エスケープ・アンド・プロポーズ
ガタン、ゴトン。
そんな音を立てつつ運行する列車に、僕と夜鈴さんー僕をよく構いにくる良家のお嬢様だーは乗っていた。
ガタゴトと激しく振動する電車に揺られつつ、ぼんやりと外を眺め。僕は、こんなふうに電車に揺られることになったきっかけを思い返していた。
そう、それは、きっとー・・・
ほんの僅かな、子どもの我儘だったのだ。
**
「どこかに、逃げちゃおうか」
ある日の別れ際、彼女は確かに、僕に向かってこう言った。
家の決まりに縛られ、そしてその決まりをどこか疎ましく思っているであろう彼女が、どこかに逃げたがっていること。そんなことは、薄々僕も分かっていたことだ。それは例えば、言葉の端々だとか、別れ際のどこか悲しそうな表情とか。そういったものからなんとなく察することができるものであり、僕としては特段驚くことでもなかったのである。
だからこそ僕は、あっさりと「いいですよ」と答えを返した。
しかし、その答えは、目の前の彼女にとっては意外なものに映ったのだろう。一瞬だけ、驚いたような顔を見せたのち、ありがとう、と。いつもよりもどこか控えめな笑顔を浮かべて、礼を述べてきた。
と、思えば次の瞬間には、あれこれと計画やらなんやらを楽しそうに伝えてきて。僕はその彼女の勢いに若干押されつつも、頷きながら彼女の言葉を脳内メモに整理し、そしてその話がひと段落したところで、その日はそれぞれの家に戻ることとなった。
そして、それてから一週間後の今日。
今日こそが、彼女曰く「小旅行」と称されたそれの、決行日であり。
僕達が今、ガタゴトと揺れる電車に揺られている理由でもあった。
**
「とりあえず、用意できるだけのお金を持ってくること」
それが、僕に頼まれた唯一のことであった。
「逃げる」だの「小旅行」だのと称したくらいなのだから、どこかに泊まれる程度の荷物は必要なのでは、と思っていた僕は、たったそれだけでいいと告げられた準備物に拍子抜けしてしまう。
いくら僕がそれだけでいいのか、と問いただしても、彼女はそれでいいのだと、いつもと同じ笑顔で言うだけで。だからこそ仕方なく、僕は、コツコツとお小遣いを貯めていた貯金箱から全財産を出し、出発の直前に、彼女に渡した。
細々とした小銭が多くてちゃんとした金額は計算していなかったのだが、彼女は、僕の渡した金額に満足そうに頷くと、よしよしと頭を撫でてくれた。どうやら、彼女の希望に添えるだけの金額は貯まっていたらしい。彼女はそのまま切符売り場に向かうと、僕の分の切符まで購入して戻ってきた。僕に切符を渡すと、僕の手を引いてそのまま改札へと向かう。改札をくぐると、既に停車していた電車に乗り込む。
ーあと5分後に発車しますー・・・そんな車内アナウンスを聞き、そこで初めて、僕は今日どこに向かうのかを聞いてないことに気付き、彼女に問いかけようと口を開いた。
「…今日、どこに行く予定なんですか?」
そんな僕の問いかけに、彼女は悪戯っぽい笑顔を浮かべて。
「それは着いてからのお楽しみってやつ!」
どうやら教える気は全くないらしい。
目的地も分からずにひたすら電車に揺られるのも気分が落ち着かないが、仕方がない。彼女が連れて行く場所なら、そんなに変な場所ではないだろう、と、ひとまず彼女の考えを信用することにして、僕はぼんやりと発車時刻を待つのであった。
**
ガタンゴトン
揺れる電車が何度も駅に着き、少しずつ乗客の姿が少なくなってきても、彼女が降りる気配は未だなかった。
昼過ぎの暑い時間に集合して、もうかれこれ1時間は電車に揺られている気がする。まだ夕方とまではいかないが、少しずつ太陽は傾きつつあるように思えた。
落ち着かなくて何度もまだ降りないのかと訪ねても、彼女からの返事はまだ、の一言だ。本当にいつまで電車に揺られるつもりなのだろうーそう思っていると、図ったようなタイミングで、次の停車駅についてのアナウンスが流れた。
その駅名を聞いて、電車に乗ってから初めて彼女が反応を見せる。
あ、これはもしかして。そう思った僕の勘は正しかったようで。
「次。降りるからね」
そう言って、きゅ、と僕の手を掴んだ彼女の手は、車内の効きすぎた冷房のせいか、ひどく冷たかった。
**
電車を降りると、そこは所謂無人駅、というところであるようだった。車掌さんに切符を渡して駅の入口をくぐる。人の気配のないそこは静かで、そしてどこか寂しくて。普段から人の気配のない自分の家を思い出してしまう。家の中の寂しい空気を思い出してしまった僕は無意識に、僕の手を引く彼女の手を握る力を強くした。
そんな僕の様子は特に気にしないまま、彼女は僕の手を引いて駅を出、どこかに向かって歩き出す。
一度、駅の外に出れば、普段暮らしている町に比べれば少ないものの人の気配があった。そのことに安堵し、先程、駅で感じた寂しさは徐々に薄れていく。ふ、と力を込めて握ってしまっていた手の力を緩めると、そこで初めて、彼女は僕の方に顔を向けてきた。僕がなにかに興味を持ったのかと思ったのであろう彼女に、何かあった?と聞かれて、なんでもないです、と返す。まさか、無人駅でひとりぼっちの自分の家を思い出して寂しくなっただなんて、恥ずかしくて言えるはずがなかった。そんな僕の答えに彼女はふぅん、と興味なさそうに相槌を打ち、再び前を向いて歩き出した。
が、彼女に連れられ外を歩いているうちに、僕は新たな問題に直面してしまう。
それは、外の暑さである。冷房が効いていた車内に比べれば、外はとてつもなく暑い。太陽が少しずつ沈みつつあるといっても、暑いものは暑いのである。案外アウトドアなところがある彼女とは違って、僕は元々、家の中で過ごすのが好きなインドア派で引きこもり型の人間だ。暑さに体力を奪われた身体は、元々の歩幅の差も相まって、彼女の歩くペースに徐々についていけなくなってくる。
そんな僕の様子に気付いたのか、彼女はごめんと謝って、それから僕の方に背を向けてしゃがみ込んだ。どうやら乗れ、ということらしい。いくら小学生とは言え男である僕が、彼女に背負われるのもどことなく抵抗があるし、彼女も疲れるだろうから、と断ろうとしたのだが、貴方のペースに合わせてたら目的地にたどり着けない、などと言われてしまっては返す言葉もない。渋々、彼女の背中に負われれば、彼女は満足したように再び歩き出した。
背負われたことでいくらか余裕が出てきた僕は、先程までは見る余裕もなかった周りの風景をぐるりと見渡す。そこで、僕はようやく、彼女がどこへ向かおうとしているのかを知ることとなった。
彼女が辿る道筋には、とある場所への案内看板が点々と存在している。
それは、夏に訪れるにはぴったりの場所。キラキラと眩くて、開放感のある、そんな場所。
「……着いた!」
そんな彼女の声に、顔を上げる。
そこには僕の想像通り、青くて眩い、海があった。
**
広い海。この季節ならもう少し人がいてもおかしくないその場所に、僕達は二人きりで佇んでいる。
この海はどうやら穴場であるらしく、シーズン中でも人は少なめであるらしい。それにしたって二人きりというのはなかなかおかしな話だと思うのだがー・・・まぁそんな時もあるだろう、と僕は気にすることをやめた。
ここが彼女の「逃げて来たかった場所」であるなら、人がいないのは好都合なのかもしれない。そんな気持ちがあったのだと思う。
当の彼女は、ようやくたどり着いた海にはしゃぐでもなく、一緒に遊ぼうと誘うでもなく、ただ静かに、僕の隣で海を眺めていた。そんな、普段からかけ離れた彼女の様子に、僕はどこか薄ら寒いものを感じた。
どちらもが一言も発しない、波の音だけが空間を支配する、静かな時間。その静寂を破ったのは、これまた普段の様子からかけ離れた、小さな声で吐き出された彼女からの感謝の言葉だった。
「……今日は、ありがとうね」
なんとなく寂しそうなその声に、僕はなにも言うことが出来ないまま、彼女の次の言葉を待つ。
「まさか貴方がこうして付いてきてくれるなんて思ってなくて。だから今日は、本当に楽しかったし…嬉しかったの」
そんなことは知っていた。だって君は、僕がいいですよって言った時、すごく驚いたような顔をしていたから。
でも、嬉しかったとはどういうことなのだろう。
「こんなふうに、あの場所から、自分の家から、逃げたいなんて思ってしまう弱い私のことも受け入れてくれたみたいで、嬉しかった」
…そっか。君は僕が、君の本当の気持ちになんて気付いていないと、そう思っているんだ。
本当は、そんなことないのに。あの場所から逃げたいと思っている君のことも、全部、含めて。僕は、君のことを受け入れているのに。
「……だから、もう一つだけ。もう一つだけ、私の我儘を聞いてほしいんだ。こんな私も受け入れてくれる貴方に、私の最後の我儘も、受け入れてほしいの」
そんなの、今更だ。君の我儘に振り回されるなんて、今に始まったことではない。
しかし、彼女はいま、何と言った?
最後の我儘とは、一体なんなんだろう。
そこで、彼女は僕の目をしっかりと見て、言った。
「…私が死ぬまで、ここで見守って」
その言葉を聞いて、ざわりとした寒気が、僕を襲った。
呆然として動きを止めた僕の隣をすり抜けて、彼女は海に向かおうとする。
その顔には、なんの感情も浮かんでいなくて。そこで僕は初めて、彼女は最初からこのつもりで、僕をここに連れ出そうとしていたのだと悟った。
きっと彼女は臆病だから。きっと、逃げたくてもひとりでは逃げられないから。
だから僕という「見張り役」をつけて、ここで、全てから逃げ出そうとしたのだろう。
僕なら、自分のそんな行動さえ受け入れてくれるかもしれないと、そう思って。
だけど、そんなのってない。
ひとりぼっちだった僕の世界を、かき乱すだけかき乱して。
ひとりぼっちを「寂しい」ことだと教えて。
それなのに、僕をそんな風にした責任すら取らずに。自分だけ逃げようだなんて、そんなの。
そんなの、あまりにも狡いじゃないか。
ただ君が「あの家」から逃げるだけなら許せたのだ。
だけど、僕を置いて「この世界」から逃げることだけは、絶対に受け入れられないし、許せない。
だから僕は、
「夜鈴さん!!」
力の限り、叫んで、彼女の細い手首を思い切り掴む。
彼女をこの世界に縛り付けるように。絶対に逃がさないと言うかのように。全力で掴んで、そして、祈る。
どうか行かないで、と。僕を置いてどこかに逃げたりしないで、と。
どれだけの時間、そうしていたのだろう。
僕の祈りが届いたからか、はたまた、名前を呼ばれて手を掴まれたからか。彼女の強ばっていた身体から力が抜け、そして、僕の方へと顔を向ける。
普段は楽しそうにキラキラと輝いている薄桃色のきれいな瞳には、涙がにじんでいた。
その、涙が滲んだままの瞳で、彼女は僕に向かって力なく叫ぶ。
「どうして…どうして、行かせてくれないの……!!」
その声は切実だった。初めて聞いた、彼女の悲痛な叫びに、僕は思わず、彼女の手を離しそうになってしまう。
しかし、離すわけにはいかないのだ。
だって、この手を離してしまえば、僕は。
僕は、僕の世界を変えてくれた大切な人を、失ってしまうのだから。
だから、彼女の腕を握る手に力を込めて、叫び返す。
君をどこにも逃せられない理由。僕を置いていって欲しくない理由。
それは、ただの。
「……僕の、我儘だよ……!!」
たったそれだけの理由なのだ。
その言葉を聞いて、目の前の彼女は目を見開いた。涙を滲ませたままで、だけど驚きに満ちた表情で、僕を見つめる。
その表情を見ながら、僕は言葉を続けた。
君の心に届かなくてもいい。それでも今、君に、伝えたい言葉だからだ。
「……っっ君は、言ってくれたじゃないか!もっと我儘を言っていいんだって!!僕はこどもだから、そんなふうに、いい子でいなくていいんだって!!」
それは、いつかの彼女が言った言葉だった。人の顔色ばかり伺っていた僕に。多忙な両親の前でひたすら「いい子」で居ようとしていた僕に、その必要はないのだと、そう言ってくれたのは彼女だった。
だからこそ。
「君が僕を置いて逃げようとするのが君の我儘だって知ってる!僕に我儘を言うことを教えてくれた君が、我儘を言わないわけないことを僕は知ってるんだよ!!」
彼女はそういう人だ。僕に我儘を言えと言う人が、我儘を言うことを知らないわけがない。それは、共に過ごした時間があるからこそ知っていることでもあるし、僕が知らないところでも、小さな我儘くらいなら言ってきたのだろうと、そう思っている。
だけど。
「でも!君が本当に誰かが困る場面では、そんなことを簡単に言わないんだろうなってことも知ってる!だって君は優しいから!優しいから、あの家の人を困らせる我儘は言えなくて、あの家からも逃げられないのも分かってる!だからこうやって、逃げようとしたことだって……すごく、悩んで、それでも実行しようとした我儘なんだろうなってことも……」
だって、彼女が死んじゃったら、お家の人は困るだろうから。だからこそきっと、彼女はすごく悩んで、迷って。それでも今日この日に死のうとしたんだろうって、なんとなく、そう思う。
今日一日、彼女が普段より静かだったのも、いざ決行日になると少し怖気づいたからなのかもしれない。
そこまで言って勢いを失った僕に、それまで黙っていた彼女は、再び言葉を投げかけた。
「……そこまで分かっているなら……どうして、行かせてくれないの……!どうして、手を、離してくれないの……!!」
再び言われたその言葉。そんな彼女に返す言葉は、たったひとつしか存在しない。
「だから言ったじゃん!僕の、我儘だって!!」
そう、本当にただの子供の我儘なのだ。大切なものを失いたくなくて、駄々をこねる子供そのものだ。
だけど、それでいいんだと言ってくれた君がいるから、だから僕は、君に我儘を言い連ねるのだ。
「僕を置いていくなんて許さない!!君があの場所から逃げるなら、僕も一緒に逃げてやる!!でも、それは、それはこんな方法じゃなくて!!こんな、生きることからも逃げちゃうようなやり方じゃなくて!!」
そこで、僕は一度言葉を切った。
きっと僕は、今からとんでもなく恥ずかしくて、それでいて荒唐無稽なことを言う。
そんな無茶苦茶な言葉を言うから、その前に、ほんの少しだけ、心構えをさせて欲しかった。
言葉を切った僕を不安そうに見つめる彼女を見て、覚悟を決める。
息を思い切り吸い込んで、言葉の続きを吐き出した。
「生きることからだけは逃げずに、それでも逃げる道を選んでよ!
僕が君を、いつか、あの家から解放するから!迷惑がかかるとか、そんなの僕には関係ない!僕は君と一緒に居たいから!だから君と一緒に逃げて、君と一緒に生きる道を選びたい!!」
その言葉に、とうとう彼女の瞳から、涙がこぼれ落ちた。その涙を見て、僕までつられて泣きそうになってしまう。目頭が熱くなるのをぐっと堪えて、僕は絞り出すような声で、言葉を続けた。
「だから、僕を置いて、死のうだなんて思わないで……!!」
最後まで我慢しようと思ったけど、無理だった。声はみっともなく震えて、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
泣き出してしまった僕の身体を、これまた泣いている彼女が、そっと包み込んだ。その温かさに、優しさに、彼女がまだ、僕の隣で生きていることを実感して、ますます泣けてきてしまう。
そのまま僕達は泣き続けた。
触れ合った箇所から、お互いの体温を感じて。お互いの痛みを共有して。
彼女はごめんと謝りながら泣いて。
僕はその声に、なにも返すことが出来ないまま、ただ静かに泣いていた。
泣いて、泣いて。ただひたすら二人で泣きじゃくって。
泣き疲れた僕が眠りに落ちるまで、僕達はそこから動くこともなく、抱き合ったまま泣いていた。
**
ガタンゴトン、と揺れる電車の振動に、僕はふと目を覚ました。
隣を見ると、目を泣き腫らしている彼女と目が合う。彼女に起きた?と優しい声で問いかけられたので、僕は素直に、首を縦に振った。
「……今日はごめんね」
突然、謝罪の言葉を述べた彼女に、驚きつつも首を振る。だって、彼女に怒られるようなことはしたかもしれないが、謝られるようなことはしていないはずだ。
むしろ、我儘を言った挙句泣き疲れて眠ってしまった僕の方が、謝るべきではないのか。
そう思って、僕の方こそ…と言いかけた口をそっと指で塞がれる。何も言わなくていい、とでも言いたげにゆるゆると横に振られた首に、僕は言いたかった言葉を飲み込んだ。
「……あのね」
少し煩いとも感じる電車の音しかしなかった空間に、そっと、彼女の声が割り込んだ。
その声に、再び彼女の方を向けば、彼女はどことなく嬉しそうな顔で、僕を見つめている。
何が言いたいんだろう、と呆けたように見つめる僕に、くすりと笑顔を向けると、彼女は再び口を開いた。
「さっき、あんな風に言ってくれて、嬉しかった。貴方のあの言葉で、私は初めて、もう少し諦めずに足掻いてみようかなって、そう思えたの」
そう言ってもらえるのは、純粋に嬉しかった。
心に届かなくてもいいとは思ったが、それでも、自分の言葉が相手に響いてくれたなら、それはとても嬉しいことだからだ。
だけど、それでも。あの言葉はただの、荒唐無稽な夢物語だ。
考えなしの、子供の我儘なのだ。
「……僕の言葉で、そう思ってくれたなら、それは、嬉しいよ。
でも、あれはただの我儘だ。僕の我儘だし、とうてい叶えようのない、夢物語だよ」
そこまで言って、ぎゅっと、膝の上に置いた手を握りしめた。悔しさで、その先の言葉を続けることが出来ずに黙り込む。
だって、本当に僕が君を連れて逃げられるようになる頃には、きっと君は、僕なんかでは手の届かないところにいるから。
だから、今日必死で伝えたあの言葉たちは、全てがただの理想で、現実味のない夢なのだ。
子供の僕では、一日だけ彼女を逃がすだけで精一杯。彼女も大人びているとはいえまだ高校生で。そんな子供二人で、全てを投げ出して逃げられるほど、世間が甘くないことは、僕だって分かる。
僕が彼女と逃げられる日なんて、一生来ないだろうことを、僕はよく知っている。
そんなことを考えて、黙り込んだ僕の頬を、がしりと彼女の手が掴んだ。
驚いて目を白黒させている僕の頭を、頬を掴んだ手で、ゴキッと嫌な音を立てる勢いで自分の方へと向かせる。
彼女の表情は、なんだか怒っているように見えた。
「もう!なんでそうやって全部一人でどうにかしようとするの!私さっき言ったでしょう?『足掻いてみようかな』って!」
むぅ、と頬を膨らませる彼女の表情に、つい先程の彼女の発言を思い返す。
そうだ。確かに彼女はそう言った。諦めずに足掻いてみようと、確かにそう言ったのだ。
それは、つまり。
「私と貴方の二人で逃げるんだから、貴方一人が頑張る必要は無いの!私と貴方、二人で頑張ればいいのよ!」
君は僕の我儘に付き合ってくれると、そういうことなのだろうか。
「そうよ!」
「心を読まれた!?」
「いや、思いっきり顔に出てるわ。貴方って意外と分かりやすいのね」
そうなのか。あまり人と関わることがないから、自分が考えていることを顔に出してしまうタイプだなんて初めて知った。
思わず顔を顰めると、その顔が面白かったのか、彼女はくす、と笑う。その表情は、いつもの彼女と何一つ変わらない、明るくて楽しそうな笑顔だった。
その笑顔のまま、彼女は言う。
「私は私なりに、足掻いてみせるから。いっぱい我儘言って、頑張って足掻くから」
そこで彼女は、僕の耳元にそっと口を寄せて。
「だからいつか、私のことを、攫いに来てね」
耳元で、小さく囁かれたその言葉に、ぼっと顔が熱くなる。まるで結婚の約束をするかのようなその言葉に、恥ずかしさから、小さな声で、はい、と返事をすれば。
僕の耳元から離れた彼女は、初めて見るようなきれいな笑顔で、笑ってみせた。
**
電車が僕達の暮らす町に着き、電車を降りる。行きと同じように、改札を抜け駅を出れば、辺りはすっかり暗くなっていた。
これで、僕達の小旅行は終わりだ。僕の態度も、隣にいる彼女の態度も普段と同じようなものに戻っているからか、あの海での出来事はまるで夢だったかのような、そんなふわふわとした心地だった。
唯一、お互いの泣き腫らした目元だけが、あの海での出来事が、夢ではないと物語っている。しかしそれも、時間が経てば元に戻るものだ。あの海での我儘が、まるで夢だったかのように、何もかもが日常の出来事に溶けてしまう。
それがなんとなく悲しくて、僕は、今日の出来事を思い出せるような「何か」が欲しいと、きょろきょろと辺りを見渡してー・・・
「あ」
そして、見つけた。
今日の出来事を、夢なんかにしないためのものを。
不自然に立ち止まった僕に、彼女は怪訝な顔をして、それでも僕を置いていくことのないように立ち止まってくれる。
立ち止まった彼女が、どうしたの、と声をかける前に、僕は彼女のほうへと勢いよく振り向いて、そしてそのままの勢いであることを尋ねた。
「夜鈴さん!!」
「うわ!?な、なに!?」
「え、えっと…僕が渡したお金って、どれくらい残ってます!?」
僕の勢いにたじろぎながらも、彼女は、えっと…と自分の荷物を漁り始める。
しばらくゴソゴソと荷物を漁って、あ、あった。という言葉と共に差し出されたお金は、百円玉が6枚。
つまりは、600円だ。
それを確認すると、僕は彼女をぐいぐいと、目星をつけたものの場所へと引き連れていった。
頭に疑問符を浮かべているような、変な顔をしている彼女を連れてやってきたのは、指輪の露店販売だ。
ちゃんとした指輪ではない、子供のおもちゃのようなそれがずらりと並んだその場所にたどり着くと、まず最初に値段を確認する。
値札には、ひとつ300円という文字。僕は心の中で小さくガッツポーズをした。
ギリギリ、残りのお金で二人分を買える金額だ。
そして次に、未だに僕が何をしたいのかが読めないらしく変な顔をしたままの彼女の方を向いて、再び、勢いよく尋ねた。
「さぁ!この中からひとつ指輪を選んで!!」
「え、えぇ!?」
混乱した様子の彼女から、とりあえず何がしたいのか説明してと言われ、それもそうかと思った僕は、自分の思っていることを伝えるべく、彼女に向き直る。
改めて言おうとするとなんとなく気恥しいが、言わなければきっと彼女にはなにも伝わらない。腹をくくって、おずおずと口を開く。
「あのですね…今日のことを、ただの夢物語で終わらせたくないと思いまして」
そこまで言うと、神妙な顔をして話を聞いている彼女の細い指をー左手の薬指を、そっと摘んで、そして言葉を続ける。
「まだ、本物は、とてもじゃないけど買えないけれど…それでも、この指を、予約したいなぁ、なんて……」
ここまで言って、顔に熱が集まってくるのを感じる。
なんだこれ、すごく恥ずかしい。顔の熱さから、今自分の顔は真っ赤なんだろうなぁと、妙に冷静な脳みそが現実逃避をするかのようなことを考えた。
そんな僕の様子に、彼女は我慢出来ないとでも言うかのように笑顔を浮かべ、そして「うわ…かわいい……」などとあまり嬉しくないことを言ってくる。
うるさい、可愛いってなんだ可愛いって。そんな不満も込めてぎろりと彼女を睨みつければ、ごめんごめーんと軽いノリで謝られてしまった。
そんな彼女を再び睨みつければ、今度は、ごめん、という優しい謝罪の言葉と共に、ありがとう、と。落ち着いた声音の感謝の言葉が降ってきた。
その落ち着いた声音のまま、彼女は、言葉を続けた。
「えへへ、嬉しいね…貴方が、そんなこと言ってくれるなんて」
そんな、本当に嬉しそうなその表情と声音に、愛しさがこみ上げる。再び顔に熱が集まってくるのを感じて、僕はふい、と顔を背けると、急かすように言った。
「……もういいですから、早く選んでください」
「はいはいっと」
思いのほか冷たくなってしまった声を気にすることもなく、彼女は指輪を選び始めた。そんな彼女を尻目に、僕も自分のぶんを選ぶべく、綺麗に陳列された指輪たちに視線を落とす。
どれにしよう、そう考えて目をやった場所にあったそれに、僕の目は釘付けになった。
ピンク色の、綺麗な石が中央に輝くシンプルな指輪。
それが、僕の目を惹きつけて離さない。
まるで、彼女の瞳のようなその石に、僕は引き寄せられるかのように、その指輪を手に取って、言った。
「「これをください」」
隣で指輪を選んでいた彼女と、同じタイミングで。
驚いて隣を見れば、彼女も驚いた様子で、こちらを見ていた。
しかも、彼女が選んだ指輪のデザインは、僕のものとよく似たもの。
僕の選んだものではピンク色の石が輝いていたその場所で、その色の代わりに、水色の石が輝いていること以外は、何もかもがよく似通った指輪だった。
水色。彼女がその石を選んだ理由は、僕にもなんとなく分かる。だって僕も、同じ理由で自分の指輪を選んだのだから。
何回も、鏡で見ている自分の瞳の色は、水色だ。
僕の瞳と同じ色の石が輝くその指輪を見て、嬉しさがこみ上げてくる。
お互いが、相手の瞳の色と同じ色を身に付けたいと考えるなんて。なんだか、僕達って似たもの同士なのかもしれない。
そんなふわふわとした喜びに包まれたまま、店主のおじさんにお金を支払って。
僕達は、その場をあとにした。
**
「こんな偶然ってあるのね」
「ほんとだよねー」
すっかり暗くなった道を、彼女と一緒に歩く。
どうせ両親はいないし大丈夫、だと言ったのだが、こんな暗くなるまで小学生を連れ回してしまったことを、真面目な彼女は申し訳なく思ったらしい。家まで責任持って送り届けるわ!と押し切られ、僕の家まで向かっている最中だ。
僕の右手を握る彼女の左手の薬指には、先程購入した指輪が、きらりと光っている。当然、僕の左手の薬指にも…と言いたいところだったが、僕の指に、あの指輪は少々大きすぎたらしい。ブカブカなものを嵌めていて無くしてしまうよりはずっとマシだ、と。その指輪はズボンのポケットに仕舞った。
しかし、なんというか…自分の大切な人の大切な指に、自分の一部と同じ色を持つ指輪が鎮座しているのは、なかなか落ち着かないものだ。やっぱりあの時かなり恥ずかしいことを言ったんだな、と時間差で羞恥を感じていると、彼女はぴたりと足を止めた。
なんだろう?と僕も足を止め、前を向くと、そこはもう自分の家だった。明かりの漏れていない様子から、やはり両親はまだ帰っていないようだ。
ここで、僕が家の門をくぐれば、この小旅行は終わりだ。
先程、駅で感じた夢心地とはまた違った寂しさのようなものを感じて、なぜだか無性に泣きたくなった。
そんな僕の様子に気付いたのか、彼女は困ったように笑う。
「…そんなに寂しそうな顔しないでよ。また明日だって会えるんだから」
「……」
確かにそうなのだ。明日も会えるのだから、こんな寂しさを覚えなくてもいいはずなのに。
なのにこんな寂しさを覚えるのは、きっと。
「えっと…さっきも言ったけれど、今日は楽しかったわ。楽しかったし、嬉しかった。付き合ってくれて、ありがとうね」
そう、きっと楽しかったからだ。彼女との遠出は新鮮で、その目的がなんであったとしても、ただ、彼女と「どこかに出かけた」ことが、たまらなく楽しかった。
だから、これを、今日のこの小旅行を「最後」になんて、したくなかったのだ。
なにも言わない僕に困ったような顔をしつつも、それじゃあ、とその場から去ろうとする彼女。
そんな彼女を、待って、と引き止めて。そして僕は、彼女に言葉を投げかけた。
「……また、一緒に。遠出、できたらいいですね」
「……!うんっ!!」
ぼそり、と投げかけた僕の言葉に嬉しそうに返事をして。今度こそ彼女は手を振りつつ、来た道を戻っていく。
その姿が見えなくなるまで見送ってから、僕は自分の家の玄関をくぐり、自室へと向かった。
ようやく帰ってきた、と実感して、落ち着ける場所へと戻ってきたことに対する安堵から、ふぅ、と息を吐くと、ポケットに仕舞っていた指輪の存在を思い出し、ごそごそと引っ張り出す。
ベッドに寝転んでそれを掲げれば、部屋の明かりを反射してキラキラと光るピンク色の石が、そこにはある。
(……あの海での出来事を、忘れないためのもの、か)
それならやはり、見える形で持ち歩いた方がいいだろう。自分が言い出したことでもあるわけだし。
指は無理でも、せめてネックレスに通して持ち歩こうか、などと思いながら、そっと目を閉じる。
今日は疲れたし、このまま寝てしまおうか、なんて考えて。
やがて訪れた夢の中、電気を付けっぱなしで寝ていたことを咎める母親の声で起こされるまでの間、僕の願った「いつかの光景」を、垣間見られたような気がした。
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