目覚める彼女

 ふと、気が付いたら、暗いところにいた。


 足元には、手で提げられるような四角いランプがあった。ランプの中でロウソクが揺らめいて、その光が、わたしの姿を浮き上がらせ壁に大きな影を形作っている。なんだかじめじめしたところで、臭かった。水が流れているが、よく見ると、その水が汚い色をしていた。ここは下水道、というやつだろうか。


 片手に、液体の入った茶色い瓶を持っていて、中身がなんなのかはわからなかった。足元にも同じような瓶が何本かある。ただ、少し頭がふわふわするような感じだった。


 なんで、こんなところにいるんだろう。こんなところで、なにしてるんだろう。


 自分が今までなにをしていたのかわからない、という事実を受け入れると、ふわふわした感覚が一気に吹っ飛んで、猛烈な不安が波のように襲ってきた。右手を見ると青い指輪をはめている。ということは、マリアの体だ。今までわたしは、なにをしていたの。


(あーあ。目ェ覚ましちゃったのか)


 急に声が聞こえた。女の人の声だ。驚いて振り返るが、誰もいなかった。ランプは、わたしと瓶を照らすだけで、他の人がいるような感じはしない。さっきの声と同じ笑い声が聞こえて、胸が脈打つ。なに、なにがどうなっているの? もう一度辺りを見回したが、馬鹿にするような笑い声が響いているだけだ。


(違うわ、違う。ここだよ、ここ)


 声の正体が、わかった。外から聞こえているんじゃない、わたしの頭の中で響いているんだ。なに、どういうことなの? わたしの頭はどうかしてしまったんだろうか。


(馬鹿ね、もっと一番まともな可能性があるでしょ。あたしは、マリア。マリア・ティレル。あんたが勝手に乗っ取った、体の本当の持ち主)


 声は皮肉たっぷりにそう言った。わたしは、声にならない悲鳴を上げた。ぞっとして、どうしていいかわからなくて涙が出てくる。思わずランプを蹴飛ばしてしまった。幸い、火は消えなかった。でもそんなことはどうだってよかった。


 どうして、だってマリアは死んだはずじゃないのか。毒薬を飲みすぎて、死んだんじゃ。


(エマは一言も、あたしが死んだなんて言っていないわ。ちゃんと聞いていなかったの? あいつは、「こんなことにならなかったのに」としか言ってないわよ。つまり、あたしは仮死状態のままが、長く続いて眠っていただけ。

 ああ、ほんとにあたしの『鏡の向こうの人』があんただっていうんなら、こんな馬鹿だなんて、嫌んなるわね。って、あたしも大概か。目分量で毒薬は飲むべきじゃなかったわ、あははは!)


 けたけたとマリアは笑いながらそう言った。

 ただ、怖かった。だってわたしの体だと思ったのに、やっと健康な体を手に入れたと思ったのに、なのに、元の人間が生きているなんて、ありえない! 下水道の異臭も相まって、吐き気がしてきた。けれど、マリアは冷たくわたしを詰り始めた。


(そりゃこっちの台詞よ。やっと目が覚めたと思ったら、なんだか知らない奴が勝手に人の体乗っ取ってんだからさ。ここで酒飲みながら考えてたけど、でも、これ以上、好きにさせないわ。早くあたしの体から出て行きなさい)


「い、嫌! わたしは平穏に生きたい、生きたいの!!」


 わたしの叫び声が、下水道に響いた。わんわんと共鳴し、そこには暗闇しかない。ぼろぼろ涙が出てきて、必死に拭った。


(っるさいわね。あたしとの会話は、声に出さず、頭の中でしなさいな。声に出したって、意味がないから)


 顔をしかめるような不満げな声で、マリアは言った。嫌だ嫌だ嫌だ、わたしは生きたい。今度こそ生きたい。どうして、生き返ったりしちゃうの!


(どうしてもへったくれもないわよ。さっき言ったでしょ、あたしは毒を飲みすぎて仮死状態が続いていただけ。あんたこそ早く出て行ってよ)


 嫌、嫌、ぜったい嫌! 生きたい、わたしは生きて、普通に平穏に過ごしたい! マリアがなにか騒いでいるけれど、それを打ち消すように嫌だ嫌だ嫌だとわたしは心の中で喚く。出てってよ、どっか行っちゃえ、お願いだから、わたしに干渉しないで!


(あたしの体よ、あんたこそ出ていくべきなの! 早く自分の体に戻りなさいよ!)


 しびれを切らしたように、マリアが大声で叫んだ。その言葉に、わたしは頭を石で殴られた気分だった。


 それに、あることに気づいた。マリアは、わたしのことがわからないんだ。


 わたしが『鏡の向こうの人』である可能性を考えているだけで、その存在だと確証を得ていない。そしてさんざん「出て行け」と言っていることに。もしかしたら、体の支配権はわたしが所有しているのかもしれない。たとえば、さっきみたいに眠っている間だったらマリアが体を動かせるけど、わたしの意識がある限りは、なにもできない――?


(ちっ。そのとおりよ。あたしは、自分の体なのに、あたしの力じゃどうにも動かせないの。……ねえ、どうしてそんなにあたしの体にこだわるの? あたし、ずっと眠ってたから、あんたが動いていたときの記憶がうっすらとしかわからないのよ)


 舌打ちする音まで聞こえるなんて不思議だな、なんて思っている場合じゃなかった。わたしは涙を拭いて、その場にしゃがみこんだ。マリアが不思議そうに、ん? と言う。わたしは、しゃがみこんだ後、深呼吸をいくつかして、結局、下水道の臭いに嘔吐きながら、マリアに告白した。


 わたしはマリアの言うように、恐らくこの国の人たちが言う、『鏡の向こうの人』であること。この世界に来るまで、十七歳までをほとんど病院で生きて、死んだこと。たったそれだけの人生に、意味を見出せなかったこと。弟の死ぬ間際の目が怖かったこと。だから、マリアの体になったとき、とても嬉しかったこと。そして、サイラスさまに恋をしたこと。生きて、幸せな人生をここで送りたいと思ったこと。


 マリアは黙って、横やりを一切入れずに、全てを聞いてくれた。全てを聞き終えて、うーん、と唸った。


(話を聞く限りは、あんたはかわいそうね。それは認める。でも、あんたの生はあんたの生。あたしの生はあたしの生。違う?)


 違わない。でも、わたしは生きる喜びを知ってしまった。誕生日のお祝いをしてもらう嬉しさを知った。今まで、一度もそんなこと思ったことがなかった。これをみすみす捨てる気持ちなんて、湧くわけがなかった。


(でもさぁ、あんた、逆の立場考えてみ? あたしが勝手に、あんたの体を使ってやりたい放題したら、嫌じゃない?)


 子供を諭すようにマリアは言った。


 言われてみれば、そうだ。わたしは、とても、本当に身勝手なことをしている。でも、諦めきれない気持ちで胸がいっぱいだった。そして、たとえ少しの間でも、マリアに対して死んでくれたらよかった、なんて思った自分の弱さにすごく嫌気が差した。

 自分が、宗也にまるで、一秒でも早く死んでほしいような目で、最期に見られたとき、本当はすごく悲しかったことを知っているくせに。


 それこそ、子供のようにわたしは泣きじゃくった。悪いことをしているのもわかっている。だけど、だけど。諦めきれないよ。


(わかった、わかったわよ! あたしの顔で泣かないでくれる!? あたし、六歳のときに母親に標的仕留めらんなくてぶっ殺されそうになったとき以来、泣いたことないんだから!)


 本当にこの世界は、物騒なことばっかりだ。言われてその記憶が蘇ってしまった。


 マリアの母に、短刀の柄で殴られ続けてる光景が蘇って、最悪だった。「痛い、痛いよ、母さん!」と小さなマリアが叫んでる。マリアもああ、と嫌な思い出を思い出したように呻いた。それのせいもあって、泣くのをなかなかやめられなくて、マリアは何度もなだめるようにわたしを気遣う言葉を一生懸命言ってくれた。たぶん、彼女が持ちうる限りの言葉を尽くしてくれた。涙も枯れつくして、やっと落ち着いて、また下水道の臭いで気持ち悪くなった。ほんと、最悪。


(ごめんって。人に会いたくなかったから、下水道くらいしか思いつかなかったのよ。自室だといつ誰が来るかわかんないし。

 しっかし、これからどうしたもんか。……気は進まないけど、あいつに頼るしかないかしらね)


 マリアが面倒くさそうな声で言った。あいつって? とわたしが問うと、マリアはからからと笑い声を立てた。


(あんたも会ったことがあるわよ。赤みがかった金髪の、性別不詳の陰険魔法使いにさ)


 赤みがかった金髪の、そして正反対の真っ青な目をした優美な人が目に浮かんだ。ああ、エマか。陰険かどうかは知らないが、たしかにエマなら、魔法使いと名乗るくらいだし、なにか教えてもらえるかもしれない。


(そう。得体のしれない不思議なことは、同じく得体のしれない不思議なやつに任せるのが一番ってこと。

 とりあえず、今日はもう遅いわ。早く部屋に戻って寝たほうがいいよ)


 マリアの忠告に素直に頷いた。ランプを手に取ると、下水道からの出口を探しマリアの指示に従って出て、その後は見張りの兵士に見つからないよう、そろそろと足音を忍ばせて自室へ戻った。自室に着くと、そのままわたしは眠気の限界が来てベッドに倒れこむように眠った。

 

その夜は、夢を見た。マリアとフローレンスが出会った日の夢だった。

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