気づき

 アランとの話のあとも、わたしは何事もなかったかのように仕事をした。夜、自室に戻ってぼうっとしていると、ドアを叩く音がして、わたしは、おっかなびっくり扉を開けた。アランが来たのかと思ったからだ。


 でもそこには、寝間着姿のフローレンスがいた。思わず安心した瞬間、彼女は思い切り平手をかましてきた。ぶたれたままの勢いでそのまま倒れ、頬がじんじんと痛くて涙が出てきた。その様子を見ると、フローレンスは泣きそうな顔をする。思い出したようにドアを閉めると、そのまま彼女は崩れ落ちるように座り込んだ。わたし以上に目にいっぱい、涙を溜めて、震えながらわたしを睨む。


「……アランの言うとおりだわ」


「フローレンス、なにを」


 なんとか弁解しようと、わたしは口を開いたが、すぐにフローレンスは立ち上がって、わたしをもう一度引っぱたいた。さっきよりも強い痛みが頬を襲った。腫れるかもしれないな、と思ったが、わたしは恐れで震えている心をなんとか落ち着かせようと必死になった。

 きっと、アランが、教えたんだ。わたしが、マリアじゃないということを。あいつ――!


「黙って! マリアなら、わたしが叩いたところで、余裕でかわせるわ。あなた、誰? マリアの体をどうして、乗っ取ったりするの?」


 遂には涙をこぼして、フローレンスは叫ぶように言った。それに対し、わたしは、なにも言えなかった。だって、事実だったから。わたしが、マリアの体を乗っ取っているのは、本当だったから。


「出てって! マリアから、早く、出てってよ!」


 馬乗りになってわたしの胸を叩きながら、フローレンスは叫ぶ。その言葉に、どうしても腹が立った。


 生きたい、と思うのがどうして、罪なんだろう。それが、特に、人を殺めて生きるマリアを乗っ取ることが、罪なんだろう。わたしは、マリアのことを友だちだと思ってる。思っているけれど、そこだけはどうしても理解できなかった。


 わたしは生前、普通に生きていたいと、ただ願っていた。あんなにたくさんの病気を抱えて、生きる自分の意味がわからなかった。それなのに、人を殺してのうのうと生きている人が望まれている、この不公平さにひどく腹が立ったのだ。わたしは前身を反動をつけて起こし、右手で思い切りフローレンスの頬を叩いた。わたしは、生まれて初めて人を叩いた。今度はフローレンスが倒れこむ。それを見て、苛立ちと、情けなさがない交ぜになって、ただわたしは叫ぶ。


「どうして、わたしが生きてちゃいけないの!? なんで人を殺すマリアが望まれて、わたしは、生きちゃいけないの!? わたしは苦しむだけ苦しんで死んだのに、どうして!? わたしは、どうして生きてちゃいけないの!?」


 起き上がったフローレンスは、その言葉にはっとしたような顔をする。けれど、涙をこぼして、迷いを払うように首を横に振った。


「あなたが、鏡の向こうで、どんな人生を今まで歩んできたのか、わたしは知らない。

 ――でも、マリアの手が血に染まって、穢れた一族だと言われても、それでもマリアは、わたしの友だちなのよ! 小さいときから、わたしを命がけで守ってくれた。わたしが刺客に怖がると、いつも慰めてくれた。わ、わたしが、王になると決めたとき、お父さまに言いつけられて、横暴を働く貴族を殺してきてと頼んでも、あの子は文句ひとつ言わず、仕事をして、怯えて泣いているわたしを支えて、くれたの。

 マリアは、わたしの、大切な、友だちなの。だから、お願い、あの子を返して……!」


 祈るように手を組み、泣きながらフローレンスがそう言った。


 それを見て、ああ、とわたしは呻いた。わたしに、勝ち目なんて、なかったんだ。最初から。いや、そもそもこの考えが間違っているんだ。本当は、わかってた。


 マリアに成り代わることなんて、マリアとして生きるなんて、わたしには無理だったんだ。二人の間には、とても深い絆があることは、あんなに記憶を見て知っていた。マリアの体を通して、それを肌にだって感じていた。それに、そもそもわたしがマリアに成り代わるなんて、そんな度胸なんて、本当はないんだ。そのことがバレたら、フローレンスがこうやって泣いてしまうことだって、心の奥底では予想できていた。


 なにより、こんなふうに泣いているフローレンスを見るのは、心が千切れそうなくらい、わたしは耐えられなかった。人を傷つけることが、こんなに心苦しいというのも、わたしは生まれて初めて知った。


「……ごめんなさい、フローレンス」


 わたしは、掠れる声で、そう言った。フローレンスはもう嗚咽が止まらないほど、泣き崩れていた。


「傷つけて、ごめんね。フローレンス。わたしは、たしかにマリアを乗っ取っていた。でも、その間に、マリアも一緒だったの。だから、わたし、マリアと一緒に、あなたのこと、友だちだと思ってた」


「え……?」


 わたしの言葉に、フローレンスは顔を上げた。泣きはらして真っ赤になった目を見て、よりわたしは罪悪感を覚えた。わたしは、酷い人間だ。


「ごめんね、友だち、だったら、こんな傷つけるようなこと、しちゃいけなかったんだ。わたし、友だちが、いなかったから、どうしていいか、わからなくて。

 ごめん、なさい。本当に、ごめんなさい。わたし、本当に、赦してもらえないことだ、よね。ごめんなさい、ごめんなさい……」


 わたしはそう言い切ると、部屋を飛び出した。泣くのが抑えられなかった。でも、わたしは、わたしがやるべきことを果たさなきゃいけないんだ。

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