いない

 エマが帰ってから、二刻が経った。ベッドの中でじっとしていると、エマの言うとおり、頭痛は不思議なくらいにみるみる治まっていった。

 わたしは、マリアが眠っているというのなら、声をかけたら起きないかと思い、何度もマリアに声をかけたり、口に出してみた。けれど、なにもいらえはなかった。


「どうしよう……」


 わたしは膝を抱えて、一人、呟くしかなかった。不安だった。いつもの強気なあの女の子の返事が、とても欲しかった。弱音を吐くわたしを叱咤する、心強い友だちの声が、ないのが怖かった。


 本当に、どうしたら、いいんだろう。考えているうちに、わたしは酷い考えがたくさん出てきた。


 マリアなんて、最初からいなかった。そう思ってしまう? 最初にこの世界に来たときのまま、わたしは一人で行動していたと思い込む? そうすれば、わたしはこの世界で生きていける。サイラスさまに、一からアタックして好きになってもらえるように、好きになってもらえるかどうかは別としても、努力することだって、できる。フローレンスという友だちも、いる。宗也の様子だって、もっと落ち着いたら探ることだってできる。王さまとお兄さんたちみたいに、わたしも和解だってできるかもしれない。


 でもその選択は、自分がとても恐ろしいことをやろうとしているような気分だった。


 その一方で、この体はマリアの体だと、マリアと喧嘩して以来からずっと考えるようになったじゃないか。返すべき時が、ただ来ただけなのではないか。という声も、わたしの中にあった。


 ただ、結局思うことは、また死にたくないという気持ちだった。前の世界では、あんな簡単に、死んだ。なにも為せないまま、死んでいった。王兄派の件を片づけたのは、マリアだ。フローレンスを守ることもできなかった。わたしは、この世界でもなに一つ、為せていない。それは、自分が必要のない人間のように思えて、仕方なかった。誰かに必要とされる人間に、わたしはなりたかった。


 翌日から、わたしは半ば憑りつかれたような心持ちで、仕事をこなしていた。そもそも、マリアなんて、いなかったんじゃないだろうか。いたとしても、本当はわたしの妄想の中の人物だったんじゃないだろうか。わたしがこの世界に対して、不安だったから、それを解消するために作り出してしまった、妄想人格。あり得ない話じゃないはずだ。……そんなことないと、わかっているくせに、言い訳の言葉はたくさん思いついた。そんな自分が、惨めだった。



「マリア。具合、大丈夫?」


 ドレスの着付けの手伝いをしていたとき、フローレンスが心配そうに、声をかけてくれた。


「うん。もう全然大丈夫よ、エマの薬がよく効いたみたい」


「そう? なんだか、顔色が悪いから。本当に無理しないでね」


「ありがとう。ごめんね、心配かけてばっかりで」


「いいのよ。むしろ、あなたにはずうっと助けてもらっているわ」


 このやり取りに、フローレンスは疑っていない。わたしが、マリアだと疑いもしない。


 わたしは、マリアとしてやっていけるんじゃないだろうか。王兄派の件も片付いたんだし、しばらくは暗殺だってしなくてすみそうだ。なにか事故を装って、普通の仕事しかできなくなったとか、そういう理由をでっち上げて、フローレンスのただの侍女として働くことができるのではないか。ティレル一族についてだって、あのキャビネットの中に隠し持っている、たくさんの金貨を全て渡せば、さしものマリアの母も許してくれるんじゃないだろうか。


 その気持ちは、日を追うごとに膨らんでいった。誰も、わたしを疑いもしない。わたしがマリアだと、思い込んでいる。大丈夫、わたしなら、できる。きっと、できる。だから、このまま忘れてしまっていいんじゃ、ないか。エマはあれっきり、姿を現さなかった。余計にそれは、わたしがみんなを欺き通す方向に行っていいように思えて、仕方がなかった。


 そう思う気持ちが膨れて、三日経った。庭の掃除をしていると、不意に影が出来て顔を上げると、アランだった。アランは、笑みを張り付けて黙ったままわたしを見つめている。


「どうしたのよ」


 わたしがそう声をかけると、アランはにっこり笑う。


「ねえ、君ってさぁ、誰なの?」


 わたしは素知らぬふりで「なに言ってるの?」と言い返した。だがアランは、あの日、わたしを透かし見たエマのように、わたしを薄目で少しの間見て、そしてまたにっこり笑った。


「君さぁ、マリアじゃないでしょ!」


「……なんでそんなこと思うのよ。失礼なやつね」


――アランには気を付けなさい。


 マリアと、仲直りした日の台詞が頭に浮かんだ。悟られたら、だめだ。わたしはアランを睨みつけた。でも、アランは軽く噴き出すように笑った。


「やっぱりさぁ、君、マリアじゃないよ。ちょっと前までは、なんとなくマリアじゃないのに、マリアが居る気がしたんだけど、変だなぁ。今はすごく薄くしか感じない。

 あ、俺って、昔から勘がすごく冴えてるって、義理の父さんにも褒められたことがあるんだよ。もうそいつは殺しちゃったけどね! あ、知ってるかなぁ?」


 にこにこしながら、間延びした声で相変わらず物騒なことを話す。勘が冴えてるとかそういう次元の話じゃない、エマでしかわからないことが、直感でわかるなんて、とんでもない人間だ。不安で生唾が湧いた。


 アランはにこやかなその表情と全く似合わず、腰に下げている剣をいきなり引き抜いた。それをわたしに突きつける。怖くなって目を瞑ってしまった。マリアならきっと、軽く避けるかやり返すんだろう。失敗したと思った。でも、わたしは人に武器を向けられたときの身のかわし方が、たとえ過去を覗いたとしても、わからない。最初に来たときと同じ。マリアの真似はできなかった。


 アランはため息を吐いて、引き抜いた剣を鞘にしまった。その目は、暗かった。


「ねえ、早く君、出ていきなよ。『鏡の向こうの人』がどんなもんか、俺にはわかんないけどさ。人の人生、勝手にもらって楽しいかい?」


 明るさが消えた、低く沈んだ声だった。


「……あなたに、なにがわかるのよ」


「わかんないよ。だって俺、君じゃないもん。あ、でも、これだけはわかるかなぁ。俺は人殺しで、何人もの人生を終わらせてきた。義理の父さんも、サイラスさまが言うから殺したしね。まあ、やられた側はたまったもんじゃないか」


「それなら、わたしがここに居ても良いってことになるわね。勝手に終わらせられたくないもの」


 そう言い返すと、アランは驚いたような顔をする。


「おお、そう言われてみると、それもそうだねぇ。やっぱ、俺は難しい話はわかんないな。

 ……でも俺は、君じゃなくてマリアが好きだったんだよなぁ。小さい頃から人殺しに慣れちゃった、汚れた俺たちだけの共通点があるってことがさ、すごく嬉しいんだよ。なんかそれだけで幸せって気持ちにさせてくれる。でも、君がいるとそれが感じられない。俺、一人ぼっちだ。悲しいんだよねぇ、そういうの」


「そんな共通点、なくたっていいじゃない。人殺しは、悪いことなんだから」


「だからだよ。人殺しは悪い。でも、俺たちはそれが仕事だ。アエテルヌムの教えで人殺しが罪だとしても、俺たちはそれをしないと生きていけない。もう、子供のころからそれは、染み付いちゃってるんだよ」


 それからしばらく沈黙が続いた。人殺しは悪いことだ。そんな人に、なにをわたしが説得できるだろう。わたしは、生きたいんだから。


「まあ、俺が言いたいのは、そういうことかなぁ。あ、君にそんなに自由にさせないから、じゃあねぇ」


 そう言って、アランは去っていった。全身がそそけ立つような、そんな感触を覚えて、わたしはその場にくずおれた。わたしは、どうしたらいいんだろう。でも、生きたいんだ。人を殺して生きているマリアが、生きれて、普通に生きてきたわたしは、生きちゃいけないんだろうか。生きていたい。ただ、生きていたい。

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