3:彼の佇む風景

 かつて、この腕は天使を守っていた。

 弱々しく震える彼女を、救ってやりたくて。長いあいだ抱きしめていたが、それでも彼女の不安を埋めてやることはできなかった。

 彼女のために、嘘をついたこともある。

 ボードフィール教会に、神の声を騙ったのだ。神が言葉を残したとなれば、天使の孤独も癒えるだろうと思った。確かに、彼女は彼の腕を必要とはしなくなった。

 しかし代わりに幾人もの、勇者と呼ばれる人身御供の犠牲者が生み出された。自分のせいで人生を狂わされた彼女らの顔は、今でも間違いようもなく全員を思い出せる。

 少女らには、償いもこめて出来うる限りを尽くした。特にメグには、瞳の一方をくれてやりもした。だからと言って、自分が許されるとは思ってもいないが。

 と、浮かびあがるのは、深い青色の瞳を強く輝かせる、当代の勇者の姿。

 ……ああ。

 彼女には何もしてやれていない。

 教会から身を守ってやらないといけないだろうし、最後に聞いたお願いも叶えてやりたいところだ。

 ……とはいえ、な。

 体のあちこちが、すでに痛みすら伝えていない。吐息すら重く、血が混じる。

 満身創痍。どれだけの骨が砕け、肉が裂けたかわからない。意識が途絶えないことが、自分でも信じられないくらいだ。

 体たらくに苦笑し、カオルはまぶたを強引にこじ開けた。

 眼前では、銀髪を揺らす金眼の天使が微笑む。透けるほど白い両の腕で、傷だらけの魔王を優しく抱きしめていた。

「……いつもと逆だな」

「ええ」

 それまでに満ちていた怒りと悲しみは姿を隠し、穏やかな声が返る。

 メノウは、胸の喜びを伝える。

「決めたの。あなたが生まれかわるのを待つわ。生まれかわってまた出会うまで、あなたの温もりを忘れたくないように、ね」

「へ……嬉しすぎて死んじまいそうだ」

 カオルは嘯く。が、力はない。もう、余る体力もないのだ。

 最期が、目前に迫っていることを自覚する。

 人が死ねば、魔族へと姿を変える。

 ならば、果たして魔王は?

 メノウが言うとおりにこの身が生まれかわるものか、わからない。が、

「まあ、それもいいか」

「ええ」

 血で濡れる口元を笑みにつくれば、天使も柔らかく返す。

 温かいな、と呟けば、

「なんて顔をしているんですか!」

 遠のく意識に、甲高い声が飛び込んできた。

 目をやれば、スイギョクに抱かれた少女が、碧眼をいからせて迫ってくる。

 何をしているのか、と赤と青の瞳に呆れと疑問を込めれば、

「諦めるつもりですか!」

 怒号にも近い叫びが返る。

 ……そんなつもりはないんだけどなあ。

 彼女の、メノウを救ってくれという言葉を、カオルは尊重したつもりだ。自身も望むことであるし、手にある材料を使いきったとしても、他の方法は叶わないだろう。

 手は尽くしたのだ。これが最善。

 ……だから、下で見ていろよ。

 伝えたいが、しかし、声にはならなかった。もう喉を震わせる余裕もない。

 見つめる先で、クリーティアが腕を持ち上げ、振り下ろした。

 風を切り、何かが近づいてくる。

 重い手を反射的に掲げると、思いもよらず、

「こいつは……」

 吸いつくように手の平に収められた、魔擢の聖剣の姿がそこにあった。


      ※


 聖剣に封じられた片割れを取り戻した巨悪は、力を溢れるままに、大気を歪めては無数の静電気を打ち鳴らす。

 圧された空気が光を歪め、あちらこちらが斑に赤く染まりはじめている。

 そこは、ポールスモートの執政機関『空映しの館』が見上げる、自由が翼を広げる上天であったはずだった。

 それがいまや『魔王が佇む黄昏の淵』へと一変した。

 彼を抱く天使すら、魔王のための風景と化すほど。

 無数の致命傷は蒸気をあげて消え失せていき、千切れかかっていた左腕もまばたきの間に癒着を果たしていた。

 勇者たる少女は、恐れに息を呑む。

「これが、魔王……」

 クリーティアを抱くスイギョクが、声を震わせる。同じく、恐怖を覚えているのだろう。

 圧倒的な存在感だ。その源泉は、人の身では量ることすらかなわない、強大な魔力の奔流にある。本来なら「術」として、火球を生み幻影で謀っては現世に触れるものだが、魔王の身はそこにあるだけで現実に干渉してくる。

 今の姿を見たならば、山を穿ち地を裂き海を割る、という伝承にも信を置くことができた。

 吐息一つで周囲の空気を戦慄かせる魔王が、灼けるように赫い瞳を投げかける。

 クリーティアも彼女を抱く腕も、圧倒的強者に捉えられ、悪寒に身震い。

 が、邪眼のつがいは澄んだ青色のままで、

「こんな危ないとこまで、何しにきたんだ」

 発する声音がいつも通りだから、少女は震えを抑えこみ、

「あなたにいなくなられては、困るからです!」

 魔王の苦笑を、間違いなく目に留めた。

 柔らかくこちらを見据える笑みだ。

 その頬に、先ほどまでの諦観めいた自嘲は残ってはいない。

「生きてください! 私はまだ何も、助けてもらったお礼も、教会のことを教えられたことも、なに一つお返しできていないのですから!」

 歪む大気に負けぬよう、力の限り叫ぶ。

 雷鳴の向こうでは、苦笑を大きくした魔王が、気にするなと応え、

「そいつを連れて下がってくれ、スイギョク。お前さんにはあまり見たくないものが始まる」

 彼女を抱く天使が、小さく頷いて、離れはじめた。

 クリーティアは、聖剣を握る姿を離さぬように見つめ続け、

「クリート」

 視線に気づいた相手が、これで最後だというように、問う。

「誰がお前に、この剣を持たせた?」

「エイブスさんと、メグさんです! メグさんは議長さんからも聞いた、と!」

 そうか、という彼の満面の笑みだが、クリーティアが見られたのはほんのわずかな時間だった。

「カオルさん!」

 赤い静電気の嵐が魔王と天使を呑みこみ、笑顔の真意を解けないままの勇者を拒んでしまっていた。


      ※


 嵐に閉ざされた、ポールスモートの空。

 メノウは金の瞳を揺らして、男を見つめていた。

 赤と青の瞳を笑みにしならせる彼が、かつての力を取り戻したことに震えながら。

 心に決めたのだ。

 勇者を選り赫灼の邪眼を討つべし、という父の言葉を違えることにはなるとしても、彼を葬り、生まれ変わり再び出会うことを待つことで、孤独を埋めよう。

 そう決めたというのに。

 そうまで愛しているというのに。

 男を葬れず、まして父の言葉を裏切ったとなっては。

 かつて、胸を覆った暗がりの、その大きさを思い出して指を震わせる。

 独りが、怖い。

 魔王の監視という責のみが己の証で、他に何一つ持ちえなかった。誰か拠り所がなければ、寂しさに押し潰されてしまいそうだった日々を思い起こしてしまう。

 もう二度と、あんな思いはしたくないと思っていたのに。

 自分は父の言葉に背き、彼を腕のなかに収めておくこともできなくなった。

 あの時のように、また、

「私は置いていかれてしまうの?」

 すがるように問えば、彼はすまなそうに微笑む。

「悪い。死んでやるわけにはいかなくなった」

 荒ぶ嵐の中で、魔王の声はやけにはっきりと耳に届く。

 聞きたくもない言葉だからこそ、なのだろうか。

 こちらの眉根が八の字に寄るのを見たのか、彼が笑みを柔らかく深めた。

「大丈夫。明日からは一人じゃないさ」

「いや、やめて!

 あの時と同じじゃない。そう言って、あなたはどこかに行ってしまった」

「あの時は、すぐに神さまからのメッセージがあっただろ」

「ええ。ええ、そう。だから私は……」

「ごめん」

 抗議を遮ったのは、彼の口からの詫びだった。

 え、と驚かされて、なにが、と問う。

 数拍、裂くような雷鳴だけが二人の間を埋めて、

「まさか」

 メノウは、金の瞳に理解を灯す。

 百年の昔に、魔王が彼女の元を去ってすぐに、都合良く神託が下された。

 まるで、孤独を埋め合わせでもするかのように。

「嘘だと言って」

「ごめんな」

 謝りの言葉に、抱く両腕に力が込もる。

 真実なのだ。

 彼の優しさが創った嘘に、自分は甘えていただけだということは。

 何も知らず、恨み言を連ねていた自分を思い出すと、たまらなくなる。

 ……私にはこの人しかいなかったのだ。

 失うものが唯一つであり、あまりにも大きいことに、体の震えは大きくなる。

 その恐ろしいと思う心を掬うように、男の手が躍る銀の髪を撫で梳いた。

 見れば、相変わらず微笑んだまま、

「明日からは、ずっと一緒だ」

 握る聖剣を振り上げた。

 そのまま、刃をこの身に落とすつもりだろう。

 最期に迫られ、天使はキセキの宿る美しい声を、愛した彼の名に謳う。

 温かな涙が頬を伝う、その理由もはっきりとはわからないままに。

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