1:天の遣い

 魔王に関して、詳しい資料は存在していない。

 誕生もはっきりせず、目的も判然とはしない。多くの人々は、慣例から「神の敵であり、人類の敵である」と考えているが、そのほぼ全てが、魔王どころか魔族の影すら見たことがないという始末である。

 やはり、情報不足が一番の原因であるが、その中にもいくばくか事実は存在する。

 一つ目は、その存在の確実性。

 二つ目は、地図を物理的に書き換えることができるほどの、絶大な力を有していること。

 三つ目は、魔王というのは単体への固有名詞ではなく、イルルンカシウム大陸の端にそれぞれ、計五人が存在しているということ。

 そして、各魔王には、神の命を受けた天使の目が光らされている。

 東の魔王『灼赫の邪眼』監視の任にある、天使メノウは、今は夜空に翼を泳がせていた。

 銀色の長髪に白い肌という淡い色調が、満つるに至らない月の光を飲み込んでいる。彼女は、名の通り金の色をした瞳をほんの揺らぎもさせず、思い出を楽しむような優しい笑みで、ただただ天の丸を見つめていた。

「メノウさま」

「……どうでしたか、スイギョク」

 名を呼ぶのは、声変わり前の少年のものだった。

 美しい栗色の髪を三つ編にした少年が、背中の翼をはばたかせながら、夜を上ってくる。

「勇者の予定遅延は、どうも巷に流布していた魔王不在の真偽を確かめるために、各地に足を運んでいたためのようです。二日前に、ポールスモートに入ったと」

「ポールスモート……確か、我らが父の威光が、さほど届いていない街ではありませんか?」

 ええ、と振り返り、けれども笑顔は崩さない。

「貨幣制度の信者によって成立している都市ですね」

「その言い方……嫌いなのですか?」

 スイギョクと呼ばれた天使は、透きとおるような青い瞳に疑問を浮かべた。

「我らが父は、私に貨幣制度への嫌悪を伝えていません。よって、天使には貨幣制度への嫌悪は存在しないはずです。メノウさまも嫌ってはいないでしょう?」

 笑顔のまま頷くメノウに、スイギョクは怪訝そうに片眉を上げてみせた。

「一つ、伺っても構いませんか?」

「なんでしょう? 私に答えられることであれば、構いませんよ」

「どうして、勇者などが必要なのです?」

 メノウの瞳は笑ったまま。

 スイギョクは、考え込むように顎に手をあて、のみこまれそうなほどの夜空を見上げる。

「私が任に着く少し前ですので、当時のことはよく知りませんが……百年ほど前、我らが父のお告げによりボードフィール教会の司祭が、ただ一人の勇者を『灼赫の邪眼』を討つべく魔城へ向かわせたのでしょう。それも十年毎に……正直、正気を疑います」

 むむ、と少年の顔が厳しくなっていく。

「他の地域では、そんなお告げはありません。『灼赫の邪眼』が特別視されるのはなぜでしょうか? 大体、勇者とは名ばかりで、孤児院の口減らしのために年頃の少女が選抜されるのが慣わし……父を疑うわけではありませんが、納得できないことが多いのも確かです」

 幼い天使は、己の内に並んでいた疑問を、口に揃えて聞かせれば、

「それは、スイギョク」

 メノウの瞳は笑ったまま。

 スイギョクは視線を下ろすと、

「父がそう定めたからなのですよ」

「……ですから」

「聞きなさい」

 メノウの瞳は笑ったまま。

 スイギョクは、不承だが言葉には従う。

「あなたは、楽園の風景を覚えていますか?」

「いいえ。魔王監視が決まった天使は、任に就くと同時にそれ以前の記憶が消されますから」

 答えにその通りだと頷き、なれば、と問いを重ねてくる。

「我らが父の顔を覚えていますか?」

「いいえ。先ほどの通り、私たちにはほとんどの記憶がありませんので」

「そう。そんな私たちが、父の御心を判断することなど、できるわけがありません」

 メノウの瞳は笑ったまま。

 スイギョクは納得ができなかったが、先達である彼女の言葉に一通りの答えを見つけ、話題を打ち切ることに決めたようだった。

「……月は今夜もきれいですね」

 メノウの瞳は笑ったまま。

 スイギョクは彼女の視線を追いかけて、空を往く淡い光を見上げる。

「メノウさま、好きですものね」

「ええ。ですが、昔は嫌いでしたよ」

「そうなんですか? 意外です。毎晩眺めていらっしゃるのに」

「昔も毎晩見上げていましたよ。寂しさに泣きながら」

「何がきっかけで、好きなったのです?」

 問いに、メノウの笑みが深くなった。月明かりが満ちる、夜の空の闇より深く。

「今は、我らが父のために働いているから」

「今は、ですか。なら、かつては?」

 彼女の細く長い指が、首から下がる指輪を撫でる。

 所作に目を奪われるスイギョクは、

「かつては、諦めたからです」

 意味を汲みきれずに、首を傾げた。

 メノウは優しく微笑む。

 思い出を楽しむように、夜の空の闇よりなお深く。

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