おとぎ話と宗教


「なんとなく、ですけど、この国のことと、マリアさんのことはわかりました。それなら、さっきエマが言っていた『鏡の向こうの人』って、なんですか?」


 わたしが質問すると、エマはわたしを杖で指した。


「一言で言うと、君みたいな、どこからともなく、別の世界からやってきた人のことさ」


 詳しい説明としては、『鏡の向こうの人』というのは、この国に伝わるおとぎ話――厳密に言うと、世界的に広まっているおとぎ話だが、地域によって表現の仕方がいろいろあるらしい――で、鏡の向こうには全く別の世界があって、自分と同じ姿の別人がいるのだという。そして、ある日、急に記憶が混濁して、自分が別人であると言い始める人を、この国では『鏡の向こうの人』と呼ぶのだそうだった。


 その『鏡の向こうの人』に対する扱いは、やはりこれも国や宗教によって解釈は違うが、少なくともアエテルヌム教は、『鏡の向こうの人』は不吉の兆で、魔の者であると説いているのだという。逆に、マリアさんの故郷、センペル皇国では知恵と富をもたらす『分け隔てた世界の賢者』と呼んで、吉兆の神だと説いている。どうにも、センペル皇国の神話では、初代の皇帝に富と知恵を授けた神とされているらしい。

 

 でも、要するに、わたしの世界でいうパラレルワールドや、ドッペルゲンガーみたいなものなんだろう。そうとしか言いようがない。この世界では、そういう言葉がないだけなんだろう。


「この世界の人間は、死ねば、その魂は全ての記憶を消してまっさらな状態になり、神とでも言うものにまた新たな肉体を割り振られ、割り振られた魂は新たな人間の生を歩む。それを転生と呼ぶ。だが、たまに君みたいに別のところから迷い込んだ魂が、とある肉体にひょっこり宿って、そのままその人間の人生を歩むこともある。これは、憑依と言うべきか。まあ、とにもかくにも、そういったことだよ。

 なんにせよ、この国は七大国の一つだ。『鏡の向こうの人』のことに関しては、迂闊に口にしたり、ましてや知られるようなことは避けたほうがいい。知られたら、処刑台が待っている可能性が高いからね」


 謡うように言うエマの言葉に、わたしは冷たい感触を持った。処刑台。嫌な、響きだ。


「処刑……」


 口に出すと、余計にその怖さが身に染みた。その言葉は、いくら常に病魔と言う死と隣り合わせだった人生とは言え、人に殺されることには縁がなかったわたしは、不安が募る。


「そうさ。いくら宗教の自由を法律にしているとは言え、七柱の使徒の一柱がラーロ王国に舞い降りたから、国家でアエテルヌム教を信奉し、この国は七大国と呼ばれる。アエテルヌム教で魔の者だと言うならば、そんなやつは殺したが早い。実に簡単な答えだ」


 大したことではないように、エマは言う。でもわたしにとっては一大事だ。バレちゃ、いけないんだ。バレないように、気を付けよう。


「しかし、お嬢さんも災難だねぇ。よりによってマリアなんだから」


 わたしが決心を固めていると、エマは笑いながらそう言った。

 でも、どうしてこの人はこんなに詳しく、わたしへ教えてくれるんだろう。国によって解釈が違うとはいえ、この人が流れの魔法使いとはいえ、『鏡の向こうの人』がこの国では、わたしの存在が不吉だというなら、この人だってわたしのことを嫌がったり怖がったりしたっていいはずだ。そんな疑問がよぎって質問してみた。


「どうしてあなたは、わたしにいろいろ教えてくれるんですか」


 その質問に対し、あっさりと彼は言いのけた。


「お嬢さんが、だよ。わたしとマリアも契約していた。お互い、契約でこの国に属しているからね。契約ほどしっかりしたものはこの世にない。今の国王は契約を重んずるし、決して身勝手に覆すことはない。だが、国王がいつまでも国王である可能性は、ぜったいじゃない。わたしたちがいくら王たちを守ったところで、時代や運命の流れには逆らえないこともある。

 だから、互いになにか起きた場合は、助け合うことを我々同士で契約していたのさ」


 それに、と言葉を切ってエマは微笑んだ。


「だいたいね、『鏡の向こうの人』が不吉だとか魔物だとかっていうのは、後世が得体のしれない人間を恐れて作ったデマさ。それを、なにを怖がる必要がある?

 とはいえ、鏡の向こうの世界は、さすがのわたしにも手が出せない。プリンセスには、しばらく休養をとることを勧めておくよ。その間に、お嬢さんは今後の身の振り方を考えておくといい」


 そう言って、エマは去っていった。

 一人残されたわたしは、これからどうしたらいいんだろうと、さっきから、本のページを捲るように、マリアさんの過去の記憶を蘇らせていた。


 王女さまの侍女としての働き、そして暗殺者として闇夜に紛れて人を殺した記憶も、たくさんある。小さいころから、マリアさんは人殺しをしてきたようだった。でも、そこに感情はなかった。厳密に言うと、どう思った、こう考えた、とか、触った感じだとかはわかるし思い出せるのだが、その気持ちが、なぜか心に来ないのが不思議だった。


 例えば、怒っている、という場面も、その怒りの具合が他人ごとのようにしか感じられない。自分の体なら、わかるはずなのに。他人の人生という本をただ捲りながら読む。そんな感じだった。脳は感情を記憶してくれないのかもしれない。他人のわたしが感じることができないよう、鮮やかな感情はマリアさんの魂が持っていってしまったのか。


 でも、一つだけハッキリしている。この体は、健康だ。わたしは、夢にまで見た健康な体で今、生きている。

 背筋が凍るような、それでいて熱い興奮が徐々に湧き上がってくるのを感じた。

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