4:黄金の船は星の海を往く

 月は相変わらず、雲に隠れることもなく、天の頂を目指す。

 注がれ続ける輝く視線が、村の広場で向かいあう二人の女を、淡く青く濡らしていた。

「あの人は、あなたを助けようとしているんです」

 束ねた黒髪は怒るように揺れ、切り揃えられた金髪は自信なさげにうなだれる。

 カオルとメグのささやかな密談を見届けた後、クリーティア冴えてしまった目を引きずっていた。仕方なく散策を続け、彼らの話題に上がっていた広場の祠へと辿り着いたところで、背後から、彼女に呼び止められたのだ。

「ですけれど、先に言ったとおり、状況は私の思っているのとは逆に転がっています」

「悪い方向に、とあなたは言いましたね」

 そう、悪い方向に。

 旅に出てから魔王不在の噂を知り、言いつけられた日付に天使の元へは辿り着けず、さらには彼らの迎えから逃げるように、カオルらにこの小さな村まで連れてこられた。

 最初のつまずきが、こうまで状況を転がすとは。

「これに使わなければ、何を悪転と言うのですか」

 メグという人は、クリーティアを圧倒してくる。カオルと一緒のときは感じなかったが、こうして二人きりになるとよくわかる。この存在感は、少女の隠し事をすべて吐露させてしまった。

 だから自信なさげに、せめてもの抵抗で口を尖らせる。

「だけど、順調に事が運んで魔城に向かったなら、あなたは命を落としていますよ」

「ですが、前の勇者は単身で魔城に切り込み、魔王に手傷を負わせたと」

 ならば、自分にも可能性はあるだろう。

 だが、女は怒気を吐き出すように、深くため息。

「それは彼が……いいえ。勇者が望み、魔王が応えてくれたからですよ」

 思いもよらない言葉であった。驚いて、メグの瞳を覗きこめば、そこに浮かぶ色に正体はわからないまま、胸を掴まれるような思いになる。

「その後、勇者は教会の口封じを恐れて、小さな村に身を隠しました」

 耳を、疑う。

 言葉そのものにも、言葉の意を振るう者の名前にも。

 整合しない頭の中、破片群の尖りたちを研ぎ丸めるため、問い直す。

「今、なんと? もう一度、お願いできますか」

 返る言葉などわかりきっている、くだらない返問。

「教会による勇者の口封じ、と言ったのです」

 この人は、何を言っているのか。

 自分が育てられた正神教は、人類を導いた偉大な神を讃え、世の邪を打ち払い、人々に笑顔を広げるためにあるはずだ。

 それが、口封じなど……現に、前勇者は、魔城にて壮絶な死を迎えたと教えられたのに。

「あなたがどのように教えられたのかは知りませんが、魔城から人里に戻った勇者は三人ほどいます。そのすべてが、教会から命を狙われました」

 空で輝くのが月でなかったなら、顔から血の気が引いていくのがはっきりとわかっただろう。突拍子もないメグの言葉への怒りなのか、真実を嗅ぎ取ってしまった故の狼狽なのか。

「……どうして、口封じなどしなければならなかったのです?」

「生きて帰ることは、教会の不都合を持って帰るということだから」

「不都合……魔王に出会い、生きて帰ることが?」

 納得がいかない。魔城から生還しただけでも、英雄視されてもおかしくないと思うのだが。

「魔王を……灼赫の邪眼を知った者は、教会が謳う正義に疑いを持つからなのです」

「そんなバカな!」

 魔族は人の幸せを奪う存在であるはず。

 百歩譲っても得心いかないといった面持ちだったクリーティアの眉根が、ぐっと持ち上がった。

「教会よりも魔王の言に信を置くと!?」

「ですが真実です。魔王は、教会から狙われた勇者たちを助けてもいますし、何より……」

 制するメグの声は、すでに怒気はない。浮かぶのは、ためらいと、決断へ臨する清廉さだ。

 ためらいは加速度的に塗りつぶされていき、薄い唇が言葉を続ける。

 クリーティアは、彼女の表情に圧倒され、割り入ることもできず、ただただ待つ。

「何より、私も助けられた一人なのですから」


      ※


 先代、つまり九人目の勇者には、さまざまな逸話がある。その全てを集約しているのが『魔擢の聖剣』だ。

 正神教区の南端にあるアグエの首都で、中流貴族であるティングリド家の次女として生まれた彼女は、神童と呼ばれ、両親に過大な期待を寄せられて育つ。十三歳になる頃には、錬度の高さで有名な地元の聖堂騎士団に剣で敵う者がいなくなり、年を追うごとに彼女と彼らの技量は距離を離す一方となっていった。

 十五歳のある日、彼女は突然に教会の門を叩き、勇者へと志願する。

 この時すでに、教会側はもう一人の孤児を勇者として選んでおり、彼女には諦めるように説得を重ね、ついには街へ縛るために縁談まで持ち上がる始末。業を煮やした九代目の勇者となる少女は、法具庫より一本の聖剣を奪いだした。彼女が去った後には、ほぼ全ての聖堂騎士が意識を失っていたという。

 想像を絶する剣の使い手となっていた彼女だが、しかし、魔城より帰ることはなかった。

 放たれた火球を呑み込み、切りつけた魔を食らうという聖剣によって、魔王の片目を奪ったとは伝えられるものの、その聖剣とともに勇者の行方はわからなくなり、いつしか教会も殉教の認定を下す。

 こうして、天才と呼ばれた九人目の勇者は、十五歳という若さで歴史から名を消した。

 十年前の話である。

 いま、クリーティアが出会った女性は、年の頃なら二十代半ば。

 そして、ティングリド家の次女の名は、メグであったはずだった。

 記憶と擦りあわされた目前の事実に、クリーティアは悲痛に叫ぶ。

「信じられません!」

 魔王は? 勇者は? 神は? 教会は?

 今までの己の通念が嵐にさらされ、揺すられている。

 対するメグは、垂れがちの目に強い光をたたえ、意思を表してか唇を固く結んでいる。

「でしたら、正義は誰にあるのですか! 人々の幸せを願うには、一体どうしたら! 魔王を討てば、人の魂は脅かされることはないのでしょう! 魔王は悪のはずでは!」

 だから、カオルが魔王であるということに疑いを強めていたのだ。

 メグが、閉ざしていた唇を動かした。

「魔王は、確かに悪ですね」

 声音は静かだが、しかし、瞳の強さに柔和と悲哀が溶け込んだ。

「一方的なありとあらゆる優しさで、何者をも堕落させてしまうのですよ?」

 悲哀のほうが強いだろうか。ゆるゆると、表情を作りはじめる。

「あらん限りの咎を背負い込んで、もう大丈夫だからと、笑うだけなんですから」

 頬が笑みの形となり、左目をつぶる。

 求めていた答えとはだいぶ違う、明らかな擁護だった。であるにも関わらず、選びだされる言葉を見れば、彼女の複雑な心境を見てとれる。

 だから、クリーティアは尋ねざるをえない。

「……魔王とはなんなんですか?」

 曖昧な問いに、かつての勇者は真意を汲むべく眉を寄せた。

 一考の後に、薄い唇が真実たるを願い、紡いだ。

「……神が存在していること、そして彼が無慈悲であることの証明です。その存在は、天使ですら救われるのですから」

 天使ですら?

 ポールスモートに現れた天使は、カオルを求めたらしい。ならば?

 メグの言葉は正しいのだろうか。

 教会は聖典から真実を削り、魔王には無限の優しさがあるということか?

 クリーティアは忘我にあった。

 月の冷たい視線が、少女の眠れぬ夜を、ただただ照らしていた。


      ※


 夜を往く黄金の瞳と見つめ合う赤い眼差しは、詰めていた息を大きくこぼした。

 宵に静まる田舎村での、選ばれた勇者たちの問答。

 麦畑が囁く子守歌に誘われながら、今夜の寝床へぶらぶらと向かう途中に出くわした密談に、ついつい声をかけるのを躊躇われて、結果として石塀の影で盗み聞くことになってしまっていた。

 少女の怒鳴るような詰問に息を詰まらせ、かつての少女の諭す言葉に肩が落ちる。

「そんな、思っているほど大したもんじゃあないんだよ」

 魔王とは『なんなのか』と。

 天使すら『救われるの』だ。

 問いは核心であり、応えは過大な評価だ。

 過去の勇者は己を救い、さらには天使を救ったと言いはするが、カオルに言わせれば『古い習わしに巻き込まれた彼女たちを助けるための、己で定めたちゃちな掟』でしかない。

 生きていくために守るべきと決めた規範であり、さらに踏み込めば『魔王であるゆえに巻き込んだ側』でもあるから。

 だから、手に掴んでぶら下げている物は罪悪感で、片手では足りず逆手も埋まっている。

 ……そのうち抱きかかえるようになって、背負うようになるんだろうなあ。

 最後は潰れてしまうのだろうか。

 見えているわけでもない明日の光景に、口端からこぼすような吐息へ焼けるような自嘲を溶かす。

 魔王など、彼女たちが思っているほど、大したものではない。

 己を見ても。

 世界が求める役割を見ても。

「神様ってのは、何を望んでいるのやら」

 核心なのだ。

 魔王が『なんなのか』なんて、当の本人ですらわかってなどいないのだから。

 赤い瞳が見上げる先で、黄金の瞳は夜を往く。

 誰彼の苦しみも悩みも、一顧だにせず、ひたすらに朝へ向かって。

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