3:あの日の涙を止めたのは
見上げた月は、だが、ポールスモートの上空に広がる光の粒により、輝きを鈍らせていた。
秋も深まりを見せてはいるが、今夜は特に寒い。吐く息が、白く明るい夜空を濁らせる。
「議長!」
石畳に、踵を鳴らしていたブーツが、悲壮な声に呼び止められる。
「どこに行くんですか! 明日は、北のアグエから大司祭がいらっしゃるんですよ! 協力するにしろそうでないにしろ、まったく打ち合わせ無しってのはまずいですよ! それに未だ、教会からのカーオロイ引渡要求への正式な返答もしていないんですし!」
カオルことカーオロイが、勇者であるクリーティア・ボードフィールを連れ去って、これが二回目の夜である。正神教側の圧力は凄まじく、放っておけば、確かに暴発の可能性は否定できない。
だが、吐息がため息に変わり、白色が大きく眼前に広がった。
カチェスは、怒気を込めた隈の濃いやぶ睨みを振り向きざまに放ち、
「私はなんだ?」
「は?」
「肩書だ」
「……ポールスモート議会の代表です」
「貴様は?」
「議会職員ですが……」
「だったらわかるな。相手は教会だ。馬鹿か裏切り者でなければ、対応は決まっている」
それでも若者は理解できないようで、カチェスの苛立ちが大きく泡立つ。
強い語調が、さらに叩きつけるようになり、
「昨日は寝ていない。あげく、天使サマの対応で今日は昼食もないほどの激務」
「知っています。ですが明日は重要で……!」
「言うべき言葉は決まっているだろう」
「ですから、それを教えてもらわなければ!」
「ポールスモートの理念に他勢力への協力などない! 干渉も受けん! 伝えるべきはそれがすべてだ! わかったか、若造! 法典の序項くらいは頭に入れておけ!」
貴様がカオルならこめかみに膝をめり込ませているところだ、と言い捨て、あっけにとられる職員を置き去りに。
深夜となれば、官公施設の多い霞桜通りに人気はない。寒々しい大きな道の中央を、悠々と自宅へと向かう。
石畳を叩く靴裏が高いのは、疲労のせいばかりではない。
視線の先に、ほんのりと輝く、歌うメノウの姿。
カチェスの頭を悩ますのは、彼女の動向である。手紙を受け取った頃には具体策などなかったが、先日のスイギョクとの会話により、彼らの間にも矛盾とつけいる隙を見出せた。
神以外の誰かが定めた、勇者を求める不審なシステムの成り立ち。勇者の存在に疑問を抱かないメノウと、強い疑惑を抱くスイギョクという二人の天使。
人々は百年ほど昔の伝承を紐解き、神のお告げによって勇者は生み出されたのだと信じている。
だが、考えるほどに妙な点も目立つ。
勇者とは名ばかりで、実質は生贄であること。
他の地方においては、このような定期的な勇者認定を行っていないこと。だいたい、神のお告げの記録など希少で、ほとんどは勇者や魔王に言及したものではない。
「……なら、誰が? なぜだ?」
湧き立つ当然の疑問。
勇者が命を落とすことで得をする存在。得ることを望む存在。動機はまったくわからないが、誰が、という自問に、天使と対立する存在とその名を騙る男を思い出す。ついでに、天使がその男の名を知っていたことも。
口角を、自嘲気味に歪める。
「は……確かに天使とも面識があるようだし……本当に魔王なのかもな……っ」
不意に、強く風が吹いた。ウエーブの強い赤髪を躍らせながら顔を上げれば、
「……っ!?」
「ごきげんよう」
金瞳の天使が、ごく近くの闇に、純白の翼を広げて浮かび上がっていた。
輝くばかりの白い肌を月の光に映しながら、変わらず優しげに微笑んでいる。
いつの間に、という言葉は、途中でばからしくなって、告げずに終わった。なにせ、天使だ。身体的な性能は段違いであるし、キセキと呼ばれる歌声に、どんな力が隠されているのかも、ただの議会代表には知りえないものだ。
「こんな真夜中にお散歩ですか? 街を歩くのは、あなただけですよ?」
「なら危険はないでしょう? それに散歩ではなく、帰宅の途中なのですよ」
「あら、これは失礼しました」
謝罪を込めたのか、笑みが深くなる。
人であれば、圧倒的存在感が放つ包むような笑顔に、大きな信頼感を抱かざるをえない。
だが、カチェスには先日の、狂気じみた問答を思い出させるだけだ。
身構えつつ言葉を探していると、むこうが先手を打ってきた。
「あの二人は、まだ見つかりませんか?」
自称魔王と認定勇者のことだろう。
「手は尽くしているものの、未だ。教会も、前回の失点を挽回したく考えているようですが成果はあがっていないようですね」
「そうですか」
「それと」
どう考えても、いま言うべき言葉ではない。間違いなく疲れてはいるのだが、しかし、この程度の判断もできないとは思えない。十年前の四方が敵ばかりだった頃のほうが、よほど神経をすり減らしていた。
信念の問題だ。自分はポールスモートの代表であり、街を、街の理念を愛している。加えるのなら、大多数となってしまった、天使を頼る議員たちへの牽制でもある。
「街としてはあの二人を見つけたとしても、あなたに引き渡す気はありませんよ」
さて、と反応をうかがう。
最悪、激昂されて八つ裂きになるかもとは考えていたが、カチェスのあらゆる想定から、天使の表情はかけ離れていた。
驚きと、そこに混じる少量の喜び。その度合いが、徐々に反転していく。
年来の友と不意に出会った時のような、頬に沁みわたる笑み。
……なぜ?
カチェスも驚きを浮かべたが、天使とは違って、不信が瞳に濃くなっていく。
相手の警戒をよそに、メノウは宙を滑って近づき、話しかける。
「それが、あなたを支える規範なのですね?」
金の瞳が、至近でこちらを覗きこむ。
逸らす気もないのだが、実際にわずかも逸らすことができない。強大な存在感に、縛りつけられたように、見つめあうばかり。
「私もです。父という絶対の存在が、私たち天使の拠り所なのです」
なるほど。
天使がこちらに感じたのは、共感だったのだ。それも、他意のない、素直な。
カチェスには納得できない。あなたのそれは盲信であって、私のものとは違う。
が、言葉にはならない。瞳と同様、存在感に圧迫されている。
「でも」
そっと手を取られた。柔らかなきめの細かい手のひらに、わずかとは言えない嫉妬を覚えながら、彼女の言葉を待てば、
「もし、その規範に疑いが出てしまったら、どうします?」
それまで警戒に使われていたカチェスの注意を、たやすく内面へと向けさせる。
ポールスモートの持つ自由理念が間違っていたなら。確かに、人の価値観は多様だ。同じ議員の中にも、理念より目先の実益を望む者も少なくない。だが、今回の話は、自身の価値観と規範とがずれてしまった時のことを言っているのだろう。
一息では答えがでず、視線は再び笑顔のメノウを捉え、問いの意味を探っていく。
おそらく、彼女は疑惑を抱いてしまったのだ。神と呼ばれる、絶対の父親へ。
であれば、あの盲信じみた言動は?
脳裏に、閃きが走る。
「カオル……カーオロイとはどういう関係で?」
矛盾の多い言動と、不可思議な身柄要求。もしやと思い、ずっと疑問だった事項を、ここぞと口にした。
天使は、再び表情を転じる。
いままでのどの笑みよりも、その色は深い。
柔らかなかつてへの憧憬と諦観が、織り込むように混じりあい、
「彼は、私の崩れかかった世界を助けてくれました」
……カオルが? 天使を? では、魔王ではないのか?
しかし、口を挟む余地はない。メノウは頭上で輝く月を仰ぎ、
「月を見て泣くことしかできなかった長い夜を、彼が埋めてくれたのです」
燦々と、青白い光を肌に浴びる。それを見て、これ以上の会話はできないだろうと、勝手に決めつけた。解決よりも、混乱の方が多く残ったからだ。次に訊ねたいことが多すぎて、一つもまとまらない。
ただ思うことは、カオルは天使すら助けられる男だったのだ。自分も、力を借りることもあるし、救われたこともある。だが、彼にとっては特別なことではなかったようだ。
そう考えると少し残念な気がして、月の淡い光がいやに眩しく思い、目を細めた。
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