2:彼らの足取り
「なんですか、この指輪」
「いてててていてえよ!」
人の多い通りを横断中、突然左の中指を掴まれた。
ほとんどは雑踏の出来事として顧みないし、興味を示した幾人も、状況だけ確かめるとすぐに行き過ぎていく。
カオルは、宿を出た時からの追跡者に無視を決め込んでいたが、度重なる無法な振る舞いについに振り返ってしまう。
「なに? なんなの? 昨日一日は我慢したけど、今日も俺についてくるのか?」
「こうやって、恩返しの機会を逃すまいとしているのですが」
「で、恩を返したら退治するんだろ? なんだろ、この軒先貸したら母屋取られそう感は」
少女は、星のように輝く金髪を揺らながら小首を傾げると、
「カオルさんは下宿でしょう?」
「……そこは、意味が違うとこをツッこむんだ」
「? 軒先も貸していないということですか?」
呆れながら、クリーティアの輝く大きな瞳を覗きこむ。正直、叩き起こされた午前中には眩しすぎて、目を細めざるをえないが。
「昨日の朝に言いましたよね。恩返しするまでは、退治はいたしません、と」
「ジョッキを片手にな。迎え酒しながら言われてもさあ……」
「残っていたんですよ! もったいないじゃないですか!」
確かに、酒で混濁していたので曖昧だが、記憶には残っている。
頭から突っ込むワインの海から見上げた、窓から差し込む朝日の中でジョッキをあおる少女が、これ以上ない爽やかな笑顔で告げたのだ。
……昨日は命を助けられました。この恩、必ず返します。それが私のやり方です。
「……そんな律儀な勇者、どこにいんだ」
「当然です! 教会の生活は苦しいものでしたし、残すなんてもっての外でしたから!」
ため息を勘違いされ、もう一つ苦笑いのため息。
ジャケットの裾を翻し、止めた足を動かしだす。
「あ、ちょっと、待ってください!」
待つことはしないものの、もはや、制止もふりきることもしない。
代わりに、会話を続けるため、昨日からの疑問を投げやる。
「お前さん、ちっとも疑わないんだな」
「え? 何がです? というか、待ってはいただけませんか」
長旅で使い込まれた革靴が軽い音をたてて、少女を彼の隣に並ばせた。
ちら、と赤いほうの目で見やれば、満足げな顔でこちらを見上げている。
若さや自信が放つ眩しさに、思わず目を逸らせると、
「大抵の連中は、魔王だなんていと、笑うか胡散臭い眼をするもんだ」
「私も全て信じているわけではありませんよ? ですが、数々の状況証拠が、カオルさんを魔王だと示しているで、頭からの否定はしないだけで」
なんだそれ、と立ち止まって疑問を投げやれば、少女は指を折る様を見せてきた。
「魔王失踪の噂、片目ながら赤い瞳、強力な魔術、お酒をたくさん飲むところです」
「……なんだそれ」
本気で繰り返してしまった。笑顔が強く、どうにも冗談のようだから、半笑いで呟く以外はできない。魔王を自称するカオルには、否定する気もないことだ。
止めていた歩みを進め直せば、少女もそれに倣ってついてくる。
「それで、今はどこに向かっているのです?」
「昼飯だよ」
「よろしいですね! 昨日の昼食も大変おいしいパスタでした! 期待させてもらいます!」
「……本気で恩返しするつもりあんのか?」
力強い首肯に毒気を抜かれたカオルは半笑いを作り直して、並んでメインストリートへと向かうことにした。
建国を記念してその日付を冠せられた「十二月十日通り」は、交易都市ポールスモートの嫡男である、と隣国の財務宰相に称されるほど、さまざまな商店が立ち並んでいる。ありとあらゆる職種が存在しているが、飲食と雑貨、服飾を取り扱う店舗が比較的多い。
そして、馬車が五台は並んで走れるほどの道幅に、人と露店とが溢れかえっている。
十年もこの街で暮らすカオルはさすがに慣れた足取りで人波に乗っていくのだが、元々小さな町からやってきたクリーティアは通行人にぶつかっては呼び子に捕まるを繰り替えしていた。
あっという間に、二人の間は人によって埋められ、離されていく。
小柄なせいで、見えるのは金色の髪ばかりだが、その揺れ方からすら狼狽が伝わり、
「ま、負けませんよ! 私は魔王を討つまで無敗でいくのです!」
「おーお、大都会に呑まれて我を忘れているな」
愉快そうに口端を持ち上げると、手を伸ばして少し強めにつかむ。
多少の抵抗はあったが、カオルの顔を確認すると、大きな目に明らかな安堵を浮かべて、あとは手を引かれるままとなった。
「だけど、ボードフィールの勇者つーと十年に一度の、あれなんだろ?」
「あれとはなんですか。名誉ある儀式なのですから」
「へぇ。だけど、その儀式つーのは、天使に会わなきゃならないんじゃなかったか?」
ポールスモートは、東の魔王の根城『暗黒の剣山』へ至る街道の、主要都市としては末端に位置している。他に三本の主要街道と交わるため商業都市として成り立っているが、ゆえに、魔族の襲撃も多いのだし、十年に一度は勇者が訪れる街でもあるのだ。
その勇者が天使を尋ねるというのは、ポールスモートの知識階層にとっては、常識だ。
しかしクリーティアの判断は、少し違っていて、
「やはり、カオルさんが魔王なのですね」
「……は?」
あまりに突然の認定に、思わず間抜けな声が漏れてしまう。
「教会関係者すら、知る者は少ない事実なのですよ。それを知っているのですから……」
「ああ、そうそう。そうだよ、オレサママオウダヨー。ユウシャサマおっかねー」
「真面目に話しているのですから、ふざけないでください!」
「いてぇよ!」
背中に小さな拳が突き刺さったて、否応なしでのけぞる格好に。
「真面目な話なら拳を使うんじゃあな……うん?」
視線が上へと向かったことでカオルは、誰もが品定めに下をむくなか、一人だけ空の変化に気がついた。
上空を、何かが横切っていく。
遠すぎて、地上から見上げるにはただの点にすぎないが、わずかにきらめきを放っているようにも見える。
もちろん、正体を確かめることはできず、
「なんだあれ?」
「話を逸らさないでください!」
「ぇ!?」
再び、拳が背中に突き刺さって、あまりの痛さに不覚にも泣きそうになってしまった。
※
カチェス・リン・バルバドスのやぶ睨みのような目元は、いつも以上に厳しかった。
彼女のミドルネームであるリンは、街に対し多大な功績を残した家系にのみ与えられる、名誉市民の証だが、バルバドス家はその名に負けぬように、長子へ英才教育を施す。カチェスは当代における結晶であり、豊かな精神活動と引き換えに、やわらかな瞳を失った。
それに加え、昨夜開かれた商工会との会談と懇親会が明け方まで続いたため、寝不足と二日酔いが、カチェスのまなざしのほとんどを不機嫌なものに彩っていた。
極めつけに、目の前で広げられる緊急の会議の不毛さだ。これで、わずかに残っていた不機嫌以外の色合いも、大多数に塗りつぶされてしまう。
「だから、その勇者というのは、本当にポールスモートに入ったのかね?」
「先方がそう言っているのだから、間違いはないのではありませんか?」
「天使か……神の御使いではあるが、間違いがないとは言えまいて」
「いや、天使の力は我ら人の及ぶところではない。信用に足ると、私は思うが」
副議長であるギュスス・リン・モーリンの発言に、十人の議員のうち、大半が賛同し、残りが反対となり、再び意見が激しく飛び交う。
議長は一言も発しないまま、不機嫌に、議論の行く末を眺めていた。
ポールスモートの議会は、四日前に届けられた天使の手紙によって、すでに似たような事態に陥ってはいた。
内容は、街へ入ったはずの勇者の探索と引渡要求。
純白の屋根を持つ議会場の「空映しの館」はこれにより、紛糾することとなる。
賛成派の言い分は、街の部外者である天使への協力を規定する法はなく、断る理由はない、というもので、反対派の言い分は、手紙一枚で天使とは信用できない、というものだった。
カチェスには、馬鹿らしい限りである。
天使からの手紙というものに、前例は少ない。彼らが偽物では、と疑う気持ちもわかる。ならば、議題そのものの有意性を、権限を以て問えばいいだけの話だ。
また、賛成派の話も片腹痛い。ポールスモートが周辺の国家から独立していられるのは、経済力であり、立地であり、どの国家にも協力を示さないという自由理念の裏で結ばれた、周辺国家同士の不可侵条約のおかげなのだ。
ここで、正神教に肩入れするようなことになれば、教会の影響の大きい国家にとっては従属化する足掛かりとなり、そうでない方には侵略の口実となる。
よって、天使への協力は絶対に不可能だ。
かといって、協力を拒んだ場合の衝突も避けなければならない。伝承が真実であれば、天使とは、魔王と拮抗させるために、神が遣った存在なのだ。そのうえで、実戦闘が回避できたとしても、教会がどう動くか。
果断と鮮烈が持ち味のカチェスだったが、現実と具体案に頭を悩ませる日々で、この案件における発言は非常に少ない。その間に、副議長が根回しを進めたようで、議会は協力に傾いていった。
それは、議会の正面に天使が降臨するという今朝の出来事で加速。また、手紙とは別に、要求が一つ加えられたことを今さっき知り、カチェスの頭痛はまた増していた。
「エイブス」
議会で義務付けられた白のジャケットの襟を直しながら、囁くように、後ろに控えていた青年の名を呼ぶ。
眼鏡に眠たげな瞳を押し込んだエイブスが、長身を折って顔を近づける間に、彼女は手元の紙片にペンを走らせる。
「なんです?」
「これをカオルに」
機転と知恵の回る秘書は、記した内容を問い返す真似もしない。
「……まあ、当事者の片割れですからね」
「歯切れが悪いな」
エイブスは、声にも顔にも感情を浮かべることが少ない。だから、カチェスも気になり、
「心配でもあるのか?」
「心配ですね」
珍しい物言いだな、と目だけで見やれば、
「あいつ、面食いだから、カチェスより天使さまを選ぶかもって」
「……は」
なるほど、彼の冗談だったようだ。
目論見は、一応の成功を収め、不機嫌一辺倒だった口の端に、笑みが漂う。
伸ばす手が机の紙片をつまみ、瞳で頷きあうと、エイブスが会議室をそっと抜けでる。
と、唐突に、四階に位置する部屋の窓が開け放たれた。午前の、澄んだ空気が流れこむ。
カチェスを除く部屋にいた全員が、驚きに首をそちらに向ける。ただ一人の例外は、驚きではなく、敵意に眉間を寄せた。
窓の外には、翼を広げる人の姿。
天使だ。
金の瞳に、風に揺れる銀の長髪。優しげな微笑みが、輝かんばかりの白い頬に浮かべられている。
誰もが息を呑むのも忘れて、その美しい姿に食いいっていた。
天使は、両手を大きく広げながら、
「それでは返事を」
キセキが宿ると言われる美しい声を風に乗せた。
耳をくすぐるやわらかさに、議員たちのまなじりから焦燥が溶け落ちていく。
だからカチェスの緩んでいたやぶ睨みは、再び不機嫌で塗りつぶすことになってしまった。
何にしろ、天使という存在は、彼女の地位と権力を脅かすものに違いないのだから。
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