使用する間などない。

 まだ視界を覆う黒霧の向こうから、美しい歌が響く。

 ただ、声に込められているのは、憤怒と悲哀。

「……まったく」

 メノウの悲痛な声に、眉をしかめたカオルは呟く。

 込めるのは、まるで自省。

 同時、天使の声に宿るキセキが、突風を生んだ。

 漂っていた霧は一度に吹き散らされ、

「なぜ、魔城に戻ってくれないのです!?」

 二本の光剣を宙に下げる彼女が、間近に現れた。

 すぐさま身構えるが、刃は主の意向をすぐさまに実行。

 大きく突き出され、二つの切っ先が腹から背へと突き抜ける。

 声を出すも、吐息に化けるばかり。

 激痛に霞む視界には、輝く天使の姿がある。

 頬を大きく歪めて、泣いていた。

「父の意思を達せられなかった私に、次の勇者が選ばれる十年の先まで、どうやって孤独を埋めろというの!?」

「ぐぅ!」

 背から抜けた切っ先が、なお深くポールスモートの空へと向かう。

 痛みに震える手を、おもむろにメノウへと突きだす。

 すでに触れる距離にあって、彼の指は天使の髪を絡める。

「どうしたの、カオル? また、前みたいに抱きしめてくれるの?」

 期待まじりの不審に、魔王は、

「できるかどうか、試してみるさ」

 右手に力を込める。

 意識が編みあげるのは心に作用する魔術。

 精神の波を穏やかにさせる、かつて彼が、泣き暮らす彼女へ使った手段の一つだ。

 手の中の不可視の力がはじけて、

「ダメか」

 身体だけでなく、心のありようも天使は人と違う。

 精神に張り巡らされた防壁に、カオルの魔術は弾かれてしまったようだ。

「邪眼が揃ってりゃ、どうってことは……いや、ただの泣き言だな、こりゃ」

 当然、攻められた側は襲撃者の正体を知り、

「カオル!」

 哀が強かった声が、怒に塗られた。

 怒りは明確な敵意となる。

 歌声から、優雅さが抜け落ちていく。

 激情が迸る。

 光を纏った翼が尖鋭化し、やはり光が仮面となってメノウの視線を覆った。

 キセキの力が溢れ、形となれずにいるのだろう。光はなお膨張を止めず、天使の体へ集まっていく。

 これはつまり、

「こいつは、ほんとで死んじまうかもなあ」

 怒る彼女が、全力を見せるということ。

 カオルは、血まみれの奥歯を噛み、

「ようやく死ねる、とでも言うべきか?」

 に、と己を嘲る。

 直後、集まりきった光が爆発した。


      ※


 ポールスモートが揺れる。

 家々が。

 街路灯が。

 少女の、星を散りばめたように輝く髪先が。

 石畳に膝をついたクリーティアは、頭上の炸裂を、網膜の焼けることも構わずに食い入っていた。

 光爆がいずれ霧散すれば、そこから黒い影が飛び出してくる。見るからに傷は深く、動きに精彩を欠く様で、だが。

 聖剣を握る小さな手は戦慄き、深い青色の瞳には恐れが泳ぐ。

 己の無力さが、悔やみきれないのだ。

 自分では何一つ為せず、彼に頼ることしかできなかった。

 メノウを救ってくれ、と甘えることしかできなかった。

「もっと……もっと私が強かったなら」

 例えば、メグのような剣技があったなら。

 例えば、エイブスのように聡い耳や知恵があったなら。

 いまの自分にある物といえば、借り物の聖剣の他にはないのだ。

 それも、彼には拒否されてしまった。

 何もできず、無力を食んで、涙をこぼすだけ。

 上空では、連続する爆発。たびに、黒い影が舞う。

 耳と目が痛いほどに刺激されるが、閉じることも塞ぐこともできない。

 ふと、頬が両の手に挟みこまれ、強引に視線を落とされた。

「しっかりなさい。泣いている場合ではないでしょう」

 メグだ。

 上に気を取られていて、まったく気がつかなかった。

 眉をいからせ、垂れがちの目に力を込めた彼女に、クリーティアは呆然となりながら、それでも言葉を集め、

「で……ですが、この非凡の身には到底……」

「あなたの手にある物はなんですか!」

 厳しい声に打ちすえられた。

「彼を助けることのできる、唯一の方法ですよ」

 己の手を見れば、確かに聖剣はそこにある。だがこれは、彼が受け取ることを拒んだがためだ。

「いいですか?」

 目を戻せば、メグが表情を一転させて微笑みを見せていた。

「カオルさんは、天使に本気で勝つ気はないようです。負け、彼女の手にかかることによって、彼女の心に決着をつけさせるつもりなのかもしれません」

 確かに、そうだろう。

 事実として魔王の勝利は難しい状況にある。その中で彼が選びうるとしたなら、己の敗北によることとなる。

 クリーティア自身が望み、カオルに頼ったことだ。

 ですが、とメグは問う。

「そうであるなら、あなたは彼が死んでしまってもいいと、そう思うのですか?」

 そんなわけはない。

 自分の世界を変えてしまった人だ。

 大切な人だ。

 元勇者の両手の中で、力無い首を横に振るうと、

「なら、彼と同じことをしましょう」

 ……え?

 にっこりと微笑むメグに、クリーティアはきょとんと視線を返す。

 発案者は、

「優しさを押しつけてあげるんです」

 説明を足すと、視線を通りの西へと向ける。

 少女は、未だ言葉の意を噛み砕けないままだが、反射のように視線を追いかける。

 通りを駆けるのはエイブスで、空をくるのはスイギョクだ。

 二人ともが、瞳が力強く輝いており、

「あの様子だと、向こうも手を考えているようですね」

 頬を挟みこむ手の平は、

「さあ、どうしますか、クリーティア・ボードフィール」

 まるで、勇気を分け与えでもしてくれているようだった。


      ※


「おうおうおう、飛んでっちまったなあ」

 大きな体を窓ガラスに寄せて、エリオットが大きな口のその端に嬉しさを滲ませた。

 向こうでは、小柄な天使に抱えられて、空を目指すクリーティアの姿が。金の髪を風に舞わせて、瞳はじっと行く先を見据えて。

「きちんと、覚悟を決めたんだな。いいツラだ、見てみろよカチェス」

「遠慮しておく」

 帰還した警備隊長へ背を向けたまま、議長席で本を開くカチェスは、面白くもなさそうに肩を落とした。

 振り返ったエリオットが眉を跳ねて、

「なんだ、機嫌が悪いな」

「自分が不甲斐なくなるんだ。あの子らを見ているとな」

「不甲斐ない?」

 意外そうに同じ言葉を返す警備隊長へ、放り投げるように、

「カオルには色々と助けてもらったがな、私には何も返してやれるものがないんだ」

 細い指を眉根にあて、

「彼女らは勇者だとはいえ、いろいろとあるってのに」

 カオルには、政治家生命を守ってもらったこともある。命そのものを救ってもらったこともある。彼に様々便宜を図ったこともあるが、その程度では返しきれないことは分かっている。

 無論、魔王と呼ばれる彼に問えば「気にするな」と笑うだろうが、こればかりはカチェス自身の規範であるから譲れない。

 不器用な、と自嘲すると、豪快な笑い声が彼女の思案を蹴飛ばした。

「がはは! なんだ、ポールスモートの議長にまでなった女が、やれるものが何も無いか!」

「何がおかしい」

 人を射殺せると噂される瞳で、エリオットを肩越しに睨みつける。

 付き合いの長い警備隊長は肩をすくめると、

「カオルには死んでもらいたくはねぇなあ」

「そうだな。死なれては、恩を返すこともできやしなくなる」

 本当に、どうすれば報いることができるのだろう。

 自分には議長という大きな力があり、力を根拠とした財があるというのに。

 なれば、と自問を重ねたところで、後ろをから声が。

「議長の席は、死んでも守らなきゃな」

「は?」

「勇者じゃないカチェスは、カオルが欲した物を何時でも与えられるようにしておかんと」

 エリオットは大きな口を笑いに歪めて、外を見つめた。

 天使と魔王が舞う空ではなく、喧騒の響く石畳を。

「おいでなすった。アグエからきた聖堂騎士団が、手土産を求めて押し入ってきた。あいつら、ポールスモートのなんちゃってとは違うから、本気だぞ」

「勝敗は決したというのにか? 狂信者どもめが。私の首を求めているのか?」

「頭の上のドンパチが、どうやら天使に優勢だからな。カオルがいなけりゃ、ギェススを担ぎ直すこともできる。首よりは、議長席を狙っているんだろ」

 は、とカチェスは嗤い、本を閉じて立ち上がる。

「だったら、死んでも守らないとな」

 守るために、戦うために。

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