王さまとの契約
ティレル一族が、たとえ居を構えないとはいえ――水や食料の補給、車を
年老いて旅路についてこれなくなった者や、戦いに才がなく、掃除や料理上手な者、動物の世話が上手い者などの一部に番をさせているその屋敷に、五日前の夜、マリアの雇い主、つまり国王がやってきた。移動中に身分がばれないようぼろ着をまとい、同じくぼろをまとわせた、一人の女だか男だかよくわからないへんてこなやつを供に連れて屋敷に訪れたのだ。
今までもティレル一族の人間を雇いたくて、他の国でも国王が使いをよこすことはあったが、国王がわざわざ直接来ることはさすがに皆無だったので、みんな驚いていた。
マリアも他の子供たちと一緒に応接室を盗み見ていると、一族の頭領であるマリアの母はソファに座り、この国の王は立ち上がって母に頭を下げていた。王さまが頭を下げるというのも驚きだった。センペル皇国なんかだと、皇帝は神の子孫だと言うから、平民はぜったいに顔を直視してはいけない決まりだった。直視したらその人間は死ぬだとか、目が焼け落ちるとか、そんな逸話まである。この国の王さまは、その分、なんだか気さくに思えた。
「頭領殿。ティレル一族の子供を一人、王女の側仕え、いや、友人として借りたいのだ。できれば王女と同い年か、それに近い女の子だと好ましいのだが、そんな子はいるだろうか」
つい先日、王女が毒殺されかかっていたのは、伝手の情報屋からも話があったので、兵士長あたりから身辺警護の依頼が入るかもしれない。なんてみんなで噂をしていたところだった。どんぴしゃだった。
盗み見ていたマリアたちに目敏く気づいていた母が、他の子供たちは怒鳴られながら追っ払われて、マリアだけ王の前に呼び出された。逃げたら余計に怒られるどころか拳を振るわれかねないので、王の前に渋々出て顔を見上げた。優しそうなおじさんだな、というのがマリアの印象だった。
「マリア、ご挨拶しな」
母のぞんざいな言葉はいつものことだった。
「はじめまして、王さま。あたしは、マリアだよ」
ぺこっと頭を下げてみせたが、ちらりと振り返ると母が渋い顔をする。だって、王さまとの挨拶の仕方なんて教えてもらってないよ、と言いたかったが止めた。また怒られるだけだ。母の渋い顔のわりに、王さまは優しく笑って頷いてくれた。手を出されたので握り返すため、マリアも手を差し出した。温かくて大きな手だった。
「はじめまして、マリア。余はこのラーロ王国の王、名前はデリックと言う。エマニュエル、お前も挨拶せい」
男だか女だかわからない、変てこなやつは、マリアを見ると笑った。なんだか得体のしれない奴だな、とマリアの直感が囁くが、こいつだけ無視しても、怒られるだけなのはわかっていたので、そちらにも手を差し出した。
「はじめまして、エマニュエルだ。よろしく、お嬢さん」
「よろしく」
母は、マリアを近くに呼び寄せた。
「国王陛下。この子は、わたしの娘です。王女さまと同じで、今年八歳になります。それに、ティレルの子供のなかで一番腕が立つし、実戦経験も多い。戦地に行ったこともある。
ただしこの子はきかん気で、ご覧のように礼儀は知らないから、王女さまの気持ちを損ねるかもしれないけど」
そう、王さまに言い放った。王さまは、自分の髭を撫でながらマリアをじっと見つめた。なんだか気恥ずかしくて隠れたかったが、我慢して、逆に真っすぐ王さまの目を見つめ返してやった。すると、王さまはまた優しく笑った。
「余の娘も似たような、きかん気な子だ。却って気が合うかもしれないな。
――マリアよ。余の娘はフローレンスというのだが、あの子は、余の宝物なのだ。だが、あの子を害そうとする者が後を絶たん。フローレンスと、友だちとして仲良くしてくれるかね。そして、あの子を危険から、守ってくれないだろうか」
王さまの優しい顔に、なんだか寂しいものが見えた気がしたが、マリアにはまだよくわからなかった。でも王さまの願いはわかる。自分の大事な子供を守ってほしい。とっても簡単な内容だ。襲ってくる奴は殺してしまえばいい。仲良くなれるかどうかは、ちょっとわからないけど。でも王さまと契約できるなんて、子供たちの間でも自慢できるし、王女さまが嫌な性格だったとしても、多少は我慢しよう。そう結論が出た。
「いいよ」
あっさりそう言ったマリアに、母が思いっきり頭をはたいた。王さまとエマなんとかとかいうやつは、二人して笑い出した。
それから、契約について書面を双方で交わし、マリアは一族を離れて王女さまの遊び相手として召し抱えられることになった。毎月の多額の報酬と、あくまでティレルの一族として、国籍を持たないこと、王の意に背かないのであれば他の依頼を取ってもいいことを条件に。ティレル一族と言えば、きっといろいろと不要な接触が増える可能性も高まるから、それは伏せることになった。言っていいのは、王女さまだけだと言われた。
そのときは、単純に王族に恩を売っておけば、多少国内でポカをしても誤魔化しが利くからいいかもしれない。駄目になったら――王が
実際、フローレンスと会ってみたら、とりあえず友だちになれそうな感じはした。それより、泣きじゃくるフローレンスを見て、もっと重要なことについて気が変わりそうで困った。
単純に、可哀相だった。きっと本当に友だちと思ってた子に、毒を盛られたんだろう。さっきの大きな広間にいたときも、この部屋に入ったときも、すごく不機嫌そうだった。それは、悲しくて、辛くて、泣き出したいのを表には出さないよう我慢していて、その苦しいことを忘れてしまいたかったんだろう。
マリアが知るティレルの子供たちは、みんなこんなふうに泣かない。涙をこらえて、歯を食いしばって鍛錬に挑む。下手をすれば、鍛錬中に死ぬことだってある。けれど、一人前にならなくては一族を追い出されてしまう――それはつまり、秘密を洩らされないよう殺されてしまうから、一人前を目指してみんな修行を積む。だから、こんなふうに泣いている暇なんてなかった。
(いけない、いけない。母さんに怒られる。これは、契約。お金がかかっているんだからさ)
だから、あたしはこの子の本当の友だちに、なっちゃいけない。自制の言葉を胸に響かせるが、どうしても、気が変わりそうだった。
ただ静かに、いつかこの子を裏切る日が来ないことをマリアは祈っていた。
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