ラーロ王国

 しばらく無言が続き、エマは、わたし自身が今どういう状況に置かれているのか、全くわかっていないことを察したらしい。燕尾服の内ポケットから小さな手鏡を取り出すと、わたしに貸してくれた。


 無言でわたしは、手鏡を見た。当然と言えば当然だが、右手を見たときと同じように、小麦色の肌はわたしの肌じゃない。わたしはもっと青白かった。


 だけど顔は、わたしのようだった。とても微妙な言い方なのだが、わたしだけど、わたしじゃない。どことなく、顔立ちの彫りが深くなっていて、髪は明るい茶髪だし、目の色は暗い青だった。わたしは日本人だったので黒髪だった。髪を染めたことがないし、目の色だって普通のこげ茶だった。顔だってとても不服なのだが、のっぺりしていた。


 これは、本当にもしかして、もしかするかもしれない。胸が高鳴るのを抑えようと、思わず左手で胸を押さえてしまった。


「それで、お名前は? お嬢さん」


「……真理亜まりあです。猪尾いのお真理亜まりあ。猪尾が、名字です」


 わたしは、自分の名前を口にするしかなかった。こうして喋ると、声も自分に似ていることに気付いた。

 そしてその間に、少しわたしが平静さを取り戻したせいか、恐らくこの体の本当の持ち主、マリアさんの記憶がちらちらと、蘇ってくるのを感じた。


 マリアさんは、フローレンスさんと友だちだった。一昨日の昼、マリアさんとフローレンスさんは一緒にお茶をしている。異国のお菓子が美味しくて、二人でぺろっと平らげてしまった記憶が出てくる。まるで、本当にわたしの記憶のように、お菓子の食感も、お茶の味も舌に思い出せる。


 そうしているうちに、エマは考えるように目を伏せて、そして開いた。


「このわたしも聞いたことがないな、そのファミリーネームは。ともすれば、『鏡の向こうの人』の可能性か。

 マリアも、ちゃんとわたしの言うことを守れば、こんなことにならずに済んだのに。バカな子だ」


 杖にもたれたままでいるエマの『鏡の向こうの人』という言葉の響きが、漫画っぽいなとか、そんなことしか考えられなかった。エマはもたれた杖から体を離し、背筋を伸ばし、脚を組んだ。長い脚だ。びっくりした。


「さて、ではどこから話をしたら、お嬢さんにわかりやすいかな。まあ、まずはこの国のことや、マリアのことについて、話そうか」


 そう言って、結局組んだ脚を戻してエマは立ち上がると、一度カーテンの向こうに出て、一枚の地図を持ってきた。そして、わたしにわかり易く、今いる場所やマリアさんのことを説明し始めた。


 まず、エマは地図上に、大きな山が連なって、その山沿いに町やお城の絵が描かれている部分を指さした。そこが今、わたしたちがいる、ラーロ王国という名前の国だという。

 この連なっている山脈は、金や、サファイア、ルビーなど貴金属や宝石がよく採れる鉱山。そして、ラーロ王国は、この世界で広まっている宗教とも強く絡みついた、七大国しちたいこくと呼ばれる、七つの大きな王国のうちの一つだそうだ。


 この山脈沿いの陸地を隔てるように、大きな河、イーレがわと呼ばれる河が流れている。そこに架けられたイーレ橋の向こうは別の国だが、ラーロ王国の属国のパロン王国と言うそうだ。

 この国は土壌も良いので作物も採れ、交易も盛んと、七大国と呼ばれるにふさわしい、とても豊かな国らしい。


 そしてこの国や橋の向こうのパロン王国には、この世界で広く信仰されている、アエテルヌムという神さまと、その神さまがつかわした七柱の使徒を信奉する、アエテルヌム教という宗教を国全体で信奉している。このアエテルヌム教というのが、七大国と呼ばれる由縁があるらしい。

 けれどこのラーロ王国では、王さま自体が自由な国を望んでいるため法律上では、王族以外は、悪い教えでなければどんな宗教を信奉するのも自由だと認めている。日本みたいだ。


 そして、わたしが今体を動かしている、このマリアという人は、フルネームはマリア・ティレル。表向きは、名字はないと言っているそうだ。年齢は十六歳。もうすぐ十七歳を迎える。


 マリアさんは、フローレンス王女さまの侍女で、彼女の一番のお友だち。でもそれだけじゃない。この国に身を寄せてはいるものの実は国籍を持たない、本業は暗殺者だというのだ。


 マリアさんの生家である、ティレルという一族は、地図上では、遥か南東に位置するセンペル皇国こうこくという、アエテルヌム教を信奉していない国で生まれた、表向きは流浪るろうの商隊なのだという。商隊と言うからには、商人の一族なのだが皆、強い戦士として鍛え上げられ、その強さも売りとして表社会でも裏社会でも名を馳せているのだそうだった。


 その流浪の一族であるマリアさんが、どうしてこの国に来たのかと言うと、この国の、王族関連の内部が不安定なことが主だった理由だ。


 この国の王さまは、適材適所をモットーに、平民だろうが移民だろうが旅人だろうが、その地位や役職に相応しい人は、身分や生まれに関係なく定めるのだという。いくつか学校を作ってあって、平民も学ぶことができるし、才能があれば高官になれるし、貴族になれたりすることもある。逆に、才能のない貴族の人は、下手をすれば平民に落とされることもある。そうすると、昔からの貴族から、反発がどうしたって存在してしまう。


 また、今の国王にはお兄さんがいて、その前の王さま(今の王さまのお父さん)も同じく適材適所を考えた結果、跡継ぎに関しては弟、つまり今の国王が王座に就いた。

 お兄さんは、その結果にひどく憤慨したけれど、今の王さまに王位を継ぐ前に、前の王さまが危険を恐れて、お兄さんの家族もろとも大きな屋敷に閉じ込めてしまった。それは、今も続いている。


 それでも、お兄さんを推す貴族が秘密裏に動いたりと、正面切っての戦いはせず、王さま、特にフローレンスさんが生まれてきてからは、彼女にいろいろとちょっかいを出していたそうだ。だがそれも、最近は落ち着いて平和が続いているのだという。


 そして、なぜフローレンスさんを狙うのかというと、エマが王さまと王妃さまに身を守る魔法を授けているため、毒や刃物など、そういった類のものは一切効かないのだという。ただその魔法も、残念ながら定員二名までのため、そうすると魔法がかけられていないフローレンスさんが一番狙いやすい。


 そのため、マリアさんが七歳のとき、ティレル一族の噂を聞きつけた王さまが、一族にフローレンスさんの護衛兼、側仕そばづかえとして一人借りたいことを願った。それで、マリアさんだけが一族を一時的に抜け、王さまと契約を結んだ。

 そして今日までずっと、フローレンスさんの侍女として平素は働き、王さまから依頼が入ったり、そのほかにも、お金になりそうな依頼があれば標的を抹殺する暗殺者なのだという。


 彼女の正確な素性を知っているのは、王さまと王妃さま、フローレンスさん、王さまに信頼されている一部の貴族、そしてエマだけなのだそうだ。


 そんなエマも国籍を持たずに、王さまと契約を結んでいる、流れの魔法使いとのことだった。


 二人に共通することは、金回りさえ良ければどの国でも、誰とでも契約するが、一番金回りが良いのがラーロ王国の国王なので契約した、ということだった。

 それと、マリアさんに関しては、王さまの意に背かない限りは、他の契約も取っていいという契約内容らしい。二人は、もし他にいい条件があれば、たとえ敵対国だろうと、王さまのお兄さんだろうと、契約が満期になったら契約を切って、そちらに移るのも厭わないのだという。


 携帯の機種変更みたいにお手軽だ。だからこそ、国に縛られないよう、国籍を持たないのだそうだった。情とかそういうのはないのか大変疑問だったが、それを聞くのは、やめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る