第2話 部下は会社を辞めたがる

この事件が起きる前にも、すでに見えないところでトラブルは発生していた。


 前日に安藤は、おれに退職願いを提出していたのだ。


 このタイミングでこの事件。安藤が悔しく思うのも無理はなかった。


 おれはステンレスパイプを専門に扱う、中小企業・北大阪パイプ株式会社に勤めている。


メーカーからパイプを仕入れて、切断や研磨、折り曲げなどの加工を施して、客先である工場や建材を扱う会社に納品する、いわゆる卸売りの業者だ。


 社員は50名程度だが、創業以来40年、堅実に業界の中で地位を築き上げてきた、そこそこの老舗だ。


本社と工場は大阪にあり、東京には営業所があるのみ。東京には営業が7名と事務が3名の計10名が在籍している。


 おれは新卒で入社し、今年で8年目になる。就職氷河期の中、おれの大学は無名なことに加えて文学部だったために就職活動に苦労し、やっと今の会社に拾ってもらえたという形で入社した。ステンレスパイプは昔から大好きという訳ではなく、むしろ何それ?という感じだった。しかし、同じ学部の友人たちも苦労している中、やっと得た職だ。文系の割にはそれなりに頑張って勉強し、特に大きな失敗もなかったため、係長になっている。


 安藤は、昨年4月に大卒で入社し、そろそろ一年経とうという新人だ。時代はおれのときと違い、どこの企業も「学生さんいらっしゃい!」という風潮。そんな中で、彼は中小企業であるわが社に就職した。端的に言えば、就職に失敗した落ちこぼれ、なのかもしれない。今の自分の待遇に満足していないだろうということは察していた。


 しかし、その安藤が退職願いを出した理由は、おれの想像よりはるかに浅はかなものだったのだ。


 昨日の朝。いつものように出勤し、鞄を席に置くとすぐに台所でこだわりのコーヒーを淹れていた。うまいコーヒーを淹れるのは、大して楽しみのない仕事中の唯一の娯楽だ。


「係長、あの…」


 そんなときに、安藤の声が背後から聞こえた。


「おー、すぐそっち行くわ」


「すみません」


 席に戻ると、すぐに安藤がおれの横に立った。うかがう と、その表情がやけに沈んでいる。安藤は元々童顔で、黙っていれば高校生のように見えてしまう。女の子にモテそうなスッキリした顔立ちをしているが、今はお化け屋敷の幽霊のように、目を見開いているものの表情がない。


 手には封筒を握っていた。長時間握っていたのか、手汗で湿っているように見える。


「会議室で話すか?」


 尋常じゃない雰囲気を察し、おれは安藤と部屋を出た。何となく、何を話すつもりかは察してしまったが、そうではないことを祈りつつ会議室のドアを開ける。


「あの…辞めさせて欲しいんです」


 部屋に入ると、イスに座りもせずに、突然安藤は切り出した。やっぱりか…彼は目を伏せたまま、自分の中の葛藤を抑えるかのように佇んでいる。


「まぁ、とりあえず座って話そうぜ」


 下手をすれば手に持っている退職願であろう封筒をおれに突きつけてそのまま帰りそうな勢いだ。少しでも落ち着かせるため、イスに座らせた。


 おれの立場から言うと、彼には辞めて欲しくない。というか、辞められると非常に困る。


 安藤と初めて会ったのは、採用試験の場からになる 。


 当時、上司である伊澤支店長とおれの二人で、彼と面接した。今までは支店長が一人で担当していたのだが、もし彼が採用になったらおれが面倒を見るため、おれも同席することになったのだ。


「当社を志望した理由を聞かせてください」


 伊澤支店長の質問に、彼は暗記した文言をようやく搾り出すかのように話していいた 。


 若者らしいフレッシュさや、覇気が感じられない。「こんなところで働くしかないのか…」という彼の心の声が聞こえてくるような気がした。


 こんなところとはなんだ。小さいながらも売り上げ、地盤はしっかりしていて将来性もある。支店長におれからも話すように振られると、おれは安藤にそれを力説した。すると少しは表情が変わり、不安が去ったような表情をした。


 …おれの時代では考えられない反応。面接を受ける側が面接する側を吟味している。時代の流れとは、怖いもんだ…そんなことを考えながら面接を終えた。


 おれから本社へ報告すると、面接結果をろくに聞かないうちから「問題なければ採用しろ」とのことだった。


 うちの会社は、昨年も一昨年も新卒の新人 獲得に失敗している。応募がなかったのだ。当然のことながら新卒の多くは、大企業や安定した企業の入社試験を受ける。うちのような小さな営業所に新卒が応募してくること自体稀だ。今年応募してきたのも安藤ただ一人。


 本社としては、東京で得られる新卒の新人 は、喉から手が出る程欲しかったのだろう。翌日、「ほんとに選考したんかい?」と突っ込みが入るほど早く、採用の連絡を彼に入れた。


 そんな安藤が入社して約一年。おれは彼の教育係として、営業のノウハウを教えた。名刺の渡し方、顧客との付き合い方、新規得意先開拓、トラブルの解決法など、一通り伝え、そろそろ独り立ちできる頃かな…と思っていた矢先だ。


 現状、顧客の数とそれを担当する営業の人数がギリギリで、一人抜けるととたんに他の社員の負担が増える。今彼に辞められたら他の社員の不満が爆発し、顧客離れにもつながりかねない。さらに本社も新卒が入って喜んでいたところだったため「お前の教育が悪い!」と、怒りの矛先がおれに向くだろう。今から新人を雇うにしても多額の費用も時間もかかる。


 おれだけの都合で考えれば、安藤を辞めさせるわけにはいかない。


「いつから辞めたいと思ってた?」


「…結構前です」


 外堀から埋めるように、少しずつ話を進める。突然「辞めるな」などと言えば、逆効果だ。


「仕事、楽しくなかったか?結構成績上げてきてたよな」


「…はい」


「最近の調子はどうだったんだ?」


「まぁ、普通です」


 彼は普段から饒舌ではないが、今日はことさら口が重い。しかし、さっきよりは落ち着いてきたようだ。そろそろ核心に切り込んでみよう。


「なんでまた、辞めたいって?」


「…会社が辛いんです」


「会社?仕事じゃなく、会社が辛いってこと?」


「…はい」


「会社かぁ…おれはてっきり仕事が嫌なのかと思ったけど。会社のどんなところが辛い?」


「…自由がないところ、です」


「自由?」


 自分の眉がピクッと動くのを感じた。何を甘ったれたことを言ってるんだ?仕事に自由を求めているとでも言うのか?しかし怒ったらアウトだ。いかんいかん。


「自由が欲しいってのは、なかなか難しいよなぁ。会社に入るってのは不自由なのが当たり前だからなぁ」


「だからノマドワーカーになろうと思ってるんです」


「ノマド?ノーパソ一つだけ持って、自分の好きな仕事をする感じの?」


「はい。そういう働き方に最近憧れてて…」


「あー、それと会社の働き方を比べたら、そりゃ自由さでは勝てんわ」


 やっと彼の本音を引っ張り出すことができた。


 ノマドの働き方とは、ノートパソコンだけを持ってITスキルだけで収入を得ていく働き方のことだ。形としては個人事業主となる。会社に縛られずに好きな仕事だけで食べていくスタイルには、おれも憧れたことはあった。


「でも、どうやって収入得ていくかは決めてんの?何か特別なパソコンスキルでもなければ、ノマドで食ってくのは難しいんじゃない?」


「それは…退職してから考えます」


 安藤は開き直ったかのように言った。


「まさか、考えてないんか ?」


「まぁ…多分ブログになるかなとは思ってますけど…でもそれで稼いでる人いっぱいいるんで、大丈夫だと思います。ですので、これを…」


 そう言うと、彼はおずおずと退職願をおれに差し出した。


 おれが親だったら頭を抱えているだろう。ノマド自体を否定するつもりはないが、ビジョンも 実績も全くない。若いうちは根拠のない自信は誰でも持つものだが、後悔はつきものだ。とてもお勧めできる進路ではない。


 仕方なく退職願を開いてみると、横書きで殴り書きしたような乱雑な文章が目に入る。押印もしていない。どちらにしろ受け取れる書類ではなかった。


「お前の気持ちは分かったよ。でも、ノマドで何の仕事をしたいか決めてからでも辞めるのは遅くないんじゃないか?いきなり無収入になったら都合悪いだろ?」


「まぁ…それはそうですけど…」


「それと、退職願いは 決まった書き方があるから、調べてみ。これは今日のところは返しておく」


「あ、あの、受け取ってもらえないんですか?」


「どっちにしろ正式な書き方じゃないと受け取れない。この件は、他のやつには内緒にしとくから。もうしばらく考えてみろよ」


「考えるって…」


「そりゃ、ノマドするなら何ができるのか。それと、ほんとに会社辞めなきゃいけないのか。保険とか年金とか考えて、数十年先後悔しない生き方を選んだ方がいいぞ?」


「はぁ…」


「じゃ、今日のところは仕事しよう。いいな?」


 安藤はうつむいてしまった。今日辞めてからのことを色々と考えていたのだろう。だがおれとして は、とりあえずすぐに退職手続きに入るという最悪の事態は避けられたようだった。


 事務所に戻ると、安藤にとっての朗報が待っていた。彼が半月ほど前に飛び込み営業した企業から、大口の注文をしたいと連絡があったのだ。


 事務の女の子からそれを聞いた安藤は、すぐさま折り返しの電話を入れた。嬉しそうに話している様子から 、かなり条件のいい案件のようだ。これで彼のやる気が出てくれれば、退職願いも引っ込めてくれるかもしれない。そんな淡い期待を、おれも持つことができた。

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