ep16 男の独白
体が動かない。力が入らない。
酷い倦怠感。そして体が燃えているかのように熱い。節々が痛く、力を込めようとするだけで激痛が走る。
痛い、熱い。痛い、痛い。痛い。
猟師としてようやく一人で山に入ることを許され、意気揚々と早朝の山に入った。
いつもよりやけに静かな山だった。
鳥の囀りも聞こえず、鹿や野ウサギの姿一匹見えやしない。
この時点で引き返せばよかったのだ。
だが、根拠のない自信があった。自分は一人前の猟師で、銃があれば怖いものはない。
周りの心配を他所に一人で山に挑み、獲物一つ取らず逃げ帰るのは恥だと——無駄なプライドがあった。
どんな獲物でもいい。いや、できれば大きな獲物を狩って帰りたかった。
自分はもう誰の手助けもいらないと、村の皆に認められたかった。
いつか師にいわれたことがある。邪な気持ちで山に入ってはいけない、と。
少しでも迷いがあれば、山に飲み込まれる。人間は絶対に自然には勝てない。巨大な自然の中ではお前の存在など一枚の木の葉のようなものだ、と。
だから、少しでも邪心があった時点で引き返すべきだったのだ。
目の前に、巨大なそれが現れたときにはもう、全てが遅かった。
長身の自分をはるかに超えるあまりにも巨大な熊。
肺を埋め尽くす獣の臭い。黒々と生え揃った毛並み。荒く、白い鼻息。全てを見通すような眼差し。
これがこの山の主だと、本能はすぐに察した。
震えた手で銃口を構える、熊は唸り声一つあげず静かに男を見据えていた。
攻撃的な気配はなかった。それどころかまるで男など興味がないかのような、即刻ここを立ち去れといわんばかりに無関心に顔を背ける。
自分は動物までにも相手にされないのか。恐怖に襲われる中で、怒りがこみあげてきた。
ふざけるな。ふざけるな。俺はルズベリーの猟師だ。
この主を仕留めれば、きっと皆認めてくれる。自分が村で一番の猟師と認められれば、きっと、きっとあの人だって——。
生きていくために不必要な殺生をしてはいけない。
小鳥一羽、どんな小さな生き物も等しい命。猟師はその命を狩るのだから、常に獲物に敬意を払い、またその命を無駄にせず大切に大切に己の血肉にしなければならない。
これがルズベリーの猟師の掟。
ところがどうだ、男の頭を占めるのは己の欲。
承認欲求、村での地位、不動の名誉。頭の中は邪な欲望だらけ。
その一方で、見たことのない大きさの熊に恐れ慄き、銃口は震えていた。まるで己の弱さを示すかのように。
熊は男を一瞥し背中を向けた。
自分は命を脅かす相手としても認識されていないのか——。
ふざけるな。俺は弱くない。
どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって。お前まで、俺を馬鹿にするのか。
「うわあああああああああああ!」
怒り、恐怖。そんな感情で頭が真っ白になって無我夢中で引き金を引いていた。
次の瞬間、男の目の前は真っ赤に染まっていた。
弾は獲物から大きく逸れていた。
それは銃声に怯むことなく、こちらに真っ直ぐとやってきて巨大な手を男に振り下ろした。
咄嗟に防御をするために構えた銃はことごとく折れ、右肩から腕にかけて爪痕が刻まれる。
流れる鮮血、感じる痛み。
男は苦悶の表情を浮かべながら木に凭れかかり地面に座り込んだ。
ここで終わる。何も残せず自分の生涯は幕を閉じる。
どうか一思いに殺してほしい、そう願って主を見た。だが、彼は興味がなさそうに視線を外し山の奥へと姿を消した。
殺す気はない。けれど、自分に牙を向けたのだからその罰は受けて然るべきだ。そういいたかったのだろうか。
痛みにうなされながら、男は浅い呼吸を繰り返す。
どちらにしろこの傷だ。こんな山奥に人は来ない。
村の人間が動き出すのは早くても夜。あの人が心配するかもしれないけれど、あの人のいうことを村人は恐らく聞いてはくれないだろう。
ああ、結局一人で死んでいくのか。
これが山に飲み込まれるということか。
死が迫ってその意味がわかるなんて、確かに自分はなんて馬鹿ものだろう。
「…………大丈夫、ですか」
消えゆく意識の中、女の声が聞こえた。
こんなところに人が来るはずがない。霞む視界に見える真っ白な影。
体に触れる冷たい手が心地よく、なんて優しい触れかただろう。
その隣に見える一つの小さな影。
きっと女神と天使が迎えにきてくれたのだろう。
そんなことを考えながら、男は安らかに意識を落とした。
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