こいしい心がこぼれた日

「えっと…君、大丈夫?」


そう言って、あの日の私を。

何もかもを失ってしまった、あの日の私を助けてくれた、細くてちいさな背中に。

途方に暮れていた私の前にそっと差し出された、自分と大差ないほど小さくて華奢な掌に。

そして、私をじっと見つめた、赤紫色の瞳の輝きに。


私はあの日から、どうしようもなく憧れて、恋焦がれている。


**


あの日から、10年の月日が経った。

10年も時が経てば、色々と変わるものもある。


まず、私は20歳になった。容姿もあの頃よりは遥かに大人びたし、背も伸びたし、そして何より、あの頃よりもずっとずっと強くなった。


そして、あの日憧れて、恋焦がれた彼女の隣で、彼女の補佐をするようになった。


彼女の隣でいるのは、楽しい。

思っていた以上に怠け者で、だらしなくて、そんな彼女の一面には、ものすごく驚いたのだけれど。私を助けてくれた時の凛々しい姿だけではない、素の彼女が見られたような気がして、同時に、とても嬉しくなった。

いつまでも寝ているのを、いい加減起きてと起こせば、へにゃりとした笑顔でありがとうと言ってくれることや、自分が作ったご飯を、美味しそうに食べてくれること。

そんな些細な出来事が積み重なって、どんどん好きの気持ちが大きくなっていくような心地がした。


私も彼女も同じ女性だったから。だからこそ、この想いを伝えるつもりはなかったのだけれど。

それでも、楽しかった。幸せだった。

彼女の隣で、彼女のために生きられることが、なによりも嬉しくて、幸せだったのだ。


そう。

それだけで、幸せだった、はずなのに。


**


どさり。と彼女と共に倒れ込んだのは、自室にあるベッドの上だった。

それは、ほんの事故だったはずだ。ベッドの角につまづいて倒れそうになった彼女をを支えようとして、たまたま一緒にベッドに倒れ込んだだけ。

だけど、その体勢がいけなかった。

ベッドの上に無防備に転がった、彼女の華奢でちいさな身体。その上に覆いかぶさっているような状況は、あたかも、私が彼女を押し倒しているかのような心地にさせた。

彼女と私は決してそんな関係ではないのに、まるで今から情事を行おうとするかのようなこの状況に、思わず顔が熱くなる。私の下で、ぽかん、と無防備な表情を浮かべている彼女がどうしようもなく可愛く見えて、どこか興奮したように、熱い吐息をこぼしてしまった。


このままではよくない。ずっと胸に秘めておくはずだったこの想いを、隠しておかなければならないこの想いを、きっと、一番最悪な方法をもって彼女にぶつけてしまう。それだけは、どうしても避けたかった。

だけど、この状況に酔いしれ、どこかパニックにさえ陥ってしまったかのように、身体は、全く動いてくれない。

どうしよう、どうすればいいんだろう。熱に浮かされた思考で、それだけをぐるぐると考えていた、その時だった。


「……いいよ」


こんな時にも落ち着いた、彼女の声が聞こえた。

さっきまでの無防備に揺れる瞳ではなく。私があの日見たのと同じ、穏やかで、優しい。赤紫色の輝きを秘めた瞳。

そんな瞳を私に向けながら、彼女は言葉を続ける。


「僕とこういうこと、したかったんでしょう?だから、いいよ」


その言葉に、私はただ驚くことしかできなかった。

なんだ。最初から知られていたのだ。私の彼女に対する憧れも、恋い慕うこの気持ちも、全部。

全部、ぜんぶ。彼女には筒抜けだったのだ。


それなら、もう、我慢しなくていいよね?


そう、心の中で呟いたのと同時に、聞こえてくる彼女の声。

私を甘やかす時と同じ、甘くて、やさしい声音で。


「君がしたいこと、して?」


そんな声音を伴って発せられたその一言で、私の中の何かが、ぷつり、と。音を立てて切れたような気がした。

それでも、彼女にこんな形でしか愛を伝えられないことが、どうしても悔しくて、申し訳なくて。


「……ごめんなさい」


その言葉は、一粒の涙とともに、彼女のもとへと零れ落ちたのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る